名人、達人には、自分は出来るけど、教えるのは下手という人は多い。
教えるのは無理だと思って最初から弟子を持たない名人もいるし、教えようとするけど、その教えは奇妙奇天烈でさっぱり分からないという達人もいる。
合氣道の達人、藤平光一さんという人は、本当に偉い人だと思う。
彼は、「重みは下にある」と声に出して言ったら、氣が出ると言う。
氣が出れば、パワー炸裂で何をやってもうまくいく。
しかし、「重みは下にある」と言えば、物質的に何か出る訳ではない。
とはいえ、「重みは下にある」と言えば、なぜ良いのかの説明は難しいのだ。
そこで、観念を使って、「こんな当たり前のことを言うと、氣が出るのじゃ」と言ったのであり、教え方としては最上と思う。
これが、植芝盛平となると、彼自身は凄い人で、真理を掴んでいたのだろうが、教えの方は誰にもさっぱり分からないのだ。
現代人は、特に大人は、多少は理屈で納得しないと、何もやれないものだ。
そこで、「重みは下にある」がなぜ良いのか、少し説明する。
まず、思考には、「時間がかからない思考」と「時間のかかる思考」の2つがある。
理由は後で言うが、時間がかからない思考は良く、時間がかかる思考は悪い。
「重みは下にある」というのは、当たり前のことであり、それ以上思考は広がらない。最も時間のかからない思考だ。
逆に、時間のかかる思考とは、「あの人は私が嫌いなんじゃないだろうか?」だ。そんなこと、考えても分かるはずがないので、考え出すときりがない。
「俺は就職できるだろうか?」などと心配するのは、生き方の下手な人だ。そんなことを考えても、いつまでも結論が出るはずがない。時間のかかる思考をしているのだ。
そんな時は、「そんなこと知るか!勉強しよう」と思えば、それで終りで、時間のかからない思考に切り替わったことになるのだ。
『灼眼のシャナ』というアニメで、恋を知らなかったシャナという少女が、悠二という男の子のことで悩み、心が苦しくて何も出来なくなったことがあった。
シャナは、考えても仕方がないことを考えていた。時間のかかる思考をしていたのだ。
ところが、最後に彼女は良い考えに至る。
それは、「私は悠二が好き。それだけ」だ。
見事なものだ。全く時間のかからない思考に変えて見せたのだ。
時間というものは実体のない幻想で、人間の敵になりやすい。
アインシュタインはそれを、「美女といる1時間は短いが、暑いストーブの上に座った10分は長い」と言ったことがあった。
美女といるのが良いことかどうかはともかく、夢中になっている時の時間は短く、気の乗らない活動をしている時間は長いのは確かだ。
時間というものは無いのに、人のマイナスの思考が時間を作り出すのだ。
時間のかかる思考がマイナス想念であり、時間がかかると言うより、時間を作り出しているのである。
時間は人の生命力を奪い、くたくたにさせる。
いつまでも若い人は、時間の無い人だ。
イエスは、「明日を思い煩うな」と言ったが、思い煩うというのは時間のかかる思考、つまり、時間を作り出す思考だ。
釈迦は、「妄想するな」と言ったが、同じ意味であることはお分かりと思う。
結論の出るはずのない、時間のかかる思考をやめることが幸福の秘訣である。
禅問答なんてのは、考えようのない問題を出すことで、時間のかかる思考を止めてしまうものだ。
答がない訳ではないのだが、考えて分かるような答ではない。その答が出る時、その者に時間は無いのである。
これを創案した達磨は天才中の大天才であり、彼が中国に持ち込んだ腕振り運動も大変な秘術だ。
達磨が腕振り運動に込めた真の奥義
で、時間のかかる思考をやめ、時間のかからない思考だけにする最大の方法を述べたのが、インドの聖者ラマナ・マハルシだ。
彼の偉大さは想像もつかない。彼を、「キリストのような、ブッダのような、あるいは、クリシュナのような」と述べた人がいたが、全くそうであった。
彼は、「どんな考えが浮かんでも、その考えを追うな。その考えが誰に浮かんだのかを問え」と言った。
ただ、「それが私にであると了解されたら、その私は誰かと問え」と付け加えたこともあった。
こういうことである。
「この国はどうなるだろう?」
「それを考えているのは誰だろうか?」
ここで、「私だ」と答が出たら、「私は誰か?」と問うのである。
しかし、実際は、「これを考えているのは誰だろう?」で思考は終ってしまう。
「これを考えているのは誰だろう?」や「私は誰か?」というのは、最強の、時間がかからない思考なのだ。
しかも、その問いは想念を根元から壊すので、時間のかかる思考が続きようがない。
なぜなら、あらゆる想いは、「私」がするものであるのに、その私が何かを問うのであるから、いわば、私の首根っこを押さえてしまったのである。
スコットランド出身の聖者、マード・マクドナルド・ベイン(哲学博士、神学博士)に降りたイエスの霊は言ったのだ。
「自分とはいったい何かを、納得がいくまで自分に問え」
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教えるのは無理だと思って最初から弟子を持たない名人もいるし、教えようとするけど、その教えは奇妙奇天烈でさっぱり分からないという達人もいる。
合氣道の達人、藤平光一さんという人は、本当に偉い人だと思う。
彼は、「重みは下にある」と声に出して言ったら、氣が出ると言う。
氣が出れば、パワー炸裂で何をやってもうまくいく。
しかし、「重みは下にある」と言えば、物質的に何か出る訳ではない。
とはいえ、「重みは下にある」と言えば、なぜ良いのかの説明は難しいのだ。
そこで、観念を使って、「こんな当たり前のことを言うと、氣が出るのじゃ」と言ったのであり、教え方としては最上と思う。
これが、植芝盛平となると、彼自身は凄い人で、真理を掴んでいたのだろうが、教えの方は誰にもさっぱり分からないのだ。
現代人は、特に大人は、多少は理屈で納得しないと、何もやれないものだ。
そこで、「重みは下にある」がなぜ良いのか、少し説明する。
まず、思考には、「時間がかからない思考」と「時間のかかる思考」の2つがある。
理由は後で言うが、時間がかからない思考は良く、時間がかかる思考は悪い。
「重みは下にある」というのは、当たり前のことであり、それ以上思考は広がらない。最も時間のかからない思考だ。
逆に、時間のかかる思考とは、「あの人は私が嫌いなんじゃないだろうか?」だ。そんなこと、考えても分かるはずがないので、考え出すときりがない。
「俺は就職できるだろうか?」などと心配するのは、生き方の下手な人だ。そんなことを考えても、いつまでも結論が出るはずがない。時間のかかる思考をしているのだ。
そんな時は、「そんなこと知るか!勉強しよう」と思えば、それで終りで、時間のかからない思考に切り替わったことになるのだ。
『灼眼のシャナ』というアニメで、恋を知らなかったシャナという少女が、悠二という男の子のことで悩み、心が苦しくて何も出来なくなったことがあった。
シャナは、考えても仕方がないことを考えていた。時間のかかる思考をしていたのだ。
ところが、最後に彼女は良い考えに至る。
それは、「私は悠二が好き。それだけ」だ。
見事なものだ。全く時間のかからない思考に変えて見せたのだ。
時間というものは実体のない幻想で、人間の敵になりやすい。
アインシュタインはそれを、「美女といる1時間は短いが、暑いストーブの上に座った10分は長い」と言ったことがあった。
美女といるのが良いことかどうかはともかく、夢中になっている時の時間は短く、気の乗らない活動をしている時間は長いのは確かだ。
時間というものは無いのに、人のマイナスの思考が時間を作り出すのだ。
時間のかかる思考がマイナス想念であり、時間がかかると言うより、時間を作り出しているのである。
時間は人の生命力を奪い、くたくたにさせる。
いつまでも若い人は、時間の無い人だ。
イエスは、「明日を思い煩うな」と言ったが、思い煩うというのは時間のかかる思考、つまり、時間を作り出す思考だ。
釈迦は、「妄想するな」と言ったが、同じ意味であることはお分かりと思う。
結論の出るはずのない、時間のかかる思考をやめることが幸福の秘訣である。
禅問答なんてのは、考えようのない問題を出すことで、時間のかかる思考を止めてしまうものだ。
答がない訳ではないのだが、考えて分かるような答ではない。その答が出る時、その者に時間は無いのである。
これを創案した達磨は天才中の大天才であり、彼が中国に持ち込んだ腕振り運動も大変な秘術だ。
達磨が腕振り運動に込めた真の奥義
で、時間のかかる思考をやめ、時間のかからない思考だけにする最大の方法を述べたのが、インドの聖者ラマナ・マハルシだ。
彼の偉大さは想像もつかない。彼を、「キリストのような、ブッダのような、あるいは、クリシュナのような」と述べた人がいたが、全くそうであった。
彼は、「どんな考えが浮かんでも、その考えを追うな。その考えが誰に浮かんだのかを問え」と言った。
ただ、「それが私にであると了解されたら、その私は誰かと問え」と付け加えたこともあった。
こういうことである。
「この国はどうなるだろう?」
「それを考えているのは誰だろうか?」
ここで、「私だ」と答が出たら、「私は誰か?」と問うのである。
しかし、実際は、「これを考えているのは誰だろう?」で思考は終ってしまう。
「これを考えているのは誰だろう?」や「私は誰か?」というのは、最強の、時間がかからない思考なのだ。
しかも、その問いは想念を根元から壊すので、時間のかかる思考が続きようがない。
なぜなら、あらゆる想いは、「私」がするものであるのに、その私が何かを問うのであるから、いわば、私の首根っこを押さえてしまったのである。
スコットランド出身の聖者、マード・マクドナルド・ベイン(哲学博士、神学博士)に降りたイエスの霊は言ったのだ。
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いつも素晴らしい文章ですが・・・
本日は感銘を受け、涙がでそうになりました。
腕振り運動も、ラマナ・マハルシもKayさんのおかげで知りました。水野南北さんも。バガヴァッド・ギーターもエメラルドタブレットも。藤平光一さんも。
紹介されたのは、20冊程読んでます。
個人的には、ラマナ・マハルシの「あるがままに―ラマナ・マハルシの教え」が最高です。
「食は運命を左右する」は食事に関して感覚的にわかる本なので好きです。
ラマナ・マハルシが述べた「すべての規則制限のなかでも、適度の量の清らかな食事を摂るという方法が最上のものである。これを守ることによって心の清らかさは増し、真我の探求の助けとなるだろう」
というものです。
彼が唯一認めた物理的変化は食習慣だけだった。
という文章読んだ時にこの方はホンモノだ。
と直感しました。
悟りにも「似非」悟りがあることはなんとなくしっていました。
超能力を駆使する人がそれにあたるのでしょうけど。
超能力の批判も素晴らしかったですね。
「真我である」ことが全てということでしたね。
この本を読めたことは非常にラッキーです。
Kayさんのおかげです。(神様のおかげです。)