傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

一身上の都合 一人目

 会社を辞めます。
 辞表を作る前にまずは直属の上司に話をするって、検索したら出てきたので、お時間いただきました。辞める理由は「一身上の都合」でいいんですよね、すみません、ゆとりで。あ、マキノさん、世代で区切ってなんか言うのって嫌いでしたよね、ごめんなさい。そう言っとくとラクなんで、つい。
 一身上の都合の中身ですか。言う必要ありますか。基本的にはない?そうですか。でも俺の場合は辞める前に処分が必要になるはずなので話します。立件は難しいでしょうけど事実上は犯罪です。あ、被害者はその人です、マキノさんが思ってるような健全な彼氏彼女じゃないですけど。たぶんほかに好きな男いるんですよ、あの人。口説いても毎度軽くあしらわれてました。
 でも誰にでも隙はできます。えっと、この話じたいがマキノさんに対するセクハラになりませんか。ならない?誰かもうひとり呼んだりしないんですか。そうですか、じゃあ続けます。
 隙はできるんですよ、いつか、誰にでも。その隙をつけば一回くらいはどうにかなる。でも所詮、その程度です。ちょっと開いて、ぱたんと閉じる。だから脅しました。それこそ隙をついてえげつない写真を撮っておいたわけです。それで流行のリベンジポルノってやつをほのめかした。これで一度きりを一度きりでなくした。継続すると、マキノさんみたいな鈍い人間は「あのふたりはつきあってるのかなあ」みたいな勘違いまでする。被害者が立件すれば犯罪なんですけどね、あの人にその意思がないみたいだから今のところ俺は無罪で白昼堂々と会社勤めなんかしてますけど、ははは。
 いいんですか、人、呼ばなくて。気持ち悪いでしょう。俺の中のシナリオではこのへんでいったん話が切られて、もっと上の人とか人事とかにあらためて呼ばれるんですけど。なんでそんなことしたのか知りたい?ふうん、俺の動機はぜんぜん情状酌量の材料にはならないと思うけど。
 ねえマキノさん、誰かに執着してそれが満たされないとき、陰ながら見守るとかいざとなったら助けるとか、そういう話、あるでしょう、映画とかで。あれはめったにないことだからフィクションの題材になるんですよ。そこいらの人間は、誰かに執着して見向きもされなかったら無理にでも視線を強奪したいと思うんです。見向きの内容なんかもうなんでもいい、ないよりはまし。無関心でいられるより憎まれたほうがずっとずっとまし。もちろん、そう思っても実行するかしないかという大きな壁はありますけど。そして俺はその壁を越えちゃったわけですけど。
 あの、そろそろ罵倒とか説教とか、ないんですか。え、そういうのはない?困ったな。やめたきっかけ?飽きたからです。ええそうです。もう飽き飽きですよ。最初はけっこう楽しかったです、非日常感があって。衝動で頭が麻痺していて、自分のことじゃないみたいな、俳優と観客をいっぺんにやってるみたいな感じ、でも、だんだん、テンション下がってきて、だからやめて、でも、会社に来ると同じチームにあの人がいるし、それもこれもぜんぶ、うんざりして、ええ、これが、今回の、一身上の都合です。
 なんですか、この紙。「食欲不振、怪我をしやすい、集中力が低下、仕事の能率が上がらない、朝はとくに疲れやすい」。え?産業医にかかれ?なんですか、この紙、俺のことですか。ダイエットはしましたけど。ダイエットです、ダイエット。事前申請なしで有給とったことはないです、確認してください、仕事はちゃんとやってます、なにか不備がありましたか。持ち帰ってなんかいません。ほんとです。あのね、俺の話、まじめに聞いてくれましたか。医者に連れてくならあの人でしょう。心配にならないんですか。どう見たっておかしいじゃないですか。それこそ、うつになったらどうするんですか、もうなっててもおかしくないんです。
 すみません。大丈夫です。大丈夫です。すみません。
 そういえばなんで俺があの人と会社の外で会わなくなったって知ってるんですか。そうか、先にあの人からマキノさんに話が行ってたんですね、なんだ、それならそうと最初から言ってくださいよ、じゃあ処分の準備中で、それが済まないと辞められないとかですよね、自宅謹慎してればいいですか。産業医?なるほど、しばらく会社に行かない理由が要りますね。俺はそういう言い訳に疾患名をつけるのは、どうかと思います、ほんとに苦しんでる人にすごく失礼じゃないですか、でもマキノさんにもいちおう立場ってものがあるんでしょうから、おとなしくそうします、安心してください。え?ちがう?とにかく医者に行け?はいはい、わかりました。