戸田家の時代とは? わかりやすく解説

戸田家の時代(第1期)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/01 05:05 UTC 版)

宇都宮藩」の記事における「戸田家の時代(第1期)」の解説

阿部正邦代わり越後高田藩より戸田忠真が7万石で入るが、その際戸田家家臣宇都宮少ないことを喜んだと伝わる。忠真は第7代将軍徳川家継時代正徳4年1714年)に老中任命され第8代将軍徳川吉宗時代享保14年1729年)まで務めた。忠真期に吉宗日光社参が行われている。忠真の跡は養子の忠余(忠真の弟忠章の嫡男)が継いだ。忠余の跡は四男の忠盈が継いだ。忠盈は人心荒廃していることを憂い延享5年1748年)に「御教条之趣」を領内出した。これは領民が守るべき心を指示したものであり、忠盈は人心荒廃に対して厳罰対処せず、心や孝行領民の心を変えることに務めたのである寛延2年1749年7月23日、忠盈は肥前島原藩移封となった

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戸田家の時代(第2期)

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宇都宮藩」の記事における「戸田家の時代(第2期)」の解説

戸田忠寛が8万石入り入れ替わり激しかった藩主家戸田家支配安定する。忠寛はかつての宇都宮藩であった忠盈の実弟である。忠盈は病弱島原移ってから25歳時に隠居しており、忠寛が養子になっていたのである戸田家引越し費用などで財政苦しかった。忠寛は出世欲強く江戸から遠隔地であり長崎在番役目がある島原藩主では幕閣なれないので宇都宮に戻るため各方面働きかけ、その費用がかさみ、忠寛時代戸田家財政一気厳しくなった。宇都宮戻った忠寛はさらに金を使って安永4年1775年)に寺社奉行になり、以後大坂城代京都所司代歴任するが、このため戸田家財政火の車となり、安永5年1776年)の第10代将軍徳川家治による日光社参財政悪化にはさらに拍車かかった寛政10年1798年)、忠寛の跡を継いだのは長男の忠翰であるが、出世や名誉を望まず13年在任平穏に過ごした文化8年1811年4月に忠翰は隠居し三男忠延が跡を継いだ忠延は『善行録』を作って領民孝行教化図り一方で逼迫する財政再建するため家臣給金給米削減貸付金扶持米前渡し禁止したため、家臣の生活は苦しくなった。さらに天災が相次ぎ宇都宮領内生産落ち込む中で忠延失意のうちに病に倒れ在任12年34歳没した。 その跡は弟の忠温が継いだ。この忠温の時代本多良之助仇討ち起こっている。忠温は寺社奉行となり、天保4年1833年)に奏者番任命された。天保の改革末期天保14年1843年4月には第12代将軍徳川家慶日光社参が行われたが、これが徳川将軍家最後社参となった弘化2年1845年)からは老中となり、阿部正弘幕政6年担当したちなみに正弘は忠温の先夫人の甥にあたり、忠温は正弘と共に外交政策苦慮している。 忠温の跡を継いだ三男忠明18歳早世し、弟の忠恕が跡をついで幕末の動乱迎える。安政3年1856年)、藩財政立て直し期待込め篠井金山開発乗り出すが、2年頓挫した幕末期文久2年1862年1月坂下門外の変が起こるが、襲撃者一人河野顕三がいた。河野宇都宮尊攘の士である菊池教中児島強介らと親交があり、河野変事死亡したが、この襲撃大橋訥庵影響力大きかったことから、宇都宮藩無関係ではなくなった。大橋は忠温が戸田家と縁のある佐野屋婿養子であった関係で招聘した人物で、宇都宮藩でも尊皇攘夷強く説いていた。幕末期大橋尊皇攘夷影響根強く文久元年1861年8月幕府戸田家に対してアメリカ公使館警護命ずるも拒否したこともある。しかし過激な尊攘派のため大橋存在次第恐れられ坂下門直前幕府により捕縛され関係者児島菊池らも変後捕縛された。以後戸田家譜代大名ながら幕府睨まれる存在になる。 この状況打開するため、当時江戸にいた家老戸田忠至は、坂下門外の変善後理に奔走するとともに、藩の以後進む道を求めた文久2年1862年5月14日、忠至は、江戸出てきた宇都宮藩有力者県勇記に藩の進路について意見求めた。県は大橋のもとで学んだ人物である七日の後、県は、郷土先人蒲生君平記した山陵志』をもとに、天皇陵修補奉る山陵修補事業提案した。この案は、幕府への忠誠尽くし尊王大義をも果たす窮余の一策として考えられたものであった。忠至は当初水戸藩徳川斉昭皇紀2500年を記念して山陵修補のことを天保5年1834年)、同11年1840年)の2度にわたり進言運動試みた幕府許可がなく失敗しており、これによって幕府疑いを受ける恐れがあるとして難色示したが、宇都宮藩中で当時有力者だった広田執中が県の発想賛成して忠至を説得し宇都宮藩山陵修補建白書幕府提出文久2年1862年8月14日幕命を受けるに至る。こうして宇都宮藩による「文久の修陵」が始まった朝廷では、正親町三条実愛以下を山陵御用係に、忠至を山陵奉行任命した文久3年1863年2月21日神武天皇陵工事開始された。 山陵修補工事方針は、堤や堀の破壊修理し堤上に柵を巡らし、扉付き鳥居御陵名の石標建てる程度にし、みだりに私見加えないで、旧形の保存第一とするものであった文久3年1863年2月神武天皇陵着工8月天智天皇陵9月文武天皇陵以下4陵、10月には開化天皇陵以下5陵、11月には成務天皇陵以下4陵が着工になった12月神武天皇陵竣工した文久4年1864年正月神武天皇陵修復成功により、朝廷から恩賞があり、忠恕従四位下に叙任され、忠至は御剣拝領する元治元年1864年3月前年着工諸陵竣工後堀河天皇陵および泉涌寺着工同年4月清寧天皇陵 、仁賢天皇着工5月仲哀天皇陵以下4陵および深草天皇陵着工6月懿徳天皇陵以下5陵が着工7月後醍醐天皇陵以下3陵、8月安寧天皇陵以下12陵、11月孝霊天皇陵以下8陵に着工着工元治2年1864年1月天武・持統天皇陵合葬)を最後に同年12月から元治2年1895年2月3月にかけて竣工した慶応元年1865年4月30日畿内地方および丹後地方にある山陵と御火葬所・分骨109か所の修補完成朝廷報告5月に1陵、7月に1陵、8月に5陵、9月に4陵、11月に3陵、12月に8陵が竣工し調査中の14陵を除いて工事終了した。なお、この工事費用は文久2年1862年10月14日幕府から山陵修補建白許可とともに5千両下付されたほか、川村伝左衛門から1万5千両借用したが、不足分宇都宮藩負担したため、藩の財政逼迫した。 版が山陵修補事業取り組んでいた中、元治元年1864年)に天狗党の乱起こり4月天狗党宇都宮にやって来た。この時、宇都宮藩日光守備家臣山陵派遣などで兵が少なかった天狗党藤田小四郎山陵奉行などで尊王が強い戸田家味方にしようとしたが、中老県勇記巧み交渉行って協力拒否天狗党日光参詣認めるという条件穏便に処理したこの間藩主忠恕在府していたが、主導的役割果たしたのは全てであった。しかし戸田家家臣中にも尊攘派過激な者が多く忠恕や県の制止振り切って天狗党同調する者がいた。また県も天狗党との関係の嫌疑受けて御役御免謹慎処せされた。県が不在になったことで藩内では意見が全くまとまらなくなり忠恕意思空回りして天狗党の乱鎮圧することはできずに宇都宮領内通過させてしまった。宇都宮藩は藩始まって以来危機直面したが、この中にあって忠至は山陵修補事業専念し足かけ4年歳月費やした乱後忠恕幕府から乱を鎮圧できなかったことへの叱責受けた上、元治2年1865年1月には隠居謹慎とともに2万7855石の減封の上同族の忠友を養子として5万石で継がせるという沙汰受けた3月8日には陸奥棚倉藩への移封命令出されたが、棚倉懲罰的移封としての歴史長くこの頃戸田家幕府から相当に睨まれていたことがわかる。折しも慶応元年1865年5月22日長州征伐のため上京参内し将軍徳川家茂に、山陵修補の功により褒詞があり、徳川秀忠家光に対して神号追贈があった。そこでその機を捉え、この危機復帰した県が正親町三条実愛や忠至を経て朝廷訴え朝廷山陵奉行として貢献する戸田家危機として幕府撤回求めた当初幕府移封撤回しないまま忠至に3万石与えるとしたが、忠至は拒否し朝廷再度処置撤回求めたため、10月幕府移封命令撤回した。 忠至は山陵修補ならびに移封回避功績として、慶応2年1866年3月戸田宗家から1万石を分与され、支藩高徳藩立藩した。 なお、この間京都起こった禁門の変でも、戸田家家臣廣田執中岸上弘が関わり真木保臣らと協力して幕府軍戦った後に天王山自刃している。 新たな藩主となった忠友は、慶応3年1867年7月25日寺社奉行奏者番兼任する。しかし2か月後に大政奉還が行われ、幕府滅んだ戊辰戦争で忠友は、徳川慶喜助命のため上洛目指す入京できず、朝廷から大津謹慎命じられる藩主謹慎している間、宇都宮では打ちこわし起こった。また藩主不在のために県が国許主導権握り、藩内の意見統一して新政府味方することを表明した。 しかし大鳥圭介新選組土方歳三らが率い旧幕軍の攻撃を受け、4月宇都宮城めぐって攻防戦が行われた。最終的に物量に勝る新政府軍旧幕府軍を追討したが、この際戦火宇都宮城をはじめ、宇都宮二荒山神社など、宇都宮城下主な建築物焼失した宇都宮城の戦い) )。 明治維新後、隠居忠恕5月死去した6月には忠友も、新政府より松平光則戸田家宗家である戸田松平家当主)の息子養子にして隠居するよう沙汰出された。しかし県が懸命に嘆願したため、この沙汰取り消されている。 以後宇都宮藩は、若い忠友を県と岡田真吾の2人支え体制がとられた。岡田と県は藩を復興させるために諸改革を行うも、明治4年1871年)に廃藩置県によって宇都宮藩廃止され宇都宮県代わり、さらに明治6年1873年)には栃木県編入された(詳細宇都宮市の項も参照)。

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