親がおかしい(3)―凍夜の泣き声
つい先ほど、22時半頃、外で女の子の泣き声がした。かなり寒い夜である。
一体何なのだろうと妻がベランダに出て下の通りを見た。すると、例の新体操の練習をしている女の子だという。傍に父親が立って見ているらしい。
泣き声がひどくなったので、妻と入れ替わりに私も見に出た。寒さが凍みる。
20mほど先の道路の真ん中でバトンを投げ上げ、前転して落ちてきたバトンをキャッチするという練習のようだ。そのバトンが取れない。街灯があったとしても、夜空に上げるのだ。見えにくいはずだ。
時折車が通るとよけては、また続ける。できないと泣いても、キャッチするまで続けさせる気だ。
その父親は、自分の顔が影に隠れるように灯の当たるところへは出てこないので、顔が良く見えない。
私は、腕組みをして、しばらくその父親をにらみつけていた。
女の子もバトンを拾う時に、こちらの存在に気づいただろう、少し泣く声が変化した。少しでもエンパワーされてくれれば…。
あまり長い間外にいるので、妻が呼びに来た。
こちらでは意見が飛び交う。
下手に注意すれば、場所を変えて他でやるだけ。内にこもる。家の中で子供に八つ当たりする。結局、父親の気持ちが変わらなければ違う形で子供が被害にあうので意味がない。
が、女の子の立場に立てば、誰も助けに来ない。社会不信の中で生きていくことになるのじゃないか。今、議論しなければならないことは、いつまで我慢して、いつどういう行動をするのかということではないか。 どのように接触するか、いくつかのパターンは考えたが、子供にとばっちりが行かないように、そして、出て行ったからには、その時点で終わらせるように持って行かなければならない。
話をしているうちに23時を回っていた。こんな時間までやるなど、父親は将来のオリンピック選手でも育てているつもりかもしれないが、私から見れば虐待に等しい。
「11時半でまだやっていたら、俺は出て行くぞ」
それが、私の限界だった。
…すると、どういうわけか、半になる前に帰っていった。
凍てついた夜は、何事もなかったように静寂を取り戻した。
しかし、嫌な気分は残る。
全くこういうものを見ると、全てにおいてやる気が失せる。
仮にこの後も、この家族をどうしようもなければ、家族さえ救えない地域に対しても落胆するだろう。こうして、厭世気分は広がり、刹那的になっていく。
こういう人間が増えれば増えるほど、社会は荒れていくだろう。
しかし、家族カウンセリングは依頼がくるから私も動くことができるが、依頼がなければどのように動くきっかけをつかむのか、それは確かに難しいことだ。
だから、こういう“親”を生まない社会にしなければならないのだ。が、レールを踏み外さないで生きてきた親は、それ以外の生き方を知らない。親が、もっともっと迷い道を歩かなければ…。
寒々しい夜だ…
こういうときは、あったかいものに触れたい。