「名画に見る「悪」の系譜」
中野京子「名画に見る「悪」の系譜」について。
いきなりサイコパスの話。
動物虐待を平気でできる人は、その後人間の虐待も平気でするようになるという。
1997年の神戸連続児童殺傷事件では、前兆としてネコの殺害があった。
このとき警察は動物虐待に着目して犯人を絞ったのか、それとも事後的に動物虐待を見出したのか知らないのだけれど、今では残虐な事件があったら、動物虐待行動の調査などをしているのかもしれない。
だが一方で「普通の」人が残虐行為をすることについても心理学実験が行われていることは有名だ。スタンフォード監獄実験や、本書でもとりあげられているミルグラム実験などである。
また最近大きな社会問題となっている闇バイトによる強盗殺人(致死)事件では、まったく普通と思われる若者が、残虐行為を行っているという。
以上のように、本書のオープニングはサイコパスがらみの話だったけれど、本書は悪とか残虐行為について事細かく分析あるいは鑑賞するものではない。そのことは「あとがき」にしっかり書いてある。
つまり悪そのものを考察するのではなく、悪とされるものがどう描かれているかが主眼である。たとえば、マンテーニャ《美徳の園から悪徳を追放するミネルヴァ》の説明は次のとおりである。
これはいわゆる図像学と呼ばれる、美術表現の表す意味やその由来などについての学問だと思う。
そして図像学をベースに著者の推測などを交えながら、効果的に「悪」を見せる画家の工夫について書かれている。
図像学というものをきちんと勉強したことはなくて、美術作品の解説のなかで、アトリビュートとかシンボルとか指摘されているものを少し記憶しているにすぎないので、図像学の本にどんなものがあるか検索してみると、概念としては日本絵画でも西洋絵画でも見出せる「お約束」だが、内容は文化によって異なる。
勉強するなら地域・時代を決めないと難しいようだ。
本書は、当然、西洋美術の図像学である。
ところで本書の製本だが、紙質はケント紙のようなつるっとしたもので、色のノリは悪くないけれど、ネットで見る絵とは色味は随分隔たっているものもある。また、見開きページにわたる絵が連続するような綴じ方になっているのは好ましい努力であるけれど、やはり綴じ目のところが完全に平坦になるわけではないのは惜しい。
また、本書がとりあげている絵はあまり知られていないものが多いようだ(私もほとんど知らなかった)。これについて著者があとがきに次のように書いている。
いきなりサイコパスの話。
動物虐待を平気でできる人は、その後人間の虐待も平気でするようになるという。
サイコパス(=反社会性人格障害者)や連続異常殺人鬼についての研究によれば、彼らの特徴として「共感能力及び道徳・倫理観の欠如」「自己中心性」「虚言癖」「恐怖への鈍感」「生来の嗅覚異常」「外づらの良さ」などが挙げられている。さらにもう一つ、特徴的行動として比較的多く見られるのが、子供時代からの動物虐待だという。
大きな異常行動を起こす前に、無抵抗の弱い小動物をターゲットにして残虐行為が行われ、しかも次第にその頻度と加害の程度は増してゆく。ついには動物で飽き足らなくなり......という流れなので犯罪捜査においてはこうした聞き込みが大きな手掛かりとなる場合があるようだ。
大きな異常行動を起こす前に、無抵抗の弱い小動物をターゲットにして残虐行為が行われ、しかも次第にその頻度と加害の程度は増してゆく。ついには動物で飽き足らなくなり......という流れなので犯罪捜査においてはこうした聞き込みが大きな手掛かりとなる場合があるようだ。
1997年の神戸連続児童殺傷事件では、前兆としてネコの殺害があった。
このとき警察は動物虐待に着目して犯人を絞ったのか、それとも事後的に動物虐待を見出したのか知らないのだけれど、今では残虐な事件があったら、動物虐待行動の調査などをしているのかもしれない。
これに関し、医師出身のアメリカ人作家マイケル・クライトンが遺作『マイクロワールド』の中で、こう書いている。「彼のような手合い(=サイコパス)は、一般的なモラルの埒外で行動する。その邪悪さは、常識人には見えない。なぜなら常識人には、人間にそんなにも邪悪なまねができるとはとても信じられないからだ。あの手の異常者は、だれにも正体を知られることなく、何年でも、のうのうと好き放題をやらかす――役者としてすぐれているかぎり」(酒井昭伸訳)
常識人の目には「(邪悪が)見えない」という表現は実に言い得て妙だ。ずいぶん前に読んだシリアルキラー列伝といったアメリカのノンフィクション(タイトル失念)のあとがきを思い出す。この著者は書き終えて初めて気づいたとして、自身が取り上げた十数人の連続殺人犯のうち二人と偶然会っていたことが判明したというのだ。もちろん逮捕前の出来事であり、さりげない出会いだったので知人から指摘されるまで忘れていた。どちらも感じの良い普通の男性と思ったという。研究者ですらこうなのだ。「外づらの良さ」が力を発揮している。
一方で興味深かったのは、こうした異常者と実際に接してどことなく不快を覚え、災難を避けることができた人々の証言だ。相手の見かけはさわやかで会話もなめらか、非常に感じが良いのだが、何かどこかおかしくて薄気味悪く、居心地の悪さを覚えた、それが何なのか、どこから来るものかは明快に説明はできないが、とにかく見えている人物の外見と中身が違うのは本能的にわかった、と。
第一印象なのだ。一目見た瞬間に違和感を覚える、その感覚が大事だ。サイコパスやシリアルキラーから身を守るためには、知識を蓄えるだけでなく、感度を研ぎ澄ます訓練も必要なのだろう。だが第一印象や第六感というのも曖昧模糊で言語化しにくいし、瞬間的に嫌な相手と思っても、気さくな態度で近づいて来られ、非常に愛想も良かったりすると、最初の印象はあてにならない、自分の誤解だった、と軌道修正し、けっきょくは餌食になるかもしれない。
となると、個々人で立ち向かおうとするよりは、弱者を守るシステム強化が必要ということだろう。
常識人の目には「(邪悪が)見えない」という表現は実に言い得て妙だ。ずいぶん前に読んだシリアルキラー列伝といったアメリカのノンフィクション(タイトル失念)のあとがきを思い出す。この著者は書き終えて初めて気づいたとして、自身が取り上げた十数人の連続殺人犯のうち二人と偶然会っていたことが判明したというのだ。もちろん逮捕前の出来事であり、さりげない出会いだったので知人から指摘されるまで忘れていた。どちらも感じの良い普通の男性と思ったという。研究者ですらこうなのだ。「外づらの良さ」が力を発揮している。
一方で興味深かったのは、こうした異常者と実際に接してどことなく不快を覚え、災難を避けることができた人々の証言だ。相手の見かけはさわやかで会話もなめらか、非常に感じが良いのだが、何かどこかおかしくて薄気味悪く、居心地の悪さを覚えた、それが何なのか、どこから来るものかは明快に説明はできないが、とにかく見えている人物の外見と中身が違うのは本能的にわかった、と。
第一印象なのだ。一目見た瞬間に違和感を覚える、その感覚が大事だ。サイコパスやシリアルキラーから身を守るためには、知識を蓄えるだけでなく、感度を研ぎ澄ます訓練も必要なのだろう。だが第一印象や第六感というのも曖昧模糊で言語化しにくいし、瞬間的に嫌な相手と思っても、気さくな態度で近づいて来られ、非常に愛想も良かったりすると、最初の印象はあてにならない、自分の誤解だった、と軌道修正し、けっきょくは餌食になるかもしれない。
となると、個々人で立ち向かおうとするよりは、弱者を守るシステム強化が必要ということだろう。
だが一方で「普通の」人が残虐行為をすることについても心理学実験が行われていることは有名だ。スタンフォード監獄実験や、本書でもとりあげられているミルグラム実験などである。
また最近大きな社会問題となっている闇バイトによる強盗殺人(致死)事件では、まったく普通と思われる若者が、残虐行為を行っているという。
以上のように、本書のオープニングはサイコパスがらみの話だったけれど、本書は悪とか残虐行為について事細かく分析あるいは鑑賞するものではない。そのことは「あとがき」にしっかり書いてある。
本書は、「悪」とは何かを考察するものではない。それを始めれば、悪は相対的、且つ時代や国によって変わり、悪を規定するのは時の権力者で、そもそも「絶対悪」の存在は証明できない、といった眩暈を誘う議論にも触れざるを得なくなるからだ。筆者には荷が重いのでそういうことは哲学者や社会学者などにまかせ、ここでは悪を主題に据えた画家がそれをどう表現したかに絞っている。即ちその画面にあらわれるのは、「悪は厳然と存在する」という揺るぎない信念だ。
つまり悪そのものを考察するのではなく、悪とされるものがどう描かれているかが主眼である。たとえば、マンテーニャ《美徳の園から悪徳を追放するミネルヴァ》の説明は次のとおりである。
樹木のアーチに囲まれた「美徳の園」に、悪徳の輩が大量発生したというので、知恵と戦と芸術の女神ミネルヴァ(=アテナ)が華やかな鎧兜に身を包み、盾と長槍を持って颯爽と乗り込んできた(画面左)。槍の先は折れて足もとに落ちており、これは勝利が約束された証とされる。彼女の鋭い視線は、目の前を飛ぶ恋の神クピド(=キューピッド、アモル)たちに向けられている。本来クピドは鳥の翼をもつが、本作では悪と見なされているせいか、蝶や輝など昆虫の翅に変えられている。ミネルヴァの足もとの沼の岸には、「OTIA SI TOLLAS PERIERE CVPIDINIS ARCVS (怠惰を追放すればクピドの弓は滅ぶ)」の一文。クピドはいたずら半分に恋の矢を射て一目惚れさせ、騒動を巻き起こすが、忙しく働く者は難を逃れられるというわけだ(恋は暇人のもの?)。
画面の登場人物や行動については研究者によっていくらか違いもあるが、概ね次のように解釈されている。まず天上界。雲に乗る三人は節制、勇気、正義の擬人像。 地上(画面中景)を左から右へ順に見てゆくと、まず立木に人間の顔のついた痛々しい姿(乳首から枝葉が生えている)の主は、太陽神アポロンの愛を拒んで月桂樹と化したダフネ。巻紙には神々に救いを求める言葉が記されている。その次はミネルヴァ。そしてクピドの群れ。
そのクピドの真下で、ミネルヴァを振り返りつつ子供たちを連れて必死に逃げる母親は、一見、人間に見えて、実は半人半獣だ。耳が尖り、脚は膝から下が縞模様の毛に覆われ、蹄は悪魔の印の二股。子供たちも皆同じ脚をもつ。母子の右斜め上を飛ぶクピドたちは、「欺瞞」の象徴たるメンフクロウの仮面をかぶっている。彼らのすぐ下を駆けてゆくのは、狩猟と月の女神ディアナ(ブルーの服を着て弓を握り、矢筒を背に負う)と、「貞淑」の擬人像(黄緑色の服)。裸体のヴィーナスが二人の目の前にいるように見えるのは、遠近法があまり成功していないせいだろう。実際にはヴィーナスは沼の中のケンタウロスの背に立っている。
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このような分析がまだまだ続く。画面の登場人物や行動については研究者によっていくらか違いもあるが、概ね次のように解釈されている。まず天上界。雲に乗る三人は節制、勇気、正義の擬人像。 地上(画面中景)を左から右へ順に見てゆくと、まず立木に人間の顔のついた痛々しい姿(乳首から枝葉が生えている)の主は、太陽神アポロンの愛を拒んで月桂樹と化したダフネ。巻紙には神々に救いを求める言葉が記されている。その次はミネルヴァ。そしてクピドの群れ。
そのクピドの真下で、ミネルヴァを振り返りつつ子供たちを連れて必死に逃げる母親は、一見、人間に見えて、実は半人半獣だ。耳が尖り、脚は膝から下が縞模様の毛に覆われ、蹄は悪魔の印の二股。子供たちも皆同じ脚をもつ。母子の右斜め上を飛ぶクピドたちは、「欺瞞」の象徴たるメンフクロウの仮面をかぶっている。彼らのすぐ下を駆けてゆくのは、狩猟と月の女神ディアナ(ブルーの服を着て弓を握り、矢筒を背に負う)と、「貞淑」の擬人像(黄緑色の服)。裸体のヴィーナスが二人の目の前にいるように見えるのは、遠近法があまり成功していないせいだろう。実際にはヴィーナスは沼の中のケンタウロスの背に立っている。
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これはいわゆる図像学と呼ばれる、美術表現の表す意味やその由来などについての学問だと思う。
そして図像学をベースに著者の推測などを交えながら、効果的に「悪」を見せる画家の工夫について書かれている。
図像学というものをきちんと勉強したことはなくて、美術作品の解説のなかで、アトリビュートとかシンボルとか指摘されているものを少し記憶しているにすぎないので、図像学の本にどんなものがあるか検索してみると、概念としては日本絵画でも西洋絵画でも見出せる「お約束」だが、内容は文化によって異なる。
勉強するなら地域・時代を決めないと難しいようだ。
本書は、当然、西洋美術の図像学である。
ところで本書の製本だが、紙質はケント紙のようなつるっとしたもので、色のノリは悪くないけれど、ネットで見る絵とは色味は随分隔たっているものもある。また、見開きページにわたる絵が連続するような綴じ方になっているのは好ましい努力であるけれど、やはり綴じ目のところが完全に平坦になるわけではないのは惜しい。
また、本書がとりあげている絵はあまり知られていないものが多いようだ(私もほとんど知らなかった)。これについて著者があとがきに次のように書いている。
本書にはできるだけ珍しい絵画を選ぶようにしました。知られざる画家の魅力も楽しんでいただけたら幸いです。