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2012年8月23日 (木)

社会に必要なのは想像力~いじめは想像力の欠如による

はるかぜちゃんこと、春名風花さんが朝日新聞の連載に投稿をしている。

特集連載:いじめと君」の最終回の「記事:《いじめている君へ》君、想像したことある?」がそれだ。

この中で、はるかぜちゃんは、いじめっ子には、いじめをしている自覚はないと、暗に大人たちが「いじめ」そのものを何とかしようという対策をしていることに苦言を呈した上で、「いじめは、いじめる子に想像力を持ってもらうことでしか止まらない。 」としている。


この着眼点が秀逸だ。
はるかぜちゃんって何者と思ったら、こちら:「はるかぜちゃん(10歳)のつぶやき

そんな中、いじめでわが子を失った父親の記事があった。
日本経済新聞:自殺生徒の父「暴力、何も解決できず」 大津教育長襲撃で
(原文はこちら:「大学生による大津市教育長襲撃事件」について

その中で、父親は、学校関係者を殴りたい衝動に駆られたが、「息子は喜ぶのだろうか」を考えて思いとどまった。としている。

こちらも、まさに想像力によるところだ。

いじめは想像力の欠如によるという彼女の指摘は端的な表現で的を得ていると思う。
いじめっ子になるかならないかを、家庭環境や価値観などで量ろうとすることに異論を唱えられたことになる。
さらに、いじめのきっかけとなる原因の有無について考え、どちらかに非があるのかないのかという論点も無意味だという意見でもある。
いじめという行為を実行してしまうか、しまわないかは、想像力のある子か、ない子か。だという仮説は、すばらしい。

また、想像力の有無が未然防止になることに加え、それは再発防止としても重要であることを意味している。
いじめがあったときに、いじめっ子に本人の想像力に訴えかけるということが、事後対応として重要なことになる。
これについては、森口朗公式ブログ:この「いじめ対策」はすごい!で長野県の中学校の先生が実践しているという手法が紹介されている。
その中で、「いじめっ子が泣くまで反省させる」という手法が紹介されており、コメントで賛否両論ある。
この表現をさらっとだけ読んで論じるのはよくない。これについては、上記のブログのコメントまでも、よく読むことで初めて趣旨が理解できることだが、「泣かす」ことと「泣くこと」を区別した表現である。
しかし、そこでのコメントの意見交換に、「想像力に訴えかける」という表現は出てこないが、実はそれを目的と位置付ければ、その手段としてのひとつの手法だと捉えれば、状況に応じた選択肢のひとつとして考えられることだろうと思う。

想像力は、いじめっ子になりうる子供たちだけに必要なことではない。
学校であれば教師にも、それを監督する教育委員会などの関係者にも。
そして、いじめっ子の家族にも、いじめられた子の家族にも。

想像力を養うような環境が減ることが、深刻な、いじめを生み出すのだとしたら、想像力を養うような改善は、いじめ対策以外にも役立つはずだ。

なぜなら、想像力は大人になって働くことになってからも重要なことだからだ。
想像力は産業力の強化にも必要な要素だろう。

多くの人が、さまざまなことに想像力を働かせて向き合っていく社会。それでも、うっかりと想像力を欠いてしまった場面では、互いが互いに想像力に訴えかけてそれを補っていくように促す社会というのは、希望に満ち溢れた明るい未来のひとつの条件だと思った。

以前、ビジョンの重要性~「孫と元気に遊べる社会」を例題に考えるを書いたが、これに、「想像力を活かす社会」を加えたいと思う。

8月 23, 2012 |

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