「感性でよむ西洋美術」(その4)

81fgylvVx6L_SL1500_.jpg 伊藤亜紗「感性でよむ西洋美術」の4回目。

最後に、藝術と政治的なものの関係について、本書から。
 なぜ、パルテノン神殿には神話というフィクションと、人間の歴史という現実が、同時に描かれているのでしょうか。それは、この国を支配している人たちが正統な民族だということを証明するためです。『日本書紀』などもそうですが、自分たちのアイデンティティを示すために、神の物語と人間の歴史を結びつけるというのは、各地の民族で見られる常套手段です。パルテノン神殿は、そうしたギリシアの人々のアイデンティティを内外にアピールする政治的な役割もになっていたのです。
 現代では、芸術は衣食住が足りたうえでの余暇、飾りのようなものだというイメージがあるかもしれませんね。しかしそんなことはありません。芸術は民族や国家の統合の象徴になります。「政治的」というとネガティブな印象を持ってしまうかもしれませんが、言い換えればそれは、民族や国家がひとつにまとまるために必要なもの、ということです。だからこそ戦争や革命が起こると真っ先に破壊されるのです。

信仰の対象を破壊するというと、記憶に新しいところでは、タリバンによるバーミヤン大仏の破壊がある。タリバンは偶像信仰を厳しく否定するイスラム教徒で、そのことから大仏を許さなかったということになるのだろうけれど、異教の神像は彼らにとってはただの人形でしかないように思う。また大仏がアフガニスタン国民の統合の象徴だったとはとても思えない。それにもかかわらず破壊したというのは、よほど偶像がイヤだったのか。

スペインには多くのイスラム支配時代の建物があるが、多くは破壊されることなく使われている。イスラム教は偶像崇拝厳禁で、イスラム美術はほとんどが幾何学模様で、人間の像は出てこないから、キリスト教徒もこれを破壊する必要はなかったのだろう。もし偶像崇拝が認められていてムハンマドの像などが描かれていたらキリスト教徒はこれを破壊したに違いない。


次に紹介するのは、この本ではじめて知ったこと。
なぜはじめて知ったかというと、こんなことを学校で教えることはできないし、美術愛好家にとっては触れたくないことだからではないだろうか。
それは「未来派」である。
   未来派が追究した最高の美
 デュシャンと同じ「動いて見える絵」に関して、 キュビスムをもう一歩展開した様式に未来派があります。キュビスムはパリで誕生しましたが、その影響を受けてイタリアで生まれたのが未来です。彼らは「自分たちは未来である」と宣言して活動をしていました。
 未来派の特徴は、機械の美に惹かれたところです。二〇世紀初頭は、それまでになかったスピードやパワーに人々がさらされ始めた時代です。それまで、最も速い乗り物といえば馬車だったのが、通りを自動車が走るようになり、さらに飛行機が空を飛ぶようになった。 未来派は、そうした人間的なスケールを超えるスピードと機械の力への礼賛が生み出した様式です。
 バッラ(一八七一~一九五八)の「高速車―抽象的速度」(一九一三年)という絵を見てみましょう[口絵27]。 描かれているのは、高速で回る車輪のようなものでしょうか。ほかにも未来派は、飛び回る飛行機や、機械によって金属が加工される工場の中などを描きました。スポーツ選手が力強く運動する様子なども描いています。
 そこで強調されているのは、筋肉、健康、ダイナミズムです。運動性はバロック様式の特徴でもありましたが、バロックのそれが物語的なダイナミズムだったのに対し、未来派の運動性は物理的な力の爆発を表現しています。
 このとき、時代はどんどん戦争に向かっていました。未来派は、最終的には戦争美にまで向かってしまったグループでした。戦争とはむき出しの速さと強さのぶつかり合いです。未来派的な美学からすると最高の美となるわけです。
 未来派を率いたイタリアの詩人マリネッティ(一八七六~一九四四)は、一九〇九年に発表した「未来派宣言」でこう述べています。

1.われわれは、危険への愛と、活力と無謀の習性をうたいたい。

  (中略)

4.世界の偉大さは、ある新しい美によって豊かになったとわれわれは断言しよう。それは速度の美である。爆風のような息を吐く蛇に似た太いパイプで飾られたボンネットのあるレーシングカー……散弾のうえを走っているように、うなりをあげる自動車は、〈サモトラケのニケ〉よりも美しい。

  (中略)

7.闘争のなかにしか、もはや美はない。攻撃的な性格をもたない作品に傑作はありえない。詩は、未知の力を人間の前に屈伏させるための、未知の力に対する荒々しい攻撃として把握されねばならない。

  (中略)

9.われわれは、世界の唯一の健康法である戦争、軍国主義、愛国主義、無政府主義者の破壊的な行動、命を犠牲にできる美しい理想、そして女性蔑視に栄光を与えたい。

(『未来派―1909-1944』 セゾン美術館ほか編、 東京新聞)


 こうして書き写しているだけで胸が悪くなるような、男尊女卑と排他主義と暴力に満ち満ちた内容です。正直、未来派の活動を美術として純粋に評価するのは難しい。
 彼らの時代に生まれた、新しい美を追究することから生まれた表現が非常にユニークであることは確かです。まさに戦争を含めてこの時代の感性を真空パックしている。未来の活動は、絵画のみならず、時や彫刻や音楽、演劇、ダンス、ときにはおもちゃまで、実に多岐にわたりました。見る人の感性を刺激し、沸き立つ力に火を付けるその可能性を、誰より信じていたのが未来派であるように思います。

著者も「書き写すだけで胸が悪くなる」と書いているが、本当にこんなことを平気で宣言した人たちがいたとは信じがたい。
仮に同じような思想傾向を持っていたとしても、現代なら、ポリティカル・コレクトネスの観点から、それを広言することは憚られるに違いない。この「未来派宣言」が公表されたとき、当時の人たち、メディアはどんな評価をしたのだろう。

本書には上にあげたように一部だけが掲載されていて、ちょっと気になったのでWikipediaを見ると、記事の外部リンクのところに、森鴎外訳木村荘八訳へのリンクがあった。
こうした有名人が訳出しているということは、当時それなりに日本でも注目もされたと思うのだが、どうだったのだろう。

テキスト量はあまり多くない本だったが、いろいろ考えさせてくれた。

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