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物語作品の構造について質問です。 今日、人間の葛藤やドラマを扱う物語作品では、実存主義的主体として登場人物が描かれがちだと感じています。このような構造を超える物語作品には、どのような例があるでしょうか?

文学、古典 | 哲学、倫理35閲覧xmlns="http://www.w3.org/2000/svg">100

回答(3件)

主体が(成立し)ない、主体でない人物形象を内包する作品があります。 いしいしんじ「窓」。高校教科書に掲載されています。私=語り手=視点人物と、「短編小説」の二人が登場します。「短編小説」は、実存主義的主体ではありません。しかし、二人の間には会話が交わされ、私の体験が語られています。 「実存主義的主体の体験を描く物語」という枠組(構造)では、「窓」は説明・理解できません。

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三島由紀夫の「金閣寺」は実存主義的と言えるが、対照的な例としては太宰治の「人間失格」でしょう。徹底的に実存主義を否定してますね。

日本では、その傾向は戦後の一時期だけあって、数年て弱まりました。もともと深刻な主体性を作りませんから。欧米のキリスト教、とくにカトリック、さらにプロテスタント系統から生まれたものだと思います。 もちろん良し悪しではなく。