「名画に見る「悪」の系譜」(その2)

81gZjCpiqdL_SL1500_.jpg 中野京子「名画に見る「悪」の系譜」の2回目。

本書は「悪」をテーマにしているわけだけれど、本書では「悪」とされるものを次のようにまとめている。
 堕落しやすく、悪に染まりやすい人間に正しき道を歩ませるべく、神はモーセを通じて十戒を授けた。曰く、「唯一神以外は崇めるな」「偶像を拝むな」「みだりに神の名を唱えるな」「安息日を守れ」「父母を敬え」「人を殺すな」「姦淫するな」「盗むな」「偽証するな」「他人の財産を欲しがるな」。
 つまりモーセの神ヤハウェが定義した悪は、「偽神信仰、ないし多神教」「偶像崇拝」「神頼み」「宗教的特別日の軽視」「親不孝」「殺人」「姦淫」「泥棒」「偽証」「妬み」ということになろうか。
 また「暴飲暴食」の回で触れたように、中世には罪の根源たるさまざまな欲望が糾弾された。「七つの大罪」がそれで、曰く、「傲慢」「強欲」「嫉妬」「憤怒」「色欲」「貪食」「怠惰」。
 これをもじったマハトマ・ガンジーによる「社会的七つの大罪」は、「理念なき政治」「労働なき富」「良心なき快楽」「人格なき学識」「道徳なき商業」「人間性なき科学」「献身なき信仰」。
 そして近年(二〇〇八年)、ヴァチカンが発表した「新・七つの大罪」はと言えば、「遺伝子改造」「人体実験」「環境汚染」「基本的人権の侵害」「人を貧乏に陥れる仕組み」「極度の富豪」「麻薬」。

スタートは動物虐待
ウィリアム・ホガース《残酷の四段階》
 
異形としてあらわれる悪
アンドレア・マンテーニャ《美徳の園から悪徳を追放するミネルヴァ》
フランス・フロリス《反逆天使の墜落》
 
生殺与奪
アレクサンドル・カバネル《死刑囚に毒を試すクレオパトラ》
ジャン=レオン・ジェローム《古代ローマの奴隷市場》
 
目的の正当性
ヤコポ・ティントレット《天の川の起源》
ジャン・ノクレ《ルイ14世家族の神話的肖像画》
 
エヴァ
グリーン《エヴァ、蛇、 そして死としてのアダム》
ジャン・クーザン《エヴァ・プリマ・パンドラ》
 
暴飲暴食
ヤーコプ・ヨルダーンス《豆の王様》
ジャン=フランソワ・ド・トロワ《牡蠣の昼食会》
 
裏切り者
ジャン=レオン・ジェローム《シーザーの死》
ジョット・ディ・ボンドーネ《ユダの接吻》
 
殺人教唆
ジョルジョ・ヴァザーリ《クロノスに去勢されるウラノス》
パオロ・ヴェロネーゼ《バテシバの水浴》
 
見得を切る
ルニョー《グラナダのムーア人王のもとでの裁判抜き処刑》
ジョン・メイラー・コリア《犯行後のクリュタイムネストラ》
 
虚荣
アントニオ・デ・ペレーダ《騎士の夢》
ティツィアーノ・ヴェチェッリオ《鏡の前の女》
 
スリ
ヒエロニムス・ボスの追随者《奇術師》
ジョルジュ・ド・ラ・トゥール《女占い師》
 
旅のリスク
ゴヤ《駅馬車襲撃》
ヴェロッキオ工房《トビアスと天使》
レミントン《森へのダッシュ》
 
ハニートラップ
レンブラント《目を潰されるサムソン》
イサーク・イスラエルス《マタ・ハリ》
 
悪徳政治家
ジョージ・グロス《社会の柱》
ウィリアム・ホガース《選挙》第四図
 
死への道連れ
ウジェーヌ・ドラクロワ《サルダナパールの死》
ピーテル・パウル・ルーベンス《マリー・ド・メディシスのマルセイユ上陸、1600年11月3日》
ジャン=フランソワ・ミレー《死神と樵》
 
悪夢
J・J・グランヴィル《第一の夢:罪と贖罪》
ルイ・ジャンモ 「魂の詩」 より《悪夢》
フェルディナント・ホドラー《夜》
 
貧困
バルトロメ・エステバン・ムリーリョ《ノミを取る少年》
ルーク・ファイルズ《家もなく食べものもなく》
ルーク・ファイルズ《救貧院臨時宿泊所の入所希望者たち》
 
悪を踏む
カラヴァッジョ《蛇を踏むマリアと幼子イエス》
グイド・レーニ《サタンを倒す大天使ミカエル》
ノイシュバンシュタイン城外壁のフレスコ画
 
あとがき
というわけだが、本書が紹介する作品は、もっぱら、ユダヤ教(旧約聖書)、キリスト教(新約聖書)が罪とするものを扱っている。
上の引用中、宗教由来でないものとして、ガンジーの「社会的七つの大罪」があるが、これはさすがに見事な着眼だと思う。これを直接題材としていなくとも、本書が紹介する作品には、その意をくみ取れるものもある。

一方、十戒には「人を殺すな」とあるのだけれど、戦争での人殺しは別らしい。
本書には人間世界の戦争を描いたものはない。戦争こそこの世の悪の第一ではないかと思えるのだけれど、本書がとりあげている作品で戦争に近いものは「正しい神」と「邪まな神」の戦い、昨日の記事でもとりあげた《美徳の園から悪徳を追放するミネルヴァ》あたりか。ただし一方的に善が悪を蹴散らす。



であるけれど西欧絵画にはたくさんの戦争を描いた作品がある。まだヨーロッパが未開のときでも、ペルシア戦争とか有名な絵がある。

もちろん人間の戦争では、神話のように一方を善として描けるはずもないのだが、キリスト教徒と異教徒の戦争なら、西欧の人たちからは讃美されたに違いない。本書の著者はそれは避けたのだろうか。

そんなことを考えていてふと思った。日本の伝統的な絵画には、悪を断罪するような作品ってあっただろうか。現代のわれわれが見て悪事が描かれていると思うものはあっても、描かれた当時、それを悪として断罪する意図があっただろうか。
浮世絵なんかにはお上を揶揄するような表現はあるけれど、悪と断罪しているわけではなさそうだ。

そうしてみると、西洋のキリスト教社会は、善悪二元論が幅を利かせているのかもしれない。
西洋の神は、人類に向かってどちらを選ぶか決めよと迫ってくると言われることがあるが、美術にもそういう背景があるのかもしれない。



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