戸田家の時代(第1期)
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阿部正邦に代わり、越後高田藩より戸田忠真が7万石で入るが、その際に戸田家の家臣は宇都宮は雪が少ないことを喜んだと伝わる。忠真は第7代将軍徳川家継時代の正徳4年(1714年)に老中に任命され、第8代将軍徳川吉宗時代の享保14年(1729年)まで務めた。忠真期に吉宗の日光社参が行われている。忠真の跡は養子の忠余(忠真の弟忠章の嫡男)が継いだ。忠余の跡は四男の忠盈が継いだ。忠盈は人心が荒廃していることを憂い、延享5年(1748年)に「御教条之趣」を領内に出した。これは領民が守るべき心を指示したものであり、忠盈は人心の荒廃に対して厳罰で対処せず、心や孝行で領民の心を変えることに務めたのである。寛延2年(1749年)7月23日、忠盈は肥前島原藩へ移封となった。
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戸田家の時代(第2期)
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戸田忠寛が8万石で入り、入れ替わりの激しかった藩主家は戸田家の支配で安定する。忠寛はかつての宇都宮藩主であった忠盈の実弟である。忠盈は病弱で島原に移ってから25歳の時に隠居しており、忠寛が養子になっていたのである。 戸田家も引越し費用などで財政は苦しかった。忠寛は出世欲が強く、江戸から遠隔地であり長崎在番の役目がある島原藩主では幕閣になれないので宇都宮に戻るため各方面に働きかけ、その費用がかさみ、忠寛時代に戸田家の財政は一気に厳しくなった。宇都宮に戻った忠寛はさらに金を使って安永4年(1775年)に寺社奉行になり、以後大坂城代や京都所司代を歴任するが、このために戸田家の財政は火の車となり、安永5年(1776年)の第10代将軍・徳川家治による日光社参で財政悪化にはさらに拍車がかかった。 寛政10年(1798年)、忠寛の跡を継いだのは長男の忠翰であるが、出世や名誉を望まず13年の在任を平穏に過ごした。文化8年(1811年)4月に忠翰は隠居し、三男の忠延が跡を継いだ。忠延は『善行録』を作って領民の孝行の教化を図り、一方で逼迫する財政を再建するため家臣の給金や給米の削減、貸付金や扶持米の前渡しを禁止したため、家臣の生活は苦しくなった。さらに天災が相次ぎ、宇都宮領内の生産も落ち込む中で忠延は失意のうちに病に倒れ、在任12年、34歳で没した。 その跡は弟の忠温が継いだ。この忠温の時代に本多良之助の仇討ちが起こっている。忠温は寺社奉行となり、天保4年(1833年)に奏者番に任命された。天保の改革末期の天保14年(1843年)4月には第12代将軍徳川家慶の日光社参が行われたが、これが徳川将軍家最後の社参となった。弘化2年(1845年)からは老中となり、阿部正弘と幕政を6年間担当した。ちなみに正弘は忠温の先夫人の甥にあたり、忠温は正弘と共に外交政策で苦慮している。 忠温の跡を継いだ三男の忠明は18歳で早世し、弟の忠恕が跡をついで幕末の動乱を迎える。安政3年(1856年)、藩財政立て直しの期待を込め篠井金山の開発に乗り出すが、2年で頓挫した。 幕末期の文久2年(1862年)1月、坂下門外の変が起こるが、襲撃者の一人に河野顕三がいた。河野は宇都宮の尊攘の士である菊池教中や児島強介らと親交があり、河野は変事で死亡したが、この襲撃に大橋訥庵の影響力が大きかったことから、宇都宮藩も無関係ではなくなった。大橋は忠温が戸田家と縁のある佐野屋の婿養子であった関係で招聘した人物で、宇都宮藩でも尊皇攘夷を強く説いていた。幕末期も大橋の尊皇攘夷の影響は根強く、文久元年(1861年)8月に幕府が戸田家に対してアメリカ公使館の警護を命ずるも拒否したこともある。しかし過激な尊攘派のため大橋の存在は次第に恐れられ、坂下門外直前に幕府により捕縛され、関係者の児島や菊池らも変後に捕縛された。以後、戸田家は譜代大名ながら幕府に睨まれる存在になる。 この状況を打開するため、当時江戸にいた家老の戸田忠至は、坂下門外の変の善後処理に奔走するとともに、藩の以後進む道を求めた。文久2年(1862年)5月14日、忠至は、江戸に出てきた宇都宮藩の有力者県勇記に藩の進路について意見を求めた。県は大橋のもとで学んだ人物である七日の後、県は、郷土の先人蒲生君平の記した『山陵志』をもとに、天皇陵を修補し奉る山陵修補事業を提案した。この案は、幕府への忠誠を尽くし、尊王の大義をも果たす窮余の一策として考えられたものであった。忠至は当初、水戸藩の徳川斉昭が皇紀2500年を記念して山陵修補のことを天保5年(1834年)、同11年(1840年)の2度にわたり進言し運動を試みたが幕府の許可がなく失敗しており、これによって幕府の疑いを受ける恐れがあるとして難色を示したが、宇都宮藩中で当時有力者だった広田執中が県の発想に賛成して忠至を説得し、宇都宮藩は山陵修補の建白書を幕府に提出、文久2年(1862年)8月14日に幕命を受けるに至る。こうして宇都宮藩による「文久の修陵」が始まった。朝廷では、正親町三条実愛以下を山陵御用係に、忠至を山陵奉行に任命した。文久3年(1863年)2月21日に神武天皇陵工事が開始された。 山陵修補工事の方針は、堤や堀の破壊を修理し、堤上に柵を巡らし、扉付きの鳥居、御陵名の石標を建てる程度にし、みだりに私見を加えないで、旧形の保存を第一とするものであった。文久3年(1863年)2月に神武天皇陵着工、8月に天智天皇陵、9月に文武天皇陵以下4陵、10月には開化天皇陵以下5陵、11月には成務天皇陵以下4陵が着工になった。12月に神武天皇陵を竣工した。文久4年(1864年)正月、神武天皇陵の修復成功により、朝廷から恩賞があり、忠恕は従四位下に叙任され、忠至は御剣を拝領する。 元治元年(1864年)3月、前年着工の諸陵竣工、後堀河天皇陵および泉涌寺陵着工。同年4月に清寧天皇陵 、仁賢天皇陵着工、5月に仲哀天皇陵以下4陵および深草天皇陵着工、6月に懿徳天皇陵以下5陵が着工。7月に後醍醐天皇陵以下3陵、8月に安寧天皇陵以下12陵、11月に孝霊天皇陵以下8陵に着工。着工は元治2年(1864年)1月の天武・持統天皇陵(合葬)を最後に、同年12月から元治2年(1895年)2月、3月にかけて竣工した。慶応元年(1865年)4月30日に畿内地方および丹後地方にある山陵と御火葬所・分骨所109か所の修補完成を朝廷に報告、5月に1陵、7月に1陵、8月に5陵、9月に4陵、11月に3陵、12月に8陵が竣工し、調査中の14陵を除いて工事は終了した。なお、この工事費用は文久2年(1862年)10月14日、幕府から山陵御修補の建白の許可とともに5千両が下付されたほか、川村伝左衛門から1万5千両を借用したが、不足分は宇都宮藩が負担したため、藩の財政は逼迫した。 版が山陵修補事業に取り組んでいた中、元治元年(1864年)に天狗党の乱が起こり、4月に天狗党が宇都宮にやって来た。この時、宇都宮藩は日光の守備、家臣の山陵派遣などで兵が少なかった。天狗党の藤田小四郎は山陵奉行などで尊王が強い戸田家を味方にしようとしたが、中老の県勇記が巧みな交渉を行って協力を拒否、天狗党の日光参詣を認めるという条件で穏便に処理した。この間、藩主の忠恕は在府していたが、主導的役割を果たしたのは全て県であった。しかし戸田家の家臣の中にも尊攘派で過激な者が多く、忠恕や県の制止を振り切って天狗党に同調する者がいた。また県も天狗党との関係の嫌疑を受けて御役御免・謹慎に処せされた。県が不在になったことで藩内では意見が全くまとまらなくなり、忠恕の意思も空回りして天狗党の乱を鎮圧することはできずに宇都宮領内を通過させてしまった。宇都宮藩は藩始まって以来の危機に直面したが、この中にあって忠至は山陵修補事業に専念し、足かけ4年の歳月を費やした。 乱後、忠恕は幕府から乱を鎮圧できなかったことへの叱責を受けた上、元治2年(1865年)1月には隠居謹慎とともに2万7855石の減封の上、同族の忠友を養子として5万石で継がせるという沙汰を受けた。3月8日には陸奥棚倉藩への移封命令が出されたが、棚倉は懲罰的な移封先としての歴史が長く、この頃の戸田家が幕府から相当に睨まれていたことがわかる。折しも慶応元年(1865年)5月22日、長州征伐のため上京参内した将軍・徳川家茂に、山陵御修補の功により褒詞があり、徳川秀忠・家光に対しては神号追贈があった。そこでその機を捉え、この危機に復帰した県が正親町三条実愛や忠至を経て朝廷に訴え、朝廷も山陵奉行として貢献する戸田家の危機として幕府に撤回を求めた。当初、幕府は移封は撤回しないまま忠至に3万石を与えるとしたが、忠至は拒否し、朝廷も再度処置の撤回を求めたため、10月に幕府は移封命令を撤回した。 忠至は山陵修補ならびに移封回避の功績として、慶応2年(1866年)3月に戸田宗家から1万石を分与され、支藩の高徳藩を立藩した。 なお、この間に京都で起こった禁門の変でも、戸田家家臣の廣田執中と岸上弘が関わり、真木保臣らと協力して幕府軍と戦った後に天王山で自刃している。 新たな藩主となった忠友は、慶応3年(1867年)7月25日に寺社奉行と奏者番を兼任する。しかし2か月後に大政奉還が行われ、幕府は滅んだ。戊辰戦争で忠友は、徳川慶喜の助命のため上洛を目指すも入京できず、朝廷から大津で謹慎を命じられる。藩主が謹慎している間、宇都宮では打ちこわしが起こった。また藩主不在のために県が国許で主導権を握り、藩内の意見を統一して新政府に味方することを表明した。 しかし大鳥圭介や新選組の土方歳三らが率いる旧幕軍の攻撃を受け、4月に宇都宮城をめぐっての攻防戦が行われた。最終的には物量に勝る新政府軍が旧幕府軍を追討したが、この際の戦火で宇都宮城をはじめ、宇都宮二荒山神社など、宇都宮城下の主な建築物は焼失した(宇都宮城の戦い) )。 明治維新後、隠居の忠恕が5月に死去した。6月には忠友も、新政府より松平光則(戸田家宗家である戸田松平家当主)の息子を養子にして隠居するよう沙汰が出された。しかし県が懸命に嘆願したため、この沙汰は取り消されている。 以後の宇都宮藩は、若い忠友を県と岡田真吾の2人が支える体制がとられた。岡田と県は藩を復興させるために諸改革を行うも、明治4年(1871年)に廃藩置県によって宇都宮藩は廃止され宇都宮県に代わり、さらに明治6年(1873年)には栃木県に編入された(詳細は宇都宮市の項も参照)。
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