アンタのような奴に会うのはこれが初めてじゃない。たぶん最後でもない!
これは歳をとっても夢を忘れられない“少年”が――“少女”も――たいてい感じる気持ちだ。
彼らは幼いころから様々なヒーローや怪獣などに夢中になり、憧れて、時に友達とゴッコ遊びに興じたものだ。そんな夢の日々を送ったのだ。だが時は流れ、子供は成長する。そして“卒業”する時が来る。だがどうしても離れられず、しがみついてしまう“子供”もいたんだ。そんな子供に対して大人は――時に友達のはずの子供までもが――「いい加減 卒業しろ」と圧力をかけてくる。
だがどうしても捨てられない。忘れられない奴はいた。
そんな“子供”はどうしても現れてしまうのだ。
そして彼らはより苛烈な圧力を受けることになる。何度も、何度も、繰り返し、しつこく、果てしなく。
ああ、またか。また奴らか。俺を苦しめる奴ら。いい加減 放っといてくれよと言いたくなる。
しかしそれは許されなかったんだ。重ねられる年齢は自覚を促す。そして俺は妥協した。夢を見なくなり、現実へと埋没したんだ。ただし外面だけだったけど。
それでもこれは妥協であり、夢見る日々への別れを意味していた。
「コンクリート・レボルティオ」は夢を忘れられなかった少年少女たちが、かつての思い出を、しかし現在の情熱として描き出したものではないだろうか?
幼稚に捉えられるヒーローや怪獣などの幻想を見るのが何故悪いのか。別にいいだろう、と言っているような気がする。
このアニメは夢想を捨てられずに成長したてしまった者たちが、表現者の立場となって新たに紡ぎ出した夢のリフレインだ。
だが単なる繰り返し、郷愁に留まらず、“現実”を見据えたリアリティを描き出している。正義の欺瞞性や相対性などがこれでもかと主張され、信念が揺らいでいくさまを描き、だがそれでも夢は捨てず「俺は超人だ!」と叫んでみせる姿だ。
観ていて爽快になり、激しい物語だったが心が穏やかになったんだ
例え幻想だろうと、思考を持ち、感性を働かせる意識ある存在には大いなる豊穣となるのだと思う。
荒唐無稽な絵物語は人間の人生に必要なのだよ。少なくとも俺みたいな奴には。
コンクリート・レボルティオを観終わって、特に里見と爾郎の対決の件を見て、強く思った。夢や幻想を棄てなくてもいいんじゃないか。ヒーローや怪獣たちに憧れ続けたっていいじゃないか。学校や会社などの現実だけでは疲れてしまうんだよ。
俺は夢見続けたい。いつまでも、死ぬまで、死んで後でさえ……
うーむ、終わってしまったんだな。何だか寂しい……
こんな風に思わせるのは、それだけ好きになっていたんだという証拠だ。
ここは切なかったなぁ。久々に涙腺が……
ジャガーさんは消滅していないな。未来へ強制送還ってトコか。それでまた戻ってきているな。
カムぺの問いに応えない風郎太。短いシーンだったが、奥深いものがあった。
テーマ : 2016年新作アニメ ジャンル : アニメ・コミック