歴史と進出企業
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「末広町 (横浜市鶴見区)」の記事における「歴史と進出企業」の解説
1914年~1915年(大正3~4年頃)より、鶴見埋立組合(現在の東亜建設工業)により埋立が始められた土地で、1916年に1丁目の一部、1922年に2丁目に相当する部分が竣工した。1916年10月15日に神奈川県橘樹郡町田村字末広の地名が付けられた。末広の名は、鶴見埋立組合創業者の浅野総一郎の家紋から採られた。町田村は1923年4月1日に潮田町に改称し、1925年4月1日に鶴見町に編入。1927年(昭和2年)4月1日には横浜市に編入、同年10月1日には区制施行により、横浜市鶴見区末広町となる。 1916年に浅野造船所(現在のジャパン マリンユナイテッド横浜事業所鶴見工場)と旭硝子(現在のAGC)、1917年に浅野合資会社製鉄部(日本鋼管京浜製鉄所を経て、現在のJFEスチール東日本製鉄所)が操業を始めた。1923年9月1日の関東大震災では工場2棟が火災を起こし、社宅の多くが倒壊した。1925年には芝浦製作所(現在の東芝京浜事業所)が開設。1926年3月に浜川崎駅と弁天橋駅の間に鶴見臨港鉄道が開通。1930年10月には弁天橋駅から鶴見仮停車場まで延伸(鶴見駅乗り入れは1934年12月)、1932年6月には浅野駅と新芝浦駅の間の支線が開通、1940年11月には海芝浦駅まで延伸した。鶴見臨港鉄道は1943年に国有化され国鉄鶴見線となり、1987年には民営化により東日本旅客鉄道の路線となっている。 第一次世界大戦後の不況対策として、神奈川県の事業で1929年から1932年にかけて1丁目の南部の埋立を拡大した。この土地には芝浦工作機械(法人としては現在の芝浦機械。工場は、東芝京浜事業所のタービン工場)や鶴見曹達(現在の東亞合成)などが進出した。2丁目には、昭和に入り協同国産自動車(現在のいすゞ自動車)が工場を開設した。第二次世界大戦での空襲の被害はわずかであったが、一部の工場は米軍に接収された。 1995年4月には1丁目の南端に、横浜市環境事業局鶴見工場(清掃工場)が稼働を開始。翌1996年7月には、余熱を利用した温水プールや温室を備えた高齢者保養研修施設「ふれーゆ」がオープンした。2000年に理化学研究所横浜研究所が発足、環境資源科学研究センター・統合生命医科学研究センター・ライフサイエンス技術基盤研究センターが開設された。翌2001年には横浜市立大学鶴見キャンパス生命医科学研究科が開設され、理研と連携した研究を行う。2017年6月には、1丁目の旭硝子の敷地内にユーグレナによるバイオジェット燃料実証プラントの着工が予定されている。
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歴史と進出企業
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「大黒町 (横浜市)」の記事における「歴史と進出企業」の解説
横浜港の発展と工業地帯の拡大を目的として、神奈川県により1928年(昭和3年)から生麦地先205万m2の埋立事業が着手、1936年に完成をみた。1937年3月12日にこのうち122万m2に大黒町が新設され、他は神奈川区宝町・恵比須町の町域となる。町名は、縁起をかつぎ七福神の一つの大黒天から採られた。1926年、大黒町地先に大阪セメント(現在の住友大阪セメント)が横浜工場を建設。1934年に東京硫酸株式会社創立(1939年より、保土谷化学工業鶴見工場)。同年に、貨物専用の高島線に新興駅が開業している。1935年、宝製油(1944年に味の素製油に改称、現在のJ-オイルミルズ)横浜工場開設。1936年、昭和産業鶴見工場開設。1937年には辰巳倉庫が営業所を開設した。1939年には日東化学工業(現在の三菱ケミカル)横浜工場と日産自動車鶴見工場(現在の横浜工場第3地区)、ニチアス鶴見工場が進出したが、第二次世界大戦中の1945年には各工場は空襲で甚大な被害を受けた。戦後も工場用地の需要は旺盛で、1947年には大黒倉庫、1950年には丸善石油(現在のコスモ石油)横浜油槽所、1952年には亜細亜石油(新亜細亜石油を経て、現在のコスモ石油)横浜工場が進出。横浜市は1955年より大黒町地先の埋立に着手。1958年からは大洋漁業(現在のマルハニチロ)の母船基地用地の埋め立てが追加され、すべて完成したのは1961年である。埋立には浚渫土や残土のほか、京浜工業地帯で発生したスラグも使われた。新亜細亜石油、日東化学工業、東京電力横浜火力発電所、大洋漁業が進出した。同年には、大黒町北部に横浜市中央卸売市場食肉市場も開場した。 大洋漁業跡地には、1965年5月に大東通商横浜油槽所(2003年に大東タンクターミナルに事業譲渡)、1966年3月には塩水港精糖横浜工場、1996年7月には横浜液化ガスターミナルが竣工。塩水港精糖横浜工場には1997年から2004年まで、見学施設「横浜・さとうのふるさと館」が開設されていた。1966年11月から2004年までは、同社の本社も置かれていた。1967年5月1日には住居表示実施。1971年から1990年にかけて、大黒町南方の沖合に大黒埠頭が造成され、1974年には大黒町と大黒埠頭を結ぶ大黒大橋、1989年には首都高速神奈川5号大黒線が開通した。町の北部にアルコール類の輸送設備を有する内外輸送は、2000年に東京・大手町から当地に本社を移転した。2004年には、コスモ石油跡地に中古車オークション会場ユー・エス・エスが開設された。
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