「消費者と日本経済の歴史」(その2)
本書の範囲ではないけれど、日本国民の消費生活を考えると、戦前は、国民の生活はおざなりにされ、「贅沢は敵だ」「欲しがりません勝つまでは」と言われ、消費そのものが肩身の狭い思いをさせられていた。
そして敗戦では、弱り切っていた消費財市場が崩壊し、どこで消費財を手に入れたら良いのかという状態に追い込まれる。生きるためには闇市を頼むしかないというようなありさまだった。
前稿で消費者の権利が米国からの輸入品と書いたが、戦前・戦後を考えると、「臣民」を「国民」(消費者)にするところから占領軍そして政府の目指すところだったようだ。
1. 生産性の向上は、究極において雇用を増大するものであるが、過渡的な過剰人員に対しては、国民経済的観点に立って能う限り配置転換その他により、失業を防止するよう官民協力して適切な措置を講ずるものとする。
2.生産性向上のための具体的な方式については、各企業の実情に即し、労使が協力しこれを研究し、協議するものとする。
3 生産性向上の諸成果は、経営者、労働者および消費者に、国民経済の実情に応じて公正に分配されるものとする。
まえがき | |
序 章 利益、権利、責任、そしてジェンダー | |
画期としての一九六〇年代/本書の観点 | |
第1章 消費者主権の実現に向けて | |
――一九六〇年代~七〇年代初頭 | |
1 高度経済成長と消費革命 | |
経済成長のメカニズム/戦後日本社会の編成原理/消費革命という用語/変化にともなう不安と問題 | |
2 消費者主権という理念 | |
経済同友会の修正資本主義論/生産性向上運動とは何か/東西冷戦下の消費者主権/「消費者は王様である」/家政学者の実感を超えて | |
3 日本消費者協会とかしこい消費者 | |
消費者団体の発足/日本消費者協会の商品テストと花森安治の眼差し/日本の消費者団体の特徴/かしこい消費者の育成/買物上手を教育で生み出す?/かしこい消費者の限界/権利なき主体化のゆくえ | |
4 ダイエー・松下戦争の構図 | |
価格決定権をめぐって?/中内功の安売り哲学/松下幸之助の水道哲学/バリュー主義の行く末 | |
第2章 オルタナティブの模索と生活者 | |
――一九七〇年代半ば~八〇年代半ば | |
1 石油危機後の日本経済と生活の質 | |
石油ショックから安定成長へ/消費水準の向上と中流意識の定着/社会的緊張に対する深い危機意識/高畠通敏の整理/食品公害のインパクト/消費者から生活者へ | |
2 生活クラブの消費材 | |
創始者・岩根邦雄/起点としての牛乳/消費材とは何か/班別予約共同購入という方法/生き方を変える/フェミニズムからの批判 | |
3 大地を守る会と有機農業運動 | |
学生運動経験者たちによる設立/大地を守るという共同性/有機農業運動の価値体系/産消提携の思想/互恵的贈与関係の隘路/日本有機農業研究会からの批判/株式会社という選択と事業内容/運動とビジネスのあいだ | |
4 堤清二のマージナル産業論 | |
セゾングループを築いた男/資本の論理と人間の論理/イメージ戦略と記号的消費/無印良品の歴史的前提/コンシューマリズムへの理解 | |
第3章 お客様の満足を求めて | |
――一九八〇年代後半~二〇〇〇年代 | |
1 長期経済停滞への転換と消費者利益 | |
平成バブルから長期経済停滞へ/格差社会の不安と生きづらさ/規制緩和と消費者利益/求められる自己責任/消費者団体の戸惑い/消費者基本法が意味すること | |
2 顧客満足の追求とそのジレンマ | |
CS元年以降─ヤマト運輸からユニクロまで/サービス経済化の難題/お客様と消費者の違い | |
3 セブン-イレブンにとってのお客様 | |
鈴木敏文の直感/日本型コンビニの革新性/POSシステムのデータ/お客様の立場の先鋭化 | |
4 お客様相談室の誕生 | |
ACAPの設立/消費者対応部門の設置とその課題/ACAPの組織と活動/消費者からお客様へ | |
終 章 顧客満足と日本経済 | |
――二〇一〇年代~ | |
1 現代史から見えたもの | |
消費者の時代/生活者の時代/お客様の時代 | |
2 新たな潮流―エシカル消費、応援消費、推し活 | |
カスハラなどの新たな問題/エシカル消費とSDGs/応援消費と推し活の隘路/顧客満足の社会的責任 | |
あとがき |
ところで、前稿で、消費者の利益、権利、責任に関する部分を転載したが、それに続けて重要な指摘が続いている。
たとえば、『朝日新聞』一九六五年三月三日付の「かしこい消費者」と題する社説には、「消費者の主導権は女性が握っている、女をねらえ」という言葉や、「お買物上手は、家庭の幸福」、「かしこい消費は、現代の美徳」といった言葉が、繰り返し「主婦」に向けられる状況を紹介したうえで、「気の弱い主婦などノイローゼにもなりかねない」ほどだと書かれている。
現在からすれば、性別や年齢を問わず人はみな誰もが消費者のはずで、消費者=主婦と捉える認識には明らかな違和感がある。しかし、性別役割分業規範が深く根を下ろした戦後日本社会にあって、女性は家事、育児、介護など広い意味でのケアの担い手とする認識が広がっていた。ある時期までは、消費活動の領域も家庭内のケアを担う主婦の役割に含まれるとして、消費者=主婦とする見方が当然のように成り立っていたのである。
したがって、利益、権利、責任の観点に加えて、ジェンダーの視点を踏まえながら史料を具体的に読み解くことが、次章からの課題となる。
私は夫婦共稼ぎ世帯に育ったのだが、性別役割分担的なものはそれでも強かったと思う。
それどころか、父は自分の収入はほとんど自分の小遣いにして趣味や交際(飲み会)につぎこんでいて、日々の生活は母の収入で賄っていたようである。
だからといって母が父に従属していたわけではなく、しっかり自立していたと思う。
家には百科事典やら図鑑やら、いろいろな科学関係の本、子供用の文学全集などがあったけれど、そういうものは母の収入から購入されていたらしい。
考えてみれば、私はオーディオとかホームシアターとかには金を使い、家人はもっぱらファッションに金を使っている。(私はファッションには全く関心がないから、私の服は家人が選ぶ。)
本書にはあちこち驚かされることが書かれているが、特に印象的なものを挙げておこう。
資本はほうっておくと、最大利潤を求めて消費者を忘れる欠点がある。また、いままでわが国の資本主義は、生産さえあげれば人間はしあわせになれるというきわめて素朴な考えに基づいていた。これを改めさせる社会的な対抗勢力が必要になってきたのだ。そういう点で、コンシューマリズムは歴史的必然性を持っている。価格引下げなどの経済運動であると同時に、社会運動、文明論的な運動だ。公害反対運動とか住民の権利擁護の戦いと根底は同じところにある。わが国の資本主義に体質転換を迫る最初の無視し得ないのろしなのだ。
同じ記事で、先に見た一九六〇年代的な流通革命への批判も展開される。スーパー(=「量販店」)がメーカーから価格決定権を奪おうとするのは「思い上り」で、価格を決めるのは「消費者」だとして、「消費者に自信を持って見せられる商品試験室のある量販店は、一社もなかったではないか」と語気を強めている。
この文章からは、ダイエー・松下戦争のことが想起されるのだが、量販店はメーカーの品質管理にタダ乗りして利益を上げているという読み方ができるように思う。
これで思い出すのは、ある量販店の社員が言っていたのだが、受け入れ側での検品を廃止して、購入元を信頼することにして、効率化を図ったという話だ。
たしかに効率化は図れるだろうが、もし不良品があった場合、量販店側がその責任を引き受けることになっていなければアンフェアになる。(実際にどうだったかは知らない)
最近、多くのメーカーで検査データの捏造などが発覚し、品質管理への信頼がゆらいでいる。かつては、日本製は品質が良いと信じられていたが、こうなると中国製とそうかわらないことになる。
実際、私はもはやそう考えている。中華タブレットだから安かろう、悪かろうと思っていた時期もあるが、今や日本製は高いけど性能・品質が良い、とは言えなくなっているのではないだろうか。最近買った電気製品(プロジェクター、エアコンなど)は中国製だ。
中国製品を躊躇する理由があるとしたら、フェアトレード(収奪的雇用ということでなく、工場廃棄物、地球温暖化なども)の問題かもしれない。
商品評価がネットでさまざま語られる時代、また異なる消費者像が見えている。
通販サイトでのレビューも信用できないものは数多い。
あきらかに別商品へのレビューも並んで表示されているケースもある。これなどサイト側で消してほしい。
ここには消費者の権利も消費者の責任も、どちらも存在しないようだ。