「色彩がわかれば絵画がわかる」

81oDn9fZEcL_SL1500_.jpg 布施英利「色彩がわかれば絵画がわかる」について。

絵画における色彩について知りたいと思って読んだ。
最初に、色についての物理学、生理学、心理学のことでも書いてあるのかと思ったが、そういう話はほぼない。
なので、基礎知識として、そのあたりをおさらいしておこう。

私には色について初歩的な知識しかないのだけれど、昔から、赤と緑の光を混ぜると黄色になるというが、虹の黄色の波長の光が生まれるわけではない。虹の黄色は波長によって屈折のしかたが変わるという物理学、赤と緑を感知する視細胞(錐体細胞)が励起されると黄色として感じるという生理学の知識程度はある。

私が見ている赤や黄色が、他人が見ている赤や黄色と同じなのかどうかはクオリアの問題になるそうだが、これについては措く。


自然界には色という尺度があるわけではない。いろんな波長の電磁波があり、波長の違いを人間が色として感じるというだけである。その波長に応じて錐体細胞(普通は3つ=L、M、S)が励起され、その信号を脳が色というものに変換するわけだ。


錐体細胞の感度(「FNの高校物理」から)
錐体細胞と色は厳密に対応するわけではない。虹の黄色の波長は565~590nmというが、この波長の電磁波が眼にはいったときだけ黄色を感じるのではなく、波長625~780nm(赤)、500~565nm(緑)の電磁波が眼に入ったときも黄色を感じる。(右図参照)
この「錯覚」があるおかげで、ディスプレイに黄色を表示できる。ディスプレイパネルは赤から紫までのすべての波長の光を連続的に出す必要はないわけだ。

本書ではこうした物理学、生理学の話は抜きに、三原色の話から説き起こされる。
これがまたおもしろい。たとえば、光の三原色(赤、青、緑)を特別な色とする必要はなく、3つの色を選べばいろんな色を合成できるという。

実際、三原色でなくても、3色あれば、すべての色を表現できるという数学理論もあるようだ。
やや似た状況として、3次元ベクトル空間は、直交基底でなくても、3つの独立なベクトルがあれば良いという話である。ただし、その3色の混合にはマイナスもないとうまくいかないように思う。また、光において、赤、緑、黄の3色を選んだ場合、黄は赤と緑で合成できる、つまり黄は従属していてる(3つが互いに独立でない)から、すべての色を表現することはできない理屈になるのではないだろうか。


 
序章
 
第1章 三つの色
1、色彩学の基本
(1)三原色
(2)混色―色を作る
(3)補色―反対の色
 
2、色の特性、いろいろ
(1)三属性―色相、明度、彩度
(2)面色―色の現れ方
(3)カッツの九分類
 
3、ゲーテの色彩学
(1)順応
(2)対比
(3)残像
 
《間奏1》「色と色」で色になる
 
第2章 四つの色
1、四原色説
(1)四色が作る世界
(2)ラファエロ『小椅子の聖母』の色彩
 
2、赤と青
(1)進出色と後退色
(2)ゴッホ『鳥のいる麦畑』の色彩
 
3、白と黒
(1)膨張色と収縮色
(2)京都・曼殊院の茶室の「黒い壁」
 
4、赤と黄と緑と青
(1)暖色と寒色
(2)北欧デザインの色彩
 
《間奏2》『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』の色彩
 
第3章 丸い色
1、調和
(1)ゲーテの調和論
(2)イッテンの色彩調和論
 
2、球体の宇宙
(1)地球
(2)眼球
 
終章
 
参考文献
あとがき
色空間の理論はおもしろいと思うけれど、これには深入りしないで、本書があげる色の性質というものに話をうつそう。
まず色の属性には、色相、明度、彩度があることは学校教育でもやるのだけれど、本書でもそうだが、本当のところ、というか絶対的な定義があるのか、ネットなどで見てもよくわからない。

色相は、色合いというわけだが、赤い、青い、…。これをいくつに分割して色相というのか、諸説ありそうだ。なお、小学校の美術(図画工作)では、<赤、橙、黄橙、黄、黄緑、緑、青緑、緑青、青、青紫、紫、赤紫>の12色の色相環というものを習ったが、どうやらその名前から推測できるように、この12が色相ということになるのだろうけれど、色相環のとりかたはかなり恣意的なような気がする。ちょうど虹の色を何色にわけるのかというように。

日本国では虹は七色というけれど、文化によって、2色から8色まである。


明度は、明るさというが、これでは同語反復だろう。それでも3属性のなかでは一番わかりやすい概念だろう。白黒写真をとったとき区別できないものは明度が同じと考えてそう違わないのでは。客観的には光のエネルギー(みたいなもの)で定義したらよいと思うが、そういう説明は見たことがない。それに物理的なエネルギーと、それを明るさとして感じることは必ずしも同じではないようにも思う。

彩度は、あざやかさと説明されるのだが、これが一番わかりにくい。あざやかとは何だ? というわけ。純色が一番あざやかというのだけれど、そうすると純色って何? である。12色の色相環にあるのが純色だと決めたら簡単かもしれないが、それで良いのだろうか。
Wikipediaで純色を調べると「純粋に色みだけでできた色」というわけのわからない説明になっている。しかし、そこにある「純色全体の一例」であげられている色バンドはまさに虹のそれと同様に見える。
(だからひょっとしたら同じ定義をしている人もいるかもしれない。)

音の場合、純音とは一つの正弦波だけで表される音で、他の周波数成分を含まないもの、と明確な定義がある。
純色に同様の定義をすると単一波長の電磁波であるレーザー光となると思うが、あまり身近ではないし、それに限ると絵具の色などはどれも純色じゃないことになって、色彩商売には都合が悪かろう。
それなら虹に現れる色を純色と定義したら良いのではないかと思う。なぜなら虹の色は波長の違いで屈折率が異なり、その結果見えるものだから、虹の特定の場所は一つの波長の光だろう。
虹の色をいくつに分節するかと言う問題はあるだろうが、こう考えたらかなりすっきりすると思うのだがどうだろう。

というわけで色の属性というのはどうむすっきりしない。
その背後に、赤と緑を混ぜると黄になるという、脳の色覚というものがあるのも原因かもしれない。物理学や錐体細胞レベルでの色感知では色を十分説明できない、そういうことかもしれない。

結局、色の属性とは、色を説明する言葉遣いにすぎないのかもしれない。

色のプロのみなさんはどんな感覚なんだろうか。


以上、色の物理学的側面にばかり思いが板って、本書の内容とはおよそ無関係なことばかり書いた。
本書では、色が作品にどんな効果を与えるか、言い換えれば、作家はどういうねらいで色を与えるのかがテーマとなっている。
それについては稿をあらためることにする。

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