傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

大つごもりver.13

 昼間ずっとうとうとしていて、大量の夢を見た。すべて大晦日の夢である。
 簡単な手術をした。痛み止めが効いているとはいえ、痛いものは痛い。手術箇所の都合でろくに寝返りを打てないこともあいまってずいぶんと寝苦しく、寝床に入っている時間は長いのにろくに寝た気がしない。きっとそうなるだろうと思って休暇の入り口に手術をした。それで昼間もずっとごろごろして、眠れたら眠っている。

 大晦日とはいえ、子どもが進学のために出ていったあとは、季節行事らしいことをしていない。わたしたちは元来、そのあたりにドライなたちだ。この数年は近所の決まった店で蕎麦をたぐり、帰りに銭湯に寄るが、そんなのは毎月のようにやっている。たまたま大晦日にあいているのがそれらの店舗だという、それだけの話である。わたしたちは銭湯が好きなのだ。蕎麦はもっとたくさん食べている。
 正月も雑煮くらいはやるが、あとは何もしない。筑前煮はだいたいある。しかし、筑前煮だって正月以外に年に二度三度はやるのである。正月だけにやることではない。
 ただの休みである。
 思えばわたしたちは、子どもの教育のためにと思って、年中行事をがんばっていた。わたしたちがふたりとも経験しなかったことを、ぜんぶやらなければいけないような気がして。こんなの毎年ずっとやってきたんだという顔をして。
 あのころのわたしたちは、芝居がかって滑稽で、一生懸命で、かわいかったと思う。

 大晦日から元旦にかけてだけ、わたしたちは同じ家にいない。いつもは連絡を取ったりもしていないのに、その日だけ、彼女は生まれた家に帰る。
 わたしにはそういうのはない。母親は再婚して遠くにいて、向こうの家には息子さんがいるから、わざわざ年末年始に会いに行くことはない。
 女二人でローンを組むために、わたしたちはかなりの苦労をした。世の中のさまざまな種類のいやなところをそれぞれ別鍋で煮詰めた場面を猪口一杯ずつ飲まされるような数ヶ月を過ごして、そうしてわたしたちは、この小さな家を手に入れた。
 大晦日から元旦にかけて、彼女は、この家にいない。わたしはそのことを、そんなに気にしてはいない。そういうものだよなと、そんなふうなことを、あいまいに思って、そうして忘れる。明日もいつもどおり海岸に出て、犬をたっぷり散歩させる。

 今年は雪の降る山の奥にした。有名な温泉でないから、年末年始もとくに高価ではない。去年は外国の都市だった。一昨年は国内の離島。
 わたしは就職して以降、同じ場所で年末年始を過ごしたことがない。わたしは必ずどこかへ行き、ときに誰かと一緒の日があるにしても、基本的には自分ひとりで過ごす。それがわたしの祝祭であり、一年間の労働に対する、何より適切な報酬なのである。
 わたしはそのような生活を好む。ほかの何よりも優先している。
 恋人からメッセージが届く。なにげなくあたたかな、いつもの調子である。しかしそこには小さな棘が隠れている。わたしはそこにいくらかの不満をかぎつける。あの人はわたしの性質を理解しており、かつ用心深く、ふだんは矩をこえないが、年末年始には気が緩むのかもわからない。あるいは、そろそろ不満を表出して要望を通してもよい時期だと思っている。
 長くつきあいすぎた、と思う。恋人は素晴らしい娯楽のひとつだが、このような年末年始ほどには、わたしに不可欠の存在ではない。

 何度か寝て起きてぼんやりする。手術のあとだからである。
 わたしは誰だったろうかと思う。この一日で一ダースくらいの人間の大晦日をやった気がする。
 もちろん、その人たちは他人ではない。わたしはわたしの頭の中から出て別の人になることはできない。それらはわたしの夢で、その人たちはすべてわたし自身の別のバージョンなのだろう。年をとった人、若い人、子どものいる人、孫もいるかもしれない人、子どものいない人、パートナーのいる人いない人、男であるような人と女であるような人とそのどちらでもないような人、子どもやパートナーのその人にとっての意味。
 わたしがどこかで考えを変えていたら、今そのどれかだったかもしれなかった、そのどれかにこれからなるのかもしれなかった、一ダースの大晦日。

 良い夢だったな、と思う。
 せっかく手術をして具合が悪いのだから、またそんな夢を見ようと思う。次のバージョンのわたしの夢を見ているうちに、この大晦日が終わるだろう。