イタリア遠征
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イタリア遠征(イタリアえんせい)とは、イタリアへ軍隊を遠征させて戦争などを行うこと。 中世にはイタリアは諸小邦に分裂していたため、西ヨーロッパの大国が相次いでイタリア遠征を行っている。次のようなものが知られている。なお、初期の神聖ローマ帝国では、イタリアに関わる政治をイタリア政策と呼んでいた。
- 第二次ポエニ戦争におけるカルタゴの将軍ハンニバル・バルカによるイタリア遠征。
- 東ローマ帝国のイタリア遠征。例えば、ユスティニアヌス1世やコムネノス王朝によるもの。
- 神聖ローマ帝国のイタリア遠征。例えばオットー1世やハインリヒ3世など。
- オスマン帝国スルタン・メフメト2世による、1480年の南イタリア・オトラントへの派兵。1481年にスルタンの急死によって撤兵した。
- フランス王国のイタリア遠征。例えばヴァロア朝のフランソワ1世によるものなど。(イタリア戦争)
- フランス共和国のナポレオン・ボナパルトによる第1次イタリア遠征。イタリア戦役 (1796-1797年) を参照。
- 同じくナポレオンによる第2次イタリア遠征。イタリア戦役 (1799-1800年) を参照。
現代では、サッカーなどのスポーツチームが試合のためにイタリアを訪問することをこのように呼ぶこともある。
関連項目
イタリア遠征
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「ナポレオン -獅子の時代-」の記事における「イタリア遠征」の解説
トマ=アレクサンドル・デュマ イタリア方面軍所属の将軍。サン=ドマング(現在のハイチ)で黒人の母と白人の父との間に生まれたムラート(混血)。三銃士やモンテ・クリスト伯(巌窟王)の著者である文豪アレクサンドル・デュマ・ペールの父親でもある。 セリュリエと共にマントヴァ攻囲軍の指揮を執っており、マントヴァに籠城するオーストリア軍部隊に少量の肉とダルヴィンチ軍敗走のニュースの載った新聞を投げ込み、降伏を勧告する。また、規律の緩みがちな攻囲軍将兵に対して厳しい訓練を施す鬼軍曹的な側面を持つ。 エジプト遠征では兵士を労らないナポレオンに不満を抱き、命令違反を犯した上に遠征を批判して除籍される。帰国途上で難破しナポリ王国に二年間監禁された挙げ句、毒を盛られ衰弱。失意のまま軍人としての経歴を終えた。 シャルル ルクレールの副官。夫の留守をあずかるジョゼフィーヌに近づき、不倫相手となった。パリでジュノーによって騎兵服を奪われたことがある。ナポレオンのエジプト帰還によって心根を入れ替えたジョゼフィーヌと別れるが、彼を快く思わないランヌによって腕を折られ、橋から川へ突き落とされた。
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