古生物学の科学哲学の本で、その美的側面を強調している。
タイトルのPaleoaestheticsは、直訳するなら「古美学」になるだろうが、ここでPaleo-としているのは古生物学Paleontologyとかけているからであり、また、古生物学の美学、というよりは、古生物学の美的な側面を指す際に用いられているので、ここでは「美的古生物学」と訳してみた。
本書では、Paleoepistemologyという語も出てくるのだが、これも、古生物学の認識論という意味ではなく、古生物学の認識論的側面という意味で使われている。
科学というのは認識論的epistemicなもの(新しい知識を得るためのもの)と考えられがちだが、それ以外の面、つまり美的な面も持ち合わせているのだという。
さらに、単に美的な面もあるよねというだけでなく、認識論的な面と美的な面は相互依存の関係にあり、区別できないほど混ざり合っているという主張が展開されている。
また、従来の科学哲学が、理論中心的な議論をしがちだったのに対して、実践中心的な議論をするのだともしている。
このブログを読む人は、美的aestheticという語の意味は知っていると思うが、古生物学のキーワードで来た人向けに、簡単に注釈しておくと
この美的aestheticという言葉は、beautyの美とは違うものだということ。
感性的という訳語が当てられることもある。ただ、感性的より美的という訳語が慣例的によく使われているので、ここでも美的という訳語を使う。
美と美的が違うなら美的とは一体なんなのかというと、具体的には「雄大な」「均整のとれた」「かわいらしい」「けばけばしい」「醜い」などなどが挙げられ、「美しいbeauty」はこれらの内の1つ
シブリーによれば知覚されるものだが、例えば赤い色とか甘い味とか、標準的な五感を備えていれば誰でも知覚できる性質と違って、何らかのセンスを持ち合わせることで知覚できるとされる。
また、主観的なものだとされる一方で、必ずしも、人それぞれという相対主義的なものではないとされる*1
twitter.com恐竜の美学ありうるのではないかと思い、手始めに(?)動物の美学についてググったら、早速青田さんの論文があったので読んだ
— シノハラユウキ (@sakstyle) 2020年6月6日
タイトルだけは出た時に見かけてたな、これ
青田 麻未 (Mami Aota) - 動物の美的価値--擬人化と人間中心主義の関係から-- - 論文 - researchmap https://t.co/1SrMWO9Dpb
ある日、「恐竜の美学」ってないのかなと思い始めて、試しに色々ググっていて見つけたのがこの本(上のツイートの論文とは関係ないです)
既に述べた通り、これは美学というよりは科学哲学の本で、著者も科学哲学の人ではある。
ただ、カールソンなど環境美学に基づいた議論もされており、科学哲学と美学をつなぐような本とも言えるかもしれない。
なお、本書は生物学の哲学に関するシリーズの中の一冊
100ページに満たない本で、英語も平易なのでサクサク読めた。
1 Introduction
2 Paleoaesthetics
3 Historical Cognitivism in Aesthetics
4 Aesthetic-Epistemic Feed back Effects
5 Functional Morphology as Aesthetic Engegement
6 Explaining Historical Scientific Success
7 Fossils as Epistemic Tools and Aesthetic Things
8 The Dinosaur Phylogeny Debate
9 Why are Dinosaurs Always Fighting?
10 Conclusion
1 Introduction
Paleoaestheticsについて「歴史科学の美的次元についての研究を指す言葉として使う」とされる
ここでいう歴史科学は自然史のことを指しているのかなと思うが(ただ人間の歴史という意味での歴史を無視してはいないように思うが)、それはそれとして、この意味であれば「古美学」という直訳もあながち間違いではないと思う。ただ、やはり分かりにくいので、訳に悩むところ
この本の概観
- 古生物学は認識論的目的だけでなく美的目的を持つ
- あるものの歴史を学ぶことは、それの美的性質をよりよく鑑賞させる
- 化石と風景は可変的な美的価値を持つ
- 機能的形態学は美的探求である
- 古生物学の実践のある側面(化石のクリーニング、3Dプリント、復元画、フィールドスケッチ)は芸術的実践であり、古生物学の認識論的成功は、これらの実践に支えられている
- 化石についての揺るぎないメタファーは、古生物学の美的側面を見難くするが、こうしたメタファーは変えられる
- 恐竜研究における論争が、1つの化石標本に対する研究者間での美的関与の違いによることがある
- 美的なバイアスが科学探求へとよくない影響をしていることもある
理論中心の科学哲学に対し、実践中心の科学哲学
前者は科学のプロダクトに注目するのに対し、後者は科学のプロセスに注目する。
古生物学の認識論的次元と美的次元がどのように関係しているか、2つの見方がある。
2つは区別可能という見方と2つに明確な区別はないという見方
本書の第一の目的は、古生物学に美的次元があることを示すことだが、この2つの見方のうち後者を示すのが第二の目的
本書は、科学の美的次元を論じる本だが、科学の非認識論的価値(社会的、倫理的、美的)について論じるの最近他にもあるよね、という言及もなされている。
2 Paleoaesthetics
2つの方向性から論じられる。
1つは、どのように科学的探求が美的エンゲージメント(以後、engagementを関与と訳するが、これもなんて訳すか難しい)に貢献するか
もう1つは、どのように芸術的実践が科学的探求に貢献するか
まず、前者について
環境美学における、カールソンの科学的認知主義(Scientific Cognitvism)を下敷きに、筆者は歴史的認知主義(Historical Cognitivism)を提案する。
歴史的知識を持つことで、風景や化石の美的鑑賞がより深くなるよね、という考え
荒涼としたバッドランドの土地も、白亜紀には海沿いの豊かな土地だったと知れば、その風景の見え方が変わるよね、と。
化石も同様
ところで、美術品だと本物とレプリカだと鑑賞経験変わるけど、化石の場合、博物館にあるのは大抵レプリカだけど、それで問題なくて、美的鑑賞の対象になっていても違いがあるんだよ、という指摘とか面白い。
科学的知識が美的鑑賞に役に立つのって、科学にとってはたまたま生じた利益にすぎないのでは、という考えに対して、科学において、認識論的次元と美的次元が明確には区別できない派の筆者は反論する。
例えば博物館の化石コレクション、何を収蔵するのかというチョイスはどうなされるのか。
化石コレクションは、認識論的な考慮(新しい知識をもたらしてくれる標本かどうか)だけでなく、美的な考慮(博物館の展示に映えるかどうか)もなされて決められる。
全身骨格がどれだけ揃っているかという完全さという尺度も、認識論的なものであると同時に美的なものでもあるだろう、と。
美的って主観的ってことじゃないの、主観的なのは科学にそぐわないのでは、という反論に対して、いや、美的って意外と客観的なとこがあるんですよ、と言って、再びカールソンを持ち出している。
後者(どのように芸術的実践が科学的探求に貢献するか)について
この論点は他の章でも出てくるが、この章では化石のプレパレーションが例として出される
プレパレーションかどのようなものか、ワイリーの研究に従って紹介される。
プレパレーターが、芸術、特に彫刻のスキルを持っている場合が多いこと、化石を掘り出すに当たって、美的な判断による決断を行うことがあることなどが挙げられている。
化石のプレパレーションは、認識論的次元と美的次元が相互に働いている例
3 Historical Cognitivism in Aesthetics
美的な関与に、知識は必要か
知識なしの「ナイーブな」関与にも一定の意義を認めるが、知識があるとより深められるとする。
オークションで高値で取引されるコプライト(糞化石)の例が出されている。オークションの説明書きで、さまざまな美的な形容がなされているが、これはそれがコプライトであるからこそ意味をなす形容だとして、知識が美的な関与に影響していることを論じている。
さらにこのコプライトだが、どうも産地からして実際にはコプライトではないらしい。誤った知識により美的な関与も誤ってしまっている。
ナイーブな関与と知識により深められた関与の関係について、音楽鑑賞で喩えている。
音楽について知識がなくとも、曲の最後の和音の素晴らしさは鑑賞できるが、曲全体の中でその和音がどのようにフィットしているか分かっていると、さらに鑑賞は深まる、と。
歴史的認知主義に対する3つの異議への反論
(1)エリート主義
知識を要求するのはエリート主義では?
博物館など、むしろ知識をどんどん広める。歴史的認知主義がエリート主義になるわけではない
(2)ポジティブ美学
自然のものはなんでもポジティブな美的価値を持ってしまうのでは?
コプライトの例
(3)脱神秘化
科学は自然を脱神秘化してしまう
科学が進むとまた新たな謎が出てくる。科学的知識があるからこその芸術作品(詩)もある
4 Aesthetic-Epistemic Feed back Effects
NortonとSarkerによる可変的価値(transformative value)の議論の応用
美的な関与から認識論的活動への影響を与えることについて
美的な経験が科学探求のモチベーションになる
5 Functional Morphology as Aesthetic Engegement
機能形態学は、美的な探求でもある
機能と美の関係について、主にカールソンとパーソンズの議論に依拠しつつ、具体例としてアンモナイト研究を挙げている
ZFEL(zero force evolutionaly law)って出てくるんだけど、なんか見覚えあるような、ないような
アンモナイトの殻の巻き方の話で、ラウプの形態空間も出てきている。
近藤滋『波紋と螺旋とフィボナッチ』 - logical cypher scape2思い出したけど、この本は、ラウプモデルより岡本モデルの方がよく説明できる。という話だった(ので、あまり関係ない)
6 Explaining Historical Scientific Success
科学の成功を説明する
従来の科学哲学だと、科学的実在論の範疇で、理論が真であることによって、成功を説明してきた
これはプロダクト(理論)注目型の科学哲学で、プロセス注目型の科学哲学による議論として、カリーのものが紹介される。
筆者は、カリーの議論の美的面への拡張を目指す。
(ところで、奇跡論法が英語だとno miracles argumentだと今さら知った)
カリーは、認識論的善の多元主義(真であること以外(正確な表象など)も認識論的善とする)にたつ
歴史科学の成功に貢献する実践の特徴3つ
(1)方法論的雑食性
(2)認識論的足場
(3)経験に基づく思弁
Clelandへの言及があった。アストロバイオロジーの哲学の人だけど*2、歴史科学の哲学とかそのあたりもやってるらしい。この本の筆者は仲間とともに古生物学の哲学に関するブログをやってるが、ゲスト執筆者としてもClelandの名前があった
認識論的足場の例としてラウプの形態空間を挙げている。あれは表象ツールだけど、新しい問題設定へと開くものでもある
カリーの考えは、認識論的なものなので、これを美的な方向へ拡張するのが筆者の議論
特にpaleoart(日本語に訳すとするなら、おそらく復元画だと思う)やフィールドスケッチを例に論じている。
特にこの章はフィールドスケッチについて重きを置いている。
認識論的なものでもあるし、美的なものでもある。はっきり区別をつけられるものではない。
フィールドスケッチは風景画と違って、地質学の基礎データとなるもの
でも、それを描くのにアーティスティックなスキルはいる。また、フィールドスケッチを描くことで、風景を見る美的な知覚も養われる
7 Fossils as Epistemic Tools and Aesthetic Things
まず、科学の中で使われるメタファーについて
生きた化石とかカンブリア爆発とか系統樹とか生態学的ニッチとか
こうしたメタファーの担う意味は、理論とも関わってくる(ニッチが他の言葉(バスケットとか)だったら? という話をしてる)
本章で取り上げるのは、化石記録というメタファーについて
これはすごく根付いてるメタファーで色んな本のタイトルとかこれに基づいてると例がたくさん出されてる中に、読んだことある本もあった(マーティン・J・S・ラドウィック『化石の意味』 - logical cypher scape2)。
このメタファーは、化石から情報を読み取るとか、または、それが失われ読み出せなくなるという考えになる。例えば科学哲学でも、どれだけ化石に情報が保存されてるのか、もしくは破壊されてるのかという議論があったりする(筆者やCleland)
このメタファーは遡ると、自然は神の書いた書物という自然神学的な考えに由来するだろう。脱神学化しても、このメタファーは残った、と。
他のを考えるなんて一見できなさそうだが、メタファーなので、オプショナルである。
化石記録というメタファーを他のメタファーに変えることもできるはず
ということで筆者が提案するのが、探求のツールとしての化石、という考え方
古生物学者は、このツールの開発や精錬をしているのだ、と
記録のメタファーは、そこにどれだけ記録が保存されているか、どれだけちゃんと読み取れるかという問題につながるか、ツールというメタファーは、異なる問題を提起する。このツールで何ができる? 他のツールとどのようなコンビネーションができる? やりたいことをするためにはどんなツールを作ればいい?
さらに、Rheinbergerのテクニカル・オブジェクトと認識論的事物という区別を持ってくる。
認識論的事物は、探求のターゲットとなっているもの
テクニカル・オブジェクトは、探求に使われるツールやデバイス
Rheinbergerは、認識論的事物は、新しい探求のテクニカル・オブジェクトになると論じる。
筆者は、化石というのは古生物学にとって、美的事物でありテクニカル・オブジェクトなのだと述べる。
8 The Dinosaur Phylogeny Debate
恐竜の系統研究について
恐竜は長いこと鳥盤類と竜盤類の二大分類がされてきたが、近年、竜盤類とオルニソスケリダという新しい分類が提案され、話題になっている。
もちろん反論も出されている。恐竜の二大分類を変える大きな議論だが、実は、ピサノサウルスの標本の特徴をどう記述するのかの違いだったりする。
古生物学における特徴の記述について引用して、ワインの記述や美術評論の記述(ディスクリプション)に喩えている。で、これは、化石に対する知覚的関与(美的関与)だよね、と。
系統樹の分析、詳しく知らないけど、各種について特徴*3を数え上げて、この種には「これとこれとこれがあって、あれとあれとあれがない」みたいにして数値化して計算しているという雑な理解をしているけど、そもそもその特徴の有無を判断するのって、どうなってんだろうなーとは気になってたところで
この標本は新種ですって判定するのも、この突起が曲がってるから、とかそういうのだったりする(カムイサウルス)
それって「ここの長さは30cmです」みたいな誰でも調べられるものじゃなくて、プロのスキルが必要なものだろう。無数の標本を見てきたことによって、そうじゃない人には見分けられない区別を見分けられるようになっている。
これは、まさにシブリーが言うような「美的」な能力のように思える。
フィールドスケッチも同様な話だと思うし、古生物学は化石と風景に美的関与する実践だ、という本書の主張は、鑑賞眼を涵養することもまた古生物学にとっての(認識論的ゴールとは別の)もう1つのゴールなんだ、という話なのかなあと思う。
9 Why are Dinosaurs Always Fighting?
筆者の議論へのカウンターになりそうな例
ティラノサウルスとトリケラトプスが一騎打ちしているイラスト
少なくとも1906年のチャールズ・ナイトのものまで遡る。
面白い指摘として、恐竜のイメージをがらりと変えたバッカーの『恐竜異説』も、表紙は獣脚類とケラトプス類の闘うシーン
実際のところ、この二者が決闘したような証拠はなく、人間の決闘や一騎打ちが反映されてしまっているだけなのではないか、と。
戦う武器を持ってる動物が好まれる傾向があるのではないかと(恐竜の歯や角など、武器のメタファーをされることが多い)
(武器のない恐竜でも人気のあるものとして、マイアサウラが挙げられるが、よかな母親という意味の名前で、これはこれで、20世紀のジェンダー規範を読み取ってるケースではないかという指摘)
(ジュラシック・パークのディロフォサウルスも、観客の期待にそうものとして、毒という特殊武器をもつように描かれている、と)
で、こういう美的なバイアスが問題だとすると、やっぱり古生物学から美的な価値を外在化した方がいいのではないか、と
これに対して、非認識的価値から自由でいられる科学はないというアンダーソンの主張や
復元画や映画などは、間接的に科学のプロセスに影響してくるというカリーの主張などをもとに、
美的な価値が入ってくることが問題なのではなくて、特定の価値が時代遅れになっていくことが問題だとしている。
で、解決策として、他の復元画を描けばいいという話になっていく。
ティラノサウルスとトリケラトプスが、同じ画面上にいるが、別に戦ってはいないような絵がたくさん描かれれば、バイアスは弱まるだろう、と。
実際、筆者自身が描いたそういうイラストも添えられている。
10 Conclusion
2〜9章のまとめ
感想
冒頭に「ある日、「恐竜の美学」ってないのかなと思い始めて」と書いた。
きっかけになる具体的なトピックはあるのだが、しかし、それが一体どういう問いになりうるのかというのは判然としてない状態で。
この本を読むと、色々なアプローチやトピックがありうるなーと感じた。
個人的には、復元画に興味があるが、本書ではあまりページ数を割かれていなかった。ただ、参考文献に復元画関係の記事があったので、あとで読みたい。
また、冒頭にあげたツイートて触れている、青田さんの動物を鑑賞することについての美学に関する論文で、パーソンズが機能に触れていたことが書いてあったが、本書でも、パーソンズを引きながら、機能と美の関係を指摘している。このあたりも、勉強したいところ。
また、本書9章は、バイアスがあるならそれを打ち消すような絵をもっと描いていけばいいんだ、みたいな議論をしているが、それはそれとして、恐竜が戦ってるとこ見るのみんな好きだねってとこも、何かしら掘り下げられたら面白いかなーと思う。
恐竜やその復元画は、科学的な面と文化的な面の両方を持ち合わせているわけで、「科学的に間違ってるのは正しましょうね」っていうのはもちろん正しいが、仮に間違ってるとしてもその文化的な側面は一体どういうものなのか、ということも考えどこのような気はする。
科学哲学と美学の交錯するところ、何か面白いのではないかとは思っていたのだが、
そういうのだと、科学理論や数式の美やエレガンスみたいな話が多い。それはそれで興味がないわけではないが、自分には手に負えない話だなあと。
まあこっちの話題も手に負えるか、といえば難しいところだけど、美やエレガンス以外にも、科学と美的な何かが関わってるとこはあるよなと思ったら、古生物学というところでこんなに色々出てきて面白かった。
科学哲学と美学の交錯点というと、表象や描写の哲学関連もある。この本ではそこまで論じられたわけではないが、フィールドスケッチのあたりで、地図とかとの比較もあって、少しそういう方向への道もありそうだった。
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*1:「この山々の姿は雄大だなあ」という判断は主観的なものだが、もし同じ風景を見て「なんてみみっちい景色だ」と思う人がいたとしたら、その判断はおそらく間違っている。つまり、美的な判断にはある程度正誤がある。対して、例えば好き嫌いの判断は、人それぞれで違っていても問題ない。「私はこの景色が好きだ」という人と「僕はこんな景色嫌いだ」という人がいたとしてもどちらも間違ったことは言っていない。
*2:参照アストロバイオロジーの哲学 - logical cypher scape2
*3:正確には派生的な特徴