夫の座にしがみつくしか能のない田舎官吏と、彼の死んだ妻のかつての不倫相手との交流を描いた作品。
主人公の女性に対する不器用さはわりとドストエフスキーのどの作品にも共通して描かれているのだが、本作品の主人公はその中でも群を抜いているように思われた。
というよりもあまりにも自分というものを知らなさ過ぎるトルソースキーの性格描写が非常に印象的。
リアリティ云々というよりも、語り手である、うがった性格のヴァリチャーニノフの目を通して描かれるそのありように心を惹かれた。
『悪霊』や『カラマーゾフの兄弟』などの大作に見られる思想性はここでは微塵も感じられず、心理小説としてストーリーが進行する。
死んだ妻を巡って、現在進行形の恋愛を巡って、「夫」と「愛人」の間で交わされる言葉の応酬は、そのかみ合わなさと温度の落差によって絶妙な効果を生み出している。
しかしまあ、『白痴』にしろ『地下室の手記』にしろ、あるいは『罪と罰』にしろ『白夜』にしろ、『賭博者』にしろ『貧しき人々』にしろ、彼の作品にはかっこわるい人間が実に多く登場する。
けれどもそういった人間達をどんなに偏執狂的に細かく描いても、ドストエフスキーが彼ら「かっこ悪い人間」達を見つめる目には優しさが感じられる。
凡百の私小説作家達の描く「かっこ悪さ」がその「かっこ悪さ」の中に美学のようなものを見つけようと情けない努力をしているだけなのと異なり、ドストエフスキーの描く「かっこ悪さ」には、そういったものを引き受けつつも、決して卑屈さに陥らない普遍的な強さが感じられる。
この強さと優しさが彼の真骨頂なのだろう。
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