はてなキーワード: 唐王朝とは
鳥貴族で一人飲みしてたら、ふと「ここ、なに王朝なんだろうな」と思った。
ただ、日本語のどこかに「鳥貴族がギリギリ使える王朝名」があるはずだ、という確信だけが先に立って、枝豆をつまみながらずっと考えていた。
もちろん酔っ払いながら考えたことだから全然ロジックな話じゃない。
ただそのときはすごい真理に近づいたような気持ちになって一生懸命に思いついたことをスマホに向かって呟いてた。
その内容が以下。
たとえば「平安王朝」。
平安王族。
鳥貴族でハイボール飲みながら、「平安王族御用達」ってポスターが貼ってあったらどうだろう。
「鎌倉王朝」はそもそも言い方として怪しいし、「鎌倉王族」と言われると急にサーフボード抱えた北条氏が浮かんでしまってダメだ。
じゃあ中国あたりに逃げるかと思って、「唐王朝」「宋王朝」「明王朝」と順番に当てはめてみる。
唐王族。
鳥貴族で大量の唐揚げを前に、「本日、唐王族の宴会のため二階貸し切りです」とか書いてあったら、それはもう唐揚げ王国の話であって、歴史の話ではない。
鳥貴族で延々と清談してそう。
「この焼き鳥のタレ、宋代の文人も泣くよね」とか言い出す。やかましい。
明王族。
鳥貴族で最初に拍手してコール始めるタイプ。認知は高いが、距離は取りたい。
王朝名をぐるぐる回しているうちに、本題が見えなくなってきた。
自分が探しているのは、「鳥貴族が、自分の店の世界観としてギリ許容できる王朝名」だ。
これはもう完全に店側がやりそうなPOPであって、歴史のカケラもない。
「貴族」がつくなら、「貴族的な王朝」があるはずだと考えて、今度は「○王朝」ではなく「○王族」から考えることにした。
そもそも「王朝」と「貴族」をくっつけようとしている時点で無理があるのかもしれない。
王朝は権力構造だし、貴族はその中の身分階層で、鳥貴族はチェーン居酒屋だ。
発想の時点で料理を間違えている。
それでも、カウンターで一人、レモンサワーの氷をカラカラ鳴らしながら考えてしまうのだ。
この店をひとつの国だとしたら、ここは何王朝で、自分は何王族として座っているのか、と。
会社の飲み会で連れてこられた新卒は、まだ官位ももらえない「平民」。
そう考えると、「◯王族」の◯には、本当は「鳥」でも「平安」でもなく、その日の自分のテンションとか、残高とか、座っている席の高さとか、そういうものが入るのかもしれない。
看板を振り返って見ても、やっぱり「鳥貴族」としか書いていない。
でも、もう一杯飲めるくらいの給料日が来たら、また考えに来ようと思う。
しかし、それは**「盛唐の繁栄」**のような一時の幻影にすぎなかったのではないか。
京都本社はまるで長安のごとく、黄金の瓦が輝き、経営陣は「任天堂の時代は続く」と豪語した。
だが、いまその都の地下では、制度が腐り始めている。
Switch帝国はすでに、静かなる安史の乱を迎えているのだ。
唐王朝が詩と礼の形式に縛られたように、任天堂もまた「伝統」の檻に閉じ込められた。
一見、美しい理念だ。だがそれは同時に、挑戦を抑圧するシステムでもある。
内部では新規IPは通りにくく、革新よりも“前作の延長線”が求められる。
若い才能は沈黙し、外部のスタジオに依存する比率が増えている。
それはもはや「遊びの会社」ではなく、形式を守るだけの官僚機構だ。
いまや多くの開発が社外で進められ、本社は“監修”と“承認”しか行わない。
それは、かつての唐が地方軍閥に統制を失った姿とまるで同じだ。
「任天堂ブランドの統制」を掲げながら、その実態は分権化の嵐。
唐の末期、民の不満が爆発して起きたのが黄巣の乱だった。
その炎が都を焼いたように、いま任天堂を蝕むのはユーザーの無言の反乱だ。
SNSにはこうした声が並ぶ。
その兆しは、すでに“数字に現れない危機”として進行している。
■「盛唐の夢」から醒めよ
唐の玄宗は晩年、滅びゆく王朝を前にしてなお、「盛唐の夢」を見続けた。
任天堂もまた、Switchの成功を“永遠の栄光”と錯覚している。
「任天堂らしさ」という美辞麗句の下で、創造の精神は失われつつある。
経営陣の決断が遅れ、技術革新に出遅れ、クラウドやAIの波を見逃す。
その様は、かつて文明の中心にありながら衰退していった唐と何が違うのか。
唐の長安も、いつか砂に埋もれた。
任天堂のSwitch帝国も、いずれ同じ運命を辿るかもしれない。
任天堂が“盛唐”を抜け出せるか、それとも“後唐”として歴史に消えるのか。
その分岐点は、もう目前に迫っている。