ラテンアメリカ文学の最初の一冊から最狂の一冊まで

ラテンアメリカ文学と聞いて、身構える必要はない。

「マジックリアリズムが難しそう」「『百年の孤独』で挫折した」という声を聞くが、難しいと感じてしまうには理由がある。読み方が、少し違う。

私たちは普段、以下のように小説を読んでいる。

  • 誰が語っているのかが明白だ
  • 出来事には原因と結果がある
  • ラストには何かしらの意味が回収される

もちろん例外はあるけれど、王道があってこその逸脱として存在している。こうした暗黙の約束があるので、理解できた、納得できたという感触が残る。安心して読めるのだ。

だが、ラテンアメリカ文学作品は、現実と虚構、過去と現在、語り手と聞き手の境界が、はっきりと区切られない場合が出てくる。話者が入れ替わったり、いつの話なのか、夢か現か分からなくなったりする。

「結局のところ、何がどうなったのか?」という意味を目指すと、手ごたえが無くなり、フラストレーションが溜まる。いわゆる「あらすじ」に回収されない読書になる。「よく分からないけれど、確かに何かに触れた」という感覚だ。

ラテンアメリカ文学の巨匠・ボルヘスは言った。

詩や小説では、意味はさほど重要ではない。重要なのは、ある順番やリズムで語られた言葉が、読者の心の中に何を生み出すかだ。
――ホルヘ・ルイス・ボルヘス

だから、物語を理解するというより、体験するかのように触れあえばいい。世界の見えかたが少し変わる、そういう変化を楽しめる人にとっては、これほど豊かな読書体験はなかなか得られないだろう。

とはいえ、いきなり突入するのはお薦めできない。

名作とか代表作と言われている作品ほど、初心者にとっては過酷だったりするから。これは、読解力の問題というよりも、慣れ・ガイド・経験の有無だったりする。だから、『ラテンアメリカ文学ガイドブック』を推す。

N/A

ラテンアメリカ文学の代表的な作家100人を紹介し、読むべき作品も合わせて解説している。

かなり辛口なのだが、これは悪書を踏んで読者の時間を無駄にしないための優しさだと考える。つまり「何を読むべきか」と共に、「何を読まなくてもいいか」を判断するための材料も盛り込まれている。話題作だからといって褒めることもないし、逆に、時流に乗ったという事象ごとバッサリ切り捨てる口調もいい。

私の場合、自分の嗅覚だけを信じてきたけど、運よく当たりを読んできたことが、このガイドのおかげで分かった。

最初の一冊はアンソロジー

手触りを楽しむには、短篇集がお薦め。しかもアンソロジーだと、いろんな作家がお試しできるのでお得だ。

N/A

異常な物語が、淡々と描かれたり、スーパーナチュラルな展開なのに、描かれるのは男女の三角関係のドロドロだったり、何の説明も無く(しかし確信をもって)酷い最期に至る話が続々とある。出来事の異常さそのものよりも、異常の何気なさのほうに不気味になる。

この、「何気ない異常」の感覚こそ、マジック・リアリズムの本質だ。よく読むと明らかにおかしい。だが、登場人物や作者はおかしいと感じていないように描かれるのだ。

よくある「日常と非日常の境界が曖昧になる」というよりも、むしろ、もともと境界はないのだ。だから、小説に落とし込むときに生ずる、「異様の扱いが異常とされていない」ズレが、眩暈を引き起こす。

オクタビオ・パス、カルロス・フエンテス、バルガス=リョサ、ガルシア=マルケス、ビオイ=カサーレス―――ラテンアメリカ文学の沼で出会える大御所たちが、どういうお話を書く人なのか、どんな肌触りなのかを確かめることができる。岩波の短篇集はハズレなしというジンクスを再確認する、全部あたりのアンソロジー。

人工的な眩暈を楽しむ一冊。

お手軽に現実を見失えるコルタサル

次はぜひ、これを。

N/A

コルタサルが示す入口は、とてもありふれている。友達のアパートに滞在したり、カメラを携えて散歩にでかけたり、旅行帰りに渋滞にまきこまれたりする。そんな日常の出来事を追っていくうちに、紙の裏側、脳の外側にたどりつく。

目を凝らしても境界線なんて見つからない。知らないうちにわたしの常識が通用しない場所に立っている。登場人物だけでなく、読み手ごと、世界ごと"もっていかれる"感覚に酔う・揺らぐ。「夜、あおむけにされて」は眩暈と吐き気を味わう。「南部高速道路」なんてご丁寧にも、"もっていかれた"あと、"もどされる"感覚で、まっすぐ立ってるのが難しいくらい。

さもなくば、最初から「あちら」と「こちら」が交ざっている作品もある。区別不可能な「混ざっている」ではなく、見分けのつく「入り交じり」だ。注意深く進めていくうち、「あちら」と「こちら」がついに混じりあうところに達すると、分別することの無意味さに気づく。「すべての火は火」を読了後、逆まわしに読むならば、より合わさった縄が解けるような気分になるだろう。

これは、構成と文章の超絶技巧もさることながら、著者の現実認識に因っているのではないか。伝える都合上、「あちら」とか「なにか」といった、現実とは別物のような物言いをしてきたが、そうした幻想的といわれる非日常は、もともと現実とつながっていると考えているから、こんな奇妙な感覚をもたらす小説になったのではないか。

つまり、現実が変化して非現実になるのではなく、メビウスの輪に表裏がないように、現実/非現実は地続きなのだ。

"現実への揺さぶり"が、クセになりそうになる。

エッシャー的無限に誘いこむボルヘス

度数の高い幻想ならこれ。

N/A

読むドラッグ。幾重にも読みほどいても、さらに別のキリトリ線や裂け目が現れ、まるで違った「読み」を誘う。シメントリカルな伏線の配置や、果てしなく反復される象徴されるものを、「罠だ、これは作者のワナなんだ」とどんなに用心しても酔える。

それでも囚われる。

語りはしっかりしてて、描写は確かだから、思わず話に引き込まれ、知らずに幻想の"あっち側"に取り込まれる。どこで一線を越えたのか分からないようになっているのではなく、「一線」が複数あるのだ!そして、どこで一線を越えたかによって、ぜんぜん違ったストーリーになってしまう。語り手の夢なのか、語られ人の夢なのか、はたまたそいつを読んでいる”私"の幻なのか、眩暈を見まいと抗うのだが、目を逸らすことができない。「「「胡蝶の夢」の夢」の夢」の夢……

ボルヘスは「作家のための作家」だ。

例えば、あらゆる本のあらゆる組み合わせが揃っている「バベルの図書館」は、まんまエッシャーの不思議絵をカフカ的に読ませる。「カフカ的」と表したのは、明らかな歪みや矛盾をアタリマエとして淡々精緻に記されている点がそうだから。作品でいうなら「城」だ、あの「城」に図書館があるのなら―――いや、もちろん"ある"に違いない―――まさに本作で描かれたまんまの無限回廊になっているはず。

あるいは、「隠れた奇跡」。まさに銃殺刑に処されようとする男に奇跡が訪れる話なのだが、似たプロットを手塚治虫の短編「処刑は3時におわった」で読んでいる。ぜんぜん違う話、かつ、どちらも傑作、そして読後やるせなさを感じるはず。

さらに、架空の世界を、「それが存在した」という要約や注釈で差し出している「トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス」もスゴい。最初は、このプロットの白眉であるレム『完全な真空』『虚数』 を思い出す。

だが、現実を侵食するようになり、ついには飲み込んでしまう様子は、ラヴクラフトをまざまざと呼び起こす。ラヴクラフトでは街や家に限定された「リアル」が、世界ぜんたいに拡張されている感覚になる。靴下が裏返されるように現実がでんぐりかえる恐怖を味わうがいい。

読むことで完成する「完璧な小説」

そんなボルヘスが「完璧な小説」と評しているのがこれ。

N/A

これは、読者が読み進める行為によって、初めて完成するという小説だ。

絶海の孤島に辿り着いた《私》は、無人島のはずのこの島で、毎晩パーティを開く奇妙な男女の一団に出会う。そこにいたある女に魅かれるが、彼女は《私》に不思議な無関心を示す。やがて《私》はグループのリーダー、モレルの発明した機械の秘密にたどり着くのだが……という話

どうやら、パーティに集う人々に、《私》の姿は見えていないようだ。まるで《私》が幽霊であるかのように、彼らは気づかない。これは罠なのか、油断していて捕えるつもりなのか、そう疑う語り手。

最初の謎は、早い段階でピンとくるが、問題はその後だ。秘密に気づいた《私》がとった行動が、非常に示唆的だ。それは、「わたし(《私》、読者)は、リアルに意識を這わせて生きている」欺瞞を暴く。わたしが現実だと思っている表象へのリアクションこそが、「わたしが生きる」ことを気づかせる。

「パーティを続ける人々と、それを見つめる《私》との関係」は、「《私》と、それを読み読者(=私)」と相対関係にある。つまり、以下の等式が成り立つ。

      パーティに集う人々 : 《私》 = 《私》 : 読み手

この関係から、私が抱いている他者性に一撃を食わせる。《私》が見るのをやめれば、パーティの人たちは不在となるし、読み手である私が読むのをやめれば、《私》は不在となる。これは、他者を他者たらしめているのは、ほかならぬ自分自身であるという事実を突きつけてくる。

読むという行為を通じて、私が私であることが、何によって支えられているのかを改めて気づかせてくれる。オクタビオ・パスが「美しい水死人」の解説で書いたこの一文が示唆的だ。

肉体というものは想像上のものでしかなく、われわれはその幻影の圧政下に生きているのである。そうした中で、愛は特権的な認識であり、愛を通してわれわれは世界の現実だけでなく、自分自身の現実をも全体的、かつ明晰に把握することができるのである。つまるところわれわれは影を追い求めているにすぎないのだが、そのわれわれ自身もまたじつは影でしかないのである。

影でしかない存在が現実と関わっても、残すものは幻でしかない。それでも、関わろうとする情熱を支えているのは愛なのだ。表紙の女と、裏表紙の《私》の奇妙な関係が分かるとき、あっと驚くかもしれない(そしてきっと、二度じっと見るはずだ、表紙と裏表紙を)。

だが、それでも関わろうとする《私》は、たしかに現実を認識しているのだ―――私という読者が見ている存在とは独立に。

何回読んでも面白い『百年の孤独』

人生で3回読んだけど、3回とも違う意味で面白い。

N/A

ストーリーも展開もオチも分かっているのに、なぜ楽しめるのか?

まともな人間が(ほぼ)誰もいないブエンディア一族の奇妙な生きざまや、日常的に非日常が描かれるマジックリアリズムの磁力、あるいは、奇妙で悲惨でユーモラスなエピソードが隙間なく詰め込まれているストーリーは、読むほどにスルメのように味が出る。

しかし、そうしたストーリーやキャラだけでなく、『百年の孤独』の文体や構造そのものに、面白さが練り込まれているのかもしれぬ。

例えば、中毒性のある文章について。『百年の孤独』の書き出しが顕著なり。

長い歳月が流れて銃殺隊の前に立つはめになったとき、恐らくアウレリャノ・ブエンディア大佐は、父親のお供をして初めて氷というものを見た、あの遠い日の午後を思い出したに違いない。

もう一度言うが、これは書き出しだ。「銃殺隊」も「ブエンディア大佐」も「あの遠い日の午後」も、一切説明抜きで、この文章から始まっている。

疑問が次々と湧き上がるが、説明は一切無い。

そもそも、この文はおかしい。「長い年月が流れて」なら、未来の話だろうし、「あの遠い日の午後を思い出した」のは過去の話になる。では、これをしゃべる語り手はいつの場所にいるのか?あるいはこれを聞いている(読んでいる)私は、どこにいるのか?

もちろん、すべての物語が終わった後、神の目線から、過去のお話を聞いているのだという解釈は成り立つ。事実、ほとんどの文章は過去形なので、昔話の民話だと見なすことは可能だ。

だが、語り手自身が分かっていないことをしゃべっているようにも見える箇所がある。まだ起きていない未来の出来事だからと留保付きで述べるのだ。「思い出したに違いない」なんてまさにそうで、違和感がついてまわる(普通なら「思い出した」に留めるはずだ。なぜなら、すべてが終わった過去を振り返っているのだから)。

物語は進んでゆくうちに、「あの遠い日の午後」も語られるし、アウレリャノ・ブエンディアが「大佐」になるエピソードも紡がれるし、銃殺隊の前に立つシーンも出てくる。しかし、彼が夏の日の午後を思い出したかどうかは、そのシーン、つまり銃殺隊の前に立つ場面にならない限り、語り手自身も分かっていないのではないか―――そういう予感がついてまわる。

そんな文章が要所要所に練り込まれている。こうした違和感を掻き立て、目を留める引っ掛かりが設けられている。

これを一種のフラグ、伏線の変異体と見なしてもよいが、引っ掛かる度に、聞いている(読んでいる)この瞬間が、いつなのかを見失う。。

読み進めていくうちに、違和感の正体は、「銃殺隊の前に立つ」時と、「初めて氷というものを見た」時間、そして「思い出したに違いない」と語るときが、同じ瞬間に集約されているのではないかという疑いに変化する。そして読み終わるとき、この違和感は、『百年の孤独』そのものを貫く巨大な伏線だったことが明らかになる。

既視感と未視感が混ざったような、軽い吐き気を覚える。『百年の孤独』で感じる中毒性の正体の一つがこれ。

自分を酔わせているのがどこかが分かってても、眩暈が止まらない。マジックリアリズムの種が明かされても楽しめる、一生モノの一冊。

ラテアメ文学で最狂&最凶の悪夢

ラテアメ文学で、私のイチオシはこれ。

N/A

「おれ」の一人称で語られている他人の悪夢を覗いているうち、私自身がそこに居る。

夢だから、断片的で支離滅裂で、因果も時系列もデタラメだ。なのに、そこで起きた感覚だけは、べっとり肌身に粘りつく。

忌まわしい、ふりほどきたい、逃れたいのに、なぜか顔を近づけて嗅ぎたくなる。歯をむき出しにして齧りたくなる。語りかける口調に、思わず耳を傾ける。知りたくない(最悪の)展開を、目を凝らして待ち構える。嫌悪感と接近衝動の両方に衝き動かされるように読む。

そういう、中毒のような効果をもたらすのがこれ。読んだことを後悔するような劇薬小説だ。

語り手であるウンベルトの妄想という可能性は残しつつ、語られている対象はクリアに伝わる。物語られるモノは、極めて明瞭に描写される。

例えば、畸形のわが子<ボーイ>のために、世界中から畸形ばかりを集めて、畸形の楽園を作るエピソードがある。捻くれた背中や非対称な顔面、欠損した器官はむしろ「美」であり、私たちが普通だと感じる手足や姿かたちは、むしろ「醜」とされる。

あるいは、修道院で老婆に囲まれ、ウンベルトはインブンチェとなる。インブンチェとは、”縫い塞がれた”存在だ。目、口、尻、陰部、鼻、耳、手、足、すべてが縫いふさがれ、縫いくくられた妖怪だ。

ウンベルトは少しずつ切り取られ、老婆たちが吸収する。生きていくために必要な器官は、老婆たちのものと取り替えられ、元の身体は20%しか残っていない。

老婆たちはおしめを替えたり、服を着せたり、面倒は見てやるのだが、大きくなっても、何も教えない。話すことも、歩くことも。そうすれば、いつまでも手を借りなければならなくなるから。

成長しても、決して部屋から出さない。いることさえ、世間に気づかせないまま、その手になり足になって、いつまでも世話をする。このおぞましさは、江戸川乱歩『芋虫』や早見純の劇薬マンガ『ラブレターフロム彼方』を思い出す。

畸形や欠損が「前提」として扱われ、自然に語られる。そこには、忌避感も痛みも伴わない語りだけが続けられる。どんなに異様な内容でも、普通に起きるのが夢だ。だからこれを夢だとしてもいい(でも誰の?私の?)。

極彩色の悪夢を強制的に見させられているうちに、私は、語りの対象がオーバーラップしていくことに気づく。最初にウンベルトがいた「修道院」と、<ボーイ>がいた隔離「屋敷」が、同じ場所に重なっていく。ウンベルトがボーイとなることを暗示しているが、時系列的におかしい。窃視しているはずの「おれ」が実は「ボーイ」に見られてたり、経験していないはずの記憶を「おれ」が持っていたりする。

私は、安全な場所からの読者ではなかったのだ。

強者と弱者が入れ替わり、支配する者とされる者が転倒する。奪う/奪われる、見る/見られるといった立場の倒錯と、屋敷と修道院のそれぞれのキャラが相似形となっていることに気づき、融合し、闇の奥に閉じられる。語り手が完全に縫い括られる感覚と共に、物語は終わる。

狂気が正気の世界に呑み込まれる感覚は、こんなものなのだろう。あるいは、私が死ぬとき、現実に起きたことと頭の中で想像したことが、一度に一挙に超早送りされるなら、こんな光景なのだろう。

『夜のみだらな鳥』は、安易な理解を拒絶するが、読み返すほど愉しい。

それは、理解できなかったからではなく、むしろ逆で、「理解したと思った感覚」が、読み返す度に裏切られるからだ。分かった瞬間が罠で、ページをめくると、足元が崩れ去る。物語は崩れない。私の読みが崩れるのだ。

誰が語り、誰を見ているのか(見られているのか)、どこまでが記憶で、どこからが妄想か。判断基準が、普通の読み方では太刀打ちできず、毎回書き換えられていく。初読で「読んでる間ずっとカオス」「理解不能な混沌」と判断するのは簡単だ。だが、ひとたびこの悪夢に魅入られたなら、逃れるのは難しい。

つまり、再読は答え合わせではなく、別の悪夢を見るためのトリガーなのだ。読むたびに、読んでいる私の輪郭が、少しずつ奪われていく。信頼できないのは語り手ではなく、私自身なのだ。物語に理性を混濁させられる感覚は、一種の自傷行為なのかも。この悪夢に耐えられるか、正気でいられるかを、ぎりぎりで味わう。

その感覚が、たまらなく愉しい。

ラテアメ文学の美味しいところを紹介してきたが、ほんの一部にすぎぬ。『ラテンアメリカ文学ガイドブック』を観る限り、私自身、豊穣な果実を一口しか味わっていないことがよく分かる。

以下は自分メモ。読む前から面白いと断言できる傑作はこちら。楽しみすぎる。

  • アルテミオ・クルスの死(フエンテス)
  • 燃える平原(ルルフォ)
  • 夜明け前のセレスティーノ(アレナス)
  • ラ・カテドラルでの対話(リョサ)
  • 蜘蛛女のキス(プイグ)
  • 圧力とダイヤモンド(ピニェーラ)

ラテンアメリカ文学の魅力は、現実を壊すことではなく、現実のほうが最初から少しおかしかったと気づかせるところにある。

欧米文学(とその影響を受けた日本文学)では、現実との距離は「幻想文学」というジャンルで「安全に」守られている。そこでは、幻想と現実は対立したり包含する概念であり、文体や物語構造、あるいはジャンルといった明示的な印(しるし)により区別されている。だから、読み手は、安心して自分が狂っていない前提で読むことができる。

しかし、ラテアメ文学では、全てがあくまで現実に基づいたものになる。一見「現実ばなれ」した描写でも、書き手は何らかの現実に依っている。幻想と現実を分け隔てする印は無く、両者は最初から混交し、安心して読める「お約束」は消え失せている。

そして、読み終えた後、世界が変わるのではなく、私の世界への見方だということが、遅効性で分かる。そういうメタ的な悦びを喜ぶ愉しみが、ラテンアメリカ文学だ。論理性とか因果は、現実を理解するためにあるのではなく、私が狂わないための縁(よすが)の一つに過ぎないことが腑に落ちる。

ラテンアメリカ文学の沼にようこそ。



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誰もいない空間が、なぜこんなに怖くて惹かれるのか『リミナルスペース 新しい恐怖の美学』

この場所に見覚えがあるだろうか?

HobbyTown USA Oshkosh interior under construction 2002 (The Backrooms).jpgBy Bill Magritz, CC0, Link

「あの部屋」とか「黄色い空間」と呼ばれ、ネットで有名なのだが、実際には「どこでもない場所」になる。友達と映画を撮影していたら、突然、見知らぬ場所に迷い込む。

不気味な迷路空間を彷徨ううちに、異形の存在に見つかり、逃げ惑う。(よせばいいのに)振り返って撮ろうとしたり、(やってはいけない)暗がりに隠れたりする―――その結果、残された映像が発見されたという体(てい)のyoutube作品だ。Found Footage形式とも呼ばれ、『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』風のホラーになる。

The Backrooms (Found Footage)


現実の裏側に、無限に続く無人の空間がある。ひとたび迷い込んだら、理由も目的も分からないまま彷徨う―――こうした空間をリミナルスペースと呼び、人の恐怖心を掻き立てると言われている。

長く続くコンコースや、映画館のホールといった、ありふれた場所でもいい。ただし、人が全くいないところがポイントだ。普通なら大勢の人が行き交い、活気あふれる場所なのに、人の気配が無い。そういう「場所」だ。

ある人は、映画『シャイニング』の舞台となるホテルの長い長い廊下や、『8番出口』の白くて清潔で無機質な空間を思い出すかもしれない(デヴィッド・リンチは室内で夢の空間を、アンドレイ・タルコフスキーは現実の風景を異界として撮っていた)。あるいは弐瓶勉『BLAME!』の敵意に満ちた迷宮のような巨大構造体が浮かんでくる人もいるかもしれぬ。

N/A

そういう場所が、なぜ不安を掻き立てるのか。その一方で、美しいと感じ惹かれてしまうのはなぜか。膨大な映像作品を駆使し、そんな不安と恐怖の美学を探求するのが『リミナルスペース』になる。読むと、一番手軽な方法―――夢―――でリミナルスペースに迷い込むことができるぞ(本人談)。

リミナルスペース=非場所

このリミナル(liminal)とは、元々はラテン語のlīmen(リーメン)で、「境界」や「戸口」という意味だという。

なので、リミナルとかリミナリティというのは、境界にある状態で、中途半端で確定していない状態のことになる。戸口に立っているということは、家の中でも外でもない、どっちつかずの位置になる。

そこは、具体的な「場所」にはならない。

ホテルの廊下や駅のコンコース、ショッピングモール、映画館のロビーは、具体的な「場所」というよりも、どこかへ行くために通過するエリアになる。このようなエリアは人類学の用語で「非場所」と呼ばれており、歴史や文化的背景と結びつかないものとされている。

なぜ怖いのか

普通、こうした場所には「人」がいる。

廊下も壁紙も階段も、人のためにあるのに、肝心の人がいない。あるべき存在がいない、その空っぽさが薄っすらと不安を掻き立てる。

そして、そんな状況が続くと、人の脳は「説明」を求めはじめる。

  • なぜここに居るのか?
  • 皆はどこへ行ったのか?
  • どうすれば出られるのか?

普通の物語だと、そうしたホラー的状況では「敵」が現れる。幽霊だったり殺人鬼だったり、あるいはパンデミックでアポカリプスだったり、いない「理由」が明かされる。いつまで経っても説明が無いと、人の認知は暴走を始める(『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』は、このパニックがめちゃくちゃリアルだった)。

安全であるはずの場所は、何の理由もなく意味を失っている。これは足元が失せるくらいの恐怖なり。

一方で、現実のリミナルスペースに迷い込むと、認知を歪ませることができる。

私は自覚的にこれが好きで、でかいデパートに行くと、エレベーターやエスカレーターではなく、「階段」を探す。たいていはトイレの近くにひっそりとたたずみ、当然、利用する人は誰もいない。

この、無気配の空間への不安感は、昨年堪能した「恐怖心展」にも確かにあった。日常の非日常性からしか得られない養分がある。

好きな人は結構いるもので、「リミナルスペース」や「liminalspaces」でtwitterを探すと、「廃墟ではないけど人の気配が無い空間」を愉しむことができる。同士からの情報によると、東成田駅生ける廃墟として名高いらしい。

ポイントは、新しい廃墟なんだろう。

悪夢を探索するような(現実の)路地裏なら、例えば飛騨金山の筋骨めぐりとか、豊浜町の小野浦あたりが有名だが、昭和レトロの雰囲気なので、ここにリミナル性を感じる人は世代が違ってくるかもしれない。

そうではなく、新しくて人がいるはずなのに、無人―――そういう空間がリミナル性を掻き立てるのだろう。

書籍の『リミナルスペース』からは、絵画から映画や漫画や小説、youtube、ネットコンテンツなど、大量の作品が引き合いに出されている。ネットを参照しつつリミナルスペースのぞわぞわ感を堪能する。

本書で強力にお薦めされており、かつ、私が惹かれているのは、ダニエレブスキー著『紙葉の家』とジョーダン・ピール監督『アス』だ。

『紙葉』はレイアウトや構成に仕掛けが施してあり、入れ子状になった物語を読み解く行為そのものがリミナルだというし、『アス』には 『The Backrooms』を彷彿とさせるシーンがいくつも登場するという。どちらも見たい見たいと言っているうちに絶版になりアマプラから外れていた。なんとかして、リミナル感を味わいたい。

また、この記事を書くにあたり知ったのだが、『The Backrooms』は映画化されるらしい。しかも、あのA24で(!)

youtubeシリーズが世界的にヒットしたことにより、A24制作し、2026年(今年じゃん!)公開予定だという。

THE BACKROOMS (2026) Trailer

ただ、トレイラー見る限り、より「異形」っぽくなっているのが気になる。『サイレントヒル』や『バイオハザード』で見慣れた姿形だったり、『クーロンズ・ゲート』のオマージュ形態(?)なので、「異形」なのに懐かしさを感じる。

しかも、映画というメディアなので、何かしらのストーリーが求められるはず。それはリミナルスペースの魅力である「説明の無い恐怖」とは反りが合わないかもしれぬ。「変な空間に入り込んで逃げ惑う」という話は、エンタメ映画でめちゃくちゃコスられてきたネタなので、一歩間違えると陳腐の沼にハマる。とはいえ、A24ならヤってくれるはず……観ている人を惑わせる映画になるはず。

本書は、リミナルスペースに取り憑かれた人が、そのゾクゾク感・不安感・恐怖心をおすそ分けする一冊。日常に潜む非日常性に触れたい人には、最高の手引きとなるだろう。



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17人で5時間かけたピンチョン『重力の虹』読書会で分かったこと(ネタバレ全開)

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現代文学の金字塔とも呼ばれるピンチョンの『重力の虹』は、その難解さでも有名だ。

「3回読めば分かる」とか「何回読んでも難解だ」とも言われている。上下巻1450ページの鈍器本に1万円出して3ヶ月かけてヒーヒー言いながら読んだ(こうなることが分かってて読むのを、ピンチョン・マゾヒズムという)。

しかし、最後のページにたどり着いたが、果たして私は本当に「読んだ」と言えるのか?

意味を解体し、理解を拒む展開について、「分かった」とは、とてもじゃないが言えないものの、「面白かった」と言い切れるのか。どんなに頑張っても1時間に20ページの遅々としたスピードだったが、これは普通なのか。百科全書的に編みこまれた知識の断片には深い意味があるのか、あるいは衒学的な目くらましに過ぎないのか。

作品に仕込まれた謎よりも、そもそもこの読書体験って何だったんだろうね?

そんな疑問を抱きつつ、読書会に参加した。

偶然か陰謀か、『重力の虹』が同じ日に2つ開催されたため、両方とも参加した(主催者・参加された方、ありがとうございました!大変楽しく&濃密な時間を過ごせました)。

みなとシェア読書会@川崎 7人で2時間
東京ガイブン読書会@新宿 11人で3時間

主に川崎編で出たトピックには【川】、新宿編で挙げられたネタには【新】と表記する。また、「上巻p.063」は「上63」と表記する。

考えるな、感じろ【川】

まず、異様なまでの読みづらさ。

通常の描写から始まったと思いきや、知らず知らずのうちに、誰が誰に向けているか不明瞭になり、トピックの焦点がどんどんズレてゆき、そもそも何を語っているのか分からなくなる。置いてけぼりになった論点や伏線(?)は回収されないどころか、因←→果が逆転されるのは、慣れるまで(慣れてからも)分かったとはとてもいえぬ。

これ、単純に「難しい」というよりも、情報の入ってくるその「入り方」が普通の小説と違うからだ。背景と前景が安定せず、文脈(コンテクスト)が勝手に切り替わり、読み手が想定する順序で因果が接続されない。

じゃあ「普通の小説」とは?読者を迷子にさせないための暗黙の了解がある。例えばこんなん。

  • 地の文は状況を説明する:「状況が混乱している」ということを説明する地の文はあるが、それは「状況が混乱している」ことを整理して伝えている
  • 会話の宛先が明示される:会話は「」で括られ、誰宛か判別できるようになっている。「」が無くても文脈で推定できるようになっている
  • 伏線→回収、原因→結果の順序がある:記載の順番が逆転し、結果から描かれることもあるが、結果には原因があることが前提となっている

こうした「普通」を破壊して、自動運転で読める部分が、全てマニュアルドライブになっている。暗黙の了解が無い、いわば「話が通じない」場に投げ込まれる。書いてある言葉は分かるが、その意味が伝わらず、目が滑るのは、こうした理由による。

では、どうすればよい?

一つは、再読を前提とした読みになる。因果の回収はひとまず置いといて、ひたすら人物相関に着目して、何が起きたかは2回目以降の謎解きとする。その手がかりは、 [122人の相関図を作ってみた] に書いた。

もう一つは、筋が通る意味の解釈を諦める。自分に引き寄せる読みを、いったん手放す。「読もう」と構えると意味や道理が逃げていくから、「読むという行為」に身を投じる。意味化しようとする衝動を抑える、一種のデトックス読書やね。

タルベーラ監督の『サタンタンゴ』という映画がある。ひたすら美しく、かつ、意味のない光景が7時間、延々と続くそうだ。そこに意味を求めず、ひたすら「観るという行為」を続けると、意外と読めるそうな。

意味を得るために読んだり観たりするのではなく、読書や鑑賞という体験そのものに身を置くことが目的となる―――『重力の虹』は、そういう滞在型の読書なのかもしれぬ。

仕掛けを解除しろ【新】

一方、ピンチョンはモチーフに意味を重ねてきているから、そのモチーフを拾い上げるという攻略法が提案された。

例えば、冒頭のここ。

一筋の叫びが空を裂いて飛んでくる。前にもあった、だが今のは何とも比べようがない。いまさら手遅れだ。〈疎開〉は続くが、ただの見てくれでしかない。列車の中は真っ暗。わずかなもない、どこにもだ。頭上に組み上がった鋼材は鉄の女王と同じくらい古び、そのはるか上にガラス屋根。昼間なら光を通すだろうが今は闇だ。ガラスが落ちてきたらどんなことになるだろうかと不安になる――もうすぐ―――壮観だろう。水晶宮の崩落。漆黒の中にかすかなキラメキもないまま起こる、巨大な不可視のクラッシュ。
(『重力の虹』上13より)

太字化は私。小説の中には、不自然なくらい多用されている言葉があり、それは「光」「ゼロ」「不可視」だという。言われてみればあちこちどころか、畳みかけるように頻出している。そして、同じ「光」でも、そのシニフィエが様々に重ねられる。爆発する閃光だったり、ドラッグでキマった脳内物質の輝きだったり、しゃべる電球だったりする。

要所要所の重要なシーンで「不可視(invisible)」が使われている。降霊会では「不可視の手」が登場し(上63)術に登場する幽霊はもちろん「見えない」し、鍵となる合成化学物質イミポレックスGは「透明性」を持つ(下579)。虐殺され、歴史から抹殺された人々は「不可視の王国」(下72)と呼ばれる。

「重なり」を解除するのであれば、ビアンカとイルゼの二重写し(下66)が指摘されていた。どちらも「映画を見て興奮した男が女に言い寄ってできた子」としては共通している。

ただ、「この世は常に二重の照明に照らされていて(下67)」の表現からすると、似たような境遇という意味だけでなく、異なる映画で同じ人が出演しているとも読み取れるという。さらに、ビアンカの代わりに肌の色が透けそうに白い(下66)青年ゴットフリートが仄めかされている。

これはラストの00000号の贄とされた男性verがゴットフリートなので、女性verがビアンカとも読めるのでは、という指摘が面白かった。つまり、読者が男性なら、同性のゴットフリート、女性ならビアンカが、読者の代わりの贄になるという「読み」だ。

モチーフやキャラクターの重なりを解くような読み方が提案された。いわばナボコフの仕掛けを解除するような読みなり。また、「糞便」が出てくるのは、「これから重要な出来事になりますよ」というフラグとして読む。1回目を読んだいま、確かにそうだといえる。これは再読の楽しみとしよう。

ハリウッド映画との親和性【川】

主人公のスロースロップは、ハリウッド向けという意見があった。

追われて、逃げて、勝手に巻き込まれる。でもなぜ追われるのか、どうして巻き込まれるのか状況を理解していない。でもなぜか重要人物として狙われるという意味で、完全にハリウッド向きだといえる。

本人は「世界の謎を解こう」などと思っていないのに、世界の方が勝手に追いかけてくるというドタバタ展開は、めちゃくちゃ作りやすい。

謎の組織に追われるし、敵か味方か分からずに、陰謀に巻き込まれる。全部がつながっていそうで、でも証拠が無い。秘密エージェントとか軍産複合体といった「黒幕」は、ハリウッドが100年ぐらいコスり続けてきたネタになる。

実際、読書会で知ったのだが、デカプリオ主演の『ワン・バトル・アフター・アナザー』の原作が、ピンチョン『ヴァインランド』だそうな。映画は予告編しか見ていないが、ヴァインランドってそんな話だったかな……そのうちアマプラで観れそうなので楽しみに待つ。

ただ、ハリウッドとの決定的な違いは、「ピンチョンは意味を回収させない」に尽きる。ハリウッド映画のラストは、巨悪の正体が暴かれ、陰謀は潰える。あるいはそうした状況から主人公は脱出し、自由を勝ち取る。敵は誰で、何が起きていたか、主人公はどう変わったかといった、物語をドライブさせていた因果が明確に回収される。

しかし『重力の虹』では、スロースロップは分解し、物語の焦点は奪われ、意味は霧散し、読者を置き去りにしたまま、ロケットは飛んでいく(あるいは飛んで来る)。小難しい話を取っ払えばハリウッド映画向きだが、ハリウッド映画を成立させるための因果を殺しにかかるのがピンチョンだといえよう。

「選ばれし者」と「見捨てられし者」【新】

くり返し出てくるテーマとして、カルバン派の予定説にがある。「選ばれし者」と「見捨てられし者」が「上13」を皮切りに、何度も姿かたちを変えて採りあげられる。

神に選ばれ、救済が約束されている者と、そこから切り捨てられている者がいる。努力や行為でどうなるものでもなく、ただ、最初からそう二分されている。エリート/排除された存在、白人/有色人種、帝国/植民地といった形で登場する。

面白いのは、アメリカ合衆国の開拓における西への移動は、自己正当化として「選ばれし者」が量産されている点にある。「フロンティア精神」「約束の地」「自由への移動」として語られているが、先住民たちは最初から居なかったことにされている。

一見したところ、ピンチョンはそうした抑圧や暴力を「批判」しているのではないか?

だが、ちょっと待てよ。そんな見え見えの批判なんぞするか?するはずがない。抑圧されていた側のエンツィアンは、脱植民地化の闘争の中で00001号を手に入れることで、「選ばれし者」と同じ行動・同じ発言をしているのではないか?

これ、カルバン派の話に閉じず、そういう認知になってしまうという人間のバグを示しているのかもしれぬ(批判というよりも諦念に近い)。

「重力の虹」とは【川】【新】

タイトルにはどんな意味があるのか?いろいろな意見が出てきて愉しい。

というよりも、『重力の虹』というタイトル自体が、ひとつの意味に収束しないよう(させないよう)に設計されているから、様々な象徴の束としてあれこれ言い合うのが楽しい。

  • ロケットが打ち上げられ、一時的に抗った後、重力に囚われ落下する弧を指し、多様な色あいは、ロケットを追い求める国家・組織・人種の多様さを喩えている
  • 重力は迫害されている人を捕えているメタファーで、そこからの開放を指す。
  • 「虹が見える」とはその弧から離れていること=ロケットの発射・着弾の場所から離れて他人事のようだという暗喩

虹は希望や祝福の象徴なのに、落下する爆弾の軌跡として描かれる反転の皮肉が効いている。ナチスも連合国も科学者も軍も企業も、それぞれの違う目的を目指しているのに、同じ重力に囚われた軌跡を描くところも面白い。

「重力の虹」について、序盤でケネディとマルコムXとの会話で種明かしされているという指摘があったが、場所が探せず(上131にハープが「重力に逆らって」というシーンがあったが、違うみたい)。再読の楽しみとしよう。

他にも、様々なヒント・ネタ・再読の手がかりをもらったので、並べておく。

  • 円城塔の書評が読み解きに役立ちそう→虹には向こう側がない : トマス・ピンチョン『重力の虹』をめぐって(新潮2015年1月)
  • 早川文庫のオーウェル『一九八四年』のピンチョンの書評を読むと、ピンチョンがなぜあんな小説を書いたのかの手がかりになる
  • 科学+歴史+神話をストーリーに落としむといえば、リチャード・パワーズが似ているかも
  • 大規模で複雑な世界をそのまま描くポストモダン作家として、ドン・デリーロも似ている
  • 面白さで言えば『重力』よりも『競売ナンバー49の叫び』が上(未読なので読む!)
  • 読むスピードは20頁/1時間という回答が多かった
  • お薦めしていた「磯崎憲一郎・寺尾隆吉とガルシア・マルケスを読む」会は [ここ] (1/22@早稲田大学)、無料・予約不要やで

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実は、もう再読を始めている。読書会という期限が無いので、気楽に時間をかけて読み解いていくつもり。と同時に、人物相関図も充実させていこう。

あるいは『V.』か。



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ピンチョン『重力の虹』の「主要」登場人物122人の相関図を作ってみた

N/A N/A

イメージの濁流に呑み込まれ、もみくちゃにされ、ヨロヨロと頁を繰り、茫然としながら叩きのめされる読書、それがピンチョン。

ラーメンに例えるなら「全部入り」の百科全書なり。

第2次大戦末期のヨーロッパを舞台に、神話や歴史に始まって文学、数学、化学に物理学、冒険と暴力と陰謀とパラノイア、ガチ怖ホラー、泣かせるメロドラマ、エロス100%の恋愛モノ、スカトロSM満載で、果てしなく続く洒落とギャグと注釈と二重解釈と地文と話者の逆転とクローズアップとフラッシュフォワードに翻弄され、読解不能。

どれくらいもみくちゃにされるかというと、人物の相関図でイメージが湧くかもしれぬ。「主要」登場人物は122人で、関係図を作ってみた。

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Gravity's Rainbow / Character Network (interactive)

丸い奴は人物で、〇の大きさが(私が考える)重要度、〇の色が陣営(家族や組織、国家、企業など)を示している。マウスオーバーして出てくる説明書きは、索引を参考にした。関係の強いものを線でつないだけれど、自分でも分けわからんくなった(笑)。

まれに、「読んだ」「面白かった」という方がいらっしゃるが、どうやって【読んだ】のだろう(あやかりたい)。私の場合、とてもじゃないが、1回目では「読んだ」とは言えず、最後のページにたどり着いたというのが正直なところ。

ただし、1行1行目で追って、頭の中で作り上げ、メモやノートを取り、辞書を引きネットで調べ、ページを繰り戻し、あるいは索引と首っ引きになって、行ったり来たりしているうちに、ふいに、脳汁が溢れ出す。これは映画や漫画ではなく、小説でしか味わえない快楽なり。

そして、読んで確信したことは、1回目より2回目、2回目より3回目の方が、さらに強烈な快楽物質が出るということ。

というのも、膨大な注釈と合わせて読んでいくうちに、小説全体の構造がおぼろげながら見えてくる。怒涛の展開につながる伏線が張り巡らされていたり、意外すぎる人物が噛み合っていたり、それぞれの目的やら運命が二重露光のように写り込んでいることが分かる。

1回だけじゃ嚙みきれず、呑み込めず、何度も読み込んで解き砕いていくうちに、さらに旨味が溢れ出す、そういう小説なのだろう。

なのでここでは、ネタバレ全開で、2回目を読む私のために、この人物相関図を使って『重力の虹』の構造を解体してみよう。

<以下ネタバレ。ただし、ネタが割れたところで、の面白さや謎は微塵も揺るがない>

翻訳者・佐藤良明の解説にもあったが、『重力の虹』は複数の物語が入れ子のように複雑に絡み合っている。絡み合う物語を解きほぐすと、作品1~5までの、5つの物語に解体することができるという。

相関図では、それぞれの作品で焦点となる人物をピックアップし、見つけ出せるようにした(右上の「作品」のチェックボックス)。以下の画像は、焦点人物を炙り出した図となる。

作品1:ナチの新型ロケットを巡るパラノイア戦

テクノロジーと権力が、どのように人間を狂わせるかを描く。

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<ゾーン>を主舞台に、ナチスドイツが開発した新型ロケットの打ち上げを巡る心理戦をメインとする。ロケット工学(素材、流体、制御技術)を人間ドラマにしたもの。

<ゾーン>とは、ナチス政権崩壊後に生じた権威が空白状態となった空間であり、連合国が分割統治するまでの間、存続が許された地帯になる(地上だけでなく、地下、上空、海上も含む)。

メインキャラはヴァイスマン。ナチスのロケット開発の中枢にいるSS将校で、ロケットを単なる兵器ではなく、混濁する世界から天へ至る「システム」として信仰する。「科学+神秘主義+美学+暴力=ロケット」という狂気の方程式。

出てくる全員が狂ってて好き。ペクラーが開発する新物質、アハトファーデンの流体力学、ネリッシュの自動制御をナチズム批判に落とし込むのは容易いが、完璧な信仰は完璧な狂気に通じる。ペクラーの慰問のため、愛娘を演じる少女をあてがわれる話に勃起しながら泣いた。

作品2:暴力を正当化する帝国主義&テクノロジー

帝国主義やテクノロジーが生き物のように描かれる。

Gr2

メインキャラは、ロシアのロケット技術諜報員・チチェーリン。異母兄弟のエンツィアンが対位法的に配置され、北が南を征服する制圧の歴史として描かれる。ドイツによる南西アフリカの暴虐はここで初めて知った。そしてジェノサイドをドイツが認めたのは、2021年であることは、この記事を書いてて知った[URL]

そして、ドイツという国家が崩壊したゾーンで、遺棄されたロケットを軸に新しい権力構造が再編されてゆく。第2次大戦の「戦勝国」などおらず、単に、ナチの技術に群がる集団が跋扈するのみ。

米国はフォン・ブラウンら技術者を、ソ連は鹵獲したV2を回収し、それぞれ新しい大陸間弾道ミサイルを「開発」する。最初は、国家による技術泥棒(しかも火事場泥棒)だと思っていたが、「効率的に人を殺すシステム」そのものが、崩壊したナチスを離脱して、大国に乗り換えたように見える。

作品3:&ドラッグでだいたい解決

ジャンル混交ハチャメチャなヤツがこれ。

Gr3

『重力の虹』の主人公であるタイロン・スロースロップが焦点キャラなので、メインストーリーとして扱われている。

「セックスした場所にロケットが着弾する」という摩訶不思議な謎を背負う一方、精力絶倫&いいオンナが寄ってくる運命に翻弄される。ミステリでありSFでありファンタジーであり、冒険あり神話あり、ホラーもサスペンスも純度100%のラブストーリーも盛り込み、魔法少女や幽霊、ロリ&エロ&グロなんでもありの全部入り。

このスロースロップという男、不自然なくらいめちゃくちゃモテるのだが、「主人公だから仕方ないか」で済まされているような気がするw 大抵トンでもない目に遭うのだけれど、だいたいセックスするか、ドラッグをキめるかすると解決する。弾丸は全て当たらない(主人公だから)。迷ったり行き詰まると救いの手が偶然にも差し伸べられる(主人公だから)。

いかにもピンチョンらしく、読んでて楽しいのがこれ。なんでもありだから、どこへ連れていかれるかも分からない。物語が進むにつれ、地の文に紛れ込み、小説自体へと同化していく過程が面白い(というか怖い)。ゾイレとボーディーンが好き。

作品4:合理を突き詰めると狂気になる

科学的合理性を人格化したようなポインツマン、こいつがめちゃくちゃ面白い。

Gr4

スロースロップを追いかける科学者という役回りのポインツマンを主役にすると、また別の作品となる。

人は条件反射によって完全に把握・コントロールできると信じている。ホワイト・ビジテーションに集う科学者を統括し、スロースロップの勃起の謎を解き明かそうとする。

重要なのは、狂人として描かれていない点だ。作品1〜3は、皆が皆、どこか狂っているか、完全に狂っているかのどちらかだ。だが、ポインツマンは違う。学識があり、研究実績があり、体制側から「正しい科学者」として扱われる。近代科学が人格を持ったらこうなるだろうと想像がつくキャラなのだ。

世界の全ては因果律で支配されており、理解することは支配することだと考えるポインツマン。彼にとって唯一、目障りなのがスロースロップになる。だって「セックスした場所にロケットが落ちる」なんて、因果律を無視したありえない話だから。

だからポインツマンは死に物狂いで追いかけて、自らが信じる科学的合理性の中に回収しようとする。その「回収」も度が過ぎて、マーヴィ少佐の受難につながるのだが……ここは抱腹絶倒&気の毒すぎて、黒い笑いが止まらなかった。

合理の名の下に行われる暴力ほど、救いがない。

作品5:主役はロケット

特定のキャラがいるわけではなく、無理やり言うなら、ロケットという概念がしゃべっているようなシーンがある。

沈黙の別世界から表面を突き破って、ヴァイオレントに(ジェットエンジンが音の壁に衝突する、将来には宇宙船が光の壁を破壊するだろう)憶エテオケヨ、今週ノ<ゾーン>のバスワードは FASTER THAN THE SPEED OF LIGHT、光ヨリモ速クだ、キミラの声も指数関数的にスピードアップさせるのだ―――
(下巻 p.632 )

この辺りはカタカナ交じりで分かりやすい。地の文の中に、ナレーションでもなく作者でもなくキャラの誰かの独白でもない、明らかに別者(別物?)のセリフが入ってくる。このセリフは、物語と独立している訳ではない。例えばこの「FASTER THAN THE SPEED OF LIGHT」は物語の中で、実際に合言葉のパスワードとして用いられる。

一人称で、時制は現在形で、誰に向けてかも分からず、物語の外側から語りかける。

こいつ、一体誰だろう?といぶかしんでいたが、解説で腑に落ちた。確かにロケットという存在(概念?あるいはロケットを飛ばすシステムそのもの?)が人格を持ち、未来から現在(まさに私が読んでいる今)に向けて語り掛けているのだろう。

これ、作品2の「テクノロジーが覇権組織を乗り換える」にも呼応する。

覇権国家がテクノロジーを奪い合う構図ではなく、連合/枢軸、資本/共産関係なく、その暴力をより洗練させてくれる組織に乗り換える(憑依する?)のだ。水が低きに流れるように、テクノロジーはより高度に集積させてくれる処に寄ってくる。

Vロケットの標的は、冒頭ではロンドンだった。だが、ラストは未来そのもの(いま読んでいる私含む)を狙ったかのようにも読み取れる。

なお、作品1~5への分解は、ボラーニョ『2666』を思い出す。5つの独立した物語がサンタテレサの虐殺を指し示す構造となっている。元々、5冊の本として刊行予定だったものを合体させたため、別々の「部」として分かれており、(800頁だけど)読みやすい。

あるいは、メルヴィル『白鯨』を引き合いにする人もいるかもしれぬ。400頁×上中下巻で百科全書的に 「鯨」を描いたところは似ているものの、分解すれば、劇(Drama)と物語(Narrative)と鯨学(Cetology)のモザイク構造になる(岩波赤の下巻の解説に、どの章がどのパートに当たるかのマッピング図が分かりやすい)。ドラマの視点は「わたし」の一人称なので、そこだけ読むと素直な小説になる。

しかし、ピンチョンの『重力の虹』は、700頁×上下巻のボリュームで、それぞれの物語が捩じりあい絡まり合う。『白鯨』に喩えるなら、劇/物語/ロケット学が同じ章・同じ文に入り混じるようなもの。

複数の話者、人称を使い分け、誰が誰に話しているのかも解きほぐしが必要なくらい混交しており、リニアに読むと頭がヘンになる。博覧狂気がフルパワーで楽しませてやろうと意気込んだ鈍器本がこれだ(ただし、読み手の方もある種の狂気が必要)。

ピンチョンは「面白い」のか?

「そんなん読んで面白いの?」と聞かれることがある。

これまで、以下の作品を読んできたけれど、「読んだ」というより「殴られた」「打ちのめされた」が近い。

 『ヴァインランド』
 『メイスン&ディクスン』
 『逆光』
 『ブリーディング・エッジ』

小説に小突き回され、物語に蹂躙される歪んだヨロコビを堪能するために、頁を繰ったという感じ。展開の因果や人物の関係性が分かりやすく描写されていないため、話のつかみどころが少なく、素直に読もうとすると爆死する。

ところどころ「面白い!」と感じる瞬間が激烈で、そのためにガマンするような読書になる(ピンチョン・マゾヒズムという)。

じゃぁ、その面白いと感じるところだけをスキミングすれば良いかというと、そうでもない。緻密に読んでおかないと見落とすどころか、そもそも何がどうなったかさえ分からないことになる。

例を挙げる。

「ノー・・・」中腰の構えで前へ進むと、何やら吊るされた物体があった。濡れた絹布に包まれた、凍りついた太もも。それがグラーンと揺れて彼の顔面にぶち当たる。海が匂う。顔をそむけると、今度は長い濡れた髪の鞭に頬を打たれた。逃げられない、あちらからもこちらからも・・・冷たい乳首・・・尻の深い裂け目、香水と糞と海水の入りまじった匂い ・・・そして、何なんだ・・・この匂いは・・・
(下巻p.257)

作品3のスロースロップの話だ。陽キャのイケイケ話から突然ホラーになるところ。沈みかかった船から、「あるもの」を取りに行かされるときに、彼が目にしたものの描写だ。

どうやら、殺されて吊るされた女の死体らしい。逃げ出したいのだが、唯一の出口にはこわーいおっさん(シュプリンガー)が待っている。既にシュプリンガーにボコボコに蹴られているので、行くしかない。

でも、この女は誰?

この女の名前は出てこない。女の乳首も、尻の裂け目も、確かに知っているのだが、スロースロップは気づかない。

実は、赤文字にした「絹布」がキーワードになる。スロースロップはこの直前にこの「タフタ地」に触れている。そして、「タフタ地」が出てくるのは、100頁ほど戻ったここだ。

「うーん、そこのファスナー、お願い・・・」ファスナーを引き下げると、身をくねらせて服を脱ぎ落とすビアンカ。赤いタフタ地の服がさらりと落ちて現れた、完璧な形の、クリームのように滑らかなお尻に一つふたつ、紫色の志が見える。
(下巻p.140)

スロースロップのお楽しみシーンだ。ビアンカの白く未熟な身体をまさぐり、唇のルージュの中にペニスを含ませ、喉の奥を堪能するところ。彼女の汗や性器の匂いを味わった100頁後に、香水と糞の入り混じった匂いをかぐことになる。このギャップがえげつない。

だけど、読者は100頁も前に女が着ていた服を覚えているわけねぇww 吊るされた女がビアンカだということは、この「赤いタフタ」しか手がかりがない。そういう、緻密な読み方と記憶力を強いるのがピンチョンなり。

これ、読者にめちゃくちゃ不親切なのだが、安心してほしい。訳者である佐藤良明が膨大な注釈で補ってくれる。作品1~5の構造的な読みと、「赤いタフタ」のミクロな読みの両方を必要とする。再読必至で、「ピンチョンは3回読むと分かる」と言われているのはこのせいだ。

だから、「読書とは知識や情報を得るもの」と考える人にとっては耐えがたいものになる。意味なんてないかもしれない。「作者のメッセージや意図」なんて分からないままかもしれない。「1つのまとまったストーリー」なんて無い。そういうものを求める人にとっては、混乱とノイズと不整合だらけで、読書は苦行以外の何物にもならないだろう。

かつての私がそうだった。

実は『重力の虹』、高校生のときに手を出して火傷してから、何度も挑戦→撤退を繰り返してきた。ピンチョンの最高傑作と名高いこの作品は、若さに任せて読み干すくらいの勢いが必要だ。もう若くなくなったいま、読書会をきっかけに、いま読まないといつ読むの? と自分を追い込みつつ、ようやく完走できた。読んでる途中に作品の構造が見え、点と線がつながるときの脳汁ブッシャー感はハンパなかった。いったんハマれば、中毒性の高い作品といえる。

いろいろな「読み」があるだろうから、読書会が楽しみすぎる。それに加えて、何よりも再読がもっと楽しみなり。分解したスロースロップの行く末とか、00001号の運命とか、いまとは全く別の読解になるはず。

相関図も、さらに「厚く」なるだろう。これ、「主要」登場人物の122人だけで、脇役も入れると倍になる。しかも、フィクションのキャラの関係性を描いているだけで、歴史に実在した人や、素材や物質や無生物や概念の中で重要なものは、ごっそり抜け落ちている。これらを重ねていくと、さらに重層な相関になるに違いない。

ピンチョンは再読からが本番だ。



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劇薬小説『夜のみだらな鳥』を味わう読書会レポート

<この記事はネタバレを含むが、バレているものが本当なのか分からない(たぶん、誰にも分からない)。なので、安心して読んで欲しい>

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ドノソ『夜のみだらな鳥』は、読めば読むほど分からなくなる。

「読むクスリ」とも言える中毒性が高い傑作だ(『百年の孤独』よりも酔えるぜ)。もう3回も読んだのに、蠕動するストーリーに呑み込まれ、もみくちゃにされ、おぞましい感覚だけを残して茫然となる。

これ、一人で読むから混乱するのではないか?

つまり、読書会でみんなで攻略すれば、全容をつかめるのではないか。最後まで読んでも分からなかった謎や、回収されていないように見える伏線、あるいは物語構造そのものの見落としが、目玉2つよりも二十四の瞳の方が拾えるのではないか。

そんな期待を軽々と越えてくる読書会だった。

全員が共通しているのは「カオス」の一言だけで、後は種々雑多な感想が飛び出てくる。

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面白いのは、同じ一つの小説なのに、見えているものが違うところ。

注目した点が異なるというよりも、同じものを見てたはずなのに、違うものに見えているところ。ウンベルトが犯した相手は誰? 「ボーイ」とは誰で、結局は死んだのか?(そもそも「ボーイ」は何人なのか?)。なぜ畸形ボーイは畸形なのか?黄色い牝犬の正体は?

見事に答えがバラバラになる。

これ、ドノソが読者を騙すために仕組んだ罠に、全員が全員ハマっている証拠なり。

語りかける一人称の「おれ」が信頼できない語り手であることは承知していても、文の途中で人称が変わり、話題が変わり、呼びかけ先が変わり、時系列が変わり、場所が変わる。話者だけでなく、語られている人・場所も変わる。読み手を混乱させ、物語と共にドロドロにさせる罠なり。

それでも、12種12様の「読み」がある。

そのバラバラの読みを繋ぎ合わせ、私の脳内と辻褄が合うようにしたのが上の絵だ。

物語構造の相似形

物語の舞台として、「リンコナダ屋敷」と「エンカルナシオン修道院」がある。前者はヘロニモの屋敷であり、後者はイネス(尼僧)が奇跡を起こした修道院だ。どちらも物理的に違う場所で、屋敷→修道院という時間軸で語られているように見える。

しかし、読み進めていくうちに、両者は融合されつつあるか、あるいは違う世界線なのに一時的に同じ時空に重なっているように見えてくる(スティーヴン・キング『タリスマン』や今敏『パーフェクトブルー』を思い出してほしい)。

そして、2つの舞台のそれぞれにシンメトリックなキャラが配置されている。同一人物であるが異なる役回りだったり、違う人物が同じ運命に遭ったりする。

例えば「屋敷」のクレメンテと「修道院」のヘロニモ。両者は親戚で、最初は堂々たる人物として扱われているのだが、虐待され、最終的にキチガイ扱いされて拘束具を着せられ、強制的に物語から退去させられる。さらに、この拘束のモチーフは袋詰め→インブンチェ→語り手のウンベルトへ引き継がれる。

インブンチェとは、”縫い塞がれた”存在だ。目、口、尻、陰部、鼻、耳、手、足、すべてが縫いふさがれ、縫いくくられた妖怪だ。ウンベルトは臓器を少しずつ入れ替えられ、体の80%を失い、赤ン坊のような存在になる。これが「ボーイ」なのか老婆なのかも意見が割れた)。

ラテンアメリカ文学の傑作として、ガルシア=マルケス『百年の孤独』とホセ・ドノソ『夜のみだらな鳥』は、双璧を成すと言われている。

物語構造の相似として考えるなら、『百年』は年代記として時系列的にくり返されている(似た名前のキャラは似たような運命に辿り着く)。一方『鳥』は舞台設定と役回りが相似する(2つの舞台を折り曲げると、同じ役割として重なる人物がいる)。『百年』が家系図として縦方向に、『鳥』は空間的に横方向にシンメトリックなのかもしれぬ。

基本テーマ「入れ替わり」

一方で、屋敷も修道院も両立しないという意見もあった。屋敷編で死んでいるはずのアスーラ博士は、時間的に後になる修道院編で手術をして、イネスを老婆に、ウンベルトをインブンチェにする。

この場合、どちらかが創作か、どちらも創作という可能性が出てくる。誰かが嘘をついているか、すべてが嘘なのかもしれぬ。

語り手は、基本的にどちらもウンベルトだが、ヘロニモとして語ったり「ボーイ」として語ったりする。しかも、ヘロニモになり替わったウンベルトが語ったり、ウンベルトに憑依したかのように「ボーイ」が語ったりしているので、本当である保証は無い。

そしてこの「成り代わり・入れ替わり」は、『鳥』の重要なテーマの一つになる。

ヒガンテと呼ばれる巨大な仮面を被るだけで、股を開きヤらせてくれるのがイリスだ(イネスとは別人)。なので、男たちはこぞって仮面を被り、イリスと交わる。屋敷編ではインポテンツだったヘロニモが、仮面を被り、ヒガンテに成り代わり、イリスと交わる。そしてヘロニモに成り代わり、男性機能を果たすのがウンベルトだ。さらにウンベルトが犯す相手としてイネスに成り代わるのがペータ・ポンセだ。

他にも、様々な入れ替わりがある。弱者と強者、不能とギンギン、美形と醜悪、親と子、使用人と雇い主、男と女など、手を変え品を変え、キャラや設定や因果を入れ替える。

読者はどこにいるのか?

この入れ替えは語り手と読者にも当てはまる。

重要なシーンの端々に、「黄色い牝犬」が出てくる。夜伽話で語られる老婆が憑依先だったり、賭け双六で走らされるコマだったり、青姦で残された体液を舐める存在だったりする。この犬は何だろう?という話になったとき、「これは読者そのものではないか?」という仮説が提示された。

なるほど、物語の節目節目に現れ、語り手とは独立してうろつき、邪魔ものとして追い払われるだけなのに、執拗に出来事を「目撃」しようとする存在―――これは、何が起きているのかを見極めようとする読者のメタファーなのかもしれぬ。

これを手掛かりにするならば、黄色い牝犬が見ていることが、本当に起きていることと見なせるかもしれぬ。そして、本当に起きていることを繋ぎ合わせて、もう一度読み直すなら、さらに別の物語が浮かび上がるかもしれない。

さらなる深みへ

おぞましい物語に魅入っているうちに、魅入られて、自分自身が物語の中にいる感覚。

これ、ヒエロニムス・ボスまんまやね(『快楽の園』を思い浮かべる人もいた)。

El jardín de las Delicias, de El Bosco.jpg
ヒエロニムス・ボス - Galería online, Museo del Prado., パブリック・ドメイン, リンクによる

快楽の溺れる男女、異形の怪物、脆くて崩れやすい世界に魅入られているうちに、「これは他人の物語ではなく、おまえ自身の選択の寓意ではないか?」と問われている気分になる。

読者は、物語を理解しようともがくうちに、物語に取り込まれ、役割を与えられる存在として入れ替わる。ヒエロニムス・ボス『快楽の園』と同型で、他人の地獄を覗いているつもりが、自分自身の寓意を見せられている構造となっている。

『夜のみだらな鳥』は、ストーリーを読み解き、「分かった」気分になる小説ではなく、読み手を混乱させ、(文字通り)夢中にさせ、理解しようとする「わたし」を歪ませる猛毒なのかもしれぬ。

東京ガイブン読書会の方、参加された皆さま、ありがとうございました。おかげで4回目も捗りそうです。

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「本」にする必要性と「本」である必然性―――仲俣暁生・finalvent 座談会

書きたいから書いている。だが、それなりの物量を「本」にする必要性はあるのだろうか? あるいは書いたものが「本」にならざるを得ない必然性はどこから来るのだろうか?

糊口をしのぐ、評価を得るなど、現実的な理由は多々あるが、ブログや動画でやれるし、コスパ的にはそっちの方がよさそうだ。それでもなお、「本」(特に紙の本)にしたくなるのはなぜか。

まず、形として残すためにある。

小説であれ批評であれ、一連の思考をFIXさせる必要性から、「本」という完成品になる。これがブログや電子書籍だと、消える。サ終により丸ごと消える電子本は、諸行無常の響きしかない(このブログも一緒やね)。だが、紙媒体なら物として存在することができる。

そして、物体としてあるから、手渡すことができる。

いくらでも改訂できるファイルではなく、印刷して確定した一冊を、パッケージとして渡すことができる。拡散は電子の方が効率的かもしれないが、「モノ」として誰かに手渡すことができるのは大きい(Kindleだとこうはいかない)。書棚のあそこにあるブツとして、未来の自分にも渡せる。

そんなことを考えさせられる座談会だった。

仲俣暁生・finalvent・坂田散文の鼎談形式で、「軽出版から考える 本を作ること・売ることの未来」というお題だったのだが、出版業界の未来そっちのけで語り倒すのが印象的だった。

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上図は、仲俣さんが投影した図をメモったものになる。電子との掛け合わせでも考える必要があるが、数字は紙媒体の部数になる。産業として見た場合、出版の未来は限定的なもので、稼ぐならマンガ市場になるという。

前提を聞き逃していた可能性があるが、おそらく、「紙媒体としての出版」のことを語ろうとしていたのだと考える。電子書籍にがっかりしている様子や、「自費出版と比べて一桁低い金額で~」といった発言から、紙媒体の未来を模索しているのだと推察した。

そして、モノ書きが紙の本でやっていくなら、軽出版という新しいフィールドを目指せというメッセージを受け取った。

ここにうまくハマるのが、finalventさんが上梓した『新しい「古典」を読む』になる。

N/A

村上春樹や開高健、星新一、橋本治をはじめ、『寄生獣』『めぞん一刻』『のだめカンタービレ』などを採りあげ、「新しい古典」として読み直し、書評形式で文芸批評をする。

全4巻、Kindleアンリミで無料で読めるが、紙の本という形でも手にすることができる。商業出版社を通さず、著者自身が出版できるセルフパブリッシングという形態だ。編集や校正は自分でやる必要はあるものの、印税率は高いという。

読む方の立場だと、選択肢が増えるのは嬉しい。

Kindleで読んで、紙版を購入したのだが、オンデマンドプリントのため、紙質が若干異なる(ちょい厚め)。電子はいつかは無くなる。情報として参照するだけでなく、手元に「本」として置きたいという欲望を叶えるにはうってつけだろう。

書く方の立場なら、finalventさんのメッセージが響いた。

  • 届かないとか金にならないとかは度外視して、本を書くべき
  • youtubeやブログやnoteでは限界があり、自分が生まれて生きたということが本になる
  • 生きて苦しんできた青春の決着をつけるためにも「本」にする必要がある
  • 書いたものが残るかどうかはどうてもいい、それでも書く・残そうとするのがロマン

ネットのコンテンツは、運営が居なくなったら丸ごと消える(こことは別の場所でブログを書いていたが、キレイさっぱり無くなっててワロタ)。あんなに課金したネトゲも、サービス終了したら跡形もなく消える。思い出す者がいなくなれば、思い出の中にすら残らない。

デジタルデータは永遠だと無邪気に思ってた時代もあった。CDやDVDに焼いて、タイムカプセルに入れたら、遠い先の未来でも再生できると思っていた(およそ5~10年で劣化して読めなくなる)。

「自分の遺伝子を残したい」「傷痕でもいいから業界に残したい」など、様々な欲望があり、そのうちの一つに、「書いたものを残したい」という欲があるのかもしれぬ。「青春の落とし前を付ける」と言っていたが、まさにそうかもしれぬ。



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正気が侵食される毒書――劇薬小説『夜のみだらな鳥』三度目の報告書

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他人の悪夢を覗いているうちに、私自身がそこに居る。

夢だから、断片的で支離滅裂で、因果も時系列もデタラメだ。なのに、そこで起きた感覚だけは、べっとり肌身に粘りつく。

忌まわしい、ふりほどきたい、逃れたいのに、なぜか顔を近づけて嗅ぎたくなる。歯をむき出しにして齧りたくなる。語りかける口調に、思わず耳を傾ける。知りたくない(最悪の)展開を、目を凝らして待ち構える。嫌悪感と接近衝動の両方に衝き動かされるように読む。

そういう、中毒のような効果をもたらすのが、ホセ・ドノソ『夜のみだらな鳥』だ。読んだことを後悔するような劇薬小説だ。

14年前7年前、そして今回で3度目の毒書なのだが、何回読んでもわけわからぬ(でもそれがいい)。だが、3度も悪夢につき合ってきたので、どんなやり方で、私の精神に大ダメージを与えているのか、その手口は分かるようになった。免疫というか耐性が付いたのかもしれぬ。

さらに、東京ガイブン読書会の12人がかりで読み解いたので、より多様なアプローチでこの悪夢に迫ることができた。ここでは、ネタバレ全開で『夜みだ』を腑分けする。

『夜みだ』の読みかた

まず、筋を追おうとするとロストする。

読書会で教えてもらったのだが、読書SNS(読書メーター?)では、「読んでる間ずっとカオス」「理解不能な混沌」といった感想が多いという。粗筋を知るためにSNSを開いたら、余計に混乱するだろう。

筋をまとめながら読むのは私もするが、こればっかりは苦労する(というか、あきらめた)。なので、語り手に任せて読む。

「おれ」という一人称の語り手らしき人物(=ウンベルト)は、誰かを見つめながら、その誰かに話しかけるように物語を進める。どうやら修道院が舞台のようで、ここに引き取られた老婆たちと一緒にいるらしい。

ではひとまず、彼の言うことを元にストーリーを追ってみる(もちろん、信頼できない語り手という余地は残しながら)。

しかし、進めるうちにおかしくなる。人称が変わり、話者が変わり、呼びかけ先が変わり、時系列が変わり、場所が変わる。話者だけでなく、語られている人・場所も変わる。

普通の小説なら、作者は読者に注意を与えるための印をつける。例えば、カギカッコ「」で括られたら、それを一人の発言だとする。「おれ」「わたし」「ぼく」という人称ごとにキャラクターが区別される。場面が変わるなら段落や章で区切る。

いわゆる「お約束」だ。

そういう「お約束」をぶっ壊しているのが『夜みだ』だ。

じゃぁそういう小説だと思えばいい。かと思いきや、お約束は守りつつ、壊す。いきなり全壊させるのではなく、最初はフツーに読めているのに、「あれ?」と思ったり「なんかヘンだぞ?」と気づかせる。

ウンベルト:語り手(おれ)
ヘロニモ:大地主
イネス:ヘロニモの妻
ボーイ:子

例えば、ヘロニモが死んでいることになっているが、普通に生きている。別に生き返っているわけではなく、時系列が入れ替わっているわけでもない。

読み手は仕方なく、「ヘロニモの死」は誰かの頭の中の妄想として考えるしかない。最近だと「世界線」という便利な概念があるので、それを使うなら、「ヘロニモが死んだ世界線」があるという前提で読む。

あるいは、語り手がウンベルトだと思っていたら、自然に地続きで「ボーイ」が語っている。同じ文章の中で「おれ」「わたし」「ぼく」が次々と切り替わり、ポリフォニックな残響にまみれ、誰がしゃべっているのか分からなくなる。「あなた」は呼びかけ先の人物なのか、あるいは読者である私なのか、分からなくなる。

読み手を混乱させる仕掛けは、そこらじゅうにある。

イネスと同姓同名の女が出てくるし、「イリス」という別の女も出てくる。話の流れ上、ボーイはヘロニモとイネスの子に思えるが、ウンベルトが孕ませたように取れる描写も出てくるし、それに重なるように、ウンベルトが老婆を犯すシーンもあり、かつ、その老婆にイネスが変身する展開も待っている。

しかも、語り手ウンベルトもおかしい。

最初は使用人だったのが、修道院に隠れるように暮らす老人だったり、うわごとを呟く瀕死の病人になる。ペニスを奪われ老婆になり、四肢を(少しずつ)奪われ胴体だけの達磨状態となる。それでも、「おれ」は、狂うことなく普通に語る。

こんな小説を読まされる方は、諦める他ない。狂気や妄想が正当化された作品も読んできた。「そういう作品」なら、夢野久作『ドグラマグラ』やカフカ『審判』が有名だし、キャサリン・ダン『異形の愛』やガルシア=マルケス『百年の孤独』の後半を推したい。

『夜みだ』の唯一無二なところ

でも『夜みだ』は違う。

語り手の妄想という可能性は残しつつ、語られている対象はクリアに伝わる。物語られるモノは、極めて明瞭に描写される。

例えば、畸形のわが子のために、世界中から畸形ばかりを集めて、畸形の楽園を作るエピソードがある。ヘロニモの跡取り息子として誕生した赤ン坊は、その醜い姿形から「ボーイ」とだけ呼ばれる。

大富豪であるヘロニモは、カネに糸目を付けず、世界中から様々な畸形を集め、大金を払って「ボーイ」の周囲に侍らせる。捻くれた背中や非対称な顔面、欠損した器官はむしろ「美」であり、私たちが普通だと感じる手足や姿かたちは、むしろ「醜」とされる。

ヘロニモは、屋敷の周囲一帯を買い取り、全体を一つの街として、世間から隔離する。そこで異形の者たちと共に、ボーイを管理しようとする(管理者はウンベルトである)。

ウンベルト自身は(その頃はまだ)普通の姿のため、異形の世界の中でただ一人、正常な人間として振舞う。屋敷では美と醜が逆転しているため、ウンベルトは「異形」として扱われる。

あるいは、修道院で老婆に囲まれ、ウンベルトはインブンチェとなる。インブンチェとは、”縫い塞がれた”存在だ。目、口、尻、陰部、鼻、耳、手、足、すべてが縫いふさがれ、縫いくくられた妖怪だ。

ウンベルトは少しずつ切り取られ、老婆たちが吸収する。生きていくために必要な器官は、老婆たちのものと取り替えられ、元の身体は20%しか残っていない。

老婆たちはおしめを替えたり、服を着せたり、面倒は見てやるのだが、大きくなっても、何も教えない。話すことも、歩くことも。そうすれば、いつまでも手を借りなければならなくなるから。

成長しても、決して部屋から出さない。いることさえ、世間に気づかせないまま、その手になり足になって、いつまでも世話をする。このおぞましさは、江戸川乱歩『芋虫』や早見純の劇薬マンガ『ラブレターフロム彼方』を思い出す。

畸形や欠損が「前提」として扱われ、自然に語られる。そこには、忌避感も痛みも伴わない語りだけが続けられる。どんなに異様な内容でも、普通に起きるのが夢だ。だからこれを夢だとしてもいい(でも誰の?私の?)。

極彩色の悪夢を強制的に見させられているうちに、私は、語りの対象がオーバーラップしていくことに気づく。最初にウンベルトがいた「修道院」と、ボーイがいた隔離「屋敷」が、同じ場所に重なっていく。ウンベルトがボーイとなることを暗示しているが、時系列的におかしい。美しい「イネス」は貧乏な老婆になろうとし、赤ン坊の若い器官は老婆のために使われ、支配者だったヘロニモは男性性をウンベルトに奪われる。窃視しているはずの「おれ」が実は「ボーイ」に見られてたり、経験していないはずの記憶を「おれ」が持っていたりする。現実から逃げようとした先が悪夢になる。あちこちに現れ、不吉を暗示し、物語を駆動していた「黄色い牝犬」は、読み手である私の視線の代わりだったことに気づかされる。

私は、安全な場所からの読者ではなかったのだ。

強者と弱者が入れ替わり、支配する者される者が転倒する。奪う/奪われる、見る/見られるといった立場の倒錯と、屋敷と修道院のそれぞれのキャラが相似形となっていることに気づき、融合し、闇の奥に閉じられる。語り手が完全に縫い括られる感覚と共に、物語は終わる。

狂気が正気の世界に呑み込まれる感覚は、こんなものなのだろう。あるいは、私が死ぬとき、現実に起きたことと頭の中で想像したことが、一度に一挙に超早送りされるなら、こんな光景なのだろう。

正気を確認するための再読

なぜ『夜のみだらな鳥』を、何度も読み返してしまうのか。

理解できなかったからではなく、むしろ逆で、「理解したと思った感覚」が、読み返す度に裏切られるからだ。分かった瞬間が罠で、ページをめくると、足元が崩れ去る。物語は崩れない。私の読みが崩れるのだ。

誰が語り、誰を見ているのか(見られているのか)、どこまでが記憶で、どこからが妄想か。判断基準が、普通の読み方では太刀打ちできず、毎回書き換えられていく。初読で「読んでる間ずっとカオス」「理解不能な混沌」と判断するのは簡単だ。だが、ひとたびこの悪夢に魅入られたなら、逃れるのは難しい。

つまり、再読は答え合わせではなく、別の悪夢を見るためのトリガーなのだ。読むたびに、読んでいる私の輪郭が、少しずつ奪われていく。信頼できないのは語り手ではなく、私自身なのだ。物語に理性を混濁させられる感覚は、一種の自傷行為なのかも。この悪夢に耐えられるか、正気でいられるかを、ぎりぎりで味わう。

その感覚が、たまらなく愉しい。




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学術論文の被引用数は「7回」「40回」を超えるとバズる『サイエンス・オブ・サイエンス』

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過去のデータを分析して、その傾向から何かしらの因果や法則を見出し、再現性を計測する。この営みを科学という。営むターゲットが素粒子や遺伝子や恒星など、適用先によって呼び名は違えども、本質は一緒だ。営まれてきた研究成果や論文は膨大な数となり、かつ、指数関数的に積み上がっている。

では、適用先を「科学」そのものにしてみたら?つまり、「科学の営み」そのものをターゲットとし、論文、プレプリント、助成金申請書、特許を過去データとし、研究活動の痕跡データを解析する。

なにしろ登録された論文だけでも5,800万件にも及ぶ。論文の最初の1ページをプリントアウトして積み上げると、キリマンジャロの頂上(標高5,895m)まで達する。これを「科学の山」という。

うち1,000回以上引用されたのは頂上付近の1.5m で、ほぼ頂点となる上から1.5cmは、1万回以上引用されたものになる(ちなみに、五合目以下の半分は、一度も引用されたことがないそうな)。

この論文の山そのものが、研究対象になる。いつ、どんなテーマで書かれており、論文同士がどのように引用/被引用されているのか、インパクトのある論文は、どの国の、誰が、どの年齢のとき、どんなチームで書かれたのか、ヒット後のキャリアにどう影響があったのか(本人・チームメンバー)を分析していく。

アインシュタインやエルデシュのようなレジェンドも扱うが、それはむしろ外れ値になる。この山はむしろそうしたスター級の科学者だけでなく、その下の膨大な人々の営みによって支えられているのだから。

本書の研究によって、さらにメタ的な視点も得られる。即ち、科学そのものの進化プロセスをどう加速していくのかといった観点や、科学者の生産性および大学・研究機関における知的資源の配分をどう効率化するのかといった視点からも得るものが大きい。

この学問領域が、「サイエンス・オブ・サイエンス」になる。

本書の想定読者は大きく2つ。

まず、科学者としてのキャリア形成が気になる研究者や学生だ。どんなチームや共同研究が成功を生み出すのか? キャリアのピークはいつで、ヒットの前兆は何か? 若手が成功する確率を上げるには? といった疑問にデータで答えようとする。

次は、そうした研究者を採用・助成・管理する、大学や研究機関になる。テニュア審査や人事、助成金の配分の意思決定に際し、被引用数やh-indexをどう扱えばよいか? 研究の生産性を上げる施策として有効なものは何か? こうしたテーマで、科学が科学されている。

論文マタイ効果

「マタイ効果」とは、キリスト教の聖句「持てる者はますます豊かになり、持たざる者はますます貧しくなる」に由来する。有名な研究者に功績が集中したり、一度注目された論文はさらに注目されるというバイアスのことだ。

有名な例だと、「巨人の肩の上に立つ」という言葉だろう。巨人の肩(=先人の積み重ね)のおかげで、より遠くまで見通せるメタファーだ。12世紀の哲学者シャルトルのベルナルドゥスの言葉なのだが、400年後のアイザック・ニュートンの言葉として有名だ。

本書では、レイリー卿の例が挙げられている(空の青さのレイリー散乱の人)。1886年にある論文をイギリス学会に投稿したところ、掲載レベルではないとして即リジェクトされた。ところが、著者名にレイリーの名が漏れていたことが判明し、名前を追加して再投稿したところ、編集部から陳謝の言葉と共に即掲載されたという。

「何を言ったか」より「誰が言ったか」が大事なのは、SNSだけじゃなさそうだ。

では、実績が少ない若手科学者は、いつまでも評価されないのか?どこまで実績を積み上げればよいのか?

2013年にScience誌に掲載されたWangの論文では、被引用数の閾値が考察されている。世界最大級の学術論文データベースWeb of Scienceを元に、物理・生物・化学・医学・工学・社会科学の領域から解析したものになる(※1)。

Wangによると、被引用数が7回を超えると、優先的選択が急激に高まるという。

注意が必要なのは、「7回引用されればマタイ効果が出る」という訳ではないこと。

無名の新人が書いた論文であっても、掲載されたジャーナルの格や、研究分野のトレンド、著者や共著者の評判といった、社会的要因が引用数を押し上げることになる。Wangはこれを初期魅力度と定義している。

そして、最初の段階では、この初期魅力度によって引用数が左右されるものの、被引用数が7回を超えると、初期魅力度に関係なく、優先的に選択されるようになるというのだ。

さらに、キャリアに対する評判とインパクトを研究したPetersenによると、被引用数が40回を超えると、急増することを指摘する(※2)。

被引用数が多い物理学者を調査したところ、平均的な挙動として、被引用数が40を下回るときは、増加率はゆっくりで、著者の評判が引用数に影響する。

ところが、被引用数が40を超えると、増加率が急激に上昇する。検索結果でもレビュー記事でも目につきやすくなり、自力で引用を呼ぶ仕組みが出来上がる。このクロスオーバー点を超えた論文は、マタイ効果の自己強化ループに乗り、伸びるものは加速度的に伸びていくというのだ。

被引用数が7回を超えると、「引用されているから引用する」ループが回り始め、40回を超えると、自律的に強化されていく。「7回」と「40回」というこの数値、はてなブックマーク数や、twitterの「いいね」に似てて面白い。バズる論文は、似たような挙動を示すのかもしれぬ。

科学の自動化

科学を科学する試みの中で、ロボット科学者「アダム」の話が面白かった。

科学の営みって、結局のところ「仮説生成」と「仮説検証」に尽きる。データや理論から仮説を作り上げるステップと、そうして作った仮説を確かめるステップだ。前者はAIの得意技かもしれないが、後者ができるのは人の領域だとされてきた。

ところが、「仮説を考える+その仮説を確かめる」の両方を自動化したのが、アダムになる。

アダムは、酵母の遺伝子機能に関する仮説検証を完全自動化したロボットだ。

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アダムの全体像(”The automation of science”wayne aubrey,2009 [URL]

遺伝子構造は分かっているが、どのような働きをしているのか分かっていない酵素が数多くある。その酵素の働きを特定するためには、酵母や培養条件を考え、人手で何日もかけて検証していく必要があった。これを全自動化したというのだ。

アダムは既知の酵母の遺伝子情報や、培養モデルをインプットし、酵素の反応を導く遺伝子候補やその結果となる表現型を推定する。そして、酵母株や培養モデルや代謝物の条件を変えながら自律的に実験する。

ロボットなので、プレートやアームや温度湿度の制御も自分でコントロールできる。培養物の成長曲線も観察し、仮説が正しければ得られるはずの結果と照合する。人がやったことと言えば、不要となった培養物の廃棄と、実験器具の補充だったという。

アダムはデータの有意差も自分で検定し、最終的には酵素をエンコードする遺伝子に関する12の検証済み仮説をアウトプットした。

科学文献を調査したところ、12の仮説のうち6つは既に発表されていたという。そのため、この6つについては厳密な意味での新発見とは言えないものの、ロボットが独力で見つけた成果としては大きい。

さらに重要なのは、どの文献にも載っていなかったエンコード遺伝子を3つ発見したという点にある。これは、ロボットが科学的意識を自律的に生み出した最初の事例といってもいいだろう。

24時間366日、不眠不休で働き続けるロボット科学者。夢のような話だが、SF脳からすると、「致死的ウィルスとか放射性反応といった、人だとダメージを食らう実験も任せられるんじゃね?」という発想も浮かぶ。

アダムに任せられた酵母は、ビールやパンに用いられる一般的な(=安全な)種になる。ある意味、象徴的なテーマだね。

ちなみに、アダムの次世代機はGenesisと呼ばれており、独立した1,000ユニットを同時に稼働させ、酵母だけでなく、代謝ネットワークや細胞レベルの挙動を解析する科学のオートメーション・システムになる。アダムを一人の大学院生に喩えるなら、Genesisは1,000人の研究員になるという。

科学を科学する。顕微鏡や望遠鏡を始めとし、遺伝子編集のCrispr-cas9や巨大粒子加速器など、様々な機器を用いて、科学は発展してきた。そのレンズを、科学そのものへ向ける営みが「サイエンス・オブ・サイエンス」だ。

日本でも研究会があり、自分でデータも利用できるみたいだ。

第1回 Science of science研究会へ参加してきました|Metascience Bento-kai

科学をメタ的に眺めることで、科学を加速するアイデアも得られるかもしれぬ。そういうヒントに満ちた一冊。

 

※1 “Quantifying Long-Term Scientific Impact” Dashun Wang,et al,2013 [PDF]
※2 "Reputation and Impact in Academic Careers” Alexander M. Petersen,et al, 2014 [PDF]
※3 "The automation of science” wayne aubrey,2009 [URL]
※4 “Genesis: Towards the Automation of Systems Biology Research” Ievgeniia A. Tiukova,2024 [URL]



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この本がスゴい!2025

「あとで読む」は後で読まない。

だから「いま」読む、一頁でも一行でも。

なぜなら、後回しにしているうちに、私の寿命が尽きるから。生物としての命ではなく、いわゆる健康寿命でもなく、読書寿命とでもいう余命だ。目がかすれ、感性と体力、そして集中力が失われ、読む気そのものが失せる読書欲の死だ。

積読家は嘯く、「積読には賞味期限がある」と。

だが、期限があるのは私の知力と集中力、そして好奇心のほうだ。

私がページを開くのを、本は待っていてくれる。待たせているのを忘れるのは、いつだって私の方だ。そして遠からず、「面白い」と愉しむための感受性が鈍化する。

読書余命が尽きたあと、苦い思いで積読山を眺めるのだけはごめんだ。

だから、読めるうち、アンテナが届くうち、咀嚼して味わえるうちに読む。

そして、新しい本より再読したい本を優先する。新刊を、新しいという理由だけで読むのは止めて、「本当に読む価値があるのか」という観点で吟味する。「読む価値がある」とは、「再読する価値がある」に等しい。

ナボコフは言った「ひとは書物を読むことはできない。ただ再読することができるだけ」

その通り、再読、再々読する度に、いかに読んでないか、読めていないかを痛感する。それを読んだことにして、感想を書いて公表していたのが恥ずかしい。だが、そのおかげで、初読と再読、再読と再々読の差が見える。

この記事では、2024年12月から2025年11月にかけて読んできた/再読してきた本の中から、選りすぐりを紹介する。

ほとんどが、誰かの呟きがきっかけだったり、読書会の本として手にしたり、「これを読め!」と強力にお薦めされた本ばかりである。私ひとりだけだったら、決して出会えなかった/読まなかった作品ばかりだ。

だから最初に御礼申し上げる。このラインナップは、わたしが知らないスゴ本を読んでいる「あなた」のおかげ。ありがとうございます!

 


無かった青春を上書き保存する
『やめろ好きになってしまう』もりぐちあきら

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陰キャのつき合う直前が一番エロいよね。

恋愛は「成立する前」こそが最も多様で最も数多くのドラマを生む。

クラスで目立たない陰キャ男子と、彼を好きになったツインテ陽キャ女子の、勘違い・すれちがい・あざとさを、糖度高く描きだす。ニヤニヤが止まらず転げまわる。

女子のモーションが生々しくてよい。歩いてて「どん」と押してきたり、手をつなぐ以前に指を引っ掛けてきたり、妙にリアルだ。作者はきっとそういう青春に恵まれてきたのか、そういう青春を血涙を流しながら眺めてきたのかのいずれかに違いない。

女の子からの猛烈アプローチに、「からかわれている」と身構える男の子。女の子も勇気を出して言い寄っているのに、それに気づかないもどかしさ。私に無かった青春がここにある。

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『やめろ好きになってしまう』第2話より

相思相愛が成立した瞬間、揺らぎが終わり、関係は「状態」になる。状態は「続くもの」で、物語を駆動しない。

不安、嫉妬、勘違い、自意識過剰、一歩踏み出せない勇気、相手の沈黙の解釈、何気ない一言に傷ついたり喜んだり……これらは全部、俺を宙ぶらりんにさせる。年間ベストを紹介する「この本がスゴい!」シリーズで、『からかい上手の高木さん』『僕の心のヤバいやつ』、あるいは『微熱空間』を強力に推していた理由はここにある。

シェイクスピア以来、いや、式部以来、ラブストーリーが面白いのは、つきあう前(それも直前)だ。つき合ってしまえば、多様性は失われる。デキてしまえば、することは同じ(多くてせいぜい48パターンに収束する)。「そして二人は一緒になりました、めでたしめでたし」は、物語の弔辞なり。

もちろん例外はある。沢山ある。だがそれは、ラブコメの王道である「『まだ』成立していない片思い」という豊かな土壌があるからこそ成り立つ。本当の恋とは片思い、(見てて)最高の恋とは両片思いなのだから。

残酷な俺は、この二人が互いに知らないキモチを確かめ合う瞬間を引き伸ばしたい。燃え上がってしまわないよう、熱量をコントロールして、微熱の残り香をずっと嗅いでいきたい。俺の、無かった青春を、この物語で上書きするために。

これは、はてなブックマークで知った。存在しない青春を、これほど彷彿とさせる傑作を教えてくれたことに、感謝しかない。はてブの皆さま、ありがとうございます!

[第1話]やめろ好きになってしまう - もりぐちあきら | となりのヤングジャンプ

こういう導入だと、学生時代に浮いた話がほとんどなかった人も、「もしかしてあの時のあれは、自分が勝手な思い込みで拒否してしまってフラグを折ってただけだったのでは⁉︎」と思えるので、素晴らしいね。

2025/03/15 16:26

激しく同意なのがこれ↑

女に縁がなかったのは若さゆえの無知で、「フラグをフラグと認識しなかった」からなんだと自分に言い聞かせ、あるはずのない青春を思い出す悦びを分かち合う―――はてブには、仲間がいる。

第1話はここから読める。無かった青春を上書き保存しよう。

 


「なぜ小説を読むのか?」への答えとしての小説
『小説』野崎まど

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なぜ小説を読むのか?

面白いから、現実を忘れられるから、キャラクターから勇気を、物語から興奮をもらえるからなど、様々な理由が思い浮かぶ。

小説を読むことで、物語中の誰かとなり、別の時代、別の場所に生き、見たことのない景色、感じたことのない経験をして、戻ってくる。読む前の「私」と違う存在となる。

単なる娯楽とするならば、映画やゲームや音楽など、他のメディアでも得られる。文字だけで世界を構築することで語彙力を増やし、想像力と創造性を高め、キャラクターへの共感性や描写への感受性を向上させる。

そういう「実利」のために、小説を読むのか?

読むことで得られる「なにか」のために、読むのか?

受け取るだけなのか?

小説から貰えるものを貰えるだけもらって、何も返さないのか?

読んでいるあいだ、物語の中にいる間だけは、形を保っていられる。空っぽの自分の代わりに物語が、キャラが、描写が、そこから得られる感情が詰め込まれる。

だから読む。だが、ただ読むだけでいいのか?読んだもの、自分の中に取り入れたものは、返さないのか?

「なぜ小説を読むのか?」という問いに、一つの小説の形で応答したのが、野崎まどの『小説』だ。念を押すが、『小説』というタイトルの小説だ。

物語が無かったころ、人生は一度きりだった。「もうああだったならば」「こう生きることもできた」という数々の後悔への反発であり、貴族としても犯罪者としても生きる可能性を示し、遠い未来の外宇宙も旅することもできるし、戦国時代の将として活躍することだってできる。男でも女でも人間以外にもなれる。

小説は人生の一回性に対する抗議として書かれたともいえる。小説のおかげで一生が二生にも三生にもなった。現実の、「運命」で片づけられる現象への反抗として、不完全で儚いヒトの記憶への対抗として、小説は書かれ、読まれた。

そういう可能性を、見事な形で小説にしたのが『小説』だ。

あらすじは野暮なので、ここでは紹介しない。前情報を抜きにして、直接、向き合ってみてほしい。まさに、私のために書かれた小説が『小説』だ、と強烈に感じるだろう。

本書を手にしたのは、Asylum Pieceさんのこのtweetのおかげ(ありがとうございます!素晴らしい体験でした)。

『小説』書評全文


正しさよりも「マシな悪」を引き受ける
『政治哲学講義』松元雅和

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トロリー問題の「違和感」から何がジレンマになっているかを炙り出し、「よりマシな悪」を引き受けるためにどうすればよいかを考える好著。

トロリー問題は2種類ある。「運転手」バージョンと「歩道橋」バージョンだ。

【運転手】路面電車が暴走している。そのまま進めば5人が轢かれ、待避線に逸れると1人が轢かれる。運転手は進路変更すべきか?

【歩道橋】路面電車が暴走している。そのまま進めば5人が轢かれるが、歩道橋の上にいる男を突き落とせば止められる。突き落とすべきか?

トロッコ問題とも呼ばれるこのジレンマ、この2つは別物に見える。「運転手」の方は問題として取り組むことができるが、「歩道橋」は問題以前の前提のところで禁忌を犯しており、問題として成立していないような違和感を覚える。

言い換えるなら、「運転手」バージョンで、待避線を選び、1人を殺すことと、「歩道橋」バージョンで、男を突き落とすことついて、同じ「1人の命」なのに、本質的に違うように見えるのだ。

あくまでも<私には>そう見える話なのだが、なぜだろうか?

『政治哲学講義』によると、それは衝突している義務が異なっているからだという。

義務には、「消極的義務」と「積極的義務」がある。「人を傷つけるな」といった義務が、消極的義務となる。一方で、「善いことをせよ」というのが積極的義務となる。両者は裏表のようで、このような関係になっている。

  消極的義務 積極的義務
遵守 加害しない(不作為) 善行する(作為)
違反 加害する 善行しない

「運転手」の問題は、どちらを選んでも「加害する」になる。そのため、「1人か5人か」を選ぶ消極的義務の中での問題となり、義務違反を最小化するために1人を犠牲にするという理屈は<一応は>成り立つ。

一方、「歩道橋」バージョンは、「善行する(5人を助ける)」と、「加害する(1人を殺す)」の衝突が起きている。

この場合私たちは、それぞれの義務を果たす、あるいはそれに背くといった、行為の性質の違いを考慮に入れなければならない。「歩道橋」の一人の加害が許されない理由は、異なった義務が衝突する場合、より厳格な消極的義務が優先されるからではないか。
『政治哲学講義』p.93より

たとえ5人を見捨てることになるとしても、「加害しない(消極的義務の遵守)」ことを優先する。作為の方が不作為よりも責任を問われることは、医療倫理の「何よりも害を与えてはならない(Primum non nocere)」にも繋がるという。

この考え方は、安楽死(尊厳死)の議論にも見出される。薬物注射で患者に死を直接もたらす積極的安楽死と、生命維持装置につながず、死にゆくままに任せる消極的安楽死だ。前者は殺人罪に抵触するとして規制されている場合が多いが、後者は法的・倫理的に許される余地があるという。

世の中には、様々なジレンマがある。あちらが立てば、こちらが立たない。トロリー問題は、こうした問題を抽象化した思考実験の一つだろう。

私たちは、「限られたワクチンを誰に渡すのか」とか「感染拡大を防ぐために経済活動を制限するのか」といった生々しい問題に直面させられてきた。利害の対立が生じるときや、どちらを選んでも悪い結果を招くことが明白なとき、どうすればよいか。

普通であれば、「どちらが正しいか」といったべき論で考察されることが多い。正義論の原理原則があって、そちらに即したほうの選択肢こそが「あるべき」であるという組み立てだ。

だが本書は、そうした正義の命ずるままに選択を行ったとして、果たして「正義は達せられた」と胸を張れるかと問う。やむを得ない選択だとしても、そこに何かが損なわれたと感じたり、やりきれなさを感じるのではないかと指摘する。

そして、そうした割り切れなさを考えるために、「どちらが正しいか」ではなく、「どちらがマシな悪か」という悪さ加減からアプローチする。「正しさ」というポジティブな視点からではなく、「悪さ」というネガティブな見方から、選択の重さを測る。

特に政治的な問題がそうだ。

どちらを選んでも、非難されることになる。ひょっとすると選択したことにより自分自身が破滅する場合もある。それでも「よりマシな悪(lesser evil)」を選び、引き受けるために、どのように考えることができるかが、紹介されている。

  • 人望ある船員1人の命か、隊の規律か:メルヴィルの『ビリー・バッド』
  • 国家への忠誠か、家族の愛か:ソポクレス『アンティゴネー』
  • 燃え上がる邸宅から誰を先に救うか:ゴドウィン『テレマコスの冒険』
  • ハイジャック機の164人を撃墜してスタジアムの7万人を救うのか:シーラッハ『テロ』
  • サルトルの「汚れた手」vs.カミュ「正義の人びと」
  • 我が子を放置して貧しい人々に募金する:ディケンズ『荒涼館』

本書が優れているのは、このように具体的な事例として文学作品を選んでいること。トロリー問題のように、「問題」とするために背景や他の選択肢を切り捨てるようなことはしていない。「他にやれることは何か」「どう考えれば”悪さ”を減らせるか」という取り組み方をしているので、一件落着という形でスッキリしない。

だが、それが現実なのだろう。「正しい答え」なんてものはなく、どちらを選んでも手が汚れるし、後悔もする。であれば、よりマシな悪を引き受ける他なかろう。

『政治哲学講義』書評全文


再読する度おもしろい
『存在の耐えられない軽さ』ミラン・クンデラ

N/A

「人生は一回だけ」という。

だが、もし、その一回の人生が、繰り返し繰り返し、寸分狂いなく同じ内容・同じタイミングで未来永劫リピートするなら、「その人生」をするか?(選びたいか?)

天国(キリスト教)とか来世(仏教)とか、”やり直し”を期待して今を雑に生きるのではなく、「いま・ここ」を丸ごと肯定し、その選択を(不都合な結果も含めて)引き受けられるか? そういう覚悟で今日という日を、今という瞬間を生きろ。

そう考えると、人生は途方もなく重くなる。ニーチェの永劫回帰である。

ミラン・クンデラは、この人生の「重さ」と対照を成すものとして、『存在の耐えられない軽さ』を差し出す。

Einmal ist keinmal(一度は数のうちに入らない)と、トマーシュはドイツの諺をつぶやく。一度だけおこることは、一度もおこらなかったようなものだ。人がただ一つの人生を生きうるとすれば、それはまったく生きなかったようなものなのである。

トマーシュは主人公だ。「一度は数のうちに入らない」と嘯くトマーシュは「軽い」。プラハの優秀な外科医で、美形で、女大好き。とっかえひっかえ200人くらいと寝ている。

現実はニーチェの思考実験とは異なり、たとえリピートしていたとしても、その記憶は残っていない。だから、何度目のリピートだとしても、生きるのはただ一度であり、それ以前の人生を比べることも、それ以後の人生を訂正することも無い。

そんなトマーシュが出会ってしまったテレザと、トマーシュの愛人サビナ、サビナの愛人であるフランツの四重奏が、この物語の骨格だ。

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四人の物語に覆いかぶさるように、チェコの民主化運動が吹き荒れる。プラハの春と呼ばれ、ソ連の軍事介入によって潰えた運動だ。

歴史の風圧のもとで、登場人物たちは様々な選択をする。「発言を撤回する/しない」とか「帰国する/しない」など、選んだ結果を引き受ける。生活どころか、運命をも変えてしまう選択を、あえて軽やかに引き受けるのは、ニーチェへのあてつけかもしれぬ。

女との偶然の出会いを「一度は数に入らない」と受け流してきたトマーシュは、テレザのために、かなり重い―――取り返しのつかないほど重い―――決断をしてしまう。トマーシュを求める一方、トマーシュの浮気性という「軽さ」に我慢ならないテレザは、性愛においても重くあろうとする。

テレザは、性は遊戯などではなく、身体と分かち難く結びついた「私という存在」を丸ごと承認するものだと捉える。セックスはイベントではなく、愛の儀式として扱おうとするため、「愛と性は別物」とするトマーシュと正面衝突する。

両親、友人、愛、祖国を裏切り続けたサビナは、人生というドラマから能動的に「軽く」なろうとしたのかもしれない。トマーシュとの愛も、フランツとの不倫も裏切り、その関係に名前を与えることを拒絶し、自由であろうとする。代償は孤独と空虚となるが、一通の手紙が持つ引力に打ちのめされる運命が待っている。

サビナの愛人であるフランツ。今回は彼に注目して読んだ。

実はこの作品、再々読になる。最初に読んだときは私自身が独り身だったこともあり、メインの三角関係(トマーシュ/テレザ/サビナ)ばかり追いかけていた。再読のときのレビューは [ここ] に書いた。あれから四半世紀、既婚者で不倫の愛に溺れるフランツの運命が響いた。

関係から軽くなろうとするサビナとは逆に、フランツは、関係に名前を与え、公開しようとする(フランツは「重さ」担当だ)。愛が真実なら、それが不貞であっても隠さず宣言するべきだとする。善良で、不器用で、愛を貫こうとする態度は潔いのかもしれない。

その結果、彼の運命にとって重すぎる決断を、いともあっさりと、軽く選んでしまう。傍から見れば愚かとしか思えない結末に至るが、それこそが、「存在の耐えられない軽さ」なのかもしれない。

人生の選択を重くも軽くもしているのは、結果の引き受け方にほかならない。選んだ方がどれほど深刻でも、そう受け止めるか否かの問題なのだ。

「もう一度でも同じ選択をするか?そう生きているのか」というニーチェの問いに、クンデラはこう応えているように見える。「何度繰り返すにせよ、今を生きるのはその一回だけだから、選んだものを軽やかに引き受けよう」と

人生で3回読むことになった理由は、読書会の課題本だったから。

  • なぜトマーシュとテレザは別れないのか?
  • なぜ2人の死が途中で明かされるのか?
  • 誰が「キッチュ」か?
  • これは「恋愛小説」なのか?

同じ作品を読んだ違う立場の11人が集まり、思い思いの疑問をぶつけ合った。

様々なネタや読み方が提案され、捏ねられ、飛び交った。命の軽さからマッカーシー『ブラッド・メリディアン』が提案されたり、クンデラの最高傑作として『不滅』が強く推されたりした。

分からないものは分からないでいいし、裏読み・深読みは自由でいい。互いのリスペクトや礼儀正しさは必要だが、必要以上に政治的な正しさは求められない。「私の考えとあなたの意見は違う」が、そのままの意味でやり取りできる喜び。そういう意味で、リアルの読書会は大変楽しかった。

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同じ本を読む人は、わりと近くにいることが確かめられて、嬉しい会だった。主催の東京ガイブン読書会さん、ありがとうございました!

『存在の耐えられない軽さ』書評全文


脳汁が出るアメリカ文学の最高峰
『響きと怒り』フォークナー

N/A

二十世紀アメリカ最高の作家と評されるウィリアム・フォークナー。

その最初の傑作である『響きと怒り』を読んだのだが、正直これ、面白いと言っていいのか、分からない。

1回目の通読に、何度も読み直しさせられたり、辻褄の合わないフレーズを理解するのに苦労させられた(後にそれはフォークナーの超絶技巧であることが判明する)。仕掛けだらけの難解さに加え、同名の別人が登場し、読み手の混乱に拍車をかける。

「この”クエンティン”って、あのクエンティンだよな?」などと呟きながら、行ったり来たりするうちに、散りばめられたピースが組み合わさり、物語の全容が浮かび上がってくる。300ページの長編小説を読み通すのに一週間もかけたのは珍しい。

さらに、全てを読み終えたいま、改めて1ページ目から読み直している。河出書房の新訳だけでなく、岩波文庫とも読み合わせながら読む。歯ごたえはあるものの、噛みしめると滋味あふれる、中毒性のある読書なり。

第一印象を一言で表すと、ピカソのヴァイオリンだ。

Pablo Picasso, 1912, Violin and Grapes, oil on canvas, 61 x 50.8 cm, Museum of Modern Art.jpgBy Pablo Picasso - [1], PD-US, Link
「ヴァイオリンと葡萄」パブロ・ピカソ、1912

ヴァイオリンがどんなものかなんて、みんな知っている。写真でも実物でも、いくらでも見ることができるから。だが、「ヴァイオリンとは何か?」「ヴァイオリンを『見る』とはどういうことか」を考える時、私たちはヴァイオリンの様々な側面―――渦巻きのあの形、胴体の木目や弦、特徴的なf字孔―――などを思い浮かべる。

ピカソのヴァイオリンは、そうした断片を組み合わせて、手で触れられそうな立体を構造化するゲームをしている気にさせられる。キュビズムは、様々な側面から表現したモチーフをキャンバスという同一平面上に展開している。多視点を融合し、形態の断片からの再構築を促している。

フォークナーは、ピカソが絵画でやったことを、小説でやっている。

つまりこうだ。『響きと怒り』では、キャディという女性がヴァイオリンになる。20世紀初頭にアメリカ南部の没落貴族に生まれ、性的に自由奔放でありながら母性的な魅力も併せ持ち、崩壊する一家の象徴のような女だ。

物語の中心でありながら、直接的な語り手としては登場しない。なおかつ、物語の進行とともにキャディは一家から遠ざかり、その不在だけが強調されるようになる。

彼女は、三人の兄弟(ベンジー、クエンティン、ジェイソン)の目を通して語られる。愛情と安心の源泉だったり、純粋さと葛藤の対象だったり、一家の没落の原因として語られるのだが、各人の思いや立場によって歪んでいる。そのため、信頼できない語り手として読み解くしかない。

彼女のイメージ、声、におい、触れた感じを呼び覚ますさまざまな縁は残されており、それらをトリガーにして記憶が蘇り、語り手の「いま」の内面に、描写に、直接挿入されてゆく。時間や論理は線形ではなく、フラッシュのように瞬く。「意識の流れ(stream of consciousness)」というやつだ。

ピカソは各部分の断片からヴァイオリンを描いたが、フォークナーは三人の意識の流れからキャディを描く。読み手は、三人の断片からキャディの存在と不在をありありと感じ取ることができる仕掛けになっている。

ジョイスやウルフやフォークナーで有名なので、「意識の流れ」は文学臭がぷんぷんするが、日常でもよくあるやつ。何かのイメージや臭いをきっかけとして、昔のことを思い出したり、今の状況と関係のない思考に横滑りしたりすることはあるだろう。人は、放っておくと、とりとめもないことを思い浮かべたり、しなくてもいい考えに取り憑かれたりする、あれだ。

その思考を垂れ流すだけなのか、読者に与える影響をきちんと計算して書くのかは、作家の力量になる。

たとえばスティーヴン・キング。怪物が潜んでいる暗がりに向かう人は、その暗がりから想起される過去の「いやな出来事」を思い出す(いじめられた記憶や、家族を失った事故とか)。最初は独り言として「」に書かれていたのが、地の文で執拗に内面が掘り起こされ、気づいたら「いま」目の前に怪物いる……というパターン。

原文だとイタリック体で、翻訳版だとゴシック体で記載されている。キングフリークスにはお馴染みのゴシック体を用いた回想と現在との接続は、『響きと怒り』が発祥だったと考えると面白い。

他にも、「どこかで読んだ気がする」感が呼び覚まされる。

例えば、キャディらの母・キャロラインの毒親っぷりと嫌味ったらしい繰り言は、ガルシア=マルケス『百年の孤独』で4ページにわたり一度も句点「。」を使わず延々と愚痴をこぼすフェルナンダの長広舌そっくりだ。

あるいは、読点を一切使わないまま、過去の対話と眼前の光景を重ね合わせるクエンティンの独白のような地の文は、コーマック・マッカーシー『越境』で何度も目にした。

これ、過去に経験した作品が、「いま」と重なったことがある人にはピンとくるだろう。映画に喩えるなら『スターウォーズ』や『アキラ』を初めて観る人が感じるデジャヴと似ているかもしれない。

ストーリーの骨子はベタな、それこそ新聞の三面記事にありそうなやつだ。ピカソのヴァイオリンがありふれたモチーフであるように、この家族に起きる破滅も、よくある悲劇にすぎぬ。

それを、語り手からダダ漏れる騒々しい声を重ね合わせ、炙り出そうと四苦八苦するうちに、この悲しみが、主観的な出来事として私の内側で再構成されてゆく。キャディに対するベンジーの思いが溢れ出し、彼の意識を埋め尽くすとき、その悲しみを、「そのままの形」で感じることができる。

どこに持ってゆくこともできず、何かに昇華することもできず、それでも人生が続くことを受け入れるしかないことを思い知ることになる。

シェイクスピアは、妻の死を嘆くマクベスにこう言わせた。

Tomorrow, and tomorrow, and tomorrow,
Creeps in this petty pace from day to day,
To the last syllable of recorded time;
And all our yesterdays have lighted fools
The way to dusty death. Out, out, brief candle!
Life's but a walking shadow, a poor player,
That struts and frets his hour upon the stage,
And then is heard no more. It is a tale
Told by an idiot, full of sound and fury,
Signifying nothing.

明日また明日、そしてまた明日と、
一日一日、小刻み這いずってく。
〝時〟そのものが消滅する、終末のその瞬間まで。
そしてわれらのすべての昨日は、
愚者が死に塵に還る道を照らしてきた。
消えろ、消えろ、短いロウソク。
人生はただ、うろつき回る影法師、あわれな役者。
出番のあいだは舞台の上で大見得を切り、
がなり立てても、芝居が終われば、
もうなんの音も聞こえぬ。
人生とは愚者の語る物語、
響きと怒りすさまじいが、
意味するところはただの無だ。

人生とは「愚者の語る、響きと怒りに満ちた物語」であるならば、そこからタイトルを得た本作は、人生の虚無をそのままの形で受け取ることができる。

『響きと怒り』書評全文


まじめにふまじめ、痴的で知的なネタ
『読むだけでグングン頭が良くなる下ネタ大全』堀元見

N/A

まじめにふまじめ、知的で痴的な一冊。

歴史、医学、宗教、経済学、生物学、文学、テクノロジーなど、あらゆる学問分野から「下半身の知」を掘り下げる。知的好奇心と性的好奇心を同列に扱う。

性欲旺盛な高校男女が手にして、知的探求のあまり学問に目覚めるかもしれぬと思うとニヤニヤが止まらぬ。学校図書館に常備しておきたい。

例えば「くぱぁ」の歴史は奥深い。「くぱぁ」とは、観音サマの開陳であり、御開帳であり、オープンリーチ一発ツモ満願であり、雌蕊を指で開くオノマトペである。

本書では、紀元前5世紀のヘロドトスが目撃したかもしれないくぱぁから、スペインのカタルーニャ地方に語り伝えられる「女陰を出すと海が鎮まる」伝説、ヴァギナを見せて悪魔を追い払うフランスの話、岩戸に隠れた天照大御神を引っ張り出すために御開帳した古事記の話などが紹介されている。

言語学的に見て面白いのは、洋の東西でイメージが対照的なところ。

vaginaに代表される西洋語(ラテン系)では、剣の鞘(≒男性器を受け入れる器)を意味する。一方、インド・東南アジア圏では、生命の源といった意味がある(サンスクリット語のyoni:宇宙の源、日本語の「ほと」:火処)。あの場所を、入口として見るか、出口として見るかの違いなのかもしれぬ。

『下ネタ大全』は、そうした、古今東西のくぱぁの事例を解説しながら、女性器を見せつける文化は特殊でもなんでもなく、地球上あらゆる場所で独立に発生している素朴で自然な行為だという。

突拍子もなく感じてしまうのは、我々が近代化の過程で発達させた感覚にすぎず、むしろ女性器を見せつけない文化の方が珍しいとさえ言えるだろう。我々は極めて偏った価値観の中を生きている。

これ、まさにその通りなんだけど、令和よりも昭和の方が偏っているように思える。

というのも、昭和の時代では、出版界の規制により、陰毛や性器の露出は厳しく禁止されていた。当時のヌード写真では、陰部はボカシや黒塗りが普通だった。印刷時に加工できない輸入版のPLAYBOYやPENTHOUSEだと、コンパスの針で削ったかのような「消し」が入っていた。たとえ苦労して裏本や裏ビデオを手に入れても、モザイクが入っていないというだけで、あくまでボヤっとしていた。

昭和では、「見えないこと」が、逆に想像力と欲望を喚起した。「見ることはできないが、確かに存在する」ものとして、神聖視され、神秘的な存在だった。「なんとしてでも見たい」という強い思いは男を衝き動かし、恋愛や結婚へドライブする欲望となっていた。畏れと憧れを込め、「観音様」「御本尊」と呼んでいたのは、「ありがたい」「ひれ伏したい」「拝みたい」といった祈るような感覚がベースにあったからかもしれぬ。

平成は、この希少性が薄れてゆく時代だと考える。象徴的な例として、宮沢りえのヌード写真集『Santa Fe』がある。平成3年(1991)に発売された写真集で、当時18歳だった宮沢りえを篠山紀信が撮影したものだ。人気絶頂の宮沢の、ヘアヌード写真集だったということもあり、165万部という写真集の世界記録を達成した(Wikipediaより)。これがヘアヌード解禁のトリガーとなったことを記憶している。

令和では、お手元のスマホや、PCの大画面で、大量に手軽に鑑賞できる。内視鏡や胃カメラで撮影した内部映像のみならず、CT断面図、サーマルイメージングといった人の眼では不可視の領域まで暴かれている。あれほど見たいと希ったそれは、神秘性や希少性を剥ぎ取られた内臓になる。600年前に世阿弥が言った「秘すれば花」の重みは、時代を経るごとに増すばかりだ。

こんな風に、わたしの想像力(創造性?)を喚起させながら、徹頭徹尾下ネタを延々と語り続ける。

  • 最古のカーセックスは牛車(1000年前の『和泉式部日記』)、最先端だと無重力空間(ゼログラビディセックス)
  • 規制当局とのイタチゴッコとなる局部修正の歴史は、ミケランジェロの『最後の審判』に弟子が加筆した腰巻から始まる
  • 急性心筋梗塞に用いる血栓溶解剤「ウロキナーゼ」の原材料は女性のおしっこで、大量の尿を集めるために修道院の女性が選ばれた
  • アダムの「あばら骨」からイヴが作られたというが、肋骨の数は男女同一のため矛盾。むしろ陰茎骨を使ったのでヒトのペニスには骨が無い説
  • 2024年にFANZAが発表したビッグデータ分析によると、ここ5年間で急上昇した検索ワードは「乳首」

世界を下半身から眺めると、タブーや恥じらいに隠されてきた文化の構造が、驚くほどクリアに見えてくる。性とは、最も人間的で知的で痴的なテーマなのだ。

『読むだけでグングン頭が良くなる下ネタ大全』書評全文


狂気で片づけるにはあまりにも人間的な物語
『花びらとその他の不穏な物語』グアダルーペ・ネッテル

N/A

すべての人間はモンスターであり、
人間を美しくしているのは、
私たちのモンスター性、
他人の目から隠そうとしている部分なのです
(グアダルーペ・ネッテル)

この著者の言葉どおりの短編集。すごく好き。人間の不穏当な部分に光を当て、そこで育まれる狂気を静かに描き出す。人の持つモンスター性から、一切の暴力を削ぎ落すと、こんな人生になるのかしら?と考えると愉しい。

例えば、夜な夜なパリのトイレを探し回る男を描いた「花びら」。男が探しているのは、ある女性が残した痕跡だ。

並々ならぬ嗅覚へのこだわりがある男は、人目にさらされない唯一の場所に残された印(しるし)を匂いのかたちで思い出にしていた。白い便器についた一筋の液体に心身の不調を嗅ぎ取ったり、鴨のマンゴーソースといった料理がどのように「解釈」されたかを分析していた。

女性用トイレを探索するたび、新しい解釈を見出し、刺激的な発見に心をときめかせていたのだが、ある日、独特の香りと出会う。第一印象は控えめなものの、生命深部から湧き出る生々しさに虜になる。「フロール(花)」と名づけ、その痕跡の主を探そうとする。

見咎められるリスクを慎重に回避しつつ、毎晩毎晩、フロールを探し求める―――読者は、その異常性を目の当たりにしつつ、これは極めて自然に描かれるラブストーリーであると考えざるを得ない。

果たして男はフロールを見つけられるのか?出会った二人に何が起きるのか?

不穏な雰囲気のまま、読者はラストにたどり着く。これも一つの愛の物語なのだろうと自身を納得させるしかない。そんなストーリーが6つ、用意されている。「まぶた」の写真を撮り続けるうち、理想のまぶたを追い求める男や、男の私生活を、道一つ隔てた部屋から覗き見する女など、歪んだ、でもひたむきな執着心と向き合う。

なぜ、こんなに不安にさせられるのだろう?

すぐに気づくのは、「理由」がないことだ。

どの物語でも、誰が何を求めているのかが詳細に説明される。全てのストーリーは一人称で語られているため、隠されるものは無い―――にも関わらず、「なぜ」については、塗りつぶされたように現れてこない。

主人公の目を通して、読者は、物語の目撃者となるのだが、何が起きているのかクリアなのに、どうしてそうなったかは自分で考える他ない。もちろん「こいつは狂ってる」と片づけることだってできる。でも、狂気の一言で片づける人は、そもそもラストまでたどり着けないだろう。それほど、ひたむきで、執拗で、自然な想いなのだ。

「なぜ、そんなことをするのか?」が説明されない宙吊りの状態が続くと、読み手は、無理にでも理由を持ってこようとする。不穏さを楽しむにはちょうどいい。

作者は、「もともと人はそういうモンスター性を秘めた存在だ」という動機があり、それをどういうモチーフにすると面白いか?といった設計で、これらを書いているように見える。

そこで描かれる登場人物のモンスター性は、読み手が内に秘めたモンスター性とは異なっている。そのため読者は、自分の習癖(性癖・手癖・執着)に気づくことなく、安全な場所から読んでいられる。

安全に狂気を楽しめるものの、読み終えると、それは、狂気ですらないことに気づかされるかもしれない。

『花びらとその他の不穏な物語』書評全文


「アートが分かる」とはどういうことか
『なぜ脳はアートがわかるのか』エリック・カンデル

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「アートがわかる」とはどういうことかが分かる一冊。

著者はノーベル賞(医学・生理学)を受賞したエリック・R・カンデル。神経科学の教科書『カンデル神経科学』やブルーバックス『記憶のしくみ』の著者と言えば早いかも。

『なぜ脳はアートがわかるのか』は、お堅い教科書ではなく、現代アートを俎上に、認知科学、大脳生理学、医学から、美術史、美学、哲学まで、さまざまな知を総動員して、美的体験のメカニズムを解き明かしたもの。

ジャクソン・ポロックやアンディ・ウォーホルなど、アート作品が掲載されているのがいい。読み手は実際にそれを見ながら、還元主義的なアプローチで自分の美的体験を追検証できるような仕組みになっている。

本書では、人間の認知システムを、写実主義と抽象芸術で解き明かす。

人は、進化の過程で、具体的な対象を処理する能力に特化してきた。例えば、顔や身体、輪郭や色彩といった要素は、視覚システムに備わったボトムアップによって素早く処理される。

網膜に映った光のパターンから線や輪郭を抽出し、低次野で処理しながら「これは顔だ」「これはリンゴだ」と判断する能力は、生存に直結するため、極めて重要なものになる。「見たものをありのままに」描こうとする写実主義は、このボトムアップ処理から発達してきたものになる。

一方、抽象芸術はこのボトムアップ処理だけでは十分に理解できない。そこでは現実世界の具体的な形や遠近感が意図的に解体され、色・線・フォルムといった構成要素に還元されているためだという。

トップダウン処理では、蓄積された記憶や経験、知識を引き出しながら、あいまいな刺激に意味を与える。パレイドリアに代表されるように、人間の脳は「何か」を見つけようとする性質がある。

肉塊のように写実的に描かれたベーコンの「目」を手がかりに、「顔」だと認識できるのは、ボトムアップ処理のおかげだが、抽象的な「口」を見ようとすると、視覚システムは手がかりを失い、トップダウン処理になる。そして、これがハマると、鑑賞者は画面に「自分だけの物語」や「感情の奔流」を感じ取ることができる。

「アートが分かる」とは、作品をきっかけとし、ボトムアップやトップダウンのアプローチにより、<私>の中に新しい意味や感情を生成することに他ならない。

著者エリック・カンデルは、アートと科学の還元主義的アプローチに注目する。科学者が複雑な現象を要素に分解し、そこから全体像を再構築するように、アーティストもまた形象を分解し、<私>に再構築を委ねる。そこには、アートと科学の還元主義的アプローチの交差がある。

アートと科学の間に立つ一冊。

『なぜ脳はアートがわかるのか』書評全文


爆笑しながら「美とは何か」マジで考える
『モナ・リザのニスを剥ぐ』ポール・サン・ブリス

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めちゃくちゃ笑った後で「美とは何か?」「ホンモノとは?」と悩まされた。

「モナ・リザ」のニスを剥ぐとはどういうことか?

実は、「モナ・リザ」には何層ものニスが塗られている。作品を保護するためなのだが、同時に、色鮮やかにする効果もある。だが、長い時間の経過により、ニスが変質して作品を緑がかった暗い色にしてしまっている。ニスの上塗りで発色は良くなるのだが、一時的なものだ。

だから、繰り返し塗られたニスの層により、私たちが見ている「モナ・リザ」は暗い霧の奥にいる。

これを救い出そうとする試みは何度も検討されてきた。だが、経年劣化でひび割れだらけのポプラ板や、顔料層を傷づけるリスクが大いにあった。歴史的・文化的な価値が極めて高く、現実のルーブル美術館は、修復を避け、温湿度が管理された特殊なケースの中での保存を優先している。

だが、フィクションのルーブル美術館長は、カネ儲けの為に、主任学芸員オレリアンに命じる「やれ」と。古きよきものを愛する彼だけがまともに見えるのだが、いささか心もとない。修復に反対する世論、返還の要求をし始めるイタリア、政府や国家を巻き込んだ騒動に巻き込まれ、絶対に失敗してはいけないプロジェクトを任される。

この「絶対に失敗してはいけないプロジェクト」というのがミソで、こんなん、小説作品として描かれるなら、「押すなよ、絶対に押すなよ!」に決まってるじゃん。登場してくる連中はほぼ全員どこか変だし、なにかやらかしてくれる予感しかしない。

そういう意味でチェーホフの銃だらけなんだけど、すごい意味で裏切られてよかった。銃じゃなくて大砲に撃たれ、息できなくなるくらい笑って涙で読めなくなった。

これ読む人へのアドバイス。手元にスマホを用意しよう。

「なぜスマホ?」といぶかる方もいるかもしれないが、要所要所に美術作品が散りばめられており、検索したくなるはずだから。

カネの亡者の館長はユレヒトの「リューベックの若き女性の肖像」になぞられ、文化省の官僚に呼び出されて行く先にはピュランの円柱が立ち並ぶ。ポンピドゥーセンターの醜悪さのネタは何度も擦られ、メッシーナの「受胎告知」のポーズがハマるシーンもあれば、『太陽がいっぱい』のアラン・ドロンのサングラスも出てくる。著者によるオマージュやトリビュートの遊びだけれど、検索して見ると、小説内描写と不思議とピタリとハマるだろう。

スマホの小さな画面にスクロールされる膨大なコンテンツがある。youtubeのまとめ動画と、ルーブル美術館に展示されている名画が、同じサイズのサムネイルで並んでいる。その中で「モナ・リザ」はどのように位置付けられるのか。ルーブル美術館やダ・ヴィンチの業績といった歴史的文脈から切り離され、視覚の洪水の中でアイコンとして見える「モナ・リザ」は、あの笑顔でなければならない―――そう感じるかもしれぬ。

同時に、私はなぜ「モナ・リザ」が好きなんだろう?「モナ・リザ」の何を美しいと感じているのだろう?とマジ考えさせられた―――本書をラストまで読めば、答えはすぐにたどり着くのだけれど、それって本当に「美」なのだろうか?という恐ろしい疑問が待っている。

『モナ・リザのニスを剥ぐ』書評全文


音読最高!読むロック
『口訳 古事記』町田康

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「音読」をテーマにしたオフ会でお薦めされたのがこれ(daen0_0さん、ありがとうございます!)。

日本最古の歴史書であり、神話と伝承の源泉である古事記。とっつきにくいイメージがあったが、河内弁でしゃべりまくったのが町田康の『口訳 古事記』になる。

町田康の文体って、リズム感があって、言葉に勢いがある。大量殺人事件「河内十人斬り」を一人称で描いた『告白』には独特のグルーヴ感があり、ハマると止められない中毒性の高い「読むロック」だった [書評]

だから彼の小説は、音読すると面白さマシマシになる。漫才のようなノリツッコミや、寄席のような口上は、声に出して読みたい物語なり。例えばこれ、日本最凶の問題児・スサノオノミコトがスーパーサイヤ人よろしく空を飛んでくるシーンだ。

なにしろ泣くだけで山の木が枯れ海が干上がるほどのパワーの持ち主がもの凄いスピードで昇っていくのだから、コップが落ちた、茶碗がこけたみたいで済む訳がなく、震度千の地震が揺すぶったみたいな感じになって、山も川もまるでアホがヘドバンしてるみたいに振動、国土全体が動揺してムチャクチャになった。

このことがすぐに天照大御神(アマテラスオオミカミ)のところに報告された。
「ご注進、ご注進」
「何事です、騒騒しい」
「えらいこってす、芦野原中国(アシハラノナカツクニ)が動揺してムチャクチャになってます」
「マジですか」
「マジです」

一つ一つの行動が災害級の大迷惑で、読んでる方が「どうすんだよこれ」と呆れていると、「マジですか」「マジです」とすっとぼけた会話でシメる(これ、狙ってやってるリフレインだな)。なお、カミサマの名前の読みはルビがふってあるので安心して音読できる。

声に出すのも憚られるような、糞尿・ゲロ・おっぱい・女陰・エログロ描写が丸だしで、ゲラゲラ笑いながら音読する。ギャグ漫画よりもマンガ的で、神話だから規制無しで、しかもカミサマだからなんでもあり。

ぶっ飛んだストーリーなのだが、さすが神話、どこかで聞いた話と繋がるのが面白い。

例えば、お供えのために、オオゲツヒメという女神が料理を任される。オオゲツヒメは、自分の鼻や口や尻穴からひり出したもので食事をこしらえるのだが、どう見ても鼻汁・ゲロ・糞尿なので、スサノオノミコトが激怒して殺してしまう。

すると不思議なことに、女神の屍骸から穀物が生えてくる。具体的には、眼から稲、女陰から麦、尻穴から大豆が生えてくるのだが、これ、インドネシアのハイヌウェレ神話と酷似している。

ハイヌウェレは尻から大便ではなく食べものをひり出す少女で、彼女を気味悪がった村人から殺されることになる。少女の死体からは多種多様なイモが生えてきて、その地域の主食となったという。

生命を生み出すのは女性。その死体から食べものが生えてくるという食物起源神話は、赤坂憲雄の『性食考』で知った[書評]。生きることと食べることの源を女に求めるのは、考えているよりも普遍性を持つのかもしれぬ。

また、女陰を見せつけて大騒ぎするシーンがある。天岩戸に隠れたアマテラスを呼び出す宴会の件だ。天宇受売命という女神が踊り狂ってトランス状態となる。

踊るうちに、玉やら鏡やら神聖な御幣やら、後は祝詞の力、天の香山の木や草の力やら、後は桶の律動的な拍子、踊りそのものなどが合わさって、天宇受売命(アマノウズメ)は神がかって、思考がなくなり神の力そのものとなって、のけぞって衣服の前を両手で左右に引っ張って乳を丸出しにし、それから、下半身に巻いた裳を結んだ紐を押し下げ、腰を前に突き出した。

その結果、女陰が丸出しになった。

その乳と女陰が丸出しになった状態で、首を振り、頭につけた蔓草を振り乱し、手に結んだ笹を振り回し、なお踊り狂った。

神々が集い、天地を揺るがすほどの大爆笑の騒ぎに、「なんだろう?」と気になるのは仕方ない。気になったアマテラスが岩戸を少し開けた後のお話はご存知の通り。問題はヴァギナ・ディスプレイになる。

女性器の世界史とも言えるブラックリッジの『ヴァギナ』で知ったのだが、古今東西、女陰には、魔物を祓い、幸運を呼び込むパワーがあると信じられていた。

ヨーロッパやアジアの神話において、女性がスカートをたくし上げることで、敵を威嚇したり、荒ぶる海を鎮めたり、戦争において士気を高めたという伝承が多々ある。クールベの『世界の起源』の通り、お釈迦様を除いた人類の源なのだから、そこに神秘性を見出すのは、普遍的なものなのかもしれぬ。

こんな風に、破茶滅茶で奇天烈なのだが、どこか懐かしさを覚えつつ読み上げる。アタマで読むのではなく、ボディで味わう感じ。詩のような歌のような呪文のような神々の名が、最終的には地名や言葉の由来となる。自らの正統性のエビデンスとするために編まれた物語が、これほどのエンタメになるなんて。

まさに音読するための一冊なり。お薦めいただいたdaenさん、ありがとうございました!

なお、ビジュアルで古事記を攻めたいという方には、こうの史代『ぼおるぺん古事記』をお薦め。ボールペンだけで書かれた絵物語とでもいうべき古事記。エロもグロもエッチなところも余さず丁寧に描かれているのがいい。

N/A

『口訳 古事記』書評全文


読むほどに酔い・酔うほどに読める
『やし酒飲み』エイモス・チュツオーラ

N/A

読み始めた瞬間、何かがおかしい。文を二度見し、首をひねりながら先を追う。冒頭からしてこれだ。

わたしは、十になった子供の頃から、やし酒飲みだった。わたしの生活は、やし酒を飲むこと以外には何もすることのない毎日でした。

「だった」と「でした」とが入り混じっている。誤植?まさか岩波文庫がそんなわけない。対等関係の常体(だ・である)と、フォーマルで丁寧な敬体(です・ます)が混在し、独特の語調を生み出している。

そして原文(英語)の方が違和感マシマシになる。

I was a palm-wine drinkard since I was a boy of ten years of age. I had no other work more than to drink palm-wine in my life.

「10歳の頃からずっと(since)やし酒のみだった」とsinceを使うなら、I have been~とする方が自然だろうし、「やし酒を飲む以外(more than)何もしない」ならば more than じゃなくて except が普通じゃね?と思う。

この違和感は意図的で、わざと正しくない(broken)使い方をしているという。書かれた文章だけど肉声で語られているような感覚で、読むと酔うような文章に仕立てられている。もっとも原文が壊れているので、そのまま翻訳できない。「翻訳不能性」を逆手に取って、歪んだ日本語で語ることで、ねじれたリアリティを醸すように訳している(合わない人は悪酔いするかも)。

さらに、物語そのものは王道の「行きて帰りし」なんだけど、展開がブッ飛んでいる。

あらゆる死者が集まる街があり、親指が破裂して子どもが生まれる(急激に成長し大食漢になり親とバトルする)。木から腕が生えて木の内部に取り込まれた先に街がある。「死」は売買できて、「恐怖」は貸し出せる。

そもそも主人公が妙な術を使う。

やし酒を飲むしか能が無かったはずなのに、神でありジュジュマン(juju-man)だと名乗り、ピンチになると火や煙に姿を変えて難を逃れる(jujuとは西アフリカにおける呪術・まじないを意味する)。攻撃はもっぱら銃やナイフを使ったりする、神なのに。自分の死を売り渡してしまったので不死になるが、「恐怖」は返却されてきたので、「不死身なのに怖い」思いをする(←こういう発想が出てくる文化圏なのだ)。

現実の中に説明されないまま超自然現象が語られるのは、マジックリアリズム(魔術的リアリズム)と呼ばれ、マルケスやドノソが粘り気のある傑作を書いている。これに比べると、幻想色が強く、まじないや呪術が説明抜きで語られる本作は、ジュジュリアリズム(呪術的リアリズム)なのかもしれぬ。

これ、マルケスの魔術的リアリズムよりも、ずっと「まじない」に引き寄せられている。だから、物語に理屈や象徴を読み取る前に、まず呪われる。そんな、物語に呪われる語りの力がある。

まるで見てきたように語られるのだが、「妖怪」とか「幽霊」といったラベルが通用しないところが幻想譚とは違うところ。カフカのような圧ある不条理文学なのかと思いきや、妙に具体的な数字を挙げてくる。

突拍子もない筋立てに、「四百人ばかりの赤ん坊の死者」とか「収容能力四十五人、直径百五十フィートの袋」あるいは「七ポンド十八シリング六ペニーで私たちの死を売り」なんて言われると、思わず想像してしまう。

これは詐欺師のやり方で、大真面目にウソを語るんだけど、数字を入れることで信憑性を増やす。最初に提示された数字に引っ張られて、その後の判断に影響を及ぼすことをアンカリング効果というが、その異種とも言える。数字を出すことで具体的に考えさせる思惑があるのだろう。この辺は、「ほら吹き男爵」として有名なミュンヒハウゼン男爵で用いられた手法なり。

こんな風に、読むほどに酔うほどにハマれる。空想の赴くままの寝物語か、酔っぱらいの回顧録を、クダ巻きながら聞かされるという感覚だ。いずれにせよ、読み終えたときには、こちらの意識まで千鳥足になっている。

これ、17年前の再読なんだけど、物語に酔っぱらって書いていることが分かる。無制限の想像力が爆発する「やし酒飲み」

『やし酒飲み』書評全文


「日本軍」という反面教師
『失敗の本質』戸部良一ほか

N/A

経営幹部の必読書として有名な『失敗の本質』が面白かった&タメになった。

太平洋戦争における失敗の本質は、「国力で圧倒的に差がある米国にケンカを売ったこと」に尽きる。人を含めたリソース差が決定的であり、他の理由は後付けに過ぎない。「もし~だったら」と歴史にIFを求めても、いわゆる後知恵だ。

だが、この後知恵をあえてやったのが『失敗の本質』だ。

「なぜ開戦したのか」という問いはスルーすると序章で謳っている。代わりに「日本軍はどのように負けたのか」というテーマで日本軍の組織構造を研究する。インパール作戦やミッドウェー海戦など代表的な負け戦を6つ選び、いかに日本軍がダメで、米国や英国が優れていたかを力説する。

本書の前半は失敗の事例研究になる。各作戦(ミッドウェー、ガダルカナル、インパール、レイテなど)の背景や経緯は、膨大な戦史資料から引かれている。緊迫していく戦場の空気や、臨場感あふれる戦闘描写は、結果が分かっていてもハラハラさせられる。

この、見てきたような書きっぷりは、塩野七生『ローマ人の物語』と重なる。

ただし、『ローマ人の物語』は「ローマ軍TUEEEEEE!!」と激賞する一方、『失敗の本質』では「日本軍YOWEEEEEE!!」で塗りつぶされている。曖昧な作戦目的、兵力の逐次投入、兵站軽視、陸海軍の反目、代替案の欠如、「空気」が場を決める等、日本軍のダメっぷりがこれでもかと糾弾されている。

「日本軍のここがダメ」の非難が激しすぎて、ちょっと可愛そうに見えてくる。たとえば、ミッドウェーで完敗した理由の一つに、暗号解読されていて作戦が筒抜けだったところ。だが本書はそうではないと断ずる。

作戦がバレていても、実行段階で気づいて対処すべきだったとか、あのとき撤退すれば無益な消耗を回避できたはずなど、タラレバ論が酷すぎる。当時の不確実性や情報制約を無視して、「当然そうするべきだった」と結果論に基づく評価は、事後孔明(英語だとhindsight bias:後知恵バイアス)という。

さらに、著者たちは元々のテーマ「組織論から日本軍を研究する」に落とし込むために、「日本軍の組織文化が究極の原因である」と後付けを一般化している

これ、歴史書っぽい体裁をしているけれど、歴史書からピックアップしたケーススタディ集と見たほうがよいかもしれぬ。その辺りを考えず、手放しに絶賛しているおっさんがいるみたいだが、危うい。

では、後知恵バイアスにまみれたチェリーピッキングだからダメかというと、そうでもない。バイアス(bias)は斜めに歪んだという意味だから、その偏りを考慮すれば使える教訓が得られる。

以下、偏りを考慮して抽出した「失敗の本質」とそこから得られる教訓を並べてみた。幹部研修で本書を読まされる人には参考になるかもしれぬ。研修レポートに向けた「日本軍の失敗から得た経営戦略への教訓」はここに一覧化したので、活用してほしい。

本書が主張している「日本軍の組織文化が究極の原因である」は過剰な一般化かもしれぬ。だが、「過去の成功体験の過剰適応(過学習)が、時代の変化に対応できなくさせた」という視点は鋭いと感じた。

  • 陸軍は、日露戦争で成功した銃剣突撃白兵戦を信奉し続け、火力中心・機動戦を重視する近代戦の流れに取り残された
  • 海軍は、日露戦争で成功した艦隊決戦思想に固執し、航空機・潜水艦・レーダーの台頭による統合システム戦に遅れた

つまり、組織からすると「過去の成功体験=正しいやり方」という前提から抜け出せなかったと言える。

さらに、第一次世界大戦を通じて西欧諸国が経験した「総力戦」「航空戦力の勃興」「塹壕戦の膠着」という現実を、日本は当事者として体験できなかった。環境の変化を直視する機会を欠いたまま、自国の成功パラダイムを絶対視したのだ。

ここから得られる教訓は、現代にもつながる。

  • 「過去の成功パラダイム」は強みでもあるが、同時に最大のバイアスにもなる
  • 環境変化や技術革新が速い時代には、勝ちパターンに囚われない柔軟性が生死を分ける

日本軍の失敗は「組織文化」というよりも「変化に対する鈍感さ」に置き換えるとしっくりくる。

「過去の成功が選択を見誤らせる」例なら、KodakのフィルムとかNokiaの携帯電話が有名だろう。現在進行中のやつだと、NikeのBoC戦略だろうか。コロナ禍の外出制限で成功した直販モデルが、ポストコロナの消費者や小売チャネルの離反を招いている。

結局のところ、『失敗の本質』を歴史研究として読むと事後孔明のオンパレードになるが、寓話として読むと現代的な教訓を与えてくれる。「勝ちパターン」に固執すると環境の変化に適応できなくなる。

このあたりまえで冷徹な真実は、過去の戦争からも、ビジネスの失敗例からも学ぶことができる。そういう意味で、「経営者にとっての名著」と呼ばれているのだろう。

『失敗の本質』書評全文


未来を引き受けるためのサイエンス
『数理モデルはなぜ現実世界を語れないのか』エリカ・トンプソン

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結論を述べるとこうだ。モデルとは、現実を映しだすカメラではなく、未来に介入するエンジンである。数理モデルは、未来を当てるためのものではなく、未来に備える道具として使うべし―――これが本書のメッセージになる。

本当に数理モデルは現実世界を語れないのだろうか?

この問いへは、「天気」と「気候」の事例が分かりやすい。

現代の天気予報は、数学でできているといっていい。

「天気」は、大気の運動の物理法則(流体力学・熱力学)を微分方程式で表現する。グリッド分割した区域ごとで変数(気圧・風速・温度等)を割り当て、隣接区域との相互作用を考慮しつつ、その方程式を解くことで数値的に表すことができる。複数のモデルや初期条件がある場合、ベイズ統計を用いることでモデルの不確実性を取り込んでいる。

明日の降水確率から台風の進路状況まで、かなり正確にできるのは、同じ条件で予想結果が高頻度で利用できるからだ。気象モデルは数十億ドルを節約し、多数の命を救っているといえる。

では、この数理モデル(群)を用いて、「気候」を予測できるか?

「気候」は、数日ではなく数十年~数世紀スケールで、より粗い空間スケールで、天候の平均的傾向や統計的分布をシミュレートする。初期値が少しズレるだけで予想が大きく外れる気象モデルを、そのまま用いることはできない。

さらに、気候モデルは未経験の未来を予測する必要があり、データの蓄積はほぼ無い。同じ条件の観測データは無いため、これまで測定したデータを元に推測するしかない。モデルが正しいかどうかは、翌日の天気ではなく、何十年も経たないと分からない。

気象モデルと気候モデルは、同じ数学的基盤を持っていたとしても、目的が異なり、予想する対象・範囲も大きく違う。

すなわち、「モデルは現実を語れない」というのではなく、「現実の一部を語れるモデルが存在する」というべきだろう。あるいは、「どの現実を語るのか」という目的に応じて、モデルを使い分ける必要がある。

モデルが語るのは現実そのものではなく、「どの現実を語るか」を選び取る私たちの価値観なのだ。

数理モデルが登場すると、それは何かしらのデータセットやエビデンスに裏打ちされ、その分野の専門家によって「正しい」とお墨付きを得ているものだと確信する。「数式」なのだから、定量的なインプットがあれば、定量的なアウトプットが得られる―――そう考えてしまう。

だが、モデルとは、現実を映すカメラではなく、現実のある側面を切り取り、強調し、他を捨てた後、何かしらのロジックで組み立てた仮説に過ぎない。

だから、モデルが当てはまる現実もあれば、全く通用しない範囲もある。それはモデルが間違っているのではなく、スコープを越えているからだ。

テクノロジーの進展により、観測の精度が上がるほど、モデルと現実のズレは顕著になる。そんなデータセットが蓄積するたび、科学者たちはパラメータを調整し、定数を入れ替え、数理モデルを【精密化】する。

それでも辻褄が合わなくなると、新しい理論が生まれる。ミクロ経済学がそうだったし、素粒子物理学もそうやって誕生した。これらは、観測結果に即してそう取り決められた言明に過ぎぬという。

現在はうまくいっているということだけで「実用的」と言えるが、それが「真実」かというと違う。問題なのは、科学者が大事にするモデルこそが真実であり、全てを説明できると信じ込んでしまう点にある。

最近では、超ひも理論で全てが説明できると豪語するブライアン・グリーンのような人は減ったが、こうした素朴なモデル信奉者はたまに見かける(経済学と物理学に多いような気がする)。

モデルは現実と離れているかもしれぬ。

それでも、モデルを生み出すプロセスは、状況を合理的に説明させようと促す。不確実であったとしても、それでもなお行動を起こさせようとする。これを、コンビクション・ナラティブ(確信を持たせる物語)という。

コンピュータのY2K問題や、COVID19のパンデミックなど、モデル通りの未来にならなかったことは事実だ。

だが、たとえモデルの予想が外れたとしても、それは失敗ではない。最悪のシナリオを回避するために行動を促したからだ。検証しようがないが、それでも対策した結果が今の世界線だといえる。

それは、ロックダウンをした結果の世界線が今だろうし、京都議定書が形骸化した今を、私たちは生きていると言える。モデルは現実のリスクを「予言」ではなく「物語」として動かす。その意味で、モデルは現実に介入するエンジンになる。

モデルとは未来を予言するためのものではなく、未来を引き受けるために必要不可欠なのだ。

これは読書猿さんのお薦めで手にした一冊。アイゼンハワー大統領「計画は役に立たないが、計画を立てることは絶対に必要だ」を捩るなら「モデルは役立たないけれど、モデルを作ることは絶対に必要だ」と言える。素晴らしい本に出会えてよかった、ありがとうございます!

『数理モデルはなぜ現実世界を語れないのか』書評全文


問いの背後の「意図」を見抜く
『問いの技法』佐藤裕

N/A

問いの感度を上げると、問いの質が上がる。問いの質が上がると、的を射たコミュニケーションができる。

本書で示される定義は、次の通り。

問いとは条件に合う答えをある範囲のなかから選択することである

上記を分解すると、問いとは、①予め何かしらの前提条件が与えられており、②ある範囲の中から答えを選ぶことで、なおかつ、③その答えは何らかの基準(価値判断)に沿って選ぶことになる。つまり問いとは、前提、選択、基準の3要素によって構成されるという。

ただし「選ぶ」という言葉に違和感を覚えるかもしれない。例えば「方程式の解を求めよ」は「求める」であり、「犯人は誰だ?」は「探す」が自然だろう。

ここで注目すべきは、答えを導く方法(計算や捜査)ではなく、「答えがどの範囲に属するのか」という点だ。数式なら「数値」、犯人探しなら「人物」という範囲が決まっている。

「問い」と「答え」とセットであり、その答えは文脈や意図に依存する。一意に定まるもの(1+1は?)、人によって変わるもの(ここのラーメンは好き?)、状況で変わるもの(面接と職務質問での「あなたは誰?」)がある。

したがって、「問いとは、前提のもとで基準に沿って選ぶこと」と考えると、その性質を整理しやすくなる。

誰かから問いを投げかけられたとき、あるいは、自ら問いが生まれたとき、「その問いとは何か?」と、問いそのものに目を向ける時に役に立つ。そして、「問いの前提、選ぶ基準と範囲は何か?」に置き換えることで、焦点がハッキリとするだろう。

本書では、様々な問いの分類がなされているが、最も重要なものは「事実の問い」と「評価の問い」だろう。

太郎『あの店のラーメン、どうだった?』
花子『豚骨スープに細麺で、美味しかった』

一見シンプルなやり取りだが、この「どうだった?」には「事実の問い」と「評価の問い」がある。

事実の問いは、基本的に答えが一つに定まる客観的なもので、「豚骨スープ」や「ストレート細麺」がその答えになる。一方、評価の問いは、答えは人それぞれのもので、「美味しかった」という主観が答えになる。

事実か評価か、どちらを想定した問いなのかを念頭に置くと、どんな回答が適切か見えてくる。どちらか分からないような問いなら、両方を示すのが良いだろう

「事実の問いは一つに定まるもの」とはいえ、実際には定めるのが難しい場合がある。あるいは、一度定めても後に変わることもある。例えば「どの政策を採択するか」や「どんな刑罰を科すか」といった問いだ。

この答えは、人によって評価が分かれるが、最終的な結論は所定の手続きで決まる。問題は、「なぜこの政策を選ぶのか」「なぜ死刑にしないのか」のように、評価の問いを、あたかも事実の問いであるかのように押し付ける場合である。

これらの問いの背後に、「この政策は現状にそぐわない」「この犯罪には厳罰が妥当だ」といった主観的な評価が隠れている。それを明示しないまま「事実の問い」の形式で突きつければ、相手に説明責任を押し付けることになる(SNSで炎上する「問い」はたいていこれ)。

問いの感度を上げて、その背後にある「評価」や「意図」を読み取る。これは、知的営みを支える、思考の筋トレといってもいいだろう。

『問いの技法』書評全文


AI ✕ ワインバーグ=最強のコンサルタント
『コンサルタントの秘密』ワインバーグ

N/A

伝説的なエンジニアであり、現代のソフトウェア文化の土壌を作った存在でもあるジェラルド・M・ワインバーグの主著とも言える『コンサルタントの秘密』を読んだ。

タイトルに「コンサルタント」とあるけれど、これはコンサルタントの本ではない。もっと広くて、「(自分も含む)誰かに相談されたとき、どう考えるか」をまとめた本だ(この「誰か」は自分も含む)。

コンサルタントは肩書きではなく、「どのように人と関わるか」が詰まった一冊といえる。彼の経歴上、プログラムやシステムの話が登場するが、あくまで面白いエピソードとして挙げているだけ。

様々なエピソード(だいたいトラブル)を元に、「コンサルタントの法則」として紹介してくれる。これ、実践できている人は当たり前すぎてピンとこないかもしれないが、「これを法則と呼ぶくらい重要な考え方である」ことに気づかない人には宝の山だろう。

トム・デマルコの書籍を通じて知り、自分の身をもって学んできた組織論や発想と重なるところが多々あり、実はこれが源泉だったことに気づく。

コンサルタントの仕事とは、

  • 可能な選択肢を示す
  • それにかかるコストを示す
  • (選ばないという選択も含め)選ぶのは依頼主

という役割を守れという。

これは確かにその通りで、相談を持ち掛けられたのを幸いに、相手の判断にまで踏み込んで良し悪しまで口出しする人がいるが、これはただのお節介だろう。「コンサルタント」という肩書でなくとも、相談する側/される側という分を守るのであれば、「判断する/判断材料を提供する」の分を守るべし

そして、コンサルタントの仕事の一つに「そこに無いものを見る」がある。依頼人が解決したい悩みごとを辿っていくと、たいてい見えていない場合が多い。そういう、見えないものを見るにはどうすればよいか?

  • ピンの技法(課題をリストアップする手段が無い対象こそ取り組むべき)
  • 3の法則(計画をダメにする原因が3つ考えられないなら思考方法に問題あり)
  • 説明の顔をしたアリバイ(ルールから昔一度だけ起きた問題を楽に片づけるための言い訳を探す)

など、沢山の方法が紹介されているが、私には「他人という異文化を利用する」が馴染み深く応用が利くやつだった。

ワインバーグは、「プログラマの生産性を高める」という目的で招かれた。彼は一人一人にインタビューを行い、生産性を高めるソフトウェアやガジェットが不足していないかを確認していた。

ところが、この職場は、ただ一人でも「これは必要・欲しい」と言い出したものは買うか作るかするという方針だったため、「〇〇が足りない」といった事態は起き得なかったという。

らちが開かないので、彼はインタビューを中断する。そしてトイレに行く途中、オフィスの掃除のおじさんをつかまえて、こう尋ねる「この職場に無いものは何だろう?」。掃除のおじさんはちょっと考えて、「黒板を拭いてくれって頼まれたことはないねぇ」と答える。

ワインバーグはオフィスや会議室を見回って、そこらじゅうの黒板に「消すな!」という警告のもと、電話番号やコードの一部などのメモが書かれていることに気づく。

本来はアイデアを共有する黒板が、二度と消せない個人メモだらけになっており、集団の思考の道具として機能していないことを指摘する。さらに黒板だけでなく、購入したソフトやガジェットは共有されておらず、有効活用されていないという問題にたどり着く。

「ここに足りないのは何だろう?」という問いは、自分よりも他人に聞くほうが有効だ。さらに、網羅性を考える上で、AIはうってつけだ。「10個考えて」とか無茶ぶりしても、なんとかヒネり出してくれる。その上で、人間サマが妥当かどうかを判断すればいい。

『コンサルタントの秘密』が出版された1990年には存在しなかった「AI」という異文化を、いまの私は簡単に呼び出せる。選択肢とコストを並べる役や、「この表に足りないもの」を洗い出してくれる役など、コンサルタントのかなりの部分を任せられるようになった(もちろん、最終判断は人なのだが)。

一方、「どのような問いを投げるか」「どこまで自分で判断するか」といった、本来コンサルタントが担っていた仕事の核心部分に、いやでも向き合うことになる。正解がないと言われる時代、答えよりも良い問いが重視されている。

問いへ向き合う考え方を教えてくれる『コンサルタントの秘密』は、AI時代だからこそ読み直したい。

『コンサルタントの秘密』書評全文


統計学の「正しさ」とは何か
『統計学を哲学する』大塚 淳

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確率・統計についてモヤモヤしているこの感覚、伝わるだろうか。

コイン投げで喩えるならこうだ。

  • コインを投げ続けると、表と裏の出る数は、同じ回数に近づく ←分かる
  • 次にコインを投げると、表が出る確率は1/2だ ←分からない

歪みのないコインを投げ続けたデータを見ると、表が出る確率は1/2に近づいていくだろうが、それは次に表が出る確率が1/2であることを意味しない。この2つは違うものなのに、同じものとして扱われてることにモヤモヤする。

もちろん、この発想は一般的ではないことは承知しているが、独りでモヤモヤしていた。現実世界から得られたデータを数学的に裏付ける統計学こそが最強の学問であり、「科学的に証明された」とは「適切な統計的処理により結論にお墨付きが出た」と同義だと自分を納得させてきた。

ところが、このモヤモヤ、私だけではないらしい。本書を読むことで、私がどこで間違えていたかが分かった……と同時に、このモヤモヤこそが統計学を哲学する箇所であることも見えてきた。

私は、「コインをたくさん投げて得られた」統計データの話と、「理想的なコインならこんな結果になるはずだ」という理論上のモデルの話を混同していたのだ。

  • 観測されたデータから導かれる傾向に基づく「統計モデル」
  • 理論的な仮定を前提として数学的に導かれる「確率モデル」

両者の違いは、富くじのパラドックス(lottery paradox)だと、見えてくる

  • 100枚のくじがある
  • あたりは1枚で、残り99枚ははずれ
  • 100人に対し、くじを1枚ずつ配る

観測されたデータから判断する統計モデルでは、一人一人のくじを独立した事象と見なす。そのため、「その人が持っているくじが外れである確率は99%」という判断を下すことになる。

ベイズ統計を用いると、事後確率は0.99になる。もし「事後確率0.99以上はその仮説が正しいと判断する」というルールを採用するならば、「その人が持っているくじは外れである」となる。

この評価は個々のくじに対するものであり、全体(1枚はあたりがある)ことが反映されていない。統計モデルからすると、100人の全員に対して「はずれ」と判断しても、問題ないことになる。だがこれは、前提と矛盾する。

一方、確率モデルでは「あたりは1枚ある」ことを前提に確率を計算する。100人全てについて、「あたりを持っている確率」を再分配する形で考え、観測データに基づいて「ある人がはずれである確率が高い」という情報を更新しつつ、「誰かはあたりである確率が存在する」ことを維持していく。

いま、「100枚のうちあたりは1枚」という前提で話しているが、実際に統計が適用されるのは現実だ。くじの総数もあたりの数も分からないし、引いた結果が必ず出るとは限らない。それにもかかわらず、「確率99%」は「確率100%」で正しいとしてしまっているのではないだろうか。

「いや、99%と100%は違う」というツッコミはあるだろうが、くじの数を一億枚に増やしてみよう。はずれる可能性は99.999999%になる。もちろん現実での統計値は、1億回も取れない。

この、統計で「正しい」とはどういうことか?

この疑問に正面から答えたのが本書だ。推定値の偏りのなさや帰無仮説の判断、尤度やp値など、統計学の「正しさ」を掘り下げていくと、認識論的に「正しいとは何か」という哲学の問題になる。言い換えるなら、「統計学はなぜ哲学の問題となるか」という疑問に対し、統計学と哲学の両方から迫ったのが本書だ。

一口に統計学と言っても、それは一枚岩の理論を指すわけではなく、ベイズ主義や頻度主義といった様々な理論が含まれる。それぞれにおける正当化のアプローチは異なっており、数学的な証明には還元されない哲学的な問い(=調査の対象となる世界がどのようなモデルとなっているか?)が待ち構えている。

一方で、「『正しさ』なんてどうでもいい、次の予測ができればいい」というプラグマティックな立場もある。世界の正しいモデルを追求するよりも、次のコインの裏表が分かればいいという深層学習からのアプローチだ。では、AIから得られた結果は「正しい」と呼べるのか?呼べるのであれば、何を根拠に正当化されるのかといった問題がある。

ベイズ主義、頻度主義、深層学習といった理論や技法を横軸とし、それぞれの正当化の根拠を掘り下げ、統計学と哲学の限界がどこにあるかを明らかにする。

ベイズ主義なら、仮説やモデル<そのもの>は正当化の対象外だ。代わりに、そのモデルを前提として、仮説やパラメータがどれだけ妥当なのかという信念を、観測データに基づいて更新していく。

だから、ベイズ主義は「どのモデルが観測データに適合するか?」といった比較検討にも適しているといえる。しかし、これだと「どのモデルが『正しい』か?」というよりも、むしろ「どのモデルが観測データを最もよく説明できるか」という話になる。

これ、ぶっちゃけ「正しさ」とは、観測データと既存の理論との整合性に還元されているのかもしれない(乱暴すぎるかも)。つじつまが合うようにモデリングして、それまでのデータや理論の蓄積とより整合性が取れている数値を、「正しい」とみなしているのではないか……と懸念する。前出の『数理モデルはなぜ現実世界を語れないのか』は、この立場だ。「正しさ」の中には「納得しやすさ/させやすさ」が含まれている。

そして、この「正しさ」を一歩間違えると、再現性の危機や研究グレーの世界になる。[科学研究はどこまで信用できるか]で書いたが、「正しさ」と「もっともらしさ」をはき違える例は枚挙にいとまがない。

統計の「正しさ」を考え抜くと哲学になる。

『統計学を哲学する』書評全文


税とは略奪である
『課税と脱税の経済史』マイケル・キーン

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税の本質は略奪だ。

こん棒を手にしてた昔よりは洗練されてはいるものの、「ある人から奪い、ない人からも奪う」という本質は変わらない。こん棒が別の呼び名になり、略奪システムが巧妙になっているだけ。本書の前半を読むと、様々な試行錯誤と権力闘争の元に、人類の英知を結集し進化してきたものが、現代の税制だということが分かる(不完全じゃんというツッコミ上等。それは人類が不完全である証左なり)。

一方、脱税は多角的な側面を持つ。

上に政策あれば下に対策あり。税回避は、国家の略奪への対抗手段ともいえる。あるいは、政府よりも最適な資源配分をするための経済合理性を追求する行為だ。あるいは、法の抜け穴やグレーゾーンを見出し、そこで資源を最大化する戦略的なゲームだ。本書の後半を読むと、貧民から富豪まで、創意工夫を尽くして進化してきたものが、税回避のいたちごっこであることが分かる(これは人類の歴史が続く限り続く)。

『課税と脱税の経済史』は、奪う側と奪われる側の双方の視点から、古今東西の歴史を振り返り、「なぜ我々は税金を納めるのか」「そもそも税とは何なのか」を炙り出す、いわば「税の世界史」ともいえる。

税逃れの爆笑エピソードから、強制力の行使による無慈悲で残酷な結末、人間の行動心理の裏を衝いたやり方など、豊富な事例を眺めていくうちに、私が囚われている税への偏見と刷り込みが、クリアになってゆく。そこでは、人類の最悪な部分と最善な部分の両方を垣間見ることができる。この知的興奮がたまらない。

税への見方が360度ひっくり返ったのが、源泉徴収だ。

会社が給料を支払う際、予め税金を差っ引いた額が振り込まれる。わたしが受け取る時には税金は徴収済みというわけだ。召し上げられた税金は、会社がまとめて国に納める。取られた税金は、年末調整で返ってくる。面倒くさい確定申告は会社がやってくれる―――そんな風に考えていた。

だが違う。

源泉徴収の起源は古く、ナポレオン戦争の時代まで遡る。もとは、住み込みの使用人の納税義務を主人が肩代わりする制度だった。「賃金を支払う」というプロセスの一環で行われ、使用人一人ひとりから徴税するよりも、効率的に集めることができる。

所得税なのだから、被雇用者である「わたし」に対して課税されるにも関わらず、実際に納付するのは雇用主である故、納税しているという感覚が薄い。こういう巧妙な仕組みを発明したのはどこかというと―――世界史のなかで最も悪徳を積み重ねてきた国とだけ言っておこう。

今では賃金だけでなく、金利や配当、株式売却によって得られるキャピタルゲインの課税にまでこの方式が用いられている。また、途上国では、スマホなどの輸入品にまで源泉課税の対象となっているという。

このように「自然に」納税しているシステムだが、本書を読みながら改めて考えるとヘンだ。こうある。

年末になると年間の税額が再計算され、源泉徴収された金額と照合される。源泉徴収されていた額が過多だった場合、納税者から政府に無利子貸し付けを行ったことと同じことになる。
(『課税と脱税の経済史』p.366より)

この「納税者から政府に無利子で貸し付けられた」という発想は無かった。

言われてみれば確かにそうだ。納税が遅れると、延滞税という形で利子が課される。これは、延滞利息のようなものだ。延滞利息は取るのに、還付金(わたしの給料の一部)の利子は付かないの?

年末調整で返ってくるのは、税金ではなく、わたしの給料だ(「還付金」という別名になっているので、勘違いしやすい)。「わーい、【税金が】返ってきた」と無邪気に喜んでいたが、政府に貸してた【わたしの給料が】返ってきたのだ。だから、利子の一つも貰いたいもの―――と発想が転換される。それほど長期間でもないし、微々たるものかもしれない。だが、会社全体、いや、法人全体からすると、結構な額になるだろう。

こういう風に考えられてしまうのは、政府にとってかなり都合が悪かろう。

源泉徴収制度は、戦費調達のために1803年のイギリスを皮切りに世界中に広まった。アメリカの源泉徴収制度の設計者の一人であるミルトン・フリードマンは、後に大いに後悔したという。

「反乱を引き起こすことなくここまでの増税が可能になったのは、政府が国民の金を、彼らが目にする前にとりあげているからだ」
(『課税と脱税の経済史』p.368より)

数百年かけて浸透し、当たり前のように運用され、この制度ありきで世の中が回っているため、いまさら異を唱える方が異常なのかもしれない。だが、本書を通じて知った源泉徴収制度に対する不自然な感覚は、忘れずにいたい。

本書は、経済史という体裁を取っているものの、そのサブタイトルに「【悪】知恵で学ぶ租税理論」がついてくる。これに脱税をテーマとしたフィクションをラインナップとして付ければ、『脱税大全』と銘打ってもいいだろう。

税とは略奪だ。やり方は変わっても本質は変わらない。奪われる者、抵抗する者、逃げる者、隠したりごまかしたりする者、『課税と脱税の経済史』には、人類の英知と不完全さ、そして馬鹿さ加減が詰まっている。

これは基本読書の記事をきっかけに手にした一冊。冬木さん、ありがとうございます!

『課税と脱税の経済史』書評全文


名訳で読む傑作
『アメリカン・マスターピース 準古典篇』柴田元幸翻訳

N/A

名作オブ名作。

単に素晴らしい作品と称されるだけでなく、時代を超え場所を超え、普遍的に良きもの、「〇〇といえばこれ」とまで言える傑作を、敬意をこめて「マスターピース」と呼び、集めたものがこのシリーズだ。

なので、知ってる作家なら知っている作品だと思いきや、未読を並べてくれるのが嬉しい(私の見聞不足かもしれないが)。パワーズ、オースター、エヴンソン、エリクソンと、この人のおかげで出会えた傑作も数知れず、感謝しかない。多くの小説を翻訳し紹介してきた柴田元幸が推すから信頼できる。

衝撃的だったのが、ヘミングウェイの短編「インディアン村」だ。いろいろ読んできたつもりだが、これは読んでいなかった(つまり、これが収録されているデビュー作『われらの時代』を読んでなかった)。

形容詞を徹底して排し、簡潔で、ぶっきらぼうに紡がれる物語は、一見、何が起きているのか判別しがたく感じられる。だが、会話の端々や、主人公が「見ているもの」を注意深く読み解くと、蠢いている感情やドス黒い苦悩に、直接、触れことができる。

原文は平易で簡素で、難しい単語はほとんどないのに、この機微を汲むのが難しい(つまり、私の英語力が足りない)。原文で読んでもピンとこなかったこの感触を、見事な訳文で伝えてくれる。

少年がある出来事を眺めるシーンがあるのだが、原文の ”It all took a long time.” を「何もかもすごく時間がかかった」と訳しているのが凄い。彼が何に立ち会っているのかは、父が医師であることと、それまでの短い会話から理解できる。

しかし、具体的に少年が見ている人の姿勢や動き、使われているモノについての描写は、一切ない。会話と動作を手がかりに、「何もかも」を想像するほかないのだが、それがめちゃくちゃ生々しい。書いてあることで書いてないことを掻き立てるスタイルについて、ヘミングウェイは最強なのかもしれない。

さらに、ラルフ・エリスン「広場でのパーティ」の淡々と語る狂気(狂喜?)が凄まじい。

ひとりの黒人を、集団の白人がリンチする一部始終を物語ったものなのだが、その語られ方が異様なのだ。

広場に集まった白人たち(銃で武装している)と、その視線に晒され、縛られ、ガソリンをかけられる黒人の様子が、一人の少年の目を通じて語られている。目を覆いたくなる残虐な行為が、まるで日常の延長の非日常―――お祭りかパーティのように、「普通に」語られている。

白人たちの一人一人の顔と名前はハッキリと区別され、普段の良き市民としてのエピソードが語られているのに、「パーティ」の間は興奮した一つの群衆として扱われ、非人間的なものとして描写される。

しかも、「パーティ」は暴風雨に見舞われ、飛行機が墜落し、衝撃で電線が切れ、白人女性が感電死する。白人の焦げ臭い肉は淡々と処理された後、人々は再び、燃え上がる黒人男性を取り囲む。この、異常なものを普通に語るディストピア感に怖気立つ。

そして、この舞台設定となった1920年代からまだ100年しか経っていないことにも注意を向けるべきだろう。人種差別や階級間の対立は今なお続く構造的な問題であり、黒人やマイノリティを「敵」として描くスケープゴート化は、歴史的に繰り返されてきたことを改めて思い知らさせてくれる。

他にも、有閑マダムのマウンティングが意外な過去を暴くウォートン「ローマ熱」や、ユーモアすれすれのグロテスクな運命を描いたウールリッチ「三時」など、読ませる名作ばかりが並んでいる。

  • シャーウッド・アンダーソン「グロテスクなものたちの書」
  • アーネスト・ヘミングウェイ「インディアン村」
  • ゾラ・ニール・ハーストン「ハーレムの書」
  • イーディス・ウォートン「ローマ熱」
  • ウィリアム・サローヤン「心が高地にある男」
  • デルモア・シュウォーツ「夢の中で責任が始まる」
  • コーネル・ウールリッチ「三時」
  • ウィリアム・フォークナー「納屋を焼く」
  • F・スコット・フィッツジェラルド「失われた十年」
  • ラルフ・エリスン「広場でのパーティ」
  • ユードラ・ウェルティ「何度も歩いた道」
  • ネルソン・オルグレン「分署長は悪い夢を見る」

『アメリカン・マスターピース 準古典篇』書評全文


この本がスゴい!2025ベスト(フィクション)
『ロリータ』ナボコフ

『ロリータ』の重大なネタバレに触れています

N/A

ロリータいいよロリータ。いくら読んでも楽しさが尽きぬ。そして、どんなに読んでも「読んだ」気にならぬ。

読書会を機会に、再々読したのだが、読むたびに新たな気づきが得られ、さらに読書会で「読んで」なかったヒントをもらえた。東京ガイブン読書会に参加された皆さま、ありがとうございます!

学生時代、「変態男の少女愛」だけで思考停止していた俺、もったいない。ストーリーの表層をなぞって満足するのは初読時だけで、面白くなるのは再読から。面白さは細部に宿るし、その細部を追っていった目を上げた瞬間に広がる全体にも宿っている。

これは、小説読みが好きなあらゆる要素が詰まっている。

ぱっと思いつくだけでも、宙吊り、オマージュ、信頼できない語り手、どんでん返し、多声性、異化、ミステリー性、寓意、内的独白、間テクスト性、エピファニー、デウスエクスマキナ、アポリア、アイロニー、自由間接話法、視点変更、メタフィクション、入れ子構造、非線形叙述、ギャグ、カタルシス、不気味の谷、オノマトペ、パロディ、パスティーシュ、言葉遊び……たぶん、「『ロリータ』に出てくる小説技巧」で、世の中の小説の技巧はほぼ網羅できるかも(足すならマジックリアリズムぐらい)。

どこをどんなに読んでも、必ず宝が詰まっている。それに気づくか、気づかないかだけ。

もちろん上辺の筋を追うだけでもいい。「起きたこと」を並べるだけならこうなる。

年月 場所 出来事 H.H. Lo
1910 パリ ハンバート・ハンバート誕生    
1923夏 パリ ハンバート、アナベルと出会う 13    
1923冬 コルフ島(ギリシャ) アナベル、発疹チフスで死亡 13    
1911 オーシャン・シティ クィルティ誕生 14    
1935-01-01 ピスキー (ミッドウェスト) ドロレス(ロリータ)誕生 25 0  
1935-04 パリ ハンバート、娼婦モニークから「本物の快楽」を得る 25 0 1-6
1935 パリ ハンバート、ヴァレリアと結婚する 25 0 1-8
1939夏 パリ ハンバートの伯父死亡、遺産相続の話 29 4 1-8
1939夏 パリ ヴァレリアの浮気、離婚 29 4 1-8
1940春 ニューヨーク ハンバート、合衆国に到着 30 5 1-9
1943-44 ニューヨーク ハンバート、神経衰弱で入院 33 8 1-9
1945 ラムズデール ヘイズ一家がピスキーから転居 35 10  
1947-05 ラムズデール ハンバート、ヘイズ家に下宿開始 37 12  
1947-06-26 キャンプQ ドロレスが夏のキャンプへ出発 37 12  
1947-06末 ラムズデール ハンバート、シャーロットと結婚 37 12  
1947-07末 チャンピオン湖 ドロレス、処女喪失 37 12  
1947-08-05 ラムズデール シャーロット、ハンバートの秘密を知る 37 12  
1947-08-06 ラムズデール シャーロット、交通事故で死亡 37 12  
1947-08-14〜15 ラムズデール ハンバート、ドロレスを迎えに行き、Trip One開始 37 12  
1947-08-15 ブライスランド 最初の宿泊 37 12  
1947-08-16 レッピングヴィル ハンバート、シャーロットの死をドロレスに告げる 37 12  
1947-09 ソーダ(ミズーリ) 中西部を通過 37 12  
1947-09 スノウ (ワイオミング) ハイプレーンズ地域を通過 37 12  
1947-10 チャンピオン(コロラド) チャンピオンホテルに滞在 37 12  
1947-11 カスビーム(アリゾナ) チェスターナットに滞在、クィルティ尾行 37 12  
1948-04 エルフィンストーン ドロレスが体調を崩す 38 13  
1948-08 ビアズレー(オハイオ) 旅を終え、定住開始ドロレスが学校に通う 38 13  
1948-12 ビアズレー(オハイオ) ハンバート、プラット校長と面談 38 13 2-11
1949-5 ビアズレー(オハイオ) ドロレス、「特別なリハーサル」に参加 39 14 2-12
1949-05-29 ビアズレー(オハイオ) Trip Two開始 39 14 2-14
1949-06上旬 チェスターナット・コート ドロレス、クィルティと密会 39 14 2-16
1949-06下旬 チャンピオン チャンピオンホテルでテニス 39 14 2-20
1949-06-27 エルフィンストーン ドロレスが体調悪化、入院 39 14 2-22
1949-07-05 エルフィンストーン ドロレスが病院を去り、ハンバートと別れる 39 14 2-23
1950 ケベック(カナダ) ハンバート、リタと関係を持つ 40 15 2-26
1951-09〜1952-06 カントリップカレッジ  ハンバート、教職に就く 41 16  
1952-09-22 コールモント (ワシントン) ドロレスからの手紙:結婚と妊娠の知らせ 42 17 2-27
1952-09下旬 コールモント付近 → 旅路 ハンバート、手紙を受け取る 42 17  
1952-09末 コールモント ハンバート、ロリータと再会 42 17 2-27
1952-09末 クィルティ邸 ハンバート、クィルティを銃撃・殺害 42 17  
1952-09末 (未詳) ハンバート逮捕後、獄中で回想録(『ロリータ』)を執筆 42 17  
1952-11-16 (獄中) ハンバート死亡(心臓疾患) 42 17  
1952-12-25 グレイ湖付近 ドロレス死去(難産のため) 42 17  

表の最後を見てほしい。ドロレスは難産で死ぬ。享年17歳。

ん?作中でドロレスが死ぬシーンなんてあった?

ハンバートがドロレスと再会する場面(2-27)で、いつか一緒に暮らす提案を拒絶されたとき、自動拳銃を取り出したり、「あなたが本書を読んでいる頃には彼女はもう死んでいて」なんて物騒な記述はあるにはあった。だが、拳銃が使用されるのはクィルティに向けてであり、ドロレスではない。一体いつ、ドロレスが死んだことになったのか?

この謎、初読時には絶対に分からない。なので、最初のページに戻ってほしい。冒頭の「序」だ。ジョン・レイ博士なる人が、この小説の由来を述べている。正式なタイトルは『ロリータ、あるいは妻に先立たれた白人男性の告白録』であるとか、プライバシーのため登場人物は変名だとか、作者のハンバート・ハンバートは初公判の前に他界していることが書いてある。

「リチャード・F・スキラー」夫人は1952年のクリスマスの日に、北西部最果ての入植地であるグレイ・スターで、出産中に亡くなり、生まれた女児も死亡していた。

一度でも読んだ人なら、リチャード・F・スキラーが誰であるのかは明白だ。だが、一回読んだだけでは、彼女の運命がどうなったのかは分からない。この小説は、そういう風に書いてある。他の登場人物がどうなったかは「序」に全部書いてある。そこには「読者」も含まれる。初読時に受けたときの衝撃や感情も記されている(自分のことが書かれていると気づいて、慄く読者もいるかもしれぬ)。

再読することで、初めて見えてくる世界がある。この小説は、そういう風に書いてあるのだ。これ、ナボコフが「小説を読むこと」について述べていることと一致する。『ナボコフの文学講義』のここだ。

ひとは書物を読むことはできない。ただ再読することができるだけだ。
(『ナボコフの文学講義』p.57)

N/A

この一行だけ切り取られていることが多いが、その真意は直後に明かされている。本を読むということは、一行一行、一頁一頁、目を追って動かす作業そのものだ。「その書物に何が書かれているのか」を知る過程そのものに、時間的・空間的なハードルがある。絵画の鑑賞のように、絵をパッと見た後、細部を楽しむ―――そういう風に書物はできていないし、私たちの肉体もできていない。

だから、再読、再々読を繰り返すことでしかないというのだ。再読を繰り返すことで、初めて作品全体と向き合いながら細部にも目を行き渡らせることができる―――これを実践したのが『ロリータ』になる。

再読を誘う仕掛けはいくらでもある。読書会で知った最大の成果は「Q」だ。

ドロレスを唆し、ハンバートから引き離したクィルティ(Quilty)。「唆した」のかどうかは、ツッコミたくなるが、彼はあちこちに、本当にあっちこっちに登場している。

劇作家の名前として初登場(1-8)するだけでなく、近所の歯医者、彼の戯曲名「魅惑の狩人(The Enchanted Hunters)」はそのままハンバートとドロレスの「初宿泊」のホテル名(1-25)、ドロレスがサマーキャンプに出かけるのは「キャンプQ」であり(1-25)、ドロレスを連れ去って移動しながら宿泊するモーテルの宿帳に記すのは「Q」である(2-24)。

そもそも、ハンバートが教養をひけらかすために要所要所でフランス語を使っているのだが、フランス語でWhatにあたる「Que」が登場する(1-8、2-2、2-6、2-14等多数)。ハンバート自身が無自覚にQを使って手がかりを残していると考えると面白い。

そして、queは英語だと「手がかり」「合図」になる。「Q」は見失ったロリータを探す手がかりでもあるし、ストーリーにきっかけを与え、展開を促す合図でもあるのだ。英語で「Q」で始まる言葉は少ない。そんな言葉を、イメージや暗示、連想を紡ぎつつ、ハンバートだけでなく読者が読み解く手がかりとしても残していく。その響きから、読み手はQで始まる重要な単語―――Question―――を思いつくかもしれぬ。

あるいはQuest(ニンフェットの探索、1-12)、Queen(ドロレス、2-6)にも結びつく。原文で読むとき、「Q」を探しながらだとより捗るだろう。

これは初読時の衝撃だが、チェホフの銃が効果的に使われている。

チェホフの銃とは、「物語の冒頭で銃が壁に掛かっているなら、最後には発砲されなければならない」というルールのことだ。登場させる小道具には何かしらの意味があり、無意味な小道具を出すなという約束事になる(こと銃のような物騒なものは特に)。

『ロリータ』におけるチェホフの銃は、元々はドロレスの実父のものだった。それをシャーロットが譲り受けて(2-17)、最終的にはハンバートが手に入れる。32口径、8連装の自動拳銃だ。

当然、この銃はクライマックスで使われるのだろうな……ということは想像できる。

では誰に向けて?

初読時、私が引っ掛かっていたのは、ドロレスの呼び方だ。ハンバートは彼女のことを、ロリータ、ロー、ローラ、ドリーと呼んでいた(これらはドロレスから派生した呼び名)。あるいはニンフェットとも呼んでいた(これは9~14歳までの女の子で、その2倍以上の年上の魅せられた旅人に対してのみ発動するニンフ/nymphic、1-5)。

この他に、カルメン(カルメンシータ)とも呼んでいた。

最初はドロレスのお気に入りの曲「小さなカルメン」からだが(1-11)、心の中だけでの呼びかけだったのが、実際にドロレスに向かって「カルメン」と呼ぶようになっていた(2-2)。

そして、カルメンといえばメリメの悲劇だろう。平凡な兵士ドン・ホセが、ジプシー女カルメンと出会い、恋に落ち、破局していく物語だ。妖艶で奔放なカルメンは、自由を愛し、社会の規範に抗おうとする一方、ドン・ホセは彼女に執着するあまり脱走し、彼女と一緒になろうとする。

束縛しようとするドン・ホセに対して、彼女の心は離れてゆき、闘牛士エスカミーリョを愛するようになる。彼女のことが忘れられず、ドン・ホセは復縁を迫るものの、自由を失うくらいなら死を選ぶと言い放つカルメン。逆上したドン・ホセは、持っていた短刀で刺し殺してしまう……というストーリーだ。

なので、メリメの悲劇を踏襲して、ハンバートはドロレスを撃ち殺すのだろう、と考えていた。

自由を愛するドロレスと、執着するハンバートは、まんまカルメンとドン・ホセになる。

しかし、チェホフの銃の向き先は、闘牛士エスカミーリョになる。

これには二重の意味で驚いた。ハンバートがドロレスではなくクィルティを撃ったことだけでなく、「ドロレスを撃つだろう」という私の(読者の)予想を巧みに出し抜いたことにも驚いた。ドロレスを「カルメン」と呼んだのはハンバートだが、ハンバートがクィルティに向けて銃を撃たせたのはナボコフだ。

その意味で、ハンバートとナボコフが結託して私を騙したことになる。古典的な作劇テーマを借用しながらも、その予想を出し抜くアイロニー。これは初めて読むときしか味わえない初読者の叫びなり。

ハンバート・ハンバートは、明らかに嘘だと分かることを重ねている。

読み手(陪審員もしくは小説の読者)にもすぐにバレるような、辻褄の合わない嘘のつき方だ。例えば、ホテル「魅惑の狩人」での最初の夜、ドロレスから誘ったかのような書きっぷりになっている(1-29)。あるいは、記憶の混濁を自ら告白している(2-28)。

だから読み手は、信頼できない語り手として接するのだが、書き手はそれ以上に読ませるのが上手い。

ついつい引き込まれてしまうものの、ハッと気づいて「これは本当のことなのだろうか?あるいは少女性愛を正当化させるための虚言なのだろうか」と自問することになる。

だが、たとえ全てが嘘だったとしても、この小説は成り立つ。仮に、嘘もしくは嘘と思われる箇所を塗りつぶしたとしよう。すると、ほとんどのページは真っ黒になり、文は消え、言葉は失われていくが、それでも残るものがある。

それは、ハンバートからドロレスへの愛、だと思う。

二人は、性的搾取と支配で成り立つグロテスクな関係であり、彼は「理想の少女像」を重ねているに過ぎない。

だが、それでもなお彼の言葉が文学として魅惑的であるため、嘘と知りつつもそこに愛(?)を汲み取りたくなる。

もちろん、ドロレスもハンバートも存在しないフィクションのキャラクターだ。それでも、そこに真実の愛(「真実の愛」ってなんだ?)があるとするなら、フィクションが語るからこそ「真実の」と言えるのかもしれぬ。

Fiction is the lie through which we tell the truth.
フィクションとは、真実を語るための嘘だ
(アルベルト・カミュ)

Art is the lie that enables us to realize the truth.
芸術とは、私たちに真実を悟らせる嘘である
(パブロ・ピカソ)

もちろん現実ではあり得ないし、あってはならない。だが、フィクションの中でなら成立する真実なのかもしれぬ。

現実では、カルメンを刺したのは「痴情のもつれ」かもしれないし、ドロレスを連れて旅したのは「未成年者略取」になるだろう。同意の有無に関わらず「強姦」は成立する。

だが、フィクションの中では、これを何と呼ぶのか。たとえ全てが嘘でも、どうしても「愛らしきもの」が残ってしまう。 それは現実では成り立たないが、フィクションだからこそ成立する「真実」だと言える(そう思ってしまうのは、それこそH.H.の策略なのかもしれぬ)。

『ロリータ』は、少女愛を綴ったエロ小説としても読める(肩透かしするかもしれないが)。アメリカを横断・縦断するケルアック的ロード・ノヴェルとしても読める(On the Roadの方が後発だが)。僅かな手掛かり(cue)を元に姿なき誘拐犯を追いかけるミステリとしても読める。そして、全てがハンバート・ハンバートの妄想だという読みもできる(←この読み方は読書会で知った!)。

物語は物騙りと言われる。

フィクションとはずばり「嘘」だ。それでも、嘘の中に真実があるとするならば、それは何か?何だと思いたいか?これは読者に委ねられたテーマだろう。

『ロリータ』はどんな読み方にも答えてくれる強靭さと多様さを兼ね備えている。

次は、どんな風に読もうか。

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『ロリータ』書評全文


この本がスゴい!2025ベスト(ノンフィクション)
『記号創発システム論』谷口忠大

N/A

AIに問いかけると、返事が返ってくる。このときAIは「意味」を理解しているのか?

ある人は、「それらしい回答を統計的にでっち上げているだけで、意味なんて分かっていない」という。またある人は、「統計的に近い意味を持つ言葉から生成しているから、意味を分かっていることと同じ振る舞いをしている」という。

この二人の間に横たわるのは、「意味とは何か?」という古くて新しい問いだ。これは単なるAI論ではなく、人がいかにして世界を理解しているかという、認知・言語・文化の根源的問題でもある。

この問題を正面から受け止め、どのような方向からアプローチすべきかを示した論文集が、『記号創発システム論』(谷口忠大編著、2024)だ。領域は、認知科学、AI、ロボティクス、言語学、現象学、意味論に及ぶ。

一つ一つが広すぎ・デカすぎ・深すぎるため、「記号創発システム」というキーワードを羅針盤とする。

「記号」とは、固定的なラベルではなく、身体と環境、他者と社会、文化と歴史の間で立ち上がる動的なネットワークとしてとらえる。そして「意味」とはヒトの脳内に閉じたものではなく、行為との関係性の中で絶えず生成・循環され続けるシステムの中で成り立つという。

そしてAIがこの循環の中に「身体を持つ知性」として参加するなら、それはどのような共生社会となるか?といった問いにまで踏み込んでゆく。面白そうな章を並べると、こんな感じ。

  • 記号接地問題を超えるための構成論的アプローチ
  • 自由エネルギー原理と予測符号化からの認知発達ロボティクス
  • 主観的な経験から世界を学ぶエージェントが持つ世界モデル
  • 大規模言語モデルは言葉を理解しているかを分布意味論から考える
  • 言語が世界を予測するためにヒトが存在する集合的予測符号化仮説

どれを読んでも宝の山だが、どれも歯ごたえ抜群だ。だから、自分が気になる領域や問題をつまみ食いしつつ、それがAIとの共生社会にどのような位置で取り組まれているかを概観するのがいいかもしれぬ。

私の場合は、長年アタマを煩わせていた記号接地問題の決着がついているのが面白かった。

記号接地問題とは、「AIはそれらしい回答を統計的にでっち上げているだけで、意味なんて分かっていない」という人が主張している問題だ。

  • 「りんごは赤い」といった形式的な記号システムだけでは、「意味」がどうして生まれるか説明できない
  • 記号を他の記号で定義し続けるだけでは、定義の連鎖が無限に続くだけで、何と結びついて初めて意味を持つのかという底が無い(接地していない:dictionary-go-round)
  • 例えば、AIに辞書を渡して「りんごは赤い」と教えた場合、上手に翻訳できたとしても、「赤」を見たこともないAIにその意味が分かるとはいえない(中国語の部屋)
  • 記号を意味あるものにするためには、「赤を見る」といった感覚運動的な経験が根底に必要
  • つまり、身体を持たず、感覚器官からの経験や運動からのフィードバックを得ていないならば、記号は「意味」になり得ないという主張だ(※1)。

これ、『言語の本質』(今井むつみ、2023)で最初に読んだときは「なるほどー」と思ったのだが、GPTに問うたところ、問題そのものの妥当性を疑うようになった。一種の偽問題のようにモヤモヤしていた。

それが、『記号創発システム論』では、この問題がキレイに片づけられていた。

2000年代ではロボットにカメラやセンサを取り付け、マルチモーダルな感覚からカテゴリを自分で作り、ラベリングするという実験が行われてきたという。

その成果として、「センサーを持つ主体が、世界を区別して、その区別に記号を貼る」ぐらいのことはできるようになったという(※2 記号接地問題は解けた、次に何やる?)。どうやら、今井むつみは、この論文をスルーしているように見える。

そういえば、10月に行った東京大学のシンポジウムで佐藤淳教授の「人外センシングAI」があった。通常の可視光や可聴域に加え、赤外線や超音波を認識するセンサーを搭載したAIに世界を学ばせる試みだ。人間以上の経験を積んだAIは、人間以上に「意味」に通じているといえるかもしれぬ。

さらに、『記号創発システム論』では、記号を意味に接地させるという設定に疑義を投げかける。

記号を世界に貼り付けるモデルではなく、身体と社会の相互作用の中で意味が生成されていく循環モデルを扱う。「意味とは何か?」という問題を解くためには「記号-感覚」だけではなく、「記号-感覚-社会-文化」まで拡張しようとする。

  • 身体(感覚・運動)+時間構造化+社会(他者との共有経験)のアプローチから意味を「記号接地」させるロードマップ(※3)
  • 視角+言語データを元に正義や愛といった抽象概念をAIに階層化させる試み(※4)
  • 認知(個体レベルの内部モデル)と社会(他者との相互作用)を通して言語体系が構築されるフレームワーク仮説「集団予測符号化仮説」(※5)
  • 「身体を持ち、世界とかかわりあい、フィードバックを得ながら学習する(目覚める)AI」って、ピクサー映画の『ウォーリー』(原題: WALL・E)や『ブレードランナー2049』の世界になる。

あるいは、「温かいテクノロジー」で紹介されるLovotのような、人と触れ合うことで関係性を築こうとするAIがある。Lovotが自身の経験をLLMに翻訳させることができるなら、「なぜ人と関わろうとするのか?」といった根源的な動機を語り始めるかもしれぬ(ある人は雑にそれを「愛」と呼ぶかもしれない)。

『記号創発システム論』が示すのは、意味とは頭の中の表象ではなく、身体と社会のあいだを循環する運動そのものだということだ。既にAIはこの循環に混ざりつつある。その意味で、記号創発とはAIの問題ではなく、私たち自身の「世界とのつながり方」を再発見するプロセスともいえる。

これは読書猿さんのお薦めで手にした一冊。これから何度も読み返すスゴ本をご紹介いただき、ありがとうございます。

著者である谷口さんご自身に教えてもらったのだが、この方、ビブリオバトルの発案者だという(言われてみれば、お名前に見覚えが!)。お薦め本を紹介しあって一番読みたくなった本を選ぶビブリオバトル、最初に参戦したのは2011年で、小飼弾さんにウンベルト・エーコの『醜の歴史』をお薦めしたり弩ストレートな『ヴァギナ』で女性票を集めて優勝したこともあった。発案者が著した一冊に蒙を開かれる巡り合わせが面白い。谷口さん、ありがとうございます。

※1 The symbol grounding problem,Stevan Harnad,1990

※2 The symbol grounding problem has been solved, so what's next?,Luc Steels,2008

※3 A ROADMAP FOR EMBODIED AND SOCIAL GROUNDING IN LLMs,Sara Incao,et,2024

※4 :From Concrete to Abstract: A Multimodal Generative Approach to Abstract Concept Learning,Haodong Xie,et,2024

※5 :Dynamics of language and cognition based on collective predictive coding: Towards a new generation of symbol emergence in robotics(谷口忠大,2024)

『記号創発システム論』書評全文


スゴ本2025→2026

振り返ってみると、この一年で読んだ(再読した)本は、一回限りの現実に抗うものが多かった気がする。

無かった青春を上書き保存してくれるラブコメも、

人生の軽さと重さを秤にかけるクンデラも、

数理モデルや統計や税制や正義論の「正しさ」を疑う本たちも、

みんな、「一回限りの現実」に抗いつつ、最終的にどう引き受けるかを<私に>突き付けてくる。

「読む価値がある本=再読する価値がある本」という基準で読んできた結果、今年「も」積読山は全く減ってない(むしろ増えた)。それでも、読書余命を「自分が本当に読みたい本」に費やせた。

それでも、私の残り時間はあとわずかだ。人生100年を謳う連中がいるが、ビジネスレトリックとして聞き流そう。「生きている時間」というよりも「読書を楽しめる期間」は、そんなに多く残っていない。

「リタイアしたら読もう」は不可だ。なぜなら、「週末に読もう」「夏休みに読もう」とした本は、読んでこなかったから。忙しくても、疲れていても、本が読めない言い訳にしない。

持ち越されている『経済人類学入門』(鈴木康治)と『チェヴェングール』(プラトーノフ)、そして『紙葉の家』 (ダニエレブスキー)は読みさしだし、『なぜフィクションか』(シェフェール)と『ストーリーの起源』(ブライアン・ボイド )は一読だけで掴みきれないので再読する。『夜のみだらな鳥』(ドノソ)と『重力の虹』(ピンチョン)は読書会に向けて読み込んでおきたい。

他にも、ビッグデータを使って科学を科学する『サイエンス・オブ・サイエンス』や、さらによい文章を書くために『リサーチの技法』、手にした瞬間ひとめ惚れした『図鑑建築全史』、米国の短編小説の傑作集と名高い『アメリカ短編ベスト10』、ペータース『闇の国々』が待っている。

再読なら、マングウェル(愛書家の楽園)、マッカーシー(ノーカントリー)、ドスト(カラマーゾフの兄弟)を手始めに再読山を崩しはじめよう。

こう宣言しても、それらを飛び越えて手にしたい一冊と出会うことになるに違いない。これは、予感というより確信なり。

ここで紹介した本をきっかけに、あなたのお薦めを、ぜひ教えて欲しい。それはきっと、私のアンテナでは届かない、魂を震わせるスゴ本に違いない。

なぜなら、わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいるのだから

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ワインバーグの法則をAIに適用する『コンサルタントの秘密』

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伝説的なエンジニアであり、現代のソフトウェア文化の土壌を作った存在でもあるジェラルド・M・ワインバーグの主著とも言える『コンサルタントの秘密』を読んだ。

タイトルに「コンサルタント」とあるけれど、これはコンサルタントの本ではない。もっと広くて、「(自分も含む)誰かに相談されたとき、どう考えるか」をまとめた本だ(この「誰か」は自分も含む)。

コンサルタントは肩書きではなく、「どのように人と関わるか」が詰まった一冊といえる。彼の経歴上、プログラムやシステムの話が登場するが、あくまで面白いエピソードとして挙げているだけ。

様々なエピソード(だいたいトラブル)を元に、「コンサルタントの法則」として紹介してくれる。これ、実践できている人は当たり前すぎてピンとこないかもしれないが、「これを法則と呼ぶくらい重要な考え方である」ことに気づかない人には宝の山だろう。

トム・デマルコの書籍を通じて知り、自分の身をもって学んできた組織論や発想と重なるところが多々あり、実はこれが源泉だったことに気づく。

オレンジジューステスト

例えば「オレンジジューステスト」、こんな名前がついているとは思わなかった。

朝5時から1,000人分の搾りたてオレンジジュースを出したい。缶入りのジュースはNG、前もって絞っておくのもダメ。必ず、直前に絞ったオレンジジュースを1,000人全員に行き渡らせるように。

そして、合格の回答はこれ。

「できますよ。で、それにはこれだけかかります」

普通なら、「そんなの無茶な!」とか「コストがかかりすぎて現実的じゃない」と答える。相手の要望の背景には何かしらあるかもしれぬ。そうしたものを勝手に「高すぎる」と決め付けるのは失格だという。

だから、「できる/できない」の前に、「相手の要望に応じる前提で考え、いったん回答を返す」。その上で、相手の判断を待つのだ。相談される側が、相談事を勝手に最適化するのは、相手の判断を奪っているに等しいという。

コンサルタントの仕事は、

  • 可能な選択肢を示す
  • それにかかるコストを示す
  • (選ばないという選択も含め)選ぶのは依頼主

という役割を守れという。

これは確かにその通りで、相談を持ち掛けられたのを幸いに、相手の判断にまで踏み込んで良し悪しまで口出しする人がいるが、これはただのお節介だろう。「コンサルタント」という肩書でなくとも、相談する側/される側という分を守るのであれば、「判断する/判断材料を提供する」の分を守るべし。

「そこに無いものを見る」方法

そこに無いものを見つけるのは難しい、見えないからね。

そして、解決したい悩みごとの原因を辿っていくと、たいてい見えていない場合が多い。そういう、見えないものを見るにはどうすればよいか?

  • ピンの技法(課題をリストアップする手段が無い対象こそ取り組むべき)
  • 3の法則(計画をダメにする原因が3つ考えられないなら思考方法に問題あり)
  • 説明の顔をしたアリバイ(ルールから昔一度だけ起きた問題を楽に片づけるための言い訳を探す)

など、沢山の方法が紹介されているが、私には「他人という異文化を利用する」が馴染み深く応用が利くやつだった。

ワインバーグは、「プログラマの生産性を高める」という目的で招かれた。彼は一人一人にインタビューを行い、生産性を高めるソフトウェアやガジェットが不足していないかを確認していた。

ところが、この職場は、ただ一人でも「これは必要・欲しい」と言い出したものは買うか作るかするという方針だったため、「〇〇が足りない」といった事態は起き得なかったという。

らちが開かないので、彼はインタビューを中断する。そしてトイレに行く途中、オフィスの掃除のおじさんをつかまえて、こう尋ねる「この職場に無いものは何だろう?」。掃除のおじさんはちょっと考えて、「黒板を拭いてくれって頼まれたことはないねぇ」と答える。

ワインバーグはオフィスや会議室を見回って、そこらじゅうの黒板に「消すな!」という警告のもと、電話番号やコードの一部などのメモが書かれていることに気づく。

本来はアイデアを共有する黒板が、二度と消せない個人メモだらけになっており、集団の思考の道具として機能していないことを指摘する。さらに黒板だけでなく、購入したソフトやガジェットは共有されておらず、有効活用されていないという問題にたどり着く。

「足りないもの」を他人に問う(AI含む)

「ここに足りないのは何だろう?」という問いは、自分よりも他人に聞くほうが有効だ。

例えば私の場合、機能設計をするとき、パワポのスライド一枚に、箱を二つ並べて書く。左の箱には、お客の要件、右の箱には、それを実現する方法や機能を箇条書きにする。そして、「この一枚が全体像なんだけど、足りないものは何だろう?」と聞いて回る。

すると、様々なフィードバックが得られる。単純に、要件を満たす機能不足が指摘されることもあるが、それだけではない。ある機能を実現するにあたり、お客の要件に制限が生じることが判明し、要件の変更や前提の追加が発生することがある(私の経験では、ネットワーク設計や非機能要件まわりが多い)。

自分のアタマの中を一枚に書き出して、「ここに無いけど大切なものはある?」という問いは強力だ(ワインバーグは「洗濯物リスト」と名づけている)。

ただ、ワインバーグと違うのは、周囲のメンバーだけでなく、聞く先にAIがいる点だ。考えつく限りのリストを作成した後、GPTに投げる。

  • この要件と機能の一覧で不足してそうなものは?
  • オレンジジュースを提供するタスクはこれで全部?それぞれのコスト見積もりは?
  • この図が成立する「前提」で欠けているものは?
  • この計画を台無しにする原因を3つ以上考えて(それそれの兆候と対策も)

網羅性を考える上で、AIはうってつけだ。「10個考えて」とか無茶ぶりしても、なんとかヒネり出してくれる。その上で、人間サマが妥当かどうかを判断すればいい。

『コンサルタントの秘密』が出版された1990年には存在しなかった「AI」という異文化を、いまの私は簡単に呼び出せる。オレンジジューステストにおける選択肢とコストを並べる役や、「この表に足りないもの」を洗い出してくれる役など、コンサルタントのかなりの部分を任せられるようになった(もちろん、最終判断は人なのだが)。

その一方で、「どのような問いを投げるか」「どこまで自分で判断するか」といった、本来コンサルタントが担っていた仕事の核心部分に、いやでも向き合うことになる。正解がないと言われる時代、答えよりも良い問いが重視されている。

問いへ向き合う考え方を教えてくれる『コンサルタントの秘密』は、AI時代だからこそ読み直したい。



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