傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

私の職場の亡霊の話

 帰ったふりしてオフィスにいちゃだめ。仕事の持ち帰りも禁止。社外でのメールチェックも控えるように。あと有給、最低でも三割は消化して。言うこと聞いてくれないと、僕、泣いちゃう。

 上長がそう言った。私が言われたのではない。私は頼まれなくても有給休暇の消化率がきわめて高い。必要なら徹夜もするけど、必要なければ定時で帰る。明日やれることは明日やりゃあいいと思っている。忙しくなれば行き帰りの電車でも業務メールを読むけれど、それすら不承不承だ。通勤中には仕事の役に立たない小説とかを読むのが正常だと思っている。業務上ほんとうに時間外の対応が必要なら携帯電話が鳴る。滅多に鳴らないけれども、鳴ったら対処すればいいので、自分から時間外に何かをする必要はない。そう思っている。

 私の職場と立場では、私のような働きかたはやや極端だけれど、むちゃくちゃではない。みんなそれなりに休みながら働いている。けれども、ただひとりだけ、誰より早く来て誰より遅く帰り、帰宅後の深夜三時に業務メールを出しても一瞬で返信が来るような働きかたをしている人がいる。工藤さんという。

 上長はほんとうに泣きそうな顔をして、工藤さんに休め休めと言い続けた。工藤さんはあいまいに笑っていた。工藤さんは昔の俳優のような顔をしていて最初はみんな「かっこいい」と言う。そうしてそれから彼を話題にしなくなる。新しい社員が入るたび、男女を問わず、判で捺したようにそのような態度の変容が見られる。それで一度、親しい後輩に尋ねてみたことがある。最初は工藤さんに好感を持っていたのに、どうして、なんていうか、こう、どうでもいい感じになったの。

 彼女は両手をひらいて、首を横に振った。実はわかっているでしょう、マキノさん。あの人の仕事は、アルコールにおぼれている人にとってのお酒と同じです。もう美味しくない。もう飲みたくもない。でも飲んでしまう。存在の中心に大きな空洞があいていて、そこに何かを詰め続けずにはいられないの。工藤さんは仕事熱心なんかじゃない、仕事に依存しているんです。わたしは、自分の仕事、好きです。その仕事を人生からの逃避のために濫用している人間なんか軽蔑して当たり前じゃないですか。あの人はね、きっと、この仕事、嫌いですよ。苦痛でしかたなくて、でもやりつづけて、何かから逃げているんですよ。

 工藤さんはいつも会社にいる。私の担当していた業務で滅多にないトラブルが起きて、ぜったいに誰もいないと確信して出社した三年前の一月二日の、しかも始発出勤の時間帯にさえ、いた。工藤さんは一心不乱に見えるのにどこか茫洋とした気配を感じさせ、年に一度くらい、突然、悲鳴じみた声で部下を叱る。私は、工藤さんを好きじゃない。できるだけ口を利きたくない。工藤さんのほうも業務連絡以外、私に話しかけることはない。飲み会にももちろん来ない。会社の公式の歓送迎会と忘年会にだけは来る。そうして水みたいな速度で酒を飲む。ふだんは一滴も飲まないのだという。

 そのときだけ私は彼と世間話をする。そのときだけはいつもの茫洋とした不吉な雰囲気がなくなり、まるで私の職場の仲間みたいに見えるからだ。いや、そっちがほんとなんだけど、近い部署で似た立場にいる同僚なんだけど、でも、いつもは、そんなじゃなくって、会社にいる亡霊みたいに見えるのだ。

 今年も一年お疲れさまでした、と工藤さんが言う。あいさつみたいに仕事の話をする。それから私は尋ねる。最近楽しかったことはなんですか、仕事以外で。楽しかったこと、と工藤さんはつぶやく。目がすうと据わり、礼儀正しい小学生のような口調になって、彼はこたえた。駅から帰宅する道をすこし遠廻りに変えました。景色が変わったので楽しいと思いました。

 それから彼はグラスをあけ、私が質問をする前の、宴会中の社会人にふさわしい顔に戻って、仕事の話をした。私はほかの人に呼ばれたふりをして工藤さんの前の席から離れた。私は恐ろしかった。人間が人生を置き去りにする方法はいくらでもあるんだと思った。薬物に溺れたり誰かを殴ったりしなくても、世間での体裁のいい「仕事熱心」という皮をかぶりながら、あんなふうに、毎日毎日自分の中身を浚って捨てているみたいに、からっぽになることができるんだ、と思った。もしかしたら最初は、何かとてもつらいことがあって、そこから逃げるために仕事にのめりこんだのかもしれない。でも今は、何から逃れているのかなんて、彼自身にも、きっともう、わかっていない。そんな気がした。かなしくて怖かった。