朝倉氏では教景という名前を持つ主要人物がいっぱいいるけど なぜここまでいるものですか。 元々は室町~戦国期初期の五代目当主だった朝倉教景が始まりというもので 当時の将軍だった足利義教から戦場での働きを評価されての偏諱だったけど 一時的な名乗りを含めれば全部で五名にも及ぶので ここまで多かったのも珍しいというものですか。 それほど朝倉氏にとって当時の将軍からの偏諱が栄誉在りしものだったのですか。 でも将軍は足利義教だけじゃなく足利義政とかも複数いるんだし なんで足利義教だったのかな、と思いますか。 足利義教は歴代の将軍の中で万人恐怖と恐れられ、悪御所ともいわれたほどで、 当然諸大名や庶民に至るまでケダモノと思われてたようだけど、 かような恐るべき将軍からの偏諱に依る教景という名乗りを何度も用いたこと自体、 大いに不思議な気がしなくないですか。 悪御所といわれた将軍からの偏諱が、よほど栄誉なものでこれがのちの朝倉氏に依る越前統一に寄与したというものですか。 あるいは将軍である足利義教へのこだわりなんかではなく、 教景を最初に名乗った五代目当主への崇敬というもので、 むしろ足利義教に対しては、人の上に立つ人物として危険極まりない悪いお手本という見方をしてたものですか。 もっとも、七代目当主の朝倉孝景は「悪党」ともいわれてて、教景を一時的に名乗ったものたけど、 その辺だけはかの将軍足利義教の「悪御所」と共通性は感じさせられるところですか。 「悪党といわれるほど敵対勢力は徹底的に打倒し自国の統治は厳正果敢に行うけど、自国の領民や家臣は統治のための至宝なので虐待するようなことは絶対にしない」という朝倉氏に依る統治方針を固めてたとも思えるけど、 これは将軍から偏諱を受けた五代目当主からの直々の教えだったのでは、ですか。 将軍からの偏諱を受けた当人として、将軍の人となりや幕府や守護家の何たるか、さらには施錠の何たるかを見尽くしたからでは、、ですか。 偏諱はありがたくお受けするけど、悪御所といわれるゆえんを思いつつ、朝倉氏としてどのように世を生きていくか、を徹底志向してたものと思われますか。 少なくとも、偏諱で浮かれず、将軍の人となり等をしっかり観察して、、というところですか。