奉行として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/27 09:12 UTC 版)
初期の頃は馬廻として戦に赴く信長に付き従って行動していた長頼であったが、程なくして各種奉行に用いられるようになる。 天正元年(1573年)9月、鉄砲による狙撃で信長を暗殺しようとした杉谷善住坊の尋問を祝重正と共に行い、鋸挽きによる処刑を執行した。 天正2年(1574年)3月には柴田勝家・佐久間信盛・丹羽長秀らと共に東大寺の蘭奢待切り取りの奉行を務め、同年7月20日には羽柴秀吉が長頼と相談の上で堀江景忠ら朝倉氏旧臣たちの知行の割り当てを執行すると通達。 天正3年(1575年)8月20日、越前一向一揆討伐の為に越前日野山を前田利家と共に攻め、一揆1,000名余りを討ち取り、また捕らえた捕虜100名も即時首を刎ねた。9月には安養寺に禁制を掲げ、同年10月17日には阿閉貞大から秀吉が竹生島の扶持の過半を奪ったことが違乱であるという訴えを受けている。 また、越前一向一揆鎮圧後は織田氏の氏神として信長が手厚く保護していた越前の劔神社社領の管理も担当した。天正5年(1577年)7月20日付けの書状では柴田勝家・柴田勝定に宛てて、劔神社の縄打ちは既に完了していて境界を決定していたのにも関わらず、勝家が再度検地を行おうとしているのは迷惑であると劔神社より訴えがあったと触れ、信長が特別に念を入れて下された命令なので多少、神社領に余分があろうとも既に決定された境界を遵守するように通達し、また境界に近い神領の百姓の諸役は用捨てである事も通達した。 また、年不詳9月19日には下石頼重と連署で前田利家・佐々成政・不破直光の三人(府中三人衆)に宛てて書状を出し、劔神社が「大破」した事の管理責任を追及し、神領などに関して決めた信長の朱印状を三人が神社に渡していないことが原因であるので直ちに渡すように命令し、また「寺社領高頭」はこれから上使を送って糺名するので隠蔽工作を行えば何かしらの罰がある事を通達した。また、同じ日付で3通別々に書状を出しており、「大破」した神社の調査のことや、神主や神官からの借金・借米の徴収は許さない事、百姓達に近年未納分の年貢を納めさせてこれからの年貢も定納させる事をそれぞれ通達している。 天正6年(1578年)1月29日、織田家弓衆である福田与一宅が失火した際に与一が安土に妻子を呼び寄せていない事が判明し、信長は長頼を奉行として調査を命じた。長頼は直ちに弓衆・馬廻などの台帳を製作してそれぞれ家族を安土に呼び寄せているかどうかを確認し、その結果弓衆で60人、馬廻にも60人の計120名が家族を郷里に残したままにしている事を洗い出した。信長はこの120名の私宅を織田信忠の兵によって焼き払わせ、住む場所を失った家族は安土に半ば強制的に移住させられ、更に罰として安土城の南側の江の内の新道普請を行わせた上で120名を赦した。 6月、播磨神吉城攻めの検使の一人として派遣され、同年11月の摂津有岡城の戦いでは堀秀政・万見重元と共に鉄砲隊を率いて有岡城を攻撃した。天正7年(1579年)5月27日の安土宗論では浄厳院の警備担当の一人で、また宗論に立ち会う奉行を菅屋長頼・堀秀政・長谷川秀一の三人が務めた。その為、宗論に敗れた日蓮宗側は詫証文を提出したが、その宛先も菅屋長頼・堀秀政・長谷川秀一の三人となっている。以後、堀・長谷川と組んで三人で仕事をする機会が何度かあり、伴天連屋敷地造営の奉行や安土(現・近江八幡市安土町)の馬場建設の奉行などを三人で務めた。
※この「奉行として」の解説は、「菅屋長頼」の解説の一部です。
「奉行として」を含む「菅屋長頼」の記事については、「菅屋長頼」の概要を参照ください。
- 奉行としてのページへのリンク