2025-09-20

anond:20250920145709

第四幕 一皿の温もり

 タケルは、もはや教室にいる自分認識していなかった。あるいは、教室という概念のものが、彼にとって意味をなさなくなっていた。広大な宇宙、無数の情報が光の粒となって飛び交う中、彼は自らの意志で一つの場所を選び取る。そこは、東京の片隅にある小さな定食屋だった。

 カラカラと、古びた引き戸が音を立てる。店内はカウンター席が七つほどしかなく、カウンターの中では小柄な老婦人が一人、忙しなく手を動かしていた。テーブルには赤や黄色ビニール製の調味料入れが並び、壁には色褪せたメニュー短冊が貼られている。タケルは一番奥の席に静かに腰を下ろした。

 「いらっしゃい。今日暑いから、冷たいお茶でも飲んでいきな」

 老婦人はそう言って、温かいほうじ茶の入った湯呑みをタケルの前に差し出した。その温もりが、冷え切ったタケルの指先をじんわりと温める。

 タケルは自分の状況を理解しようと試みた。彼は今、神の分身として、世界存在するあらゆる情報を一瞬で読み取ることができる。この店の歴史、老婦人人生、客の足音の数、壁の染みの意味。すべてが彼の脳裏に流れ込んでくる。しかし、それらの情報の中に、彼の心を満たすものは何もなかった。ただ虚しいデータの羅列があるだけだ。

 「何にするかい?」

 老婦人の声が、タケルを現実に引き戻す。タケルはメニューに目をやった。生姜焼き定食アジフライ定食、鶏の唐揚げ定食……。どれもこれも、彼が人間だった頃に見ていたものと何ら変わらない。

 「……生姜焼き定食を」

 彼はそう呟いた。なぜこのメニューを選んだのか、自分でも分からなかった。ただ、ノゾミと初めて二人で食事をした時に、彼女が「生姜焼きが一番好き」と笑っていたことを、ふと思い出したからかもしれない。

 老婦人は「あいよ」と元気な返事をすると、手際よく豚肉を炒め始める。ジュウジュウと肉が焼ける音、甘辛いタレの香りが店内に広がる。その音と匂いが、タケルの心を震わせた。それは、膨大な情報の中には存在しない、生きた「感覚」だった。

 やがて、定食がタケルの前に置かれた。こんがりと焼けた豚肉、千切りキャベツマヨネーズ。白いご飯と、ワカメ豆腐味噌汁。どれもこれも、特別ものではない。

 タケルは箸を手に取り、一口食べる。

 ――美味い。

 それは、単なる味覚の情報だけではなかった。豚肉の柔らかさ、タレの濃厚な甘み、そして、老婦人が心を込めて作ったという事実

 彼が神の分身として得た力は、この定食が「豚肉とタレと野菜構成された料理であるという情報を瞬時に解析する。しかし、この一口が、彼の心に直接語りかけてくるような温かさを持つことは説明できない。それは、人間けが感じられる「温もり」だった。

 「いい顔になったねぇ」

 老婦人はにこやかにタケルに話しかけた。タケルは驚いて彼女の顔を見る。彼女は、タケルが人間であるか神であるかなど、知る由もない。ただ、目の前の客が、心から食事を楽しんでいることを感じ取ったのだ。

 その時、タケルは確信した。ノゾミが彼に与えたかったものは、この「温もり」だったのだと。膨大な知識や力ではなく、ただ一皿の料理を美味しいと感じる心。愛する人と共に生きる喜び。それこそが、彼女が彼に教えようとした、人間としての唯一の真実だった。

 タケルは、温かい味噌汁一口飲む。その味が、胸の奥に残ったノゾミの温かい光を、再び灯したような気がした。

 彼は孤独世界を見守り続けるかもしれない。しかし、その胸には、ただ愛しい少女が彼に残してくれた、一皿の温かさが残っている。

 ノゾミが仕組んだ「恋人ごっこ」は、彼が神としてではなく、人として生きるための、最後の温かいレシピだったのかもしれない。

 そして、その温かさこそが、彼のこれから世界を照らす、唯一の光となるだろう。

(第四幕・了)

記事への反応 -
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