グッバイ、ママ(母の日に想う事)。
母の日を迎える度に思い出す、非常に珍しく貴重な写真である。赤ん坊の頃に撮られた写真は、この一枚ともう一枚は叔母に抱かれている写真でまだ歩けない頃のもの。不思議な事に父や母と一緒に写っている写真は一枚もない。
父と母が結婚したのは昭和29年、最初に住んだのは静岡市八番町。祖母の姉や妹が住んでいた2階に部屋を借り、そこで新婚生活が始まった。祖母の姉は日本舞踊の師匠をやっており、私の幼い記憶の中では、派手な着物と厚化粧で覆われた顔が今でもはっきり残っている。
妹は商売をやっていた関係で従業員が大勢いた。暫く八番町で暮らした後、藤枝の本家に移ったが、父は結婚する前も後も仕事に就くことはなく、町の不良グループと毎日飲み歩いていた。家計を支えるのは母の仕事。昼は紡績工場で働き、夜はバーのホステスをしていた。
かなりの美人で評判も高く人気者であった。仕事に忙しい母は育児を実家に頼んでいたようだ。朝は早く夜は帰りが遅い。そんな生活の中で息子を抱く暇もなかったのだろうか?父も家に帰って来るのは金が尽きた時だけ。父と母は顔を合わせる度に喧嘩を繰り返していた。そして3年が経ち、母はいつものように階段を降りて行った。
私の記憶に残る母の姿がその時の背中である。3歳だった私は歌が好きで当時流行していた石原裕次郎の『俺は待ってるぜ』を毎日母の背中に向かって歌い、仕事に送りだしていた。その日以来、母は戻って来なかった。そしてその数年後、薬を飲んで自殺した。
母親の愛情を全く知らない私は父親が育児放棄に走ってしまったため、親戚や隣近所、父の友人たちの手によって育てられた。母のいない不憫な子どもという目でみられていたせいか、周りの大人たちは私を甘やかせて育ててしまったため、随分わがままな子どもになってしまったようである。
大人になった今でもそれを引きずっているため、周りの人たちに迷惑ばかりかけている。どうしようもない男なのである。三輪車と一緒に写っているこの叔母が私を一番可愛がってくれていた。しかし今は行方不明、目を背けたくなるような人生を送っている。
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