絵画の歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/26 04:56 UTC 版)
ペドロ・フェルナンデス・ドゥランの遺産より寄贈された1931年、この絵画はプラド美術館のコレクションの一部となった。この絵画をゴヤのものとする最初の文書は1946年、ゴヤの妻ホセーファ・バイユー(1812年死去)の遺物目録をフランシスコ・ハビエ・サンチェス・カントンが公表した時に遡る。その目録には、X(Xavier Goya:ハビエル・ゴヤ)と18番で識別された、『巨人』と同寸法の「巨人(Giant)」という絵が記載されている。この絵はペドロ・フェルナンデス・ドゥランが死去した1833年に、彼がひ孫に残したものとして、ミゲル・フェルナンデス・ドゥラン・フェルナンデス・デ・ピネド・イ・バザロン(ペラレス侯爵)の所有権に引き継がれた[要説明]。この絵は、パウラ・ベルナルド・デ・キロス(ペラレス侯爵夫人でペドロ・フェルナンデス・ドゥランの母)の公証された財産として、彼女の亡くなった1877年にリスト掲載されている[要説明]。当時この絵画は次のように説明されている「独立戦争の間に起こった不幸の予言的寓意像、ゴヤのオリジナル、寸法1.15×1.[0]3(国際単位系)1500ペセタの価値がある」。 最近は『巨人』の著作に関する疑義が持ち上がったことで、プラドの展示「戦時中のゴヤ」からのお蔵入りが注目されている。中でも特に、展示会に含まれていた同テーマのゴヤのエッチング(展示カタログ28番)がどうなるかである。 「ゴヤの『巨人』に関する研究方法としての芸術的技法」(ゴヤ・ジャーナル№324)という記事にて、ヘスサ・ベガ(スペイン語版)は「巨人(The Giant)」として知られるエッチング(マドリードのスペイン国立図書館に2つ目のコピーがある)と『巨人』の関係を以下の文言で評定した「巨人は、抵抗/防衛、誇りそして決起から、憂鬱への落ち込みへと移る、多くのスペイン人の気分を反映したもので、製作者によって共有された集団感情である 」。仮にこの絵が、半島戦争勃発の1808年から、ゴヤと息子ハビエル間で分けられた品物の中にその絵画があるとの記録が残されている1812年までの間に描かれたものであるなら、その版画は一連の『戦争の惨禍(英語版)』のエッチングで使用されていた技法や素材からして、戦争終了後がオリジナル創作された日付となるべきであろう。
※この「絵画の歴史」の解説は、「巨人 (絵画)」の解説の一部です。
「絵画の歴史」を含む「巨人 (絵画)」の記事については、「巨人 (絵画)」の概要を参照ください。
絵画の歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/12/05 23:15 UTC 版)
「1791年5月3日憲法 (絵画)」の記事における「絵画の歴史」の解説
ヤン・マテイコは5月3日憲法採択100周年に合わせるため、1891年1月に本作品を制作し始めた。最終的に彩色が終わったのは10月だったが、5月3日の時点でクラクフ・スキンニツェで開かれた記念展示会に出展できるほどには出来上がっていた。1892年4月7日、マテイコはこの作品をガリツィア王国(オーストリア領ポーランド)議会議長エウスタヒ・スタニスワフ・サングシュコのもとに送り、レンベルク(ポーランド語ではルヴフ、現ウクライナ・リヴィウ)の議場に飾られた。この建物は現在リヴィウ大学となっている。マテイコは1893年11月に死去し、この「1791年5月3日憲法」が最後の作品となった。 ポーランドの再独立の2年後にあたる1920年、本作品はクラクフに移され、1923年からはポーランド共和国下院議場に展示された。第二次世界大戦が勃発してポーランドが占領されると、本作品はレジスタンス活動家たちの手で隠匿された。戦後、本作品はワルシャワ国立美術館に移り、時々ポーランド議会議事堂でも展示された。1984年以降は、マテイコ自身の遺志に従い、ワルシャワ王宮で展示されている。この建物は5月3日憲法が実際に採択された際の議場であり、本作品はその上院の控えの間に展示されている 。
※この「絵画の歴史」の解説は、「1791年5月3日憲法 (絵画)」の解説の一部です。
「絵画の歴史」を含む「1791年5月3日憲法 (絵画)」の記事については、「1791年5月3日憲法 (絵画)」の概要を参照ください。
絵画の歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 02:22 UTC 版)
「キリストの変容 (ラファエロ)」の記事における「絵画の歴史」の解説
作品依頼の最終的時期である1517年12月までに、教皇レオ10世(1513〜1521年)の従弟であるジュリオ・デ・メディチ枢機卿は、教皇の副首相兼最高顧問になっていた。枢機卿はボローニャ使節の地位、アルビ、アスコリ、ウスター、エガーなどの司教区管轄権を授与されていた。 1515年2月から、これにナルボンヌの大司教区管轄権が含まれた。枢機卿はナルボンヌ大聖堂のために2枚の絵画、ラファエロによる『キリストの変容』とセバスティアーノ・デル・ピオンボによる『ラザロの復活』を依頼した。ミケランジェロが後者の作品の素描を提供したことにより、メディチ家は、10年前にミケランジェロ (システィーナ礼拝堂) とラファエロ (ラファエロの間) の間で始まった競争を再燃させることになった。 1516年12月11日から12日までミケランジェロはローマにいて、フィレンツェのサン・ロレンツォ聖堂のファサードのことで、教皇レオ10世、およびメディチ枢機卿と話し合った。この会合中に、ミケランジェロは『ラザロの復活』の依頼を受けた。ミケランジェロがこの絵画の制作のために素描を提供することに同意したのはローマにおいてであったが、自分自身で絵画を制作することはなかった。依頼は、ミケランジェロの友人、セバスティアーノ・デル・ピオンボになされたのである。この会合の時点で、本作は、絵画への2つのアプローチの間の、およびイタリア美術における絵画と彫刻の間の理想的事例を象徴するようなものになることが期待された。 ジュリオ・ロマーノによってラファエロの工房で制作された初期の習作は、『キリストの変容』を描いた、本作の1/10の縮尺の素描であった。習作では、キリストはタボル山上に表されている。モーセとエリヤは、キリストの方を向いて浮遊している。聖ヨハネと聖ヤコブは右にひざまずいており、聖ペテロは左側にいる。習作の上部には、父なる神と天使の集団が描かれている。ジャンフランチェスコ・ペンニによって制作された2番目の習作は、本作と同じように2つの場面を持つ構成を示している。この習作はルーヴル美術館に所蔵されている。 『ラザロの復活』は、1518年10月までに非公式に閲覧された。この時までに、ラファエロは自身の祭壇画、『キリストの変容』にまだほとんど着手していなかった。セバスティアーノ・デル・ピオンボの作品が、1519年12月11日の日曜日、アドベントの第3日曜日にレオ10世によってバチカンで公式に検分されたときまでには、『変容』はまだ完成していなかった。 ラファエロは、早くも1518年の秋に『ラザロの復活』の最終的な状態をよく知っていたと思われる。そしてラファエロが対抗するために熱心に働いたというかなりの証拠があり、2番目の主題と19人の人物を作品に追加した。現在、ルーヴル美術館にあるこのプロジェクトの現存している習作(ラファエロの助手、ジャンフランチェスコ・ペンニによる失われた習作の工房による複製)は、意図された作品の劇的な変化を表している。 最終作の『変容』の調査は、16以上の未完成の領域とペンティメンティ(変更箇所)を明らかにした。1つの重要な理論では、祝福されたアマデオ・メネス・ダ・シルバの著作が最終作への変革の鍵であったとされている。アマデオは影響力のある修道士、治癒者、先見の明のある人であり、教皇の告解を聞く司祭でもあった。アマデオはまた、ヴァチカンの外交官でもあった。 1502年の死後、アマデオの著作や説教の多くは『新黙示録』として編集された。この小冊子は教皇レオ10世によく知られており、ナルボンヌの司教としてジュリオ・デ・メディチ枢機卿の前任者であったギヨーム・ブリソネット、そして、その2人の息子も精神的なガイドとしてこの小冊子を参照した。ジュリオ枢機卿は『新黙示録』を知っており、絵画の最終的な構図に影響を与えたかもしれない。アマデオの小冊子は、「変容」と「憑依された少年」の逸話を連続して描写している。「変容」は、「最後の審判」と「悪魔の最後の敗北」の前兆を表している。別の解釈は、てんかんの少年が治癒し、キリストの神性とその癒しの力を結びつけているというものである。 ラファエロは1520年4月6日に亡くなった。その後数日間、『変容』は、ボルゴのラファエロの家に置かれた棺台頭部の傍らに横たえられた 。ラファエロの死から一週間後、『変容』と『ラザロの復活』の2点の絵画はヴァチカンでいっしょに展示された。 ラファエロの弟子であるジュリオ・ロマーノと助手であるジャンフランチェスコ・ペンニが絵画の右下半分の背後の人物を描いたという推測があるが 、ラファエロ以外の誰かが絵画の大半を完成させたという証拠はない。1972年から1976年にかけての絵画の洗浄により、助手たちは左下の人物像の一部しか完成させなかったが、絵画の残りの部分はラファエロ自身の手によるものであることが明らかになった。 ジュリオ・デ・メディチ枢機卿は、絵画をフランスに送る代わりに手元に置いた。1523年には、枢機卿は、ローマのサン・ピエトロ・イン・モントリオ教会内にあるアマデオの教会祭壇上に絵画をジョヴァンニ・バリーレ作の額縁 (もはや現存しない) に入れて設置した。ジュリオは、ペンニに『変容』のコピーをナポリに持っていくように命じた。本作とわずかに異なる最終バージョンがマドリードのプラド美術館に保管されている。本作のモザイクによる複製が、1774年にヴァチカン市国のサン・ピエトロ大聖堂でステファノ・ポッツィにより制作された。 1797年、ナポレオン・ボナパルトのイタリア遠征中に、『変容』はフランス軍によってパリに運ばれ、ルーヴル美術館に展示された。すでに1794年6月17日、ナポレオンの公教育委員会は、イタリアからパリに持ち帰るための重要な芸術作品と科学作品を剥奪するために専門家委員会が軍隊に同行することを提案していたのであった。 1793年に一般公開されたルーヴル美術館は、その芸術作品の明確な収容先であった。 1799年2月19日、ナポレオンはトレンティーノ条約を教皇ピウス6世と締結したが、この条約ではヴァチカンからの100点の芸術的財宝の没収が正式に定められた。 ナポレオンの代理人が切望した、一番の取得対象となった宝物の中にはラファエロの作品があった。ナポレオンの選考委員会のメンバーであったジャン=バティスト・ヴィカールは、ラファエロの絵画の収集家であった。別のメンバーであったアントワーヌ=ジャン・グロ男爵は、ラファエロの影響を受けていた。ジャック=ルイ・ダヴィッドやその弟子であるアンヌ=ルイ・ジロデ=トリオゾンやドミニク・アングルのような芸術家にとっても、ラファエロはフランスの芸術的理想の具現化であった。その結果、ナポレオンの委員会は入手可能なすべてのラファエロの作品を押収した。ナポレオンにとって、ラファエロはイタリアの芸術家の中で最も偉大というほかなく、『変容』はラファエロの最も偉大な作品であった。作品は、『ベルヴェデーレのアポロン』、『ラオコーン』、『カピトリーノのブルトゥース』などとともに、マクシミリアン・ロベスピエールの処刑4周年にあたる1798年7月27日にパリへの勝利の入場を果たした。 1798年11月、ルーヴル美術館のグランド・サロンで『変容』が公開された。そして、1801年7月4日のグランド・ギャラリーでの大規模なラファエロ展の目玉作品となった。 そこでは、20点以上のラファエロの作品が展示された。 1810年に、バンジャマン・ジスは自身の有名な素描で、背後に『変容』が展示されているグランド・ギャラリーを通ったナポレオンとマリア・ルイーザの結婚式の行列を記録した。 ルーヴル美術館での絵画の存在は、ジョセフ・ファリントン(1802年9月1日と6日) :1820–32や、ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー(1802年9月)のような英国の画家に絵画を研究する機会を与えた。ターナーは、ロイヤル・アカデミーの遠近法の教授としての最初の講義を本作に捧げた。ファリントンはまた、絵画を見た他の人物について報告した。『変容』がルーヴル美術館においてティツィアーノの『殉教者聖ペテロの死』(1530年)に次ぐ2番目の傑作だとした、スイスの画家ヨハン・ハインリヒ・フュースリと、英国の画家ジョン・ホプナーである。 :1847英米の画家ベンジャミン・ウエストは、「年長者の意見は、それ(『変容』)が依然として第1位を維持していることを確認したと述べた」。 :1852ファリントン自身は自身の感情を次のように表現した。 作品(『変容』)が私に与えた効果によって決めるなら、第一級と評された他の作品でさえ効果が弱く、力と生命感が欠如していると思わせるほど、丹念な配慮と堅固な様式によって描かれている『変容』は私の心に印象を残した、と言うことにためらいはない。 ジョゼフ・ファリントン『ジョセフ・ファリントンの日記 第4巻』 ナポレオン・ボナパルトの没落後、1815年に、教皇ピウス7世、アントニオ・カノーヴァ、マリノ・マリーニの使節がパリ条約 (1815年)の一環として『変容』を他の66点の絵画とともに取り戻すことに成功した。ウィーン会議での合意により、作品は一般に公開されることになった。本来のギャラリーは、ヴァチカン宮殿のボルジアの間にあったが、作品はヴァチカン内で数回移動した後、現在、ヴァチカン絵画館にある。
※この「絵画の歴史」の解説は、「キリストの変容 (ラファエロ)」の解説の一部です。
「絵画の歴史」を含む「キリストの変容 (ラファエロ)」の記事については、「キリストの変容 (ラファエロ)」の概要を参照ください。
- 絵画の歴史のページへのリンク