乱後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/04 09:28 UTC 版)
家臣同士・同族同士の争いであったが、乱が人吉衆によって鎮圧されたこと、および多良木衆が多く亡くなったことにより、相良義陽の統治能力は高まったと一般的には解釈される。義陽は木上地頭窪田(=久保田)越後の功を特に賞して加増し、太平山を与えた。湯前城には、東能登が入った。 この戦乱の切っ掛けを作った児玉、早田、深水の三人は乱の間ずっと身を隠していたが、翌永禄3年(1560年)に捕えられ、城下を引き回された上で、計画を授けた僧・智勝ともども中川原で斬られ、首を晒された。宗慶寺は平安時代に建立された由緒ある寺で、往時は十三坊もあったが、この乱への関与により無住となって一気に衰退し、現在は地蔵堂しか残っていない。 また日向へ逃れた丸目頼美は伊東義祐に仕え、元亀3年(1572年)に起こった伊東氏と島津氏の木崎原の戦いで戦死した。
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