火災を乗り越えて、絶望からの再出発。
今から26年前の1987年、わたしは火災により焼け出され住む所もなく路頭に迷っていた。僅か3万円の現金だけを持ち、頼る当てのないまま成り行き任せの上京から6年目の秋を迎えていた。
当時わたしは、京浜東北線のJR蒲田駅から徒歩7分程度の所にある「コーポ英(はなぶさ)」と言う鉄筋5階建てのマンション301号室に住んでいた。
大井町にある2万円の木造アパートから一気に7万円のマンションに移り、6年目の暮らしは0からスタートした時と比べれば大きく様変わりし、家財道具や衣装なども増えてそれなりのリッチな独身貴族を味わっていた。
9月30日のその日も普段と変わらず、少し遅い朝を迎えていた。歩合制の仕事をしていたため、会社員のように時間に縛られる事もなく、請け負った仕事を納期までに収めれば事務所への出社時間などは自由に自分で決める事が出来た。
朝のシャンプーを終え、軽い朝食を済ませ煙草を一服吸うとそのまま部屋を後にした。水道橋にある事務所に着いたのは昼少し過ぎた頃だった。仕事仲間と雑談を交わしながら時間はゆったりと過ぎて行った…。時計が午後4時に差し掛かろうとしていた時のこと。
「神戸さん、お友達から電話ですよ」仕事中に電話など掛かって来た事がなかった為、「一体誰だろう…?」と疑問に思いながら電話口に出た。
その第一声は俄かに信じ難い内容だった。「神戸さんの家が全焼だって…」。電話を掛けて来てくれたのは友人の「多津子ちゃん」だった。「わたしもこれからマンションに向かうから…」。受話器の向こうで嗚咽とも思える悲痛な彼女の声が半分泣き声に変わって行く様子に返す言葉も見失っていた。
放心状態のまま蒲田方面行きの電車に飛び乗った。自分の身の上に起こった事を受け入れるには時間が余りにも足りなかった。
火災現場を確認していない事もあり全てが憶測の域を出なかったのは確かであったが、気休めのような言葉は一切浮かんで来ず、頭の中では「全焼」の文字が浮かんでは消えて行くばかりであった。そして容赦なく襲いかかる絶望感と、火災で焼け出され被害に合った人たちへの補償問題が現実となって更にわたしを窮地へと追いやった。
電車が蒲田駅に着く頃、西に傾いた夕陽で空が赤々と燃えているように見えた。駅を出ると火災がどれほど酷かったかを物語るように焦げ臭い空気が鼻をついた。
急ぎ足でマンションへと向かう。焦げた臭い以外に街はいつもと変わらぬ佇まいを見せていたが、臭いが徐々に強くなって来るに従い、絶望感と不安は更に高まって行った。
出火元がわたしの部屋だと友人から聞いていたので、建物全体が跡形も無く焼け落ちてしまっていたらと最悪の想定も頭に入れておいたが、それを考えた所で今の自分にはどうする事も出来ないと、半ば諦めの気持ちでいたのも事実だった。
陽が落ちて辺りはすっかり暗闇に包まれていた。あの角を曲げればマンションが見える…、胸の鼓動が緊張感で激しく踊り狂っていた。そして自分の目の前に飛び込んで来た光景に思わず我を忘れて胸を撫で下ろした。
暗がりの中にマンションは朝と同じ佇まいを見せていた。一体この建物の何処で火災があったのか?と首を傾げるほどに静けさを漂わせ白いマンションは立っていた。その中で激しく燃えたであろうと思わせる箇所があった。
わたしの部屋の窓の所だけが真っ黒く煤けており、明らかに出火元がそこであると主張しているようにも見えた。3階に行くと消防士が二人出迎えてくれた。そして火災の状況と消火作業などについて詳しく説明をしてくれたが、この消防士の対応に思わず涙が溢れて来てしまった。
消防士が優しかったのは言うまでもないが、火災と言う人生に於いてあってはならない、出来るものなら絶対避けて通りたい災難に不遇にも出会ってしまった時、人はその全てを奪い尽くす炎の前で成すすべもなく泣き崩れるだけだろう。
消防士は炎を消すのが仕事であるが、火災に遇った本人のダメージを出来る限り最小限に抑えることまでも引き受けている。消火作業にあたっては、水を使わず白い粉の消火剤で鎮火させた事は、家電製品などを出来るだけ現存させて置こうと言う気配りが、絶望の淵にある本人への希望を僅かでも残してあげたいと言う愛情と受け取れたからである。
部屋の異常にいち早く気付き通報したのは隣人であった。普段全く顔を合わす事もなく挨拶さえ交わした事もなかったが、この時は他人の有り難さを痛感した。火災により部屋の温度が上昇し、おそらく100℃は軽く超えていたものと思われる。
部屋の分厚い鉄のドアは熱で斜めに歪み、部屋全体は墨を塗りつぶしたように真っ黒く焦げていた。キンチョールの缶が破裂したのか天井の壁に思い切り突き刺さっており、中々取る事が出来なかった。
その日は友人宅に泊めて貰い、次の日に蒲田警察署に出向いたのだが、そこで待っていた刑事課のデカ長は優しい消防士とは全く逆で、野太い声で思い切り怒られてしまった。
それも当然の事であるが、出火原因は掴めていなかった。デカ長の話しでは消防車が10台も駆け付け一時騒然となりヘリコプターまで飛んだようだ。
焼け出され、住む所もなく難民状態になったわたしに日本赤十字社(↑上の画像)から毛布が一枚届いたのは火災から数日経ってからだった。わたしの全財産はその日持っていた現金2万円と着ていた服、そしてアイワのウォークマンだけになってしまった。
火災に遭って困っている人を援助する機関や手当など行政の取り組みなどを調べてみたが、徒労に終わってしまった。そしてその時に最も力になって支えてくれたのは友人たちだった。普段から付き合いのある仲の良い友人であったが、常に笑顔を絶やさず励まし続けてくれた友人たちには足を向けて眠ることなど出来ないほどお世話になった。
火災に遭うのはこれで2度目…、上京して一年ほど経った頃、藤枝の実家が全焼している。この時はさほどショックを受けなかったが、幼い頃の思い出が炎とともに消えてしまったと少し感傷的になった程度であった。
人生に於いて2度も火災に遭う不運…強運と言われ続けて来たわたしの運は不遇の時代によって培われて来たものなのかも知れない。そして蒲田の火災の後、ストレスが原因で持病の心臓病が悪化し、その半年後に余命一年の宣告を受けるに至ったのである。
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