いじめは犯罪である。
事の重大さに漸く気付いたか、或いは世論の反応に促されたかは知らないが、滋賀県警による強制捜査のメスが自殺した少年の通っていた中学と教育委員会に入った。
これまで少年の親が再三に渡り警察に被害届けを提出していたにも関わらず受理されることもなく、警察の対応は冷たく門前払いの繰り返しだった。
警察の職務は一般市民の安全や命を守る事であるが、その一般市民には当然ながら子どもも含まれる。仮に親が地元の政治家や警察官だったとしたら、真っ先に学校、教育委員会、警察は真相究明に向けて動き出しただろう。
何処にでもいるありふれた一市民は上記のような特別な存在ではなく、その他大勢の類いとして差別化されるのである。
この世の中が如何に不公平に満ち溢れているか、このいじめ問題が歴然と物語っているだろう。教育の現場に警察の捜査が及ぶのは過去に例がなく前代未聞のことではあるが、この異例とも呼べる捜査はある意味に於いて『いじめは犯罪』である事を実証しているものとも受け取れる。
13歳の少年がマンションから飛び降り自殺をしたのは昨年の10月、学校側は10月と11月に渡り全校生徒を対象にしたアンケートを実施したが、その内容について全面公開に至らずアンケートの一部分しか公表していなかった。
2回目のアンケートに至っては、そのアンケートそのものが隠蔽されており、教育委員会の事無かれ主義と隠蔽体質が根深い事を浮き彫りにした結果となり、世論から批判の声が殺到し、マスコミもこの問題を大きく取り上げ、9カ月も経ってから漸くわたしたちの元にも届くに至った。
男子生徒がクラスメートから殴られたり、ズボンをずらされるなどの暴行を受けていた事実はアンケート結果によって判明した事ではあるが、2度目のアンケート結果では『自殺の練習と称して首を絞められた』、『葬式ごっこ』などの重大ないじめの回答があったにも関わらず、市教委はそれを『見落としていた』などとうそぶく始末。
子どもたちの事より自分たちの立場を優先し、責任を取ろうとしない未熟な大人たちを見ていると、怒りを通り越して吐き気さえ催してしまうのである。
少年をいじめた生徒はもちろん悪いが、それ以上に性質が悪いのはいじめを見て見ぬ振りをする傍観者たちである。その意味から言えば生徒も大人たちも同罪ではないだろうか。
自殺した少年に『告白』する勇気があったなら、死なずに済んだかも知れないと思うと無念でならないのである。
然しながら、中学生ともなれば思春期の入り口であり、多感な年頃でもある。最も信頼出来る親にさえ話せないのは親に心配を掛けたくないと言う優しさでもあるが、命を絶つ事によってしか解決の糸口を見出せなかったのであれば、それは余りにも悲し過ぎる事ではないだろうか。
わたし自身も小中校時代、辛いいじめに苦しんでいた時期があったが、わたしはそのいじめから逃げる事なく敢然と立ち向かい、いじめ地獄から脱却した経験がある。
昭和30~40年代の頃は、クラスに必ずいじめを止めに入る子どもが存在していた。忘れもしない、その子は『中村正子』と言うクラスメートだった。いじめグループ数人に取り囲まれ、わたしは彼らに突き飛ばされ、足を踏まれるなどしていた。
その場にやって来た彼女は「あんたたち、そんな事して何が面白いの、止めなさいよ」と教室中に響き渡るほどの大声でいじめグループを一喝した。
その言葉にしらけてしまったのか、いじめっ子たちはわたしから離れ散り散りになった。教師による暴力が日常茶飯事で許されている時代でもあったが、そこには生徒と教師による信頼関係の証もあったし、生徒から見れば教師は絶対的存在でもあったが、いじめについては教師の力を借りて解決する事は一度もなかった。
わたしもこの自殺した少年のようにズボンを脱がされた事がある。昼休み、いじめっ子の一人から声を掛けられた。
「神戸君、ちょっと見せたい物があるから体育館の裏に来なよ」そう言って彼はわたしを無理矢理連れて行った。
そこにはいつものいじめっ子たちが数人待っており、数人でわたしを体育館の壁に押し付け、手足が動けないようにきつく締め付けて来た。
そしていじめっ子のボスがわたしの半ズボンに手を掛けると、一気に足の先まで摺り下げたのである。わたしは涙を堪え、声も出さず眼を閉じ必死でその屈辱に耐えていた。
いじめっ子数人が口を揃えて「くっせぇー、きったねぇー」と連呼…。そしてそのパンツさえもずらしたのである。
下着を買って貰えないほどわたしの家は貧しかったので、一枚のパンツを裏返しにしたりして何日も履き続けていたのである。
当時、いじめに会う対象の子どもは現代とは違い、明らかに見た目などの差別化があった。毎日同じ服を着、風呂にもまともに入っていなかったからわたしの身体から異臭がしていたのは事実であった。
隣の席の女子生徒がいきなり先の尖った赤鉛筆でわたしの手を思い切り刺して来たり、フォークダンスでは手を繋いでくれなかったり、床屋に行く金がなく髪を伸ばし放題にしていれば、「女だ、女だ」と男子生徒から罵声を浴びるなど言葉のいじめも多かった。
いじめについて、わたしは父に一度も相談した事はなかったが、ある日、顔に青あざを作って家に帰ると、それに気付いた父が「喧嘩でもしたのか?」と訊いて来た。
「うん…」「勝ったのか?」「負けた…」いじめによる痣ではなく喧嘩によるものだと嘘を付いた。「喧嘩は先手必勝だぞ」「やられる前にやっちまえ」次の日、わたしは父の言葉を実行したのである。
複数を相手にすれば敵わないのは分かっていたので、いじめっ子たちを一人ずつ呼び出した。最も効果的だったのは生徒全員が揃っている教室でいじめっ子の一人を床に叩きつけた事である。
それ以来彼らはわたしに対しいじめをぴたりと止めた。わたし以外にいじめられている者がいれば、そこへ割って入りいじめを止めさせた。
この逸話は小学校4,5年だった頃の思い出であるが、中学に入り心臓病の悪化により藤枝中学から天竜養護学校に転校してからもやはりいじめはあった。
病気の子どもたちが大勢親元を離れ集団生活を送るという特別な環境下の中にあっても、そこには上下関係が発生するのである。
中学1年の時だった。同じ12病棟で同部屋だったわたしより一つ年下の小学6年生だった彼は、身体がわたしより数段大きく力も強かった。
ある日、わたしと彼と二人きりになった部屋で、彼はわたしをベッドに突き倒し上から圧し掛かって来たのである。
力の強い彼に圧倒されわたしは身動き一つ出来ずにいた。彼は言った。「俺の子分になれ…」年上のわたしが年下のこいつの子分になどなりたくもなかった。力に負けたわたしは小さく頷くしかなかったが、このまま引き下がる訳にはどうしても行かなかった。
子どもたちが一堂に集まる場所は食事時間、病棟の大部屋にある大食堂である。夕食の時だった。わたしは意を決して少年の座っている席に歩いて行き、「人の事をなめるんじゃねぇぞ…」と言うなり彼の頭に張り手を一発見舞ってやった。
賑やかだった食堂が一瞬静まり返り、多くの子どもたちの視線がわたしと彼の元に注がれた。彼は何も言わず黙っていたが、その顔に驚嘆の表情がありありと浮かんでいた。そして彼は素直な小学6年生に戻ったのである。
わたしは暴力という手段によっていじめを克服したが、痛い目に会わなければ分からない人間が多すぎる。暴力を肯定する気持ちは爪の垢ほど持ち合わせていないが、それは時と場合による。
学校や大人が子どもを守れないのであれば、子どもはどうすればよいのだ…。全国のいじめられっ子たちよ、今こそ勇気を奮い起し立ち上がるのだ。
自分の身は自分で守れ、行政はいじめ問題に対しあれこれ対策を立ててはいるが、一向に減らないのが現状である。
何の罪もない子どもたちが、これ以上無責任な大人たちの犠牲になってはならない。学校はいじめ問題を必須科目として授業の中に取り入れ一週間に一度でよいから、教師も交えて徹底的に論議する必要があるだろう。
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