自分の考えが正しいとか正しくないとか、人それぞれだとか多くの人に当てはまるとか、もうたくさん。
仕事をして買い物をして、携帯を見てSNSでいろいろな情報を得て、動画を見て、漫画やちょっとした記事を読んで、間違ったインプットをしまくってるから頭の中がごちゃごちゃでうまく整理することも、考えを練り上げることもできない。
それでも今までの経験なんかをもとに捻り出した考えをなんとか言葉にしたりするんだけど、相手にうまく受け入れられないと必要以上に落ち込んでしまう。拒絶や否定をうまく受け止められない。
それでますます自分の考えと言うものに自信が持てなくなっていく。
さらにはうまく考えを伝えられなかったり受け入れられないことから人と関わるのがしんどいと言う気持ちに変化して、それが肥大化していってどんどん自分がおかしな方向に行ってる気がする。
コロナ禍で学生はいろんな行事が中止になったり、今までのような人間関係の築き方ができなくてかわいそうだなんて思っていたけれど、意外と自分もこの数年で心身共にめちゃくちゃになっていたことに今更気づいた。
無意識に人と比べて考えるから自分の身に本当は何が起きているかを認識するのも遅い。
なんなら自分だけじゃなくて他人の身に何が起きているかも、きちんと認識できていないのだと思う。だから優しくなれない。
わたしは自分のことをちっとも信じられないのに自己憐憫だけは無駄にしてしまうので、誰かを思いやる余裕がないのだ。
多少思いやれたとしても、勇気がなく余裕もないから実行できないこともしばしば。そしてまたそんな自分が嫌になったりする。
ここ数年でいわゆる10代後半〜20代半ばくらいまでに感じていたようなつらさは感じなくなったけど、人と会う機会が減って(それが気楽だと思っていたけれど)自分自身と会話する時間が増えすぎたが故にとんでもない人間になりつつある気がして、おそろしいし、この先もずっとこんな考えを抱えて生きる(またはもっととんでもないことになる)のかと思うとつらい。
結局他人との関わりはつらくてもしんどくても、続けなければまともでいられなかったんだ。
世の中にたへて桜のなかりせば春の心はのどけからまし
凄い歌 桜をみて詠んだらしい。
「この世に桜が無ければ、春はもっと穏やかに過ごせるのになぁ〜」っていう歌
普通に読めば「桜無い方がいいんか?」ってなるけど、人間は桜が咲いた、散ったを気にせずにはいられないほど桜の魅力が強大であることを詠んでいるとのこと。
凄すぎる。
桜の魅力を詠む時に、「桜が無ければ、春は見所がない」のように「桜が無ければ(悪い結果、嘆き)」に繋げるのは皆ができる発想。凡百。
そこを「春の心はのどけからまし」て。
春の心は穏やかだろうな〜って。穏やかな方がいいやん。
じゃあ桜があったらなんで忙しないの?って。
桜があまりに美しいから目を離せなくて、どうしても気になっちゃうからって。
物を褒め称える時にこの表現は凄すぎる。
サンデーには高橋留美子・あだち充というメディアミックスの権化がおり青山も追随したわけだが、
もう全員コロナにかかっちゃったから油断してるんだろ…https://www3.nhk.or.jp/news/html/20201228/k10012788761000.html