お久しぶりです。
更新再開です。
教育改革って人間の生き死ににそれほど切実に関わってこない問題であるにも関わらず、頻繁に政治課題として取り上げられるケースが多いのですが、日本が抱えている諸問題の中では比較的優先順位は低いと思います。
社会のあらゆる制度は常にメンテナンスが必要で、教育制度も常にその成果や内実が問われてしかるべきではあるんですけどね。
教育ってもちろん大事で、個々人の人生がどのようなものになるのかは教育に負うところが大きいです。
だから、人の親として、自分の子供に対してよい教育を受けさせたいと思うのは当然でしょう。
「優秀さ」というのは相対的なもので、他の優秀でない人たちとの対比でもって優秀認定されるわけだから、その種の"抜け駆け"は極めて有効です。
ただ、個人レベルの教育ではなく、制度として教育内容をどれだけ充実させても、その投資に見合った収益はあがるとは思えない。
優秀な国民が量産されるとは思えない。
日本はどんどん衰退していってる最中なので、中流以下の大学を出てもよい職につけるとは限らない状況です。
奨学金の未払いも社会問題化してますしね。
教育という投資を回収しきれていない。
一方で、偏差値エリートの巣窟である中央省庁に勤務しても凄まじいサビ残を強要される。
そして偏差値エリートが凄まじいサビ残で国家を運営しても財政赤字が膨らんでいくだけで、国の未来はかなり不透明です。
教育によってどんなに能力を磨き上げても、その「優秀な人達」を受け入れる社会制度そのものが変わらない限り、現行の教育を云々してもはかばかしい成果はあがらないのではないか。
優秀な人間が優秀な人間であるためには、本人の能力の問題とは別にして、優秀な能力を発揮できる環境がなければいけない。
近代国家の構成員たる能力はあまねくすべての国民が備えてしかるべきではあるけれども、それだけだったら現行の教育内容をそれほど大きく変える必要はないはずです。
戦後の教育だって個人レベルではそれなりに有用な人材は輩出しているわけだから。
まあ、無償化は進めるべきだとは思うけどカリキュラム内容に関してしょっちゅう手を突っ込むのはどうなのかな、と
また、一般レベルはともかくとして、エリート教育の重要性を説く人たちもけっこういるんだけど、そのエリートたちがどれだけ個人的な資質を高めても、制度の前ではほとんど無力です。
エリートであることによってその人個人の人生は豊かになる確率は高まるでしょうが、世の中がそれでよくなるかはまったくの別問題。
教育内容をいじることによって世の中を変えたい、と考えるのは自分たちの責任を後の世代に先送りしたい、と言ってるのと等しいです。
若い人たちをどうこうしようとするんじゃなくて、まずは自分たちから変わらないとどうしようもないでしょう。
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