もう10年近く前になるが、mixiで、これからはレズをテーマにしたフィクションがも少し脚光を浴びるんじゃないか、という予想を書いたら、それから2,3年のうちには「百合」というキーワードがオタク文化圏の覇権を狙うまでの地位に成り上がった。
2005年時点でもいくつかの萌芽を見ることはできたのだけれども、まだ当時、百合はほとんどの人にとって意識されていない趣味だった。
私は当時、百合、レズ文化がゲイ、やおい文化に比してそれほど認知されていない理由として、
同性愛を権利として主張するだけの社会的地位を男性が長いこと独占していたことが、文芸としてのレズ作品の成立を遅らせた。
これは体現媒体としての不成立の原因。
また、恋愛そのものに対する男性の想像力の貧困が、鑑賞媒体としての女性同性愛作品の不成立の原因だろうか。 レズ文化の需要と書いていた。
女性の同性愛が、「この私」の問題として共感を訴えかけうるケースが少ないのは何故か、あるいは娯楽としても鑑賞されるケースが少ないのは何故か、という問題。
男性同性愛は、どちらのケースでも文化の中に一定の立ち位置を占めることができていた。
もちろん、それだって各時代各地域によって、様々な弾圧や制約や相違があったわけではあるが。
それでも相対的には、男性の同性愛は実存の問題として、娯楽の対象として、認知されてきた歴史の厚みは女性の同性愛の歴史よりずっと豊かである。
そういう認識ががらりと変わって百合妄想がメインストリームで氾濫し始めたのは『らき☆すた』がヒットしたあたりからだろうか。
どちらかというと実存の問題を扱った百合(というかレズビアン)作品はまだ少ないと思うけど、それでも百合作品が好きな女性、実作者として百合作品を描いている女性もいるので、「ニヤニヤ」することを前提としつつもそこに実存の問題を多少は絡めて受け止めている人はいるだろう。
現実の願望や実態の写し鏡であるフィクションの世界では、現実の人々の意識がある程度反映した形でキャラクター、人間が描かれる。
女性の同性愛が頻繁に描かれるようになったのは女性がそれだけ社会性を獲得し、男性の恋愛面における想像力が多様化してきたことと無関係ではないだろう。
さて、性に関する実存の悩みというと、もちろん、同性愛だけではない。
人間にとって、性体験の有無というのはそれなりに大きな問題で、童貞であることをコンプレックスとして、その克服やおかしみをテーマにした作品は数限りなくあるのだけれども、処女であることをコンプレックスと捉え、その克服やおかしみをテーマにした作品は少なかった。
ところが、ここ数年は高齢処女を描いたマンガというのも増えたきたようで、この分野においても女性の性の問題が表面化し、論じられる、興味を持たれる主題として立ち位置を確保するようになってきたようだ。
童貞以上に大変!? “高齢処女”マンガが増えている! ダヴィンチNEWS
47歳で男性経験がありません・・・ 発言小町
さすがに高齢(素人)童貞を驚愕のユーモアとペーソスでもって描いた『最強伝説 黒沢』級の作品はまだ出てきていないと思うけど、たとえば数年前には『ゴクジョッ。』という女性版『稲中卓球部』とも呼べるような下品な下ネタメインのギャグマンガがスマッシュヒットしていたので、いずれは『黒沢』級の作品も出てくるのかもしれない。
閉経処女を主人公に据えたコメディというものが成立し、支持を得る、ということはあり得るだろうか。
そこら辺を「共感を伴える笑い」として描けてしまったら、わりと性に関するそれなりに普遍的な実存の問題は描き尽くしたと言えるのかもしれないなあ、とふと思った。
テーマがなんであれ、それが共感を呼ぶものであれば、そうした境遇にいる人たちを慰撫し、彼ら彼女らの行き場のない自我を吸収し、幾ばくかの救済を届けることができる。人生に意味のようなものを見いだしうる契機、補助線になり得ると思うのだ。
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