「色彩がわかれば絵画がわかる」(その2)

81oDn9fZEcL_SL1500_.jpg 布施英利「色彩がわかれば絵画がわかる」の2回目。

2回目としたが、1回目は本書とはほぼ無関係な話ばかりになった。今回は、本書のテーマである、色が作品に与える効果、作家がどういう意図で配色したか、という部分に注目する。

色の効果で最初にあげられているのが補色。
補色については、小学校でも習う。混ぜたら灰色になる2つの色(絵具)の関係で、色相環の反対側にある色というように習った憶えがある。つまり赤に対しては青緑。

小学校の美術学習では、光の混合(加算混合)も習ったけれど、絵具を使って絵を描くことが主眼だから絵具を混ぜる減産混合の話にウェイトがあったと思うが、絵具を混ぜるのは吸収する波長を増やす操作で、理論的にはこちらのほうが難しいと思う。
それに、今時の子供たちはスマホやタブレットで色と遊ぶ。これは光の三原色を利用しているものだから、光のほうが身近かもしれない。


本書では、光の三原色の、たとえば赤と緑を混合した色(黄)は使われなかった青の補色になるという説明ではじまる。
 
序章
 
第1章 三つの色
1、色彩学の基本
(1)三原色
(2)混色―色を作る
(3)補色―反対の色
 
2、色の特性、いろいろ
(1)三属性―色相、明度、彩度
(2)面色―色の現れ方
(3)カッツの九分類
 
3、ゲーテの色彩学
(1)順応
(2)対比
(3)残像
 
《間奏1》「色と色」で色になる
 
第2章 四つの色
1、四原色説
(1)四色が作る世界
(2)ラファエロ『小椅子の聖母』の色彩
 
2、赤と青
(1)進出色と後退色
(2)ゴッホ『鳥のいる麦畑』の色彩
 
3、白と黒
(1)膨張色と収縮色
(2)京都・曼殊院の茶室の「黒い壁」
 
4、赤と黄と緑と青
(1)暖色と寒色
(2)北欧デザインの色彩
 
《間奏2》『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』の色彩
 
第3章 丸い色
1、調和
(1)ゲーテの調和論
(2)イッテンの色彩調和論
 
2、球体の宇宙
(1)地球
(2)眼球
 
終章
 
参考文献
あとがき
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実は、私は光の補色ということについて今まで考えたことがなかったのだが、この説明は眼からうろこだった。
光の補色というのは、あるページによると、ある色の光の補色とは、その色を除いた残りの光のことだという。つまり混ぜると白になるわけだ。
これは光のスペクトルからの説明だが、本書の説明では、三原色ですべての色がつくれ、そのなかで一つの色を使わなかった残りの2色を混ぜたものが補色というわけで、スペクトルでの説明を置き換えたものになっている。

また物理学のほうに関心が向いてしまったが、本書は補色の効果がテーマである。物理はしばし忘れよう。


補色がおもしろいのは、まぜると色味を失うけれど、並べると際立つこと。
つまり赤を強調したい場合は、緑を隣に置くということが多くの絵で行われている。
またそれによってチカチカした印象を与える場合もある。
これらの効果を使って画家は作品に色を与えているというわけだ。

色の効果として、本書は、進出色⇔後退色、膨張色⇔収縮色、暖色⇔寒色、をあげている。
いずれも良く知られた効果だと思うが、これらは物理学とは関係なさそうだ。
これらも画家が作品を描くときに利用している。

個人的に思うのは、ガスコンロなど、高温の炎は青いが、青は寒色であり、暖色の代表は温度の低い赤や橙である。こちらは暖炉や炭火の色で、これらが暖かい・熱いと感じることが先天的か後天的かはわからないが、脳に刻まれているのかもしれない。ガスコンロの青い炎などは人類の歴史上最近のことだから高温を示すと感じる感性はまだ脳にないのだろう。

次に重要な効果として、色彩遠近法がある。

レオナルド・ダ・ヴィンチの空気遠近法は本書ではとりあげられていない。

これは前述の進出色⇔後退色の効果を利用した遠近法である。
遠近法というと、消失点があって、それに向けて対象物が小さく描かれる線遠近法がすぐに思い浮かぶけれど、本書によると、

1、重なりの遠近法
2、陰影の遠近法
3、縮小の遠近法
4、色彩の遠近法

がある。線遠近法は3の縮小の遠近法であり、本書のテーマである色彩については4になる。
そして色彩の遠近法が使われている作例として、ゴッホの『鳥のいる麦畑』がとりあげられ、詳細に解説されている。
 ゴッホに『鳥のいる麦畑』(1890年)という絵があります。
 黄金色の麦畑が、嵐のような強い風に吹かれている、という絵です。空には黒い雲がたちこめ、鳥の群れが、不気味に飛び回り、その中に赤い道がまっすぐ伸びています。ゴッホはこの絵を描いた直後、ピストル自殺をしました。そのせいで、この絵には、死を前にした男の心の揺れが描かれているとも言われます。

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 小林秀雄は、美術館で『鳥のいる麦畑』の複製を見て、その「一種異様な画面」の前に、心奪われ、しゃがみ込んでしまったといいます。また美術史家の高階秀爾は、ゴッホの絵について『情念の色彩を求めて』という文章を書いています。ゴッホは「炎の人」という言い方をされることもあります。
 ゴッホの絵画は、そのような激情、情念といったふうに語られることが多いです。ここでは、ゴッホが晩年に描いたこの『鳥のいる麦畑』の色彩を見てみようと思いますが、しかし「情念の色彩」というような見方はとらず、単に四原色による「色彩の遠近法」という観点から見てみることにします。そういうゴッホの見方があってもいいと考えるからです。
 色彩の遠近法について、もう一度確認しておきましょう。赤と青があったとき、赤は進出色で、青は後退色です。ですから赤は手前に、青は奥にあるように見える効果があります。
 赤・黄・緑・青の四色でいえば、その順序で、手前から、後ろへと空間の奥行きを感じさせると言われます。
 さらに白と黒も「遠近法」という観点から見ますと、白は進出色として手前に飛び出して見え、黒は後退色として奥にひっこんでいるように見える効果があります。
 以上の「色彩の理論」を確認した上で、『鳥のいる麦畑』を見てみましょう。

 ゴッホは色彩の大理論家
 まずこの絵を、色彩ということから見て気がつくのは、色とりどりの多彩に見えますが、使われている色の数は意外に少ない、ということです。麦の黄色、道の赤(茶色)、道の草の緑、そして空の青。それぞれの色は、さらに彩度や明度の異なる二、三の色もありますが、基本的には、この四色です。それに加えれば、鳥や暗雲や、濃い影として使われている黒。
 つまりこの絵は、じつは四原色(!)だけで描かれた絵なのです。四色であるなら、もう「色彩の遠近法」として分析して見るのに、最適なサンプルではありませんか。そして驚くべきことに、この『鳥のいる麦畑』は、色の遠近法そのもののお手本のような仕方で、画面に色が配されているのです。
 まず、前景にある道です。これには赤(茶色)が使われています。進出色ですので、手前に飛び出して見えます。
 中景には、黄色と緑色があります。緑色の草は、黄色の麦よりも低く、地面にへばりついているようです。それが緑の効果によって、黄色よりも奥まったふうに見えています。奥へと伸びる赤い道がありますが、これは緑の効果によって、奥まって見えます。
 そして遠景にあるのは、嵐の予兆をはらんだ、青い空です。
 つまり『鳥のいる麦畑』は、前景が赤、中景が黄、中景奥が緑、そして遠景が青と、まさに色彩の遠近法の理論そのままに、色が使われているのです。ゴッホは、情念の画家、炎の画家と評され、激しい感情に酔って絵筆を執ったというイメージをもってしまいがちです。しかし、この四原色の遠近法の規則にぴったりと合った、色彩の理論の見本のような絵を見ていると、これは情念や魂で描いた絵ではなく、じつは覚めた頭で、知性と計算で描いた絵であると、気づきます。その頃の日常の振る舞いがどうであったかはともかく、絵筆を手にしたゴッホは、まちがいなく正気だったのです。
 さらに遠景の雲と空だけにおける遠近法の使い方を見てみましょう。この空だけでいうと、黒い雲がさらに奥まって、そして白い雲が手前にあります。しかし白い雲も、黒い雲も青みがかっていて、どれも青の色相の範囲内にあります。つまり、ここには青色の幅の中での明度による遠近法が使われています。白い雲は、白みがかった青によって手前に進出して見え、青黒い雲は奥に後退して見えます。
 そんな中、黒い烏は、麦畑の手前上空を飛んでいるようにも見えますが、それが黒色であるがゆえに、画面のいちばん奥深い世界の住人のようにも、この世の向こうから現れたようにも見え、それが不気味さを助長しています。
 色彩の遠近法だけではありません。赤い道の土と、緑の草という反対色の対比、空の青と麦の黄という反対色の対比。それは補色の効果を高めているともいえますが、ともかく三原色説、四原色説のどちらから見ても、三と四の、それ以上でも以下でもない色の効果を、きっちりと画面に塗り込めているのです。
 ゴッホは、生真面目な画学生のように、色彩の理論に、律儀すぎるほどに正しく従って、この絵の色を使っているのです。
 ゴッホの残した手紙には、色彩について言及した箇所も多くあります。その一文を引用してみましょう。
「二人の恋人たちの愛を二つの補色の結婚によって表現すること、その混合や、対立や、近接して置かれた色調の神秘的なふるえによって表現すること」
 こういう文章を目にすると、画家ゴッホというのは、まぎれもなく、色彩の大理論家であったと思わざるを得ません。たとえば『鳥のいる麦畑』は、色彩の遠近法によって、その空間に奥行きが与えられているのです。

絵描きというのは、見たまま、あるいは、心が動くままに描いて、それが人に感動を与えたら成功、というようなこともあるかと思っていたが、少なくとも炎の人ゴッホは、ちゃんと計算づくで描いたということらしい。

著者は、たまたまそういう絵になったと考える人を黙らせるように続ける。
 しかし、この絵に色の理屈をあてはめて、それがその通りになったのは、たまたまなのではないか、という疑念を持たれる方もいるかもしれません。何しろ、風景の中で、麦は黄色で、草は緑で、空が青なのは、自然の色彩がそうだからではないか。ゴッホは、それをそのまま描写したに過ぎないのではないか。道が赤っぽいのも、そこがそういう色みの土だったからではないか、と。この絵に遠近感があるのは、色ではなく、構図などによって、画面に奥行きが出ているに過ぎないのではないか、と。
 そう思われる方への反論は、簡単です。『鳥のいる麦畑』から色を消して、モノクロにして見ればいいのです。こうです。

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 どうですか?
 ゴッホの『鳥のいる麦畑』から色を消すと、なんとその瞬間、画面の遠近感も消えてしまうのです。かろうじて、画面中央の、奥へと伸びる道が、わずかにこの絵にある空間の奥行きを示すガイドになってはいます。しかし空と畑の前後関係も曖昧ですし、ともかくすべてが平板になってしまいます。この絵は、明らかに、色の遠近法によって、画面の空間が作られているのです。
 ゴッホは、色彩の理論家であった。そのようなゴッホ像は、情念の人とか、炎の人という人物像とは、ずいぶん違ったものに思えないでしょうか。
 そしてこのことによって、ゴッホという画家の偉大さが、その「正気の偉大さが、改めて見えてくるのではないでしょうか。
 しかし、もし一例では説得力が弱いということであれば、もう一枚を見てみるのもいいでしょう。カラーとモノクロの左の写真を比べてください。
 画面上の空が、奥にあるように見えるだけでなく、草の間を流れている小川の水が、水面が草よりも引っ込んだ奥にあることが、その「青」の効果でよくわかります。
 ゴッホは、青と緑と黄色と赤の色彩を使って、覚めた頭で冷静に、空間の奥行きを構成しているのです。こういう絵を描く男は、狂気ではなく、科学者のような理知的な頭脳をもっていると思わずにはいられません。そして、これがまぎれもなく、ゴッホという画家の、本当の姿であったのです。

そういわれても、それでも理詰めで描いたのではなく、描いてみてその効果に気づいたということもあるのではないかと、まだぐずぐず考えたりしているのだけど。

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