『野鳥』の創刊
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それまで日本人の野鳥とのかかわりは飼い鳥として籠の中の鳥の鳴き声や姿を楽しむか、狩猟や食肉の対象としているものであった。悟堂はそのような習慣をやめて「野の鳥は野に」と自然の中で鳥を楽しむことを提唱した。その考えには少年時代からの仏教教育に基づいた万物に命が宿るといった自然観の影響が見られる。日本には「花鳥風月」の言葉どおり鳥をテーマにした文芸、絵画の歴史は長い。悟堂は短歌や詩などの文芸あるいは絵といった方法で、鳥の愛護と保護を一般大衆に訴える雑誌を構想した。 1934年(昭和9年)、誌名を「野鳥」と命名。悟堂が編集責任者となるが、実際の会誌の編集実務は、大正から昭和初期にかけ民俗、考古学や山岳関係の名著を多数世に送り出した岡書院店主、岡茂雄が担った。最初、岡は固辞したものの、中西の懇請を入れる形で創刊号の編集と刊行作業に当たり、1934年(昭和9年)5月の創刊号から1935年(昭和10年)9月まで、岡が山岳関係の書籍を扱った梓書房の名義で刊行される事となった。 岡によれば、創刊号の編集では、中西が字数の勘定などが不得手なため編集がはかどらず、やむなく岡が中西宅へ足を運んでは実務をこなした。また、創刊当初は「野鳥(やちょう)」と言う言葉が知られておらず、「のどり」と読む人が多かったと言う。1944年(昭和19年)9月、戦前の物資不足により用紙の配給が止まったことや、悟堂が福生町へ移住したことを機に機関誌『野鳥』も停刊となるが、1947年(昭和22年)に日本野鳥の会の活動再開と同時に再刊して今日に至る。
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