最近は、音楽CDを買わずに、ネットでMP3の音楽データをダウンロード購入する人も多いだろう。
アメリカでは、もうかなり前から、高校生がCDというものを見たことがないという話を聞いたことがある。
だが、MP3は、作り方によって程度の差はあるのだが、CDと比べると音質は落ちるらしい。だが、CDとMP3の違いが分かる者は実際は少ないらしいし、イヤホンや小さなスピーカーで聴く限りでは全く違いがないという話も聞く。
また、超一流の音楽家にも、最も音が良いのはアナログ・レコードだと断言する者もいる。
本当か嘘かは知らないが、実際に音楽プレーヤーでアップル社を復活させたスティーブ・ジョブズは、家ではアナログ・レコードを聴いていたという。
ただ、それなら、レコードと同じアナログ方式で、磁性面も再生ヘッドもずっと大きなカセットテープや、さらには、テープレコーダーはもっと音が良いことになる気がする。
別に、上のようなことを理屈・論理で追求するつもりは全くない。
ただ、こう言いたいのである。
「どれでも同じだ」
こう言うと、「お前は音を全く分かっていない」と言う者がいるだろう。
だが、こう言い返せると思う。
「分かっていないのはお前の方だ」
『解脱の真理』という本で、軽く半世紀以上昔と思うが、スコットランド出身の聖者マード・マクドナルド・ベインが修行時代、チベットの山奥に行き、そこに住む聖者と、蓄音機で音楽を聴く場面がある。ベインは学生の頃は音楽演奏で何度も大きな賞を受賞したこともあるという相当訓練した演奏家で、当然、生演奏の音もよく知っているはずである。また、当時の蓄音機の音なんて、今のオーディオとは比較にならないほど音が悪いはずだし、ステレオですらあるはずがない。
それでも、高度な「聴く耳」を持っているはずのベインらは、音楽を堪能し、音楽の素晴らしさを語るのである。
これは、何を意味しているのだろうか?
また、現代のテレビは、40インチを超える大きさの画面も普及し、デジタル方式の映像は格段に美しくなった。
しかし、昔の20インチ以下の、ノイズも多かったに違いないアナログで曲面もあるブラウン管画面でありながら、そんなテレビで子供の頃に見たアニメの壮大な素晴らしさをよく覚えているという人もいる。当時のアニメーターは絵が上手かったと主張する人もいるが、いずれにしても、低予算での制作であったはずで、絵を描く人数が現在とは比較にならないほど少なく、また、動画を描く人となると、ほとんど素人を数ヶ月訓練して描かせることもあったという。
それでも、そんなアニメを、現代の作品では見ることのできないほどの素晴らしいものだったと思っている人も少なくないのだ。
これは、いったいどういうことだろう?
核心に迫っていこう。
好きな人と食べる料理は、質素であっても物凄く美味しいが、嫌だと感じる人と食べれば、どんな素晴らしい料理もさほどではないこともあるだろう。
『まほろまてぃっく』というアニメで、初めて水平線に沈む夕陽を見て、その美しさに感動するまほろに、美里司令が、
「きれいだろ?だがな、世の中にはもっと美しいものがあるぞ」
と言い、まほろは戸惑いと驚きを感じ、そして、希望を持つことになる。
そして、その、「もっと美しいもの」を探していたが、なかなか見つからない。
しかし、最後に、彼女はそれを見つける。
それは、「好きな人と一緒に見る夕陽」だった。
いや、美しいものであれば、夕陽でも何でも良かったのだろう。
もちろん、「好きな人」という部分にこだわる必要はない。
意識が純粋になって拡大していれば、その時には、何でも美しく見えている。
なぜなら、その者にとって、どこであろうが、「今、ここ」が天国であるのだからだ。
つまり、音楽や映像も、「見る人次第」であり、それがどれだけ良いかも、「見る側の問題」なのである。
サルトルは、「小説を読むことは、それを読者がもう一度書くことだ」と言ったそうだが、これこそが核心である。
同様に、音楽を聴くことは、その音楽を、聴く者がもう一度創作することだ。
絵画を見るということは、その絵画を、見る者が心の中で瞬時に描き上げることである。
いや、感受作用とは、感覚器官が捉えた何かを、心の中に住む魔術師が、瞬時に再構築したものを認識することなのである。
同じものを見、同じ音を聴いているようでも、どう見えているか、聴こえているかは、全く異なるのである。
このことを知っておくべきであろう。
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アメリカでは、もうかなり前から、高校生がCDというものを見たことがないという話を聞いたことがある。
だが、MP3は、作り方によって程度の差はあるのだが、CDと比べると音質は落ちるらしい。だが、CDとMP3の違いが分かる者は実際は少ないらしいし、イヤホンや小さなスピーカーで聴く限りでは全く違いがないという話も聞く。
また、超一流の音楽家にも、最も音が良いのはアナログ・レコードだと断言する者もいる。
本当か嘘かは知らないが、実際に音楽プレーヤーでアップル社を復活させたスティーブ・ジョブズは、家ではアナログ・レコードを聴いていたという。
ただ、それなら、レコードと同じアナログ方式で、磁性面も再生ヘッドもずっと大きなカセットテープや、さらには、テープレコーダーはもっと音が良いことになる気がする。
別に、上のようなことを理屈・論理で追求するつもりは全くない。
ただ、こう言いたいのである。
「どれでも同じだ」
こう言うと、「お前は音を全く分かっていない」と言う者がいるだろう。
だが、こう言い返せると思う。
「分かっていないのはお前の方だ」
『解脱の真理』という本で、軽く半世紀以上昔と思うが、スコットランド出身の聖者マード・マクドナルド・ベインが修行時代、チベットの山奥に行き、そこに住む聖者と、蓄音機で音楽を聴く場面がある。ベインは学生の頃は音楽演奏で何度も大きな賞を受賞したこともあるという相当訓練した演奏家で、当然、生演奏の音もよく知っているはずである。また、当時の蓄音機の音なんて、今のオーディオとは比較にならないほど音が悪いはずだし、ステレオですらあるはずがない。
それでも、高度な「聴く耳」を持っているはずのベインらは、音楽を堪能し、音楽の素晴らしさを語るのである。
これは、何を意味しているのだろうか?
また、現代のテレビは、40インチを超える大きさの画面も普及し、デジタル方式の映像は格段に美しくなった。
しかし、昔の20インチ以下の、ノイズも多かったに違いないアナログで曲面もあるブラウン管画面でありながら、そんなテレビで子供の頃に見たアニメの壮大な素晴らしさをよく覚えているという人もいる。当時のアニメーターは絵が上手かったと主張する人もいるが、いずれにしても、低予算での制作であったはずで、絵を描く人数が現在とは比較にならないほど少なく、また、動画を描く人となると、ほとんど素人を数ヶ月訓練して描かせることもあったという。
それでも、そんなアニメを、現代の作品では見ることのできないほどの素晴らしいものだったと思っている人も少なくないのだ。
これは、いったいどういうことだろう?
核心に迫っていこう。
好きな人と食べる料理は、質素であっても物凄く美味しいが、嫌だと感じる人と食べれば、どんな素晴らしい料理もさほどではないこともあるだろう。
『まほろまてぃっく』というアニメで、初めて水平線に沈む夕陽を見て、その美しさに感動するまほろに、美里司令が、
「きれいだろ?だがな、世の中にはもっと美しいものがあるぞ」
と言い、まほろは戸惑いと驚きを感じ、そして、希望を持つことになる。
そして、その、「もっと美しいもの」を探していたが、なかなか見つからない。
しかし、最後に、彼女はそれを見つける。
それは、「好きな人と一緒に見る夕陽」だった。
いや、美しいものであれば、夕陽でも何でも良かったのだろう。
もちろん、「好きな人」という部分にこだわる必要はない。
意識が純粋になって拡大していれば、その時には、何でも美しく見えている。
なぜなら、その者にとって、どこであろうが、「今、ここ」が天国であるのだからだ。
つまり、音楽や映像も、「見る人次第」であり、それがどれだけ良いかも、「見る側の問題」なのである。
サルトルは、「小説を読むことは、それを読者がもう一度書くことだ」と言ったそうだが、これこそが核心である。
同様に、音楽を聴くことは、その音楽を、聴く者がもう一度創作することだ。
絵画を見るということは、その絵画を、見る者が心の中で瞬時に描き上げることである。
いや、感受作用とは、感覚器官が捉えた何かを、心の中に住む魔術師が、瞬時に再構築したものを認識することなのである。
同じものを見、同じ音を聴いているようでも、どう見えているか、聴こえているかは、全く異なるのである。
このことを知っておくべきであろう。
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