• 自分の判断は正しい、と自分に言いきかせるとき、人はゆったりと自己満足の心境になる。自分を許す気分にひたるのが、追認の心理とも言うべき情緒であろう。自分は間違っていないと思わなければ、安んじて生きてゆくことはできない。口に出しては言わないけれど、人は常に自分を褒めていたいのである。
  • 当時「一生懸命」がやたら尊ばれた。たんなる一生懸命にはなんら価値がないことを為政者は教えなかった。だから国民は「一生懸命」が価値をもつためには「正しい理論」にもとづくことが前提条件だということを悟らなかった。(本田宗一郎)
  • 私の70年間余りの実験によると、この世にはやはり「運」というものは確かにあると信じている。しかしその運は先方から自分の方へ来てくれるものか、または自分からその運を取りに行くものか、この二つの事の判断のしかたによって、人生の成功と失敗がおのずからわかれるのである。(安田善次郎)
  • 井植(歳男)は、人が困っているときこそ、当面の利害を越えて、相手に便宜をはかってゆくことが、あとあとに大きな信用となって、したがって利益となって、返ってくるのではあるまいか、と回想している。
  • 人はだれども種々様々な能力をもっているものなのに、自分がどんなにすぐれた能力があるかを知らずにいる場合が多いと思う。どの世界でも、偉人というものは、たいてい、自分で自分の能力を発見し、育てていった人であろう。(盛田昭夫)
  • 禍は口から、という。言葉をつつしみ、自分の偉さをあらわそうとはせず、気どらなければかえって人に尊敬され、親しまれ、したがって自分も楽しみ多いが、いばり、虚勢をはる人は他からきらわれて、孤立し、人望を失うにいたる。(石橋正二郎)
  • 業績がそれほどきらびやかでなくてもよい。遣り手であると評判が立たなくてもかまわない。彼奴と会って話したら気分がいい、と優しい目つきで見られるようになったら、いつのまにか総体に物事がうまくゆく。人生で努めるべき最も重要な課題は、これはもう他人に好かれるようになることである。
     人生は長いというけれど、その間に触れあう人の数はごくわずかである。その大切な人たちから好感を持たれるのに、大した工夫も努力も要らない、方向としてはただひとつ、常に謙虚な姿勢を持する心構えである。そうしようと思ったら誰でもできる。精力を消費しなくてもよい。いつも控え目に身を処するだけである。
  • ウソをついた管理職には降格などの罰を与えた。このころ、管理職の人事評価は「人格」を基準にすべきだと思うようになる。成果主義は考え方としては正しいが測定が難しい。ある時期に上がった成果が現任者の功績か、前任者の種まきによるものは、はっきり分けられないからだ。それなら「誠実」「部下の面倒見がいい」といった人間性を重視した方がいい。(小倉昌男)
  • 漢学は国境を越えた人間学である。論語を指して伊藤仁斎が、最上至極宇宙第一之書、と評したとき、彼の脳中のは、この世に生きる人間すべてが学ぶべき第一原理という影像が浮かんでいた。すなわち日本の漢学者は大宇宙のなかに身をおいて、人間学にふけったのである。つまり中国研究に努めていたのではない。
  • 千数百年の間、日本人は漢籍を教科書として人間学に没頭した。けれども、中国の国柄と伝統は何か、中国人のものの考え方にはどんな偏りがあるか、そういう視点からの中国研究を、まったく度外視してきた経緯を、今や改めて認めるべきであろう。
  • 会社でいちばん大切なのは受付と電話交換手であること、自分が先に出ないで、目上の人を電話口に待たせるなどはしないこと、食卓に招いた人の名札を書き違えてはならぬこと、事業の繁栄は自分の力によるものではなく、国家、社会の恩恵によるものだから、報恩の精神を忘れてはならぬことなどの心得を、事にふれ、時に応じ、身をもって教えられた。(大屋敦)
  • もちろん社長の挨拶や上役の訓示にかぎらず、一般にかなりの人数を前にして、少し改まって話しかける講話講演では、これ見よがしに好い気分の、流暢な語り口は避けるべきである。
     とくに社内で社員に語りかける場合、言うて聞かせるという物腰が宜しくない。なぜなら目前の社員一同は、聞きたいという自発的な気持ちでなく、儀式であるからこれも勤務のうちを、多少は迷惑がっているのが通常である。