たとえば、ある人がどのような人生を辿ってその人になったのかということは、よく考えてみれば、その原因を本人の自助努力にどれだけ帰していいのかよくわかりません。
私達が人間であることは私達が前世で努力したからではないです。
私達が日本人なのは努力したからではないし、私達が男や女や性的マイノリティであるのも、努力したからではないです。
名前、人種、家庭環境、出生地、性別、生きている時代、容姿、体質、生まれ持った才能、運など、本人の意思でどうしようもないものに規定されたところから私たちは成長していく。
ある人がある人であるのはそのある人だけがそう願ったからある人になったわけではない、ということです。
小学生以上の日本人なら、一部の障害者を除けばほとんど例外なく日本語の読み書きができるわけですが、これは教育システムによってそのような読み書きができる人間に仕立て上げられたからです。
500年前ならそんなシステムはなかったので、読み書きできる人間のほうが少なかった。
他、近代国家を構成する人間として必要なことはなんだかんだいっても教育の中で習得させられます。
そうやって我々は社会によって人間として生きるように仕組まれているわけですが、そういう仕組まれた人生を送る我々の命や人生は、我々自身のものなのか否か、というのはなかなか結論の出ないところだったりします。
たとえば、自殺者を罰することは原則的に不可能ですが、自殺を手伝った人間は法律で罰せられます。
自殺幇助罪ですね。
あと、日本の法律では積極的安楽死は認められていません。
オランダなんかは認められているけど、基本的に、死にたいと思ってもなかなか死ねないのが現代社会です。
我々は誰かの都合でこの世に生を受け、誰かの都合で生かされ続けてるんですよね。
そうやって考えていくと、自意識というのは鏡でしかないです。
その自意識の周囲にある世界を写す鏡。
外界からやってくる様々な情報を反射する鏡。
生まれながらに定められている性質(性別とか名前とか体質とか)をも反射する鏡。
鏡にもそれぞれ意思はあるんですけど、その意思も反射による結果なんですよ。
子は親の鏡というけど、人は世界の鏡です。
良い鏡もあれば悪い鏡もあって、反射の結果も様々ですけどね。
それがいいか悪いか、というのではなくて、個人の命も人生も意思も能力も、すべてはそのような環境の反映であるという、そういう虚無感のような認識に強く囚われてしまって現状肯定ばかりしていると、そこから抜け出すにはそれなりにエネルギーのいることだなあ、ということを最近よく考えています。
よい鏡になれるようにしないとね。
こういう話は本来ならフィクションの中で語られるべきもので、ブログで書くと単純にイタい奴ですが、まあ、そういう単純なイタさも単純に否定せずに書いてみる勇気。
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