『物語の外の虚構へ』リリース!

(追記2023年6月)
sakstyle.hatenadiary.jp

一番手に取りやすい形式ではあるかと思います。
ただ、エゴサをしていて、レイアウトの崩れなどがあるというツイートを見かけています。
これ、発行者がちゃんとメンテナンスしろやって話ではあるのですが、自分の端末では確認できていないのと、現在これを修正するための作業環境を失ってしまったという理由で、未対応です。
ですので、本来、kindle版があってアクセスしやすい、っていう状況を作りたかったのですが、閲覧環境によっては読みにくくなっているかもしれないです。申し訳ないです。

  • pdf版について(BOOTH)

ペーパーバック版と同じレイアウトのpdfです。
固定レイアウトなので電子書籍のメリットのいくつかが失われますが、kindle版のようなレイアウト崩れのリスクはないです。
また、価格はkindle版と同じです。

(追記ここまで)

(追記2022年5月6日)


分析美学、とりわけ描写の哲学について研究されている村山さんに紹介していただきました。
個人出版である本を、このように書評で取り上げていただけてありがたい限りです。
また、選書の基準は人それぞれだと思いますが、1年に1回、1人3冊紹介するという企画で、そのうちの1冊に選んでいただけたこと、大変光栄です。
論集という性格上、とりとめもないところもある本書ですが、『フィルカル』読者から興味を持ってもらえるような形で、簡にして要を得るような紹介文を書いていただけました。


実を言えば(?)国立国会図書館とゲンロン同人誌ライブラリーにも入っていますが、この二つは自分自身で寄贈したもの
こちらの富山大学図書館の方は、どうして所蔵していただけたのか経緯を全く知らず、エゴサしてたらたまたま見つけました。
誰かがリクエストしてくれてそれが通ったのかな、と思うと、これもまた大変ありがたい話です。
富山大学、自分とは縁もゆかりもないので、そういうところにリクエストしてくれるような人がいたこと、また、図書館に入ったことで、そこで新たな読者をえられるかもしれないこと、とても嬉しいです
(縁もゆかりもないと書きましたが、自分が認識していないだけで、自分の知り合いが入れてくれていたとかでも、また嬉しいことです)

(追記ここまで)


シノハラユウキ初の評論集『物語の外の虚構へ』をリリースします!
文学フリマコミケなどのイベント出店は行いませんが、AmazonとBOOTHにて販売します。

画像:難波さん作成

この素晴らしい装丁は、難波優輝さんにしていただきました。
この宣伝用の画像も難波さん作です。

sakstyle.booth.pm

Amazonでは、kindle版とペーパーバック版をお買い上げいただけます。
AmazonKindle Direct Publishingサービスで、日本でも2021年10月からペーパーバック版を発行が可能になったのを利用しました。
BOOTHでは、pdf版のダウンロード販売をしています。

続きを読む

『日経サイエンス 2025年1月特大号』

英キュー王立植物園で描く 植物の美と科学 山中麻須美

英キュー王立植物園の5人の公認画家の一人である山中による、植物画についての解説
植物画(ボタニカル・アート)
これとは別に植物図(ボタニカル・イラストレーション)というのもあるらしい。ペン画のこと。
植物画家の観察力の高さとして、公認画家のひとりが新種を発見して自身で記載論文まで書いた話や、そこまでいかずとも、場合によっては研究者よりも詳しかったり、研究者と対等の立場で意見を述べていたり、というようなことが書かれている。
それ以外のところでいうと、『客観性』*1で書かれていた「本性への忠誠」が生きているな、と感じられる記述がみられる
葉っぱの表と裏がわかるように描く、つぼみと満開のそれぞれの状態を(同時に)描く。標本では分からないところも、生きている状態・標準的な状態でそうなっているように描く(手元にある植物が正しい姿とは限らない)など。
特徴を捉える観察眼による「正確さ」が、写真ではなく植物画だからこそのものなのだ、と。
あと、科学と芸術の両面があるということも。

ノーベル賞で注目 ノンコーディングRNAが拓く新たな生命観  P. ボール

田口善弘『生命はデジタルでできている』 - logical cypher scape2中屋敷均『遺伝子とは何か』 - logical cypher scape2で知って、これらの本に書いてあったことと多少重複もあるが、より詳しい内容が書かれていて、勉強になった。インパクトの強さとか。
2012年、ENCODEが、これまでジャンクと思われていたDNA配列の多くも、RNAに転写されていることを明らかにして衝撃を与えた。


もともと、トランスファーRNAノンコーディングRNAではある。
1990年代にX染色体不活性化の研究で、XIST遺伝子からどのようなタンパク質を合成されるのか調べられていたが、まったくタンパク質は見つからず、実はRNAだった。
lncRNA(長鎖ノンコーディングRNA


ノンコーディングRNAが遺伝子の発現に影響をもたらす方法は2つ
生体分子凝縮体によるもの
クロマチンに影響するもの
また、RNAが足場になる、という働きをすることもある。


アンブロスのmiRNA(マイクロRNA)発見
2000年、ラブカンが線虫以外にも脊椎動物など様々な動物でMiRNAを発見
(アンプロスとラプカンはノーベル賞
1998 ファイアーとメローのRNA干渉(siRNAによるRNA誘導サイレンシング複合体のガイド)発見。ファイアーとメローもノーベル賞
miRNAはチームで働くのではないか、と考えられる。一つのmiRNAは、短くて汎用性があるというか、いろいろな配列と結びつくが、複数の組み合わせで機能することで、特定の配列をターゲットにできる。
このようなあり方は、進化的流動性を高めるメリットがある、と
他にもいろんなRNAが発見されている。


医療への応用も行われている
lncRNAを標的とした、あるいはIncRNA自体を医療応用する方法
研究は進められているが、まだ臨床に至ったケースはない。
miRNAを標的にした方法は、より実用化に近い。


単なるノイズやジャンクに過ぎない、という異論は今でもある、とのこと。
どれくらい機能をもつのがあるのか、その程度、割合というあたりではまだまだ論争がある。
そもそも「機能」とは何なのか。単に足場に使われているようなRNAは、機能を有するといえるのか。
ENCODEのことを考えると、タンパク質をコードしていない遺伝子のことを、もうジャンクだとは言っていられないのは確実だが、実際には、生物学の中で反発も大きいらしくて、これまでの理解を揺るがす存在ではあるみたい。

狩りをする女たち 最新科学が覆す「男は狩猟,女は採集」 C. オコボック/ S. レイシー

「男性が狩猟をしていた」説は影響力がすごく強いけど、これは誤っている、と。
この男性狩猟者説は、リーとデボアによる、1968年の『Man the Hunter』という論文集がきっかけで広がったらしい(意外と最近で驚いた)
実はこの時点で既に、女性も狩りをしていたというデータがあるのに、無視されている。例えば、渡辺仁は、自身のアイヌ研究の中で狩猟を行っているアイヌ女性について記録しているにもかかわらず、アイヌは男性が狩猟をしているという結論を出している、と。
当時、女性は体力的に劣っていると考えられており、スポーツ参加なども制限されていた。
生理学的な研究は、データの偏りが著しく、男性のみしか対象にしていない研究が多いとのことで、今後の研究者には是非この偏りを是正してほしい旨、記事中に書かれていたりする。
一方、データが限られている中でも、女性が体力的に劣っているとは言えなくなっている、と。
エストロゲンがキーで、これは脂肪代謝を活発にする。脂肪による代謝は炭水化物と比較して持久力をもたらす。また、エストロゲンは、筋破壊の抑制にも役に立っている。
また、女性は遅筋が、男性は速筋が発達しているということも知られており、持久力の必要な運動は女性が、瞬発的なパワーは男性がそれぞれ向いている、と。
ところで、太古の狩猟は、獲物が疲れるまで追い続ける、という持久力が求められるものだったとされているので、女性は体力的に劣っていて狩猟に向いていない、ということはなかっただろう、と。
また、ネアンデルタール人の化石から、損傷部位などに男女差が見られない、副葬品に男女差が見られないなどから、ネアンデルタール人社会では男女ともに狩猟をしていたと見られる、と(ネアンデルタール人は、集団規模が小さかったので分業は不利に働くとも)。
また、現代の人類学的調査でも、63の狩猟採集社会のうち79%で女性のハンターがいることが確認されている、と。
男女の分業が始まったのは農耕以後の話であり、狩猟時代には男女ともに狩猟を行っていたのではないか、と。

Science in Images 毛虫の電気感覚

五感とは別に、電場を知覚できる動物がいる。今まで水生生物で確認されていたが、地上で暮らす毛虫の一種にも確認された。ハチの静電気を知覚している。実験で、ダミーの電場を発生させたら、それに反応したと。おそらく、実際には、視聴覚と補完的に使用しているのだろう、と。

SCOPE 動物の細胞に葉緑体を移植

これ、Newton2025年1月号 - logical cypher scape2にも載ってたな。
あと、これ→葉緑体を動物細胞に移植し、光合成の初期反応を確認 東大など | Science Portal - 科学技術の最新情報サイト「サイエンスポータル」
藻類の葉緑体をハムスターの細胞に移植
崩壊するまでの2日間ほど、電子伝達系の反応はみられた(カルビン回路はなかった)、という話らしい

ADVANCES 海のソーラーパネル/ファントムコスト

シャコ貝の内部に虹色に光る部分があるのだけど、それが共生している藻類に光を効果的に集めるためのものだったという話

  • ファントムコスト

お菓子をタダでくれる分にはそれを受け取るが、それに加えてお金もくれるようだったら、怪しく感じて受け取らない。異様に安い航空券とか、そういうものには何か裏を感じて逆に警戒する。人は、何かそこに隠れた動機(ファントムコスト)を感じ取っている。異様に安い航空券について、実は座り心地が悪いんですとか説明すると、受け取るようになる、と。

From nature ダイジェスト 人間はどこまで暑さに耐えられるのか

温度、湿度を自由にコントロールできる設備を利用して、暑さにどこまで耐えられるのか、そして、どのように冷却するのが効率的か、という研究がある。
人間がどこまで暑さに耐えられるのかについて、実は、これまで理論的なものしか出されておらず、公衆衛生ではその数字が使われてきた。しかし、そのモデルは、人間が動かない、汗もかかないという想定で作られている。
なので、これを改訂していこうという動きがある。
冷やすことについていうと、肌が濡れているかどうかは重要。乾燥した状態で扇風機を回すと、逆に心拍があがるが、肌が少しでも濡れていると効果がある、とかなんとか。

nippon天文遺産 昭和23年金環日食観測地 礼文島起登臼(上)

昭和23年・1948年、戦後間もない時期に、礼文島金環日食の観測が行われた話
この日食、中心帯1.2kmという狭い範囲で、日食持続時間も1.8秒という短いものだったのだけど、かなり大規模な観測が実施されたという。
当時の東京天文台の台長である萩原が中心となって行われたもので、戦後すぐの時期に、日本の天文学の一大プロジェクトとして行われたらしい。
観測隊は100人規模で、さらに報道陣が200人規模、礼文島に入ったとか。
日本だけでなく、アメリカもこの観測に興味をもち、GHQとの共同プロジェクトとなり、観測機器は戦車揚陸艦により、観測隊メンバーはGHQが運行した特別寝台列車に輸送された。
この記事では主に、荻原が、文部省と大蔵省との間とか、アメリカとの間とかで調整業務に追われて、出発直前に病気にもなって、と色々大変だったことが書かれている。

*1:読んだのだけどブログがまだ書けていない。この本についてはいずれ

アーカイブ騎士団『明治スチームパンク小説集』『写真SF小説集』(文学フリマ東京39)

久しぶりの文フリで、アーカイブ騎士団も久しぶり
最近のは、kindle版とかで読んでいたはずなので、イベント行って紙の冊子を手に取るのはさらに久しぶり。

(002『忍者小説集』と003『メタバシスによる星間周遊』も読んでるはずだが、ブログ上に感想が残っていない)
004『ロボット小説集』
第15回文フリ感想 - logical cypher scape2
005『ゾンビ小説集』
第17回感想 - logical cypher scape2
006『恋愛SF小説集』
第19回文学フリマ感想 - logical cypher scape2
007『ユートピア小説集』
文フリ以前に読んでた同人誌 - logical cypher scape2
008『怪獣小説集』
『怪獣小説集』『ノーサンブリア物語』 - logical cypher scape2
009『流通小説集』
アーカイブ騎士団『流通小説集』 - logical cypher scape2
010『モンスター小説集』
モンスター小説集 - logical cypher scape2
011『会計SF小説集』
アーカイブ騎士団『会計SF小説集』 - logical cypher scape2

と過去にはほぼコンプリートしてきたのだけど、今回入手したのは、013『明治スチームパンク小説集』と015『写真SF小説集』の2つ。アーカイブ騎士団のアーカイブを確認したところ、012『幽霊屋敷小説集』と014『呪術SF小説集』は持っていないことがわかった。これらはkindle版が出ている模様。

明治スチームパンク小説集

「明治スチームパンク」と銘打たれているが、より正確に、というか狭く絞るなら「お雇い外国人伝奇小説」となる。「お雇い外国人伝奇小説」って何だよって感じもするが、やはりそうとしか言いようがないし、流通小説や会計SFと比較すると、全然普通な感じである。

  • ボーイズ、ビー(森川 真)

西南戦争での薩摩への武器援助を請うべく上京してきた少年、龍二であったが、工学部大学校の教頭をつとめるお雇い外国人のヘンリー・ダイアーから、機関銃と引き換えに、札幌農学校のクラーク暗殺を依頼される。
実は、ダイアーとクラークの正体があれとあれということがわかり、こういう喩えが適切かどうか分からないが、今後の連載も一応可能なように設定されたマンガの読み切りみたいな読後感だった(よい意味で)。

これは(未完」とある通り、話の冒頭だけである。
四国のとある村に、死体を食う妖怪(?)がいて、たまたま地質調査にやってきたナウマンと遭遇する話(ただし、書かれている範囲だと、まだ「遭遇」はしていない)。
ナウマンが機械化されていて、そこがスチーム要素っぽい。

  • 天狗と十二階(高田敦史)

クラーク、ナウマンに続き、本作で出てくるお雇い外国人は、浅草十二階の設計者ウィリアム・K・バルトン
私立探偵である野口幹に、芝浜里という魔女が訪れる。風船乗りスペンサーの盗まれた気球を探すことという依頼で、浅草十二階に居たという老人・笠屋高森が手掛かりになるという。
笠屋高森についてバルトンが世話していたということで、野口はバルトンを訪ねることとするが、その道すがら、占い師の原道を助ける。
野口は道から、幼い頃に見た「天狗の使い」の話を聞く。それはまた、野口の家の近くにある神社で噂される、小さい侍の話ともよく似ていた。
探偵による人探しという縦軸に、「天狗の使い」についての怪談のようなエピソードが横糸としてからみあう。高田さんが『ホラーの哲学』を翻訳した時期でもあり、あとがきにも、最近ホラーに凝っていると書いていて、「天狗の使い」の話はホラー要素が強い。
一方、縦軸となる物語は、明治の近代化(気球や浅草十二階のような高層建築)によって失われていく、前近代(天狗)へのノスタルジー、という感じになっている。

写真SF小説

最初の3作はショートショートみたいな長さ
「仮面」はやや長め
「神戸の」が一番面白かった。

主人公は、レイと共にあいまいな過去を定着させる仕事をしている。
マンホールを通ると過去にさかのぼっていて、記録のはっきりしない事件の現場でたどり着く。その現場でレイが怒りの感情をもつと、はっきりした過去として定着するのだという。

  • 光る彼氏 森川真

彼氏が実は宇宙人
光となって宇宙へ帰る
非常に短いショートショートで、写真という言葉も出てこないが、いい味の写真SFになっている。

  • 残弾 高田敦史

最初、全然つながらない話が続くので、小ネタの連作なのかなと思ったらそうではなくて、後半まで読むとちゃんと全部つながる話だった。
フィルムの残りと銃の残弾、そしてヤクザという全然関係なさそうな要素を、異なる複数の自然数概念を操る異星人という要素によって、あざやかに結びつけるショートSF

  • 仮面 高田敦史

写真が禁止されている街、覆面舞台俳優の火中亮がマスクを盗まれる事件が発生
探偵の淀川が依頼をうけてやってくる。しかし、依頼主は火中ではない。
火中のマスクは、AI生成された画像が表示されるスクリーンになっていて、それにより様々な顔を表示させて異なる人物を演じることができる。盗難事件について、火中は嘘をついているらしい。
うーん、最終的にどういう話だったのかがいまいち掴めなかった

  • 神戸の 森川真

1987年、大阪で浪人生をやっていた「私」は、河合塾で出会った多浪生の「森岡」にブロマイド写真店へと連れていかれる。
そこで、イジョンスンという女性の写真に心奪われる。
イジョンスンは、1930年代に活動していた舞踏家(という名目で活動していた芸能人)で、あまり多くの写真や記録は残されていないが、残されたブロマイドはどれも嫌そうな表情をしている、というのが特徴。
何故か金回りのよい森岡と違って、イジョンスンのブロマイドを買うことのできなかった「私」も、そのブロマイド写真の店=時子さんの店に通うようになる。
そして森岡から、イジョンスンが神戸の海水浴場で撮影した水着写真があるらしいということが聞かされる。通称「神戸の」と称されるその写真は、いわゆる「幻の写真」なのだが、時子さんはどうも隠し持っているらしい、と。
「私」が時子さんに「神戸の」について聞いてみると、時子さんは奇妙な交換条件を出してきた。
実は、イジョンスンの写真というのは、時子さんが捏造したものだったという話で、本物の写真が残っていないので、偽物の写真が本物の写真として扱われるようになってしまうという話なのだが、それを「私」が回想譚として物語っていて、味のある不思議なお話として出来上がっている。

『文フリと批評』(文学フリマ東京39)

2024年12月1日に開催された、文学フリマ東京39に行ってきた。
文学フリマ初のビッグサイト開催であるが、それを理由に行ったわけではない。
ここ数年文フリからはご無沙汰で、今回も当初は行く予定がなかった。TLから、近く文フリがあるのだなあとは思ったが、いつやるのかもそれほど把握していなかった。
ところが、前日の夜、急に塚田君から「明日、文フリに行く」旨のメッセージが入っていたのである。実のところ、そのメッセージを読んだ時でさえ、そんな急に言われてもなあ、という感じだったのだが、10年近く会っていなかったことを思うと、このチャンスを逃すとまた当分会えないのでは、ということで行くことにしたのである。
全然行くつもりのなかった文学フリマとはいえ、いざ行くとなれば、寄りたいところは色々とあがってくるもので、それでも回|れたのは最低限の範囲でしないのだが、いくつか買った本があるので、感想をボチボチ書いていこうと思う。
かつてなら、一気に読んで、感想も一気に書いたが、今回は少しずつ書いていく

ビッグサイトでの文フリ

すげー混んでた
ビッグサイトってのも驚きだけど、ビッグサイトであんなに混むのか、というのも驚き
ゆっくり見て回れる感じではなかった。夕方だったら違っただろうか。

『文フリと批評』

今回、塚田君が寄稿していて、ひいては自分が久しぶりに文フリに行くきっかけとなった本
文フリの批評ジャンルに参加してる・してた人たち20名の寄稿によるもので、全部は読んでいないが、概ね自分が何故・どのように文フリに参加したのか・批評を書いたのか、ということを回想するエッセーなどが中心のようだった。
何となくだが、自分とは活動時期が重なってなさそうな人が多くて、その点で面白かった。
で、塚田君はというと、かつて『筑波批評』に書いていた「最強論」の続編みたいなものを書いていた。

  • 全般的な感想

まず、自分が把握してなかった文フリのこととして、東京流通センターへ会場が移ってからしばらくの間、参加人数は、蒲田で記録した最高記録を下回る数で横ばいだった、と。それが、コロナを挟んで、ここ数年で増加へと転じ、今回のビッグサイト会場変更へと繋がったらしい。
東京流通センターへ移った際に、広々としてゆったりした感じは覚えており、その後の参加者数横ばいも当時の実感とあっている。
一方、コロナ以降に参加者数が増加していたことは全然知らなかった。ビッグサイトと聞いて、流通センターへ移った時と同様、少し広々する感じになるのかなと思ったら、全然そんなことなくて、驚いたのだが、最近の文学フリマを知らなかったので、浦島太郎状態だった。
他に「そういう変化があったのか」と思ったのは、ノンフィクション(日記・エッセイ)ジャンルの伸張だった。
文フリは、批評ないし評論のジャンルが全体を牽引してきたと思うのだが、コロナ以降、ノンフィクションジャンルが拡大しており、人数増加もこのジャンルによるものらしい。また、この参加人数増大は、独立出版社ブーム・ZINEブームといったものとも通じているらしい。
短歌ジャンルがある時期から勢力を拡大していたのは知っていたのだが、このノンフィクションジャンルの伸張は全然知らない話だった。
また、誰だったかが、ここ最近文フリに参加するようになった編集者が、地方の文フリに行くとオタクがいる(文フリには場違いだ)、と眉をひそめていたというエピソードを書いていて、これも面白かった。日記・エッセイ・独立出版社・ZINEというのが、文フリをちょっとオシャレな場所にさせているのであって、コロナ以前から文フリに参加していたかどうかで、参加者の世代差みたいなのが出てきている、とかなんとか。


さて、本誌の寄稿者は、それなりに多岐にわたっており、バックボーンや文学フリマ・批評に対するスタンス、あるいは世代もそれぞれ異なる。なので、全員に共通している主張とかはないのだが、ざっくり読んだ感じ、以下のような雰囲気を何となく感じた。
まず、流通センター時代を、停滞期・マンネリ期のように感じている人が多かったように思う*1
それから、寄稿者の多くが、僕よりも少し年下で、30代前半から半ばくらいで、20代の活動を回顧しているのかなと思う。で、ここから先は、完全に僕の思い込みも含むような感想なのだけど、20代半ばや後半の焦燥感みたいなものと、文フリの停滞感ないしは文フリに対する違和感みたいなものを、何となく重ね合わせているのかなあと思った。
繰り返しになるが、人によってスタンスが色々違うので、当てはまらない人も多くいる。
ここに書いている人たちの多くが、文フリや批評を手放しで全肯定しているわけでもなく、また、自分が文フリや批評というカテゴリーに完全に当てはまっていると思っているわけでもなく、色々な違和感みたいなものを抱えていて、それに対して、自分の活動を立ち上げていく、みたいな経緯があるのかな、と。
そして僕は、そこに何となく、年齢的なものもあるのかな、とは思った。
それは自分がまさに20代後半には、焦りみたいなものを感じていて、それが『フィクションは重なり合う』を書かせたからで、逆に自分は、文フリや批評へ思いを馳せることはあんまりなかったので、ここに書かれている内容を自分なりに理解するにあたって、「20代後半ってそういう思いにかられるよね」と勝手に自分に引きつけて読んだ、ということでもある。
30を過ぎて、そういうのからは少し解放されて振り返っているのかなあ、とも。

  • 小澤みゆき 自主制作という自由

『かわいいウルフ』の人。そういう本があるのは知っていたが、知ったのは2019年当時ではなく、それより後だったと思う。
自らの活動を「20代の卒論」と呼んで回顧している(ただし、最後に「卒論」ではなく「手紙」だったと言い換えているのだが)。全然僕とは種類の異なる活動をしているが、「20代の卒論」という言い方には共感してしまった。
ところで、この『かわいいウルフ』というのはのちに商業出版されており、この後に掲載されている他の人たちの文章を見るに、文学フリマにおける同人から商業へ、みたいなルートを代表する1つっぽい。

  • 伏見瞬 文フリ・詐欺・戦争 〜愛のためのエセー〜

批評再生塾出身で『LOCUST』の人。『LOCUST』って思ったより最近だった。
文フリ東京の会場がビッグサイトになることを批判する文章がnoteに載って話題になったらしいのだが(それも知らなかった)、それに反論する内容
資本主義の何が悪い(文フリ事務局が利益を出して何が悪い)、というもの

  • 後藤護(暗黒綺想家) 文フリ史上もっともニャーンセンスな傑作

ゴシック・カルチャーの本を出している、ということで名前は見た記憶があるが、文フリでの活動については知らなかった。
内容は、本人の活動というよりは、文フリで見かけた「ニャーン」な本について書かれているもの

  • 瀬下翔太×ジョージ×麗日 文フリと批評をめぐる私的回顧 2008-2024

本書の寄稿者の中では、もっとも古く、長く文フリを見てきたのかな、と思われる瀬下くん
そうか、東スレのコテハンだったか
本誌の主宰である麗日さんが、ビッグサイトに移転するこのタイミングで、証言として記録しておきたい、というようなスタンスで望むのに対して、それをそれぞれのスタンスで拒もうとする2人、という、ちょっと緊張感のある座談会として読んだ。


  • 山本浩貴(いぬのせなか座) 文学フリマは何を代表し、いかなる場となったか ――あるいは小説・詩歌の実作者である私らはなぜ「評論」カテゴリを選んだか

上の方に全般的な感想として書いた文フリの変化だが、これは概ね、瀬下・ジョージ・麗日座談会と、この山本エッセーに由来している。
いぬのせなか座については、自分は『SFマガジン』の異常論文特集で知ったが、文フリでの活動については知らなかった。
サブタイトルにある通り、「小説・詩歌の実作者である私らはなぜ「評論」カテゴリを選んだか」ということが書かれている。
もともと山本は、早稲田文学のバイトとして文フリに参加していて、つまり、労働として行っていた、と。
いざ、自分がサークル参加することになった際、内容としては小説・詩歌だけれども、小説・詩歌ジャンルに人がなかなか来ないことを既に経験として知っていた。一方で、ノンフィクションジャンルにも惹かれるところがあったが、そこもまた違う、と。
そうなったときに、指針となったのがTOLTAであった、と。
TOLTAは現代詩のサークルだけれど、文フリには評論ジャンルでずっと参加している。
そして、TOLTAの文学フリマをハックするような実践にも惹かれるものがあった、と。
自分もTOLTAのことは当然知っていたし、いつも面白いことやっているなあと思いつつ、しかし、あまりフォローはできていなくて、実際に買ったりしたのは少ししかない。
だから、この本でTOLTAのことが大きくフィーチャーされているのは、いいことだなと思った。

黒嵜想という名前と、即売会ではなくあちこちで直接手売りしている『アーギュメンツ』の存在は、twitter(当時)で見て知っていた。
すごいことやっているなあと思いつつ、当時、わりと遠巻きにみていた感じなので、詳しくはよく知らなかった。
あまり本を読まなかったが、NUM系の古本屋によく行っていたという高校時代の話から始まり、ゲンロンカフェに辿り着き、批評というのに出会えた喜びと東京ではこんなことしやがっていたのかという妬みがあり、金がなくて行く場所がないというと、齋藤恵汰を紹介されて渋家に行ったという話が書かれている。『アーギュメンツ』ももとは齋藤恵汰の発案で、2号から編集権を委譲されたのだという。
『アーギュメンツ』はめちゃくちゃ売れて話題になったわけだが、主な読者は、芸大・美大生だったらしい。そして、美術手帖にも取り上げられる。
ただ、これは黒嵜が思っていたこととは違ったようで、そこの違和感といったことも綴られている。

  • 素潜り旬 文フリの椅子に座っていられない

詩作品

『近代体操』発起人の一人
タイトルにある、文学フリマシニシズムとは、まあみんな買っても読んでないよね、みたいなことで、ただ、自身もサークル参加したことで、文学フリマに利用価値があることには気付く
ところで、文フリの発端となった笙野頼子大塚英志の論争を紐解いており、笙野頼子の仮想敵は大塚ではなくむしろ柄谷行人であり、また、大塚も件の論文に柄谷行人へ言及していることを指摘している。柄谷行人による、文学にはもう公共性ないよねという提起に対して、笙野と大塚はそれぞれ異なる反応したのだ、と。
ところで、大塚は件の論文で、文学がビッグサイトを一杯にすることはない、と書いているが、文フリはビッグサイトに会場を移した。しかし、じゃあ、大塚が文学フリマを提案した時に実現しようとしていたことができているのか、といえば、決してそんなことないんじゃないか、と。
文学フリマというシステムに依存せず、うまく利用しながら、やっていきましょう、と。

 

  • 森脇透青 ひとはいかにして批評系同人誌をつくるのか、あるいは批評の黄昏

同じく『近代体操』の発起人
この人の名前は、やはり旧twitterで見たことがある。確か、批評の話題の中で見かけたのだと思うけれど、文フリで活動している人というより、デリダの若手研究者かーと認識したような記憶がある。
『大失敗』という批評誌を2号、『近代体操』を2号発行した、と。
文フリでやっているような批評とは必ずしも近しくはなかったようだが、修士学生の頃、『夜航』の中村徳仁と偶々飲み会で居合わせ、中村が、将来の思い出のために同人誌を作っていると言ったことに対して、激昂し、それを友人に伝えたら、じゃあ自分で作ってみろよ、と言われて、批評系同人誌を作り始めたというエピソード
また、『大失敗』は、外山恒一論を書いて外山恒一に声をかけられたり、絓秀実の寄稿があったりで、話題になったらしい。外山恒一についていうと、瀬下・ジョージ・麗日座談会でも言及があり、コロナの自粛期間中に外山合宿というのがあったらしい。
後半は、最近の文学フリマや出版業界、特に批評をめぐる状況について論じている。
このあたりの主張内容は、上述の松田論とも通じるところがあって、出版社がどんどんダメになっていって文フリに入ってきていることを批判しつつ、文フリは文フリであっていいものだけど、それだけじゃだめでオルタナティブも模索しよう、というような感じだったかと思う。

  • 谷村行海 嫉妬しても仕方がないとはわかっているが

この方は、俳句をやっているらしく、タイトルは、短歌ジャンルに対する思い
で、内容も実は短歌ジャンルの話で、そもそも俳句をやる前は短歌もやっていたということで、短歌ジャンルで何故文学フリマでこれだけ人気ジャンルになったのか、ということを解説してくれている。
短歌ジャンル、流通センター時代にいつの間にか巨大化していて、気になりつつも自分にとって謎の存在だったので、勉強になった。

  • 雨澤祐太郎 ある小春日和の終わりに

現代詩の話
 

  • 長濱よし野 逃げ出した先で広場を作る

2000年生まれということで、若い人だなあ、と
販促をすることとか実績を積むこととか、それに対して自分が他者から「解釈」されてしまうこととかについて、非常に真面目に取り組んでいる人だなあという印象

2001年生まれで、本書寄稿陣の中で最年少の方かな?
20歳の時に、折口信夫論で三田文學新人賞評論部門を受賞しているとのこと。
文学フリマには『近代体操』や『ぬかるみ派』などに寄稿していた、と。

  • いなだ易×pirarucu×麗日 インディー「フェミニズム批評」シーンをめぐって2019-2024──てぱとら委員会に聞く

時期的に知らない、というのもあるけど、全然知らない名前のオンパレードだった。
いなだ易とpirarucuは、ともに、てぱとら委員会として、東京と大阪の文フリにサークル参加している。
文フリは、コロナ禍以後、ジェンダー・LGBTQジャンルのサークル数が急増しており、また、そうではないジャンルでも、フェミニズム批評が増えている、と。
その背景として、ひらりさ、水上文の活動・論争が解説されている。
ひらりさは、女オタクのエピソードなどを集めた冊子を刊行し、同人と商業とにまたがって活動
水上は、そのひらりさ批判を同人誌と『ユリイカ』とに書いている。エピソードを羅列するだけではエピソード間の差異が分からなくなる。差異を示すのに批評とフェミニズムが必要、というのが水上の主張、とのこと

  • ひらりさ 2011年のお茶会

とか読んだあとに、ひらりさ本人の寄稿が続く
学生時代に、BL批評を書く先輩に惹かれて、BL批評を書いていた頃の話
ところで、そこで出てくるアリス先輩、たぶん自分も相互フォローしてる人だ。まさか、こんなところで遭遇(?)するとは思わなかった。

  • 江永泉 オートフィクション:「江永泉」以前

かつて、文フリで買った、ポルノ批評3冊を紹介
加速主義的言説の前史として。

  • 塚田憲史 文フリ「界隈」に送る言葉 

上にも書いたけど、『筑波批評2009夏』に掲載した「最強論」の続編みたいな話を書いている。
SNSに見られる分断状況を、互いに相手をNPCと見なす振る舞いとして分析している。相手のことをNPCと見なして振る舞うこと自体が、相手からはNPCとして見える、という指摘は、塚田君的な面白い表現だなと思った。
一方、最後の方、よくない状況を打破する言葉を批評には期待する、というような結論に至る流れは、具体性がないというか、文フリと批評というテーマにあわせるために無理にたたんだよね、これ、とは思った。しかしまあ、そこを膨らまそうと思うと、大変すぎるので、まあいいか、とも思う。
この本を手に取って、まず塚田君のを最初に読んだのだけど、その後、他のを一通り読んだあとだと、明らかに一人浮いているので、ちょっと面白かった。
他の人たちは、だいたいみんな、いつ頃に何の雑誌をやっていたのかが書かれているのに、それがない。「最強論」についても、内容の言及だけで、論文名も掲載誌名も書いていない。

  • 依田那美紀 そんな季節だった

2017年、大阪の文フリの風景
素朴な同人誌から洗練された同人誌への変化が書かれているが、そうか、大阪だと2017年頃にはそういう感じだったのか、と思った(東京ではさらに何年も前に起きていた変化だと思うので)。

  • 隙あらば自分語り

自分も、自分と文フリとの関わりを回顧してみたくなった。

2007/11/11 第6回 秋葉原 サークル
2008/5/11 春の文学フリマ2008 秋葉原 サークル
2008/11/9 第7回 秋葉原 サークル
2009/5/10 第8回 蒲田 サークル
2009/12/6 第9回 蒲田 サークル
2010/12/5 第11回 蒲田 サークル
2011/6/12 第12回 蒲田 サークル
2011/11/3 第13回 流通センター サークル
2012/05/06 第14回 流通センター サークル
2012/11/18 第15回 流通センター サークル
2013/4/18 超文フリ 幕張メッセ サークル
2013/11/4 第17回 流通センター サークル
2014/11/24 第19回 流通センター 一般
2016/5/1 第22回 流通センター サークル
2018/5/6 第26回 流通センター 一般
2024/12/1 東京39 ビッグサイト 一般

こうやって書き出してみると、思いのほか、参加回数多かった。こんなに行ってたのか、と。
2007年の初参加から2018年までの約10年間は、概ねコンスタントに参加していたといえるのではないか(2015年と2017年を除き、少なくとも年1回は行っている)
秋葉原時代に3回も行ってたのか自分、とか。
こうやって見ると、蒲田時代は短くて、流通センター時代って長かったんだなーとか。
うーん、蒲田で4回、流通センターで5回もサークル参加した記憶がないんだよな……いや、これは別に文フリに限った話でなく、自分のエピソード記憶の弱さによるものではあるんだけど
でもって、今回は6年半ぶりの参加だったのか。そりゃ浦島太郎状態にもなる。

上の表に少し捕捉する。
自分の初参加はいきなりサークル参加なのだけど、シノハラユウキ名義での参加で、筑波批評での参加ではない。が、それ以降は、基本的には筑波批評での参加となる。
2008年の第7回がゼロアカ道場
2009年の第8回に、自分は『Twitter本』というのも出している。会場が秋葉原から蒲田へと変わり、文フリ参加者が利用するwebサービスも、はてなダイアリーからtwitterへと変遷したように思う(ゼロアカ当時から既にtwitterはあったし、2008年以降もはてなは使われていた。しかし、大勢が変化した時期はそのあたりだったと思う)
2011年の第12回には、『ボカロ・クリティーク』(コピー本)を島袋八起さんが出していて、それに僕も参加した。2012年の第15回は、その島袋八起さんが主宰するサークル「フミカレコーズ」として参加して、筑波批評では参加しなかった。
2013年の第17回が筑波批評としては最後の参加で、2016年の第22回は、シノハラユウキ名義での参加だった。


本書では、文学フリマという場所・システムに対しての意見・思いも色々と書かれているけれど、自分はそのあたりのことはあんまり考えたことがないかもな、と思った。
流通センター時代に参加人数が伸び悩んでいたことについて、確かに当時、それに対して何某か言っている人たちがいたような気もするのだけど、自分としてはあんまり意識していなかった気がする。
一方、批評についてはどうか。
本書では、批評(文学フリマのジャンルコードでいうなら「評論」)ジャンルで活動しつつも、自分の活動は批評や評論ではないんだけどなあ、というようなことを書いている人たちも結構目に入る。
自分の場合、「評論」については違和感を抱いていないものの、「批評」についてはしっくりこないところがないわけではない。
いや、ある意味では確かに批評を書いていると思う。しかし一方で、人が批評について話したり書いたりしているのを見て、自分が書いているものは、そこで言われている批評とはなんか違うな、と思うことも多々ある。
そういう中で、なんとなく軸足を分析美学の方へ移していっているところがあったな、と思う。
もっとも、お前のことがやっているのは分析美学か、と正面切って聞かれるとそこもごにょごにょしてしまって、正直、批評と美学のあいだでコウモリのようなことをやっている気はする。
それは自分の強みでもあれば、弱みでもあるだろうとは思うが。


文フリ参加は2016年が最後だが、2021年にも本は作っている。
これ、当初の構想というか妄想では、地方の文フリを回りたいと考えていた。
しかし、コロナとか色々あってイベント参加は難しいなと思い始めて、通販だけで売るか、とか考えていた時に、KDPでペーパーバック版のサービスが始まっていることを知って、それを利用することにした。
文フリなどの即売会イベントを全く介さない状態での発行となり、果たして大丈夫だろうか、と思ったのだが、結果的に、文フリで売るのとはまた違ったところにおそらく届いたようだ、という感触があった。
というわけで、文フリと批評についての自分語りが、文フリと批評から離れたところに着地してしまったところで、しまいとする。

*1:そもそも、その時代を経験していない、あるいはその時期の東京に参加していない人たちの寄稿もあるが

Newton2025年1月号

SFは実現可能か?

監修 池谷裕二/稲見昌彦/真貝寿明 執筆 尾崎太一
最初、これ面白そうだなあと思って手に取ったのだけど、何となく知っているトピックが多いなあと思って流し読みしてしまった。
細かいところまで読めば、知らないこともあった気がするのだが、

摩訶不思議な物質変化の世界 感動する化学

お酒に水を入れると体積は減る
ポテチの袋は5層構造(柔らかく、切れやすく、中身を酸化から守る)
周期表の中で水素をどこに置くかは実は決まっていない

「時間心理学」入門 子供と大人で時間の流れ方がちがうのはなぜ?

監修 一川 誠執筆 島田祥輔
よく、年齢が分母になるから(5歳にとっての1年は1/5だが、30歳にとっての1年は1/30なので、30歳の方が時間の流れを早く感じる)と言われるが、これは、ピエール・ジャネが提唱していたらしい(この話自体はよく聞くけど提唱者は知らなかった)
ただ、今ではこれは否定されていて、むしろ、ウェーバー・フェヒナーの法則で説明されるようになっている、というのが面白かった
それから、時間を感じる速度と、代謝が関係しているらしい
朝/冬/大人は代謝が緩やかので時間を早く感じて、夜/夏/子どもは代謝が活発なので時間をゆっくり感じる、とか
あと、時計を頻繁に確認すると、その確認刺激が蓄積されて、経過時間を推測するので、時間の進みが遅くなってしまう(暇な会議で時計を見ると全然時間が経っていない問題)
そういうのを色々まとめて、最後に、時間を早く/遅く感じるようにするコツ、がまとめられていて面白い。


直接関係はしていないが、時間の心理学関係で、最近「ビートを感じる脳」(『日経サイエンス2024年11月号』) - logical cypher scape2というのもあった。

超伝導」の世紀 電気抵抗がなくなる物理現象が社会を変える日

監修 宮川宣明執筆 小谷太郎
超伝導の発見の歴史
超伝導物質の、超伝導以外の性質(磁気との関係
金属水素! 木星の核!
MRIで利用されている、とか

能登半島は今 600万年つづく隆起が 地形を変えつづけている

監修 塚脇真二執筆 中作明彦
これは、写真を眺めた感じ

AIを支えるベクトルと行列 驚異的な計算能力を生みだす数学の道具

監修 柴田千尋執筆 山田久美
ベクトルは矢印、ベクトルの成分は座標、だが、ベクトルは任意の数を入れた入れ物だととらえたほうがよい
大規模言語モデルは、2つのベクトルの角Θとそれぞれのベクトルの大きさで、単語同士の関係を把握しているが、内積を計算すれば、角度を測定する必要はない
行列はベクトルを拡張したもの
(行列を3次元以上に拡張するとテンソル
行列の掛け算=ベクトルの変換→CGを回転させたりするのに使う
GPUは行列の並列計算が得意(CGからAIへ=NVDIAの躍進)

『宇宙・動物・資本主義 ――稲葉振一郎対話集』

久しぶりに稲葉振一郎を読んだ気がする。宇宙倫理学関係は2010年代後半にちょいちょい読んでいたし、ブログとかSNSとかは見ているので、全くの久しぶりというわけでもないのだけど
対談集なので、気楽な感じで読んだが内容は濃いし、タイトルが象徴的だが、話題の幅が非常に広い。
ただ、タイトルに動物とあるが、明示的に「動物」を扱っているのは、田上孝一との対談だけのような気がする。扱われている分量からすると『宇宙・AI・資本主義』とか『宇宙・SF・資本主義』とかの方が妥当ではある。しかし、そこをあえて「動物」としたことで興味を引くタイトルになっているな、と思う。


成立過程などは、以下でも読むことのできる「あとがき」に詳しい
【たちよみ】稲葉振一郎『宇宙・動物・資本主義――稲葉振一郎対話集』より「あとがき」掲載|晶文社

2010〜11年の勤務先での役職者への就任以降、この手の企画は控えていた。それでも10年代以降もぽつぽつとシンポジウムやトークイベントの類に呼ばれることはあり、特に2020年からのコロナ禍の下ではオンラインイベントも増えたのでなおさらのことだった。(...)そこで今回、旧知の吉川浩満さんにお願いして、トーク集を書物の形でまとめることにした。
(...)
内容的にも哲学、SF、社会科学と多岐にわたり、形式的にも気楽なトークイベントから、学会でのフォーマルなシンポジウム、更に役所の政策担当者向けのセミナーに至るまでなかなかバラエティに富んでおり、50代における私の関心の全体像を瞥見していただくにはちょうどよいものとなった。

ところで、校正面ではやや気にかかる作りであった


長くて話題が多岐にわたるので、以下は、かなり雑まとめ(内容全体ではなく、気にかかったところだけ抜き書き)

第1部 人間像・社会像の転換

第1部は編集者たる吉川さんの解釈するところの、稲葉振一郎の「核」にかかわるトークを集めた。
【たちよみ】稲葉振一郎『宇宙・動物・資本主義――稲葉振一郎対話集』より「あとがき」掲載|晶文社

01 新世紀の社会像とは?(×大屋雄裕

2014年、『自由か、さもなくば幸福か』刊行記念イベント
安藤馨をどうやって倒すか的な?
法哲学者としてのスタンスの違い(プラクティカルな面への関心)
『「公共性」論』を読んで、「よき全体主義」をきちんと追求すればいいことを確認しましたと答えた安藤
世界の存在に懐疑的な大屋と、価値実在論者の安藤
エージェンシーとペーシェンシーの分離に懐疑的な大家と、可能だと考える安藤
J.G.バラード『クラッシュ』『ハイ・ライズ』
法哲学法哲学の対話』(2017年)
当日の配布資料が付録としてついている

02 〈人間〉の未来/未来の〈人間〉(×吉川浩満

2017年、『atプラス』
『宇宙倫理学入門』
『政治の理論』の「リベラル共和主義」

03 社会学はどこまで行くのか?(×岸政彦)

2019年『社会学入門・中級編』刊行記念イベント
岸さん的なフィールドワークの仕事と、稲葉さん的な理論の仕事の関係
厨先生」→自分でつけたあだ名だったのか
質的研究と他者の合理性

第2部 動物・ロボット・AIの倫理

第2部は第一部の延長線上に、学問分野としての「応用倫理学」のフォーマットに一応則ったトークを収めた。
【たちよみ】稲葉振一郎『宇宙・動物・資本主義――稲葉振一郎対話集』より「あとがき」掲載|晶文社

04 動物倫理学はいま何を考えるべきか?(×田上孝一

2021年、田上『はじめての動物倫理学』刊行記念
ペットもよくない

05 AI「が」創る倫理──SFが幻視するもの(×飛浩隆×八代嘉美×小山田和仁)

2017年、科学技術イノベーション政策のための科学オープンフォーラム

これ、参加者の名前が3人書いてあって5人の座談会に見えるけど、小山田さんという人はコーディネーター的な位置づけで、八代さんは司会なので、発言しているのはほぼ飛、稲葉の2人である。


ここでもバラードの話
高橋洋児『物神性の解読――資本主義にとって人間とは何か』→初音ミクにとって(人工知能にとって)人間とは何か
超越者(神)=わかりやすいわりえなさ
人工知能の「わかりえなさ」はそれとは違う

第3部 SF的想像力の可能性

第3部は「SFと哲学・倫理学」をテーマとするトークで固めた。
【たちよみ】稲葉振一郎『宇宙・動物・資本主義――稲葉振一郎対話集』より「あとがき」掲載|晶文社

06 学問をSFする――新たな知の可能性?(×大澤博隆×柴田勝家×松崎有理×大庭弘継)

2020年、応用哲学会のシンポ
大庭さんが司会で、松崎、柴田、大澤、稲葉がそれぞれプレゼンして、最後に質疑応答
これ、稲葉プレゼンが圧倒的に面白くて、松崎、柴田、大澤の方は、この稲葉本をわざわざ読むような人にとっては物足りない内容だったなという感じがする。
SFなんそれ? みたいな層に対しては必要なプレゼン内容かなあと思いつつ(というか、おそらくこの3人はそこにあわせてきたのでは)。


レムによる『ストーカー』評:宇宙人は理解可能な存在
なぜリアリズムのフィクションがあるのか→『ナウシカ読解 増補版』
三浦俊彦「フィクションとシミュレーション」(『虚構の形而上学』)→物語的フィクション、非物語的フィクション、シミュレーション的フィクション
SFを正当化するのは、単なるアレゴリーやメタファーではなく文字通りの含意を持たせることによる両義性ではないか(単なるアレゴリーやメタファーでは、ファンタジーや主流文学との差別化できない)
→飛「数値海岸」シリーズは、フィクションや読書についてのアレゴリーであると同時に、VRAIRについての考察でもあるという両義性


ポピュラーサイエンスの歴史研究は重要
学問とは体を動かすこと

07 SFと倫理(×長谷敏司×八代嘉美

2021年、SFセミナー
これも八代さんが司会で、ほぼ稲葉・長谷対談という感じ。
BEATLESS』への理解が進んだというか、そうか、そういうことだったかと思うところがあって、ちゃんと読めていなかった、内容を忘れているか。


20世紀的AI論と21世紀的AI論の両方が織り込まれている
シンギュラリティか指数関数的成長か(後者の場合、量的な断絶で質的な断絶はないがゆえにやっかい)(ちなみに、ボストロムはシンギュラリティって言ってない)
5体のAIの様々な戦略。レイシアは、結局良心的なビル・ゲイツになるのではないか。
長谷→人工知能学会の倫理委員会
稲葉→総務省のWG
SFやエンターテイメントの役割→官能レベル、恐怖や恍惚、不安を示すこと
制度やお金のSFは未開拓
ハインラインアシモフのすごさは、今逆にわかりにくい
SFでどこまでやれるか(不謹慎なこと、ショッキングなこと含め)
AIやロボットは好意的に描かれるけど、ライフサイエンスはネガティブに描かれていないか(八代)→ショッキングなものが描きやすいからでは(長谷)
「推論から学習へ」というAI研究による知能観の変化とSF
進化は学習?
AIは信用できるか
ボストロムのシミュレーション・アーギュメント
ジェフリー・ウェスト『スケール』→さまざまなものの寿命の話。身体や企業には寿命があるのに対して、都市は寿命がない
長寿化すると、隕石など、今まで気にしなくてよかったリスクも気になるようになる

08 思想は宇宙を目指せるか(×三浦俊彦

2017年『現代思想
唯一、既読。初出は『現代思想2017年7月号 特集=宇宙のフロンティア』 - logical cypher scape2
三浦俊彦はおおよそ、宇宙行ってもつまらないんじゃない? 地下や深海の方が面白いでしょ、的なことを再三繰り返している感じ。
ここでいう「つまらない」というのは、見た目が殺風景だし、という表面的な意味もあるが、人類へのインパクトという意味ではアポロの月面着陸を越えるものは、あとは知的生命体発見くらいしかないだろうし、フェルミパラドックス的にそれもなさそうでは、という意味。
2017年の対談であり、スペースXを始めとするニュースペースの動きを過小評価しているのでは、という気もした。
ただ、三浦が、宇宙について南極みたいな感じにしかならんでしょ、という指摘も、個人的にはわりとその可能性は十分にあるなあとは思う。
また、稲葉振一郎の方は、ニュースペースの動きも十分見定めつつも、確かに三浦が考えるようなインパクトには足りないかもね、と言っているようにも見える。

第4部 文化・政治・資本主義

第4部は「カルチュラル・スタディーズ」ないしはその批判というか、人文科学からの資本主義論・新自由主義論をめぐるトークを集めた。
【たちよみ】稲葉振一郎『宇宙・動物・資本主義――稲葉振一郎対話集』より「あとがき」掲載|晶文社

09 ポップカルチャーを社会的に読解する──ジェンダー、資本主義、労働(×河野真太郎)

2021年、ゲンロンカフェで行われた対談(なお、現地無観客・オンライン配信オンリー)
主に『シン・エヴァ』と『大奥』の話をしているが、その中で、さらに色々な作品への言及がある。


さよならジュピター』とか
オールディス『寄港地のない船』『地球の長い午後』が、ナウシカ的な物語の原型としてあげられている。
『地球の長い午後』のグレンは嫌な奴で、あえて彼の個人的な話に矮小化されているのだろう、とか。


ナウシカ読解』で『大奥』を扱えなかった。代わりに『鉄人28号 皇帝の紋章』を扱った→オルタネイトヒイストリーの話
→オルタネイトヒストリーは架空戦記が多い。実は、翻訳されてないだけで英語圏にもある。エンターテイメントは、グローバル化と同時にドメスティック化も起きている
『大奥』や『皇帝の紋章』は、オルタネイトヒストリーを描くけど、それが最後に実際の歴史につながってくるのが面白い点


不死性願望は悪い、とする物語が多いが、何が悪いのか。不死性そのものに悪があるのか、不死性に付随するものが悪いのか。


シンジくんは、周りの大人からダメな奴扱いされてるけど、本当はまともな人
衛宮士郎も、周囲から異常として扱われるけど、まとも。なぜ、異常として扱われるのかに『Fate』という物語の秘密が隠されているのではないか。
進撃の巨人』について
善悪の構図をひっくりかえすこと自体は『デビルマン』以降ありふれているが、それを超える水準には至らないものが多い中、正面から挑んで成功している。
ストーリーの途中で答えが見つかってしまうと物語は迷走する。言いたいことを最後まで取っておく忍耐力が作り手には必要。『鋼の錬金術師』『大奥』もそれに成功している

10 「新自由主義」議論の先を見据えて(×金子良事)

『「新自由主義」の妖怪――資本主義史論の試み』刊行記念対談(『読書人』2018年8月24日号)
対談相手の金子(労働史)は、稲葉の後輩にあたるとのこと


発展段階論の再検討
長幸雄が70年代に、マルクス主義者がなぜか緊縮陣営にいることを描いており、稲葉はこの議論を参考にしている
ケインズの貨幣・金融論の再検討
マルクス経済学も、そのライバルであった産業社会論も、あるいは経営学も、金融を議論してこなかった
金融にはミクロとマクロがある。新自由主義とひとくくりされるフリードマンハイエクは、ミクロ観点では主張が異なる(新自由主義批判者には、マクロの観点がないという指摘)。
村上泰亮について
福祉国家の危機と各国の対応
持ち家奨励

11 中国・村上春樹・『進撃の巨人』(×梶谷懐)

対談相手の梶谷は、中国経済についての研究者だが、村上春樹についてと『進撃の巨人』についても書いているらしく、それでこの三題噺となっている。
本書のための語り下ろし対談


村上春樹作品で描かれる「邪悪なもの」について
→後発的な資本主義国の問題意識であり、中国でもよく読まれている
悪の二つの形象=外部からやってくる超越的な悪と資本主義が供給する快楽
近年の社会学でいう「圧縮近代」と関連
近代の暴力はまだ残っている
ピンカーなど暴力は減っているという議論がある。しかし、戦争が起きる頻度は減っているが、ひとたび起こると犠牲者の数が非常に多いのであり、ピンカーは楽観的すぎる
20世紀後半は、団体中心社会だったが21世紀はそうではない(同じ、圧縮近代でも日本と中国の違い)


中国のエリート層のストレス・ジレンマ
中国思想界→「新左派」、リベラリズム、「新儒家」→リベラリズムの余地はますます縮小
中国SFの批評性
中国はいうほど対外膨張的ではない。今後、人口減少に転じるので限界が見えている。警戒は必要だが、警戒しすぎることのリスクもある


進撃の巨人
香港の雨傘運動の中で読まれた
ワンピースやハンターの構造へのおちょくり
自由になるため他者を操るが、他人を信頼することになしえた、という面白い形の悲劇
自由とは何かを巡って葛藤する物語だが、エレンを押さえつけていたものは一体何だったのか。


12 どうしてわれわれはなんでもかんでも「新自由主義」のせいにしてしまうのか?(×荒木優太×矢野利裕)

2023年、阿佐ヶ谷ロフトAでのイベント
荒木が稲葉に「新自由主義」について聞く
新自由主義批判批判、というか、「新自由主義」という言葉はかなり雑に使われていて、現状、何を指しているのか分からなくなってしまっているから、このワーディングはやめるべき、というのが稲葉の主張で、わりとキレ気味(?)で述べてたりしている。
新自由主義」を批判している人たちが真に批判したいのは、むしろ資本主義なのではないか。しかし、マルクス主義が退潮した今、資本主義批判しにくくなってしまって、「新自由主義」とかいって濁しているんじゃないか、とか。
そもそも、なぜ文学者が「新自由主義」を気にしているのか問題
大学教員が新自由主義批判をしているけれど、高校教員である矢野はまた少し違った角度からの見解


アングロサクソン自由主義とくそ真面目なオーストリア系の系譜
新自由主義マルクス主義も「政治」を最小化しようとする


新自由主義」は空疎な語だが、これが今のように流通してしまったのには確かに理由があるので、社会学はそれを分析すべき
行政の民営化というなら、産業革命以前とか古代とかとも比較して論じるべき
ネオリベラリズムについては、70年代のフーコーがきちんと議論しているけれど、それ以降、それについていけている人がいない
学校と市場には切り離せない部分がある
勉強はスポーツと一緒で、体を動かすこと。これは理工系にいくとよくわかるが、人文系でも同じ。

『KCIA 南山の部長たち』

韓国の戒厳令をうけて『ソウルの春』とか見てみようかなと思ってたら、「ソウルの春」がもっと面白くなる!韓国現代史の名作映画まとめ - ハナ韓まとめという記事を見かけて、見ることにした。
この後、『ソウルの春』『タクシー運転手』も見たい。


朴正熙大統領暗殺事件についての作品で、事件の40日前から事件当日までを描く。
なお、史実を元にしたフィクションということで、人名が変更されている。
当時のKCIA(中央情報部)の部長であるキム*1が暗殺の犯人なのだが、彼の動機は解明されていない。事件後の捜査・裁判では、権力闘争の果てに、個人的な恨みから事件に至ったということにされているが、裁判の際の証言で本人は、革命(民主化)のためである旨述べていた。
Wikipediaによれば、近年、民主化に貢献した人物としての再評価もされているようで、本作も、韓国が民主化に向かう流れの中の1つとしてこの事件を描いていると思うが、一方で、恨みというか、積もるところもあったのだろうなあというところも描かれている。
キム部長は、パク政権の独裁を維持し続けるのはもう難しくなっていることを認識しており、アメリカの動きや民衆や野党(金泳三)にも気を配るよう、大統領に進言しているのだが、「デモなんて戦車で踏み潰してしまえばいい」と豪語する大統領警護室長のクァク・サンチョン*2のいうことを、大統領は次第に聞くようになっていく。
キム部長に、次期大統領への野心があったかどうかは本作では窺い知れないが、その可能性をキムにほのめかすようなシーンは出てくる。
強権的・独裁的な方針を維持しようとするクァクや大統領に、キム部長は明らかに嫌気がさしているのだが、それが真に民主化を志しているからなのか、国際情勢や国民の動きを見ての時局的判断なのかも、本作ははっきりとは示していないように思える。
個人的な野心のような自己中心的な動機を、少なくとも本作のキム部長は抱いていないように思えるが、一方で、民主化への理念を抱いての行動だったのかも微妙に分からない。
無論、国を憂えて、みたいな気持ちはあっただろうし、行動を共にした部下たちにはおそらくそのような説明をしたのだろうが、しかし、本作を見ていると、それはそれとして、「こいつら、俺の気も知らないで好き勝手言いやがって、ふざけんなよ」みたいな気持ちも一因だったのでは、と思わざるをえない。
事後処理がどう考えても雑なので、部下を配置するなどの点では計画的ではあるものの、結構衝動的な犯行だったようにも見える。
(釜山・馬山で大規模デモをヘリで上空から視察したりしていて、それの影響とかも考える必要があるとは思うが)


物語は、キム部長の前任者である、パク元部長がアメリカへ亡命してパク大統領を告発するところから始まる。
キム部長は、この件を穏便に解決しようとして、パク元部長が大統領を告発するために出版予定だった手記を入手するなどするが、その手記が、日本の週刊誌にすっぱ抜かれるなどうまくいかない。
結局、パク元部長を暗殺するしかなくなるのだが、これも大統領の歓心を得るには至らず、むしろ大統領が自分を処分しようとしていることを知り、決行に至ることになる。
パク元部長の手記のタイトルは「革命の裏切り者」で、キム部長は大統領に手をかけるとき「革命の裏切り者!」と叫ぶ。
朴正熙によるクーデターに、キム部長、パク元部長も参加しており、彼らはそのクーデターを「革命」と呼んでいた。パク元部長から、君はなんで革命に参加したんだと聞かれて、その問いへの答えが、最後の暗殺に至る、というのがメインプロットなのだと思う。
(とはいえ、このパク元部長も、正義心から告発したかといえば怪しいが)


このパク元部長から「イアーゴ」なる存在がいることを知らされる。大統領の裏金を管理しており、KCIAも存在を把握していない、大統領の真の右腕なのだという。
という謎かけが、物語の前半にふられて「イアーゴは誰か」という疑問が観客側には植え付けられるのだが、どうもこのミステリプロットがうまく機能していたように思えなかった。最後の最後に「奴がイアーゴだったのか?」と思しきシーンは出てくるのだが、それによる納得感があまりない。


大統領への忖度がすごい
というか、忖度させるように大統領が誘導している
「きみはどうすればいいと思う?」と問いかけ、さらに「きみの側には私がいる。思うようにやりたまえ」と励ますのだが、大統領から明確な指示は出していない。
これ、部下への殺し文句だったようで、パク元部長に対して、キム部長に対して、イアーゴと思われる人物に対して、それぞれ全く同じ台詞を言っている。
なお、キム部長はこう言われて、パク元部長の暗殺を決行することになる。
ところが、その後、それを報告しにいくと、「パクの行方なんてどうでもいい、奴の持ち逃げした金はどこだ」と叱責されてしまうのである。
さらにキム部長は、自分が呼ばれなかった宴席を盗聴し、大統領がイアーゴと思われる人物に対して、全く同じ台詞で自分(キム部長)に対する暗殺を示唆するのを聞いてしまうのである。


部長が結構身体張ってる
部長というが、中央情報部の部長、つまり行政庁の長官であり、また、当時の韓国では、大統領につぐナンバーツーの権力を持つ存在とされていたそうである。
が、パリで拉致されたパク元部長は、逃げるのに大立ち回りをしている。成金おじさんみたいな見た目のわりに、身体がよく動くので、腐っても元軍人かつ情報部だなー、と。
また、キム部長は、上述の通り、自分が呼ばれなかった宴席を盗聴するのだが、その際、豪雨の中、傘も差さずに、料亭の壁をよじのぼり、2階から侵入して、押し入れの中に忍び込むのである。きっちりスーツ着込んでいるのに。部長自ら(まあ部下には頼めない盗聴ではあるが)。
ここ、雨でびしょ濡れになったイ・ビョンホンが、狭い押し入れの中ヘッドホンをして、大統領の本音を聞いてしまいショックを受けるというシーンで、この雨でびしょ濡れ、部長自ら、というあたりが、より惨めさを強調する演出になっているわけだが。

*1:史実ではキム・ジェギュ、映画ではキム・ギュピョン

*2:史実ではチャ・ジチョル