2018年8月 2日 (木)

「人材に投資することの重要性をわかっていない」と叫ぶ愚かさ

人材に投資されないのは、その投資を金銭的に回収できる人達がいないから。人材に投資してくれないと嘆く分野の人達は、金を稼ぐことだけに長けている人達に敬意を払わない傾向がある。自分を卑下してる人達に投資をしようとする人は少ない。

 

アメリカにおいては、苦労が報われて大成するアメリカン・ドリームのヒーローもいるが、結果的に労せずして収益を得る人もヒーローだ。
自分が尊敬しているヒーローから高く評価してもらえることを報償ととらえ、さらにそのヒーローを尊敬するという正帰還を構成する。
その評価の程度は給与額として可視化される。報奨は高評価であって高給ではない。

 

投資する者から投資される者への単方向の関係性でしか考えない分野(昭和の人はこれをクレクレタコラと言う。)では、その投資は正帰還を生まない。
両者が互いに敬意を払い高く評価し合うという双方向の関係性においてのみ、投資の正帰還が作られうる。

 

日本はこれまで、先行するアメリカを追走し、その後それを追い越すことができた分野が多かった。
それは、アメリカが事業の収益化の方策を考え出し、その収益化方策の原形の下で事業効率を高めることが得意だったと言える。国際競争力は、事業効率を高めることだった。
つまり、事業に従事する者達の貢献が重要だった。それは、不眠不休の弛まぬ努力だったかもしれない。
ジェフリー・ムーアの言を借りるなら、ゴリラが作った原形の下で事業をしているうちに、チンパンジーの群れの中から、ゴリラの収益を凌駕する賢いチンパンジーが出てくる機会があった。

しかし、今はその収益化原形を考え出したか否かが競争に求められている。
その原形を作った最初の者に利益は独占される。ただし、そこに競争が必要なため、実際には同じようなことを同時期に考え出した次の者との2者で独占する。
かれらを2頭の竜と呼ぶなら、それ以外の3番手以後の追従者は、地面を這う蛇にしかなれない。
つまり、事業を立案する者の貢献が最重要になった。それは、一瞬のヒラメキでなされるかもしれない。

 

 

 

前者の状況であれば、単方向の関係性でもある程度は回る。しかし、後者の状況では、双方向の関係性が必要であり、むしろ、投資する者に対して払う敬意の方がより重要になる。
必要なのは感謝ではなく、敬意であり、すなわち評価である。

 

 

 

「人材に投資することの重要性をわかっていない」という言葉には、投資する者への敬意がたりない。

8月 2, 2018 | | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年8月20日 (月)

「英語ができないと世界に出ていけない」への警鐘

新聞に以下のような記事があった。

120満点のTOEFLの2011年平均点、日本69点、インド92点、韓国と香港82点、中国と台湾77点。海外大学の留学生条件は80点以上が多い。早稲田大学の協定留学生枠はTOEFL得点不足で一部余る状況。
(出典 読売新聞2012年8月20日朝刊の世界で学ぶシリーズ第4回:交換留学 余る「枠」 から抜粋)

気になるのは平均点よりも標準偏差。
上下格差が広がり始めると、英語力が他の能力より特段優れているかの誤解を、得点上位者がすることも警戒すべきな気がしています。
逆に得点下位者が委縮することも同じく、避けなければいけない。

スポーツはわかりやすい。
スポーツが優秀なことがまず先。それに英語も必要になってくる。しかし、どうしても英語が苦手なら通訳を雇う選択肢はある。しかし、英語がいくらできても、本業のスポーツの成績が悪ければ、英語力に何の意味もない。

これは産業界でも同じはずなのに、見落とされやすい。
英語の特に会話力の経済価値は、せいぜい年額100~250万円程度ではないかと思うことがあります。
仕事で英会話を使う頻度によりますが、それを毎回通訳を雇う対価程度に見る視点も必要。
最大額は通訳の年収を上回ることは本来ないはず。

このことは特に仕事の個人業績評価のときに忘れてはならないこと。
先のスポーツ選手のことを思い浮かべれば当然のことなのに、英会話のできる人が少なくなってしまうと、英会話能力を過大評価してしまう危険がある。

そんな人材育成をしていったら、国力は弱まるはず。
英会話が堪能だけど試合に弱いスポーツ選手が増えるようなもの。そんなことでは、結果的に国際競争に勝てない。
まずは、スポーツができるようにすること。産業力を高めることが先。
そして、ある意味、金で買える英語力も精進してもらう。それをしないと、自分がストイックに本業でがんばっているのに、その年収から数百万円が通訳費用で削られれば、それを避けるために、自分の語学力を高める動機が生まれるなら、それはそれでよいのかもしれません。

「英語ができないと世界に出ていけない」という表現には、そんな潜在的危険性があると思っています。

8月 20, 2012 | | コメント (1) | トラックバック (0)

2006年1月 4日 (水)

人材育成策を誤るとその分野は衰退する

ひとつの産業分野が発展するライフタイムは、概ね50年という目安があるようだ。
IT産業分野の開始をどこから計るのかは難しい。
コンピュータが実務で使われたのは、アメリカ軍の大砲の弾道計算のシミュレーションが最初だと聞く。

 

そこから計ると、そろそろ終末の時期を迎えている。
ここで注意しなければならないのは、産業分野のライフサイクルではなく、発展のライフサイクルということである。
IT産業で言えば、ITが社会からなくなることはないだろう。
そのため、IT産業に従事する者は、自分の分野だけは過去の分野とは異なり、永遠に存在する分野なのだと楽観する。
それは間違っていないが、ただ、存在するのと、発展を継続するのは異なるのだ。
過去の分野も消滅したものはなく、発展しなくなっただけだ。

 

IT産業はどうだろうか。
過去のものと同じく存在し続けるが、発展については、よく考えた方がよいかもしれない。
なぜ、産業分野の発展はライフサイクルを持つのだろうか。
そして、それが50年間という数字は何を意味するのだろうか。

 

50年間という数字は、50年に一度、華やかな分野が出現するということではない。
ひとつの分野の発展が生まれて消えていく波のようなものだとすると、ひとつの分野の波は、次の分野の波に直列的につながってはいない。
ひとつの波と重なるようにして、次の波が現れ、波から波に移っていくようにして、発展する分野は交代していくのだろう。
波の重なり具合によって、華やかな分野の出現は50年よりも短い時間で訪れることになる。

 

分野の発展のライフサイクルは、分野を支える人材と関係することのように思えてきた。

 

※この記事は書きかけです。○○○○○の箇所に何かもう少し書こうと思っています。

 

【失敗は成功のもと】

 

失敗の経験なくして成功はしがたい。
ビジネスが確立していない分野、言い換えれば、企業が収益の柱としていない新興分野については、企業は失敗を許容する。
悪く言えば、失敗しようが成功しようが、どうでもいいと思っているかもしれない。
そのような期待されていない環境で、人は小さな失敗の経験を積み重ねて成長することができる。
かれらにとっての成功は、常に、以前に経験した小さな失敗と同程度か、それよりもほんの一回り大きな成功だ。成功を高くは期待されていない中で、人は様々な試行錯誤を経験することができる。ある意味、ダメもとの精神が冒険的な試みを躊躇することなく、経験の幅を大きくする。たとえば、失敗についての心配が皆無ではないような試みも、実際にやってみて本当に失敗するかを検証するなどということも大胆に行なうことができる。そのような失敗がまったくの無駄ではなく、その経験から、成功のヒントや、失敗の再発防止のヒントが得られることもある。必ずしも成功の経験だけが有益なのではなく、多種多様の経験からは必ず何かを得られるものだ。
それに対して、ビジネスとして確立した分野については、企業は成功だけを奨励し、失敗を未然に防ぐように仕向ける。ベストプラクティス、成功事例などという言葉が現れてくれば、その兆候だ。
その結果、その分野に後から入ってくる者は、失敗の経験を得る機会を減らすことになってしまう。失敗の経験を減らすことは組織としては一見有益だが、個人にとっては必ずしも有益ばかりとは限らない。個人に有益でないことは、中長期に見て、組織にとっても実は有益ではなくなる。

 

失敗は成功のもと。という実に基本的なことを企業は見失うことがある。
失敗を単に不要なものと決めたとき、成功のもとがなくなりはしないかを、その事業分野で慎重に考察する必要がある。
事業分野によっては、成功のもとの多くが失敗であるかもしれないということがないとは言い切れない。

 

ここでいう失敗には、既知のものと、未知だったものがある。
○○○○○

 

例外的なことの発生しない分野については、それでよいかもしれない。しかし、例外的なことが発生しない分野とは、その分野の成長が見込まれていないと考えることもできる。
どんな分野でも、多かれ少なかれ、例外は発生し、それに対処することは求められていると考えるのが妥当だろう。
例外に対処することを含む分野では、・・・
失敗を未然に防いであるような環境の中では、人は失敗を自らの経験としては体現せずに、失敗は知識としてだけ蓄積していくことになる。
経験から知識は生まれるが、知識から経験は生まれない。
その結果、予め想定された失敗以外についての対処は、・・・

 

失敗に対処する能力というのは、小さな規模から大きな規模に、経験を段階的に積んでいくことでしか、人は身につけることができない。
スポーツで言えば、まったくの初心者が上級者向けのことだけをしていれば、失敗の経験をいくら繰り返しても、基礎を身につけることができないことに似ている。(ここでイメージするスポーツとは、初級者と上級者によって、与えられる条件は同じで達成難易度だけが上がるものよりも、与えられる条件そのものが変わるようなものをイメージするとよい。たとえば、スキーなどは、初級者コースと上級者コースで条件が異なる。)
初心者は、初級者向けの訓練をして、その後、段階的に中級者、上級者コースに進む方が、初級者コースを経験せずに上級者コースでの失敗だけを繰り返している者よりも、早く、上級者コースを習得できるのである。(もちろん、最終的に上級者コースを習得できるかは、本人の資質などにも依存するが。)

 

段階的に経験させるときに重要なことは、小さな規模のうちには、ある程度の失敗を経験させることが、例外対処能力の獲得に役立つということだ。
小さな失敗を克服しているだけでは、大きな規模になってからも、最低1回は同じ規模の失敗を許容するしかないかというと実はそうではない。
小さい規模の例外対処能力を着実に身につけていることで、その後、大きな規模の仕事を任されるようになっても、失敗が小さい規模のうちに、それを改善できるようになり、結果的に大きな失敗には到らなくなると考えることができる。
逆に、小さい規模での失敗の経験がない者は、大きな規模でいきなり大きな失敗をして、それに対処できないということが考えられる。
先のスポーツの例で言えば、初級者コースから始めていれば、上級者コースでいきなり大怪我になりにくいのと同じだ。

 

しかし、企業ではビジネスが成長するとともに、そこでは、大きな規模の仕事だけを取り扱うようになる。
後進の者は、小さな規模のビジネスを任されるという機会は減り、大きな規模のビジネスの一要員となって仕事するようになってしまう。そのような環境では、失敗は未然に防止され、防止のための知識を得ることはできても、実際の失敗を経験することはできない。
そのような一要員が、やがて就業年数を積んで、仕事を任せなければコストの採算が見合わないような年齢に達したとき、任せられる仕事は、いきなり大きな規模の仕事しかないということについて注意しなければならない。
かれらは、予め想定された既知の失敗を、予め先人が定めた手順どおりに対処することには、相当の経験を持っているはずだ。
しかし、失敗の未経験者が、未知の失敗を見つけ出したり、それに対処することができたりするかは未知数だからだ。
大きな規模での未知の失敗が発生したときには、ただ幸運を祈るしかない。
運に頼りたくなければ、大きな規模のビジネスも取り扱うようになった企業は、新人に小さな失敗を経験させるための環境をどのように与えるのかを考えなければならない。

 

ただ、IT産業界においては、大きな失敗の際に不運が起こる頻度がいまのところ多くないように思われる。
むしろ幸運にも、なんとか乗り切ってしまう。
不運の発生頻度が少ないために、それらの失敗は温存されやすくなり、例外対処能力の重要性が見落とされやすい。
不運の頻度が少ないことは不運だと言える。

 

【人は育てるものではない】

 

人は育つものであって、育てるものではない。

 

適正のある者には、何も指導しなくても、自分で育っていくものだ。
逆に適正のない者には、どんなに労力をさいて指導をしても育たないはずだ。
人が人を育てる。ということは、成り上がった想いなのかもしれない。
その成り上がり精神は、些細な配慮を欠くだけで、戒められることになる。

 

職場は教育の場ではない。
学校では、自分の適性を知るために分野を眺めるべきだ。
そして自分の適性に合ったと思う職場を選択して就職すべきだ。
職場で、自分の適正を引き出してもらおうとするのは筋違いだ。
と言ってしまうと、みもふたもないだろう。が、少なくともその考え方を基本とすべきだろう。
とはいえ、自分の適性を見誤った者が職場に入ってくることは避けられない。
そのときに、その人それぞれに見合った仕事の内容や進め方を指導するのは、直属上司の責務ではある。
しかしながら、適材者がほとんどいない職場を現場上司だけでなんとかするのは無理だ。
基本を貫くためには、事業の運営が重要だということになる。

 

【○○○○○】

 

人材育成の方策を整備すれば、その分野には秀逸な人材は訪れなくなる。

 

人材育成の方策を整備するということは、レールを敷くようなものだ。
そこには、敷かれたレールを走りたいと思う人が多くくることになるだろう。
そこには、物事は教えてもらうのが、当たり前と思う人が多くくることになるだろう。
そこからは、自分でレールを敷きたい、新しい道を開拓したいという人は敬遠するようになる。
レールの敷かれたその分野には、長老がはびこり後進の失敗に、舌打ちをするからだ。
ころばぬ先の杖。という言葉があるが、その杖は自分で探してつかむからこそ、その有難みがわかるというものだ。
ころびそうな後進に、ころばぬ先から杖を渡すのは、先輩の自己満足に他ならない。
渡された者は、実際にまだつまずいたことすらなければ、その有難みを本当にはわかり得ないものだ。

 

○○○○○

 

ロードマップなどというものを作成した時点で、その産業の成長は減速し、停止する。
ロードマップの意味からも、それは当然だ。
分野におけるロードマップを作成したいという想いは、その分野に先に入った者が、自分を頂点にするためのレールだ。
そこには自分よりも劣る者しか立ち入るな。と書いているのに等しい。
自分の道を開拓したいという者は別のところに行け。と書いているのに等しい。
ところが実は、その分野を実際に立ち上げた有能な者は、そういう想いはないように思う。
かれらは自分が歩んだのと同じように、後進にも好きなように歩ませるのでよいと思っているに違いない。
そうではなくて、実際にロードマップを作りたがるのは、その分野に先に足を踏み入れてはいるが、実際には無能である者や評論家的立場である者が多い。
無能である者の中には、後から来る有能な者にその分野で活躍させ、そこからの搾取で自分の利益を獲得しようと思う輩もいる。
そのため、ロードマップ作成を先導する者は、自らでは作成できず、人のいい有能な者達から情報を抜き出して作成するという手法を取りたがる。
そのような無能な者が、分野にはびこったときに、その分野の成長は止まるのだろう。

 

ロードマップを作ると、次は人材育成のカリキュラムを作ろうとする。
そういう無能な者に育成される程度の者しか集まらなくなるのであるから、その分野の行く先は知れている。

 

ロードマップやカリキュラムなどの人材育成の方策の整備ではなく、人材育成の環境だけを漠然と提供する方がよい。
すなわち、後進が必要とするときに、先輩が後進に知識を与えることができるコミュニティの形成だ。
ほんの少し、先輩が口を出すのを許すとするならば、先輩が自らの行なっている仕事の内容についてを、どのようにその内容を立案し、決定し、何を注意しながら行なっているかの解説をする。ということはあってもよいだろう。
情報共有という観点では、成功例よりも、むしろ失敗例の勉強を好むようにすることもよい。
成功例だけを取り上げ、こういう状況ではこうすればよい的な、成功を一般論化して体系整備するのも、やめた方がよい。
ロードマップやカリキュラムのような定型の整備ではなく、試行錯誤の連続を意識した上で、分野内における既知の失敗の再発防止についての情報共有の仕組み作りに専念することが有益だ。

 

ころばぬ先の杖で喩えるならば、杖を渡すのではなく、杖は単に使っているだけでよい。
杖を意図的に見せることすらしない方がよい。
「杖の存在にまだ気づいていない後進がつまずいたときに、なぜあの先輩はころばなかったのだろうか?」と考え、「そうか!あのとき先輩は杖を使っていたからだ。」ということを自問自答した者から、杖について聞かれたときに、「杖の説明をする」というのが理想的だ。理想的と言っているのは、これをどこまで現実的なところで手を打つかの妥協の範囲はあるということだ。
つまずくのと、ころぶのとは異なる。ころばなくても、つまずいただけで、ころぶことを予測し、それについて考える能力を持っている人がいる。つまずく経験すらさせなければ、その能力の違いを知ることはできないし、その能力が伸びないかもしれない。
つまずくことで、ころばぬためのことについて意識をして、物事を考える能力を培うような環境が重要だ。
そのような者が集まる環境で、分野は成長し続けるはずだ。

 

逆に、この環境では、実務として無能な者は生き残ることができない。なぜなら、後進に指導をできない者は、存在価値がなくなるからだ。
実務能力のない者が、先に居るという理由だけで、他者からの搾取によって生きながらえるという環境になることは、その分野を発展させる人材の獲得をやがて失うことになる。
ロードマップ作成や、カリキュラム作成、人材育成などでは、そのことに十分に注意して、そのような環境にならないように PDCA を持続しなければならない。それができないのであれば、むしろ、しない方がましである。

 

【大御所の現れはその分野衰退の警告】

 

新しい分野を開拓した者は、次にその分野に入植してくる者に対して、変な期待をすることがある。

○○○○○

 

【IT産業に開拓精神のある人材を確保し続けることはできない】

 

発展のライフタイムが、分野を変えて波のように繰り返すことの原因がここにあるように思う。
50年間という期間が、その分野を開拓した者達が社会から引退するまでの期間としてみるとわかったような気にもなる。

 

産業そのものが進化するためには、新しい分野が発展する必要がある。
ところが、新しい分野を開拓できる人材の数は、世代が変わってもそんなには変わらないのであろう。
そうであれば、新しい分野を立ち上げて発展させる者達は、移り行く波を乗り継いで行くことになる。
何かの発展がさびれ、何かの発展がたち生まれていくことの繰り返しだ。
そう考えれば、仮に、IT産業が最善の人材環境を構築できたとしても、そこに開拓精神のある人材は獲得し続けられないと考えてみるべきかもしれない。
そこにいつまでもとどまらせてしまっては、次の分野の開拓が進まないということになる。
次の分野の開拓にかれらを回し、残された分野はその維持に務めるような人材が支えるのである。
そのとき、その分野は発展産業ではなくなるのかもしれない。

 

IT産業にとって、いつまでが発展期なのかは誰にもわからない。結果的にわかるだけのことだ。
ただ、開拓精神のある人材が訪れない環境を作ることは、IT産業発展のライフタイムをみずから縮めることになってしまうことは確かだろう。
寿命をまっとうするためには、人材育成のあり方が鍵であり、少なくともそれは延命策ではなく、どれだけ短くせずに済ませられるかということだけなのだろう。

 

※2023年追記

【リスク管理できる人材の育成】

リスク管理スキルを向上させるための日々の鍛錬に役立つのはSWOT分析だと思う。
極端に言えば、SWOT分析のWTをしっかり書けていない人は、他のことでよい結果を出していても幹部にしないくらいのことが必要なのかもしれない。
運がよくて成功したのか、リスクを管理しながら成功したのかを見極めることは重要だからだ。
これをちゃんとやらないと、正直者がバカをみるキャリアパスになりかねない。

組織全体としては、本来は情報セキュリティに限らない包括的なリスクマネージャが必要で、日本企業には「ご意見番」として存在していたのが、どんぶり勘定経営が縦割り経営になる過程で減った印象がある。
日本企業の経営会議では、ご意見番を輪番制にするとよい。当番の人は、議題について反対意見を意識して述べるという役割にする。普段なら賛成する議案であっても、とにかく重箱の隅をつついて無理やりでも反対理由を探して意見するという役割だ。
輪番制にするのは、反対意見に禍根を残さずに、当番になったときのお互い様で済ませられるようにするために有効だ。

 

1月 4, 2006 | | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年12月31日 (土)

IT産業分野の失策

事業に関する「運営と運行」を整理して分ける事ができるようになったため、いままで少し思っていた別のことの整理が進んだ。

それは、人材育成についてのことだ。
およそ8年前に事業戦略策定を考えていたときに整理した「2種類の財布」と「2種類の使い方」という、人材育成とは一見関係のない視点の話しから始めることにする。



【2種類の財布:コンシューマとエンタープライズ】

IT市場のお客様には、2種類の財布が存在する。
それは、コンシューマ(消費者)の財布とエンタープライズ(法人)の財布だ。

●コンシューマの財布

WHAT:
この財布には、自分の満足を高めるために一時的に手元に持っているお金が入っている。

WHY:
満足をより高めるためには、財布以外のお金も使うことができる。使おうと思って予め引き出した現金と、足りないときのクレジットカードを想像すると理解しやすい。
逆に、満足を得られないと思えば、使おうと思って引き出していた財布のお金を1円も使わないと決めることができる。

WHEN, WHO:
満足を得るために、「使うかもしれないお金」と言える。
いつ使うかは、本人が使うかどうかを決める。

●エンタープライズの財布

WHAT:
この財布には、決められた目的達成のための手段を実現するために与えられたお金が入っている。

WHY:
与えられたお金以上の金額を使うことは通常できない。
与えられたお金を残すことは通常ない。そのお金は、目的達成のために何らかの使われ方をする。
目的をあきらめた場合に限って、そのお金を使わないということが考えられるが、そのような場合には、目的が変更されて、やはりそのための何かに使われるのが一般的だ。

WHEN, WHO:
目的達成のために、「使うと決まっているお金」と言える。
使うかどうかを組織が決めている。それを任されている人が使いかたを決める。

●SMB(Small & Midium Business)の財布

かれらは、コンシューマのように振る舞ったり、エンタープライズのように振る舞ったりする。
そのときどきに応じて、かれらが、どちらの顔を示すのかを見極めるのは難しい。
ときとして、かれら自身もどちらで振舞うのかについてわかっていないことがある。
SMB においては両方に備えるしかないのだろう。



【2種類の使い方:カスタマとクライアント】

お財布の種類は2種類あるが、その使い方に2種類ある。
それは、カスタマ(顧客)的使い方とクライアント(依頼人)的使い方である。

●カスタマ的使い方

HOW, WHERE:
この使い方は、自分の満足を高めることができる商品を、市場にある商品の中から選択する。

より多くのカスタマに対して、繰り返して売る事ができる商品を用意することがビジネスに役立つ。
この場合、繰り返しとは、異なるカスタマに対する空間的な拡大販売と、同じカスタマに対する時間的な追加販売の両方が含まれる。
商品の一部についてカスタマイズに応じることは有益だが、日々の運行において、まったく異なる個別の要望ごとの商品を1から用意することは、大きなビジネスとしては有益ではない。(※注)
繰り返して売れる部分を商品に多く持たせることが重要である。
新規カスタマを増やすためには、マーケティング戦略などを活用することでマスで対応することができる。

(※注)フルカスタム・メードを期待する需要があるのは事実で、そのようなニッチなビジネス領域はあるが、ニッチであるからこその需要だと思う。

●クライアント的使い方

HOW, WHERE:
この使い方は、自分の手段を実現することができるソリューションを、それを提供できる者に依頼する。

個々のクライアントに対して、個々の期待に沿うソリューションを提供できるようにすることがビジネスに役立つ。
繰り返して売る事ができるソリューションを用意することは、マクロ的に見れば、運行効率を高めることに役立たない。
新規クライアントの開拓に相当のコストを要するため、
ソリューションを購入してくれたクライアントが次に希望するソリューションを、クライアントの要望に応じて用意することの方が、運行効率を高める場合が多い。



【2x2=4つのビジネス象限】

コンシューマとエンタープライズという2種類の財布と、カスタマとクライアントという2種類の使い方を組み合わせて、4つの象限に分けてビジネスの特性を整理することができる。

・ コンシューマ・カスタマ
・ コンシューマ・クライアント
・ エンタープライズ・カスタマ
・ エンタープライズ・クライアント

IT市場においては、コンシューマ・クライアントというのはニッチとなるであろうから、これら4つを大まかには、以下の2つに整理することもできる。

・ カスタマ
・ エンタープライズ・クライアント



【エンタープライズ・クライアント・ビジネスの失策】

エンタープライズ・クライアント・ビジネスについては、個々の期待に応じる能力のある人材が運行に従事しなければならないことになる。既製商品をただ選択させるだけではないビジネスだからである。
人材としては、そのような個々の期待に応じる能力のある人材とそうではない人材を比べた場合、当然前者の方がコストも高く、また調達も比較的困難になる。
だからといって、ビジネスの生産性を高めるために、個々の期待に応じる能力のない人材をエンタープライズ・クライアント・ビジネスの運行に従事させるのは誤りである。
誤った運行というよりは、運営なき運行と言うのが正確である。

このミスリードは、カスタマ向けのビジネス戦略を、エンタープライズ・クライアント向けに誤用したと思われる事例が散見される。
カスタマ・ビジネスにおいては、「繰り返しが金(GOLD)」であるが、エンタープライズ・クライアント・ビジネスでは「繰り返しは禁」とまでは言わないが、必ずしも最良策ではないという認識があまりに低い。
これは、カスタマ・ビジネスだけを習得した MBA 人種による勉強不十分によるミスリードと思われる向きもある。

そのような何らかのミスリードによって、ソリューションを繰り返し売るために、容易に調達できる人材を十分な育成もしないでエンタープライズ・クライアント・ビジネスの運行に採用した。
その結果、個々の期待に沿うことができるソリューションを提供できる人材の数が、エンタープライズ・クライアント・ビジネス市場の成長率と同程度には増えておらず、エンタープライズ・クライアント・ビジネス産業全体に占める割合は、実際には低下した。

その結果、ここにきて、IT産業のエンタープライズ・クライアント・ビジネスにおける品質低下の兆候が見られるようになった。
これは、ビジネス戦略を運営がミスリードしたことで、人材の適材適所を誤った運行が生じた失策として多いに見直さなければならないことであるが、IT業界のエゴは止まらない。




【人材育成】

ここまでの整理をすると、人材育成は、4つのビジネス象限を分けて考えなければならないことが推定できる。
そして、育成によっては人材の調達ができないと考えなければならない象限が存在していることにも気づかされる。
人材育成をすべきではない象限において、育成策を講じることは、百害あって一利なしとなるので注意しなければならない。
これを見誤ると、高品質のソリューションを提供する能力のある人材は、やがてIT産業には訪れなくなる。
その結果、IT産業全体の品質が低下して、さらに優秀な人材の獲得もできないという負のスパイラルが起こってしまう。

たとえ実際にやっていなくとも、やればできる人材がいる間は、その産業は回復できるが、できない人材ばかりとなったときには、その回復はもはや期待できない。
いったんそうなると、できない人材が食えなくなって自主退場するところまで、産業規模が落ち込んでから、適正な人材の規模で回復することになるのだろう。
そうなるくらいなら、適材適所となっていない人材を強制退場させることも考えなければ、正しい運営とはいえない。

12月 31, 2005 | | コメント (0) | トラックバック (0)