久々にお盆で帰省した時に聞いた話では、今一番売れているのは殺鼠剤らしい。
もはや金物でも何でもないのだが、どうやら足繫く通ってくる常連がいるので店を畳むに畳めないらしい。
元々は職人と取引して仕入れてそれを売る、包丁を預かって研ぎに出して戻す、ご家庭で必ず必要になるし堅い商売だったと言っていた。
しかしもうコンビニやホームセンターにほぼ需要は吸収されてしまった。広義の意味ではホームセンターこそが今の金物屋の形態なんだろう。
元書店員としては悲しい限りだが、「本屋」、というのはもう終わってしまったのだと思う。
いやいや残っている、と言われるかもしれないが、それはホームセンターを見て金物屋が残っているな、と思うのとほぼ同じだと思う。
金物屋の利点は、在庫が腐らないことだ。人が手を触れなければ金物は錆びないし、まあそうすぐ錆びるようなメンテが大変なものはそもそも扱わない。
本屋の最大のメリットは、再販制度と委託販売だ。定価を決める決断力も、在庫を抱える不安も無い。
古着屋の真逆ともいえる。最近はもう聞かなくなってしまったが、昔は潰れた店の在庫を大量にタダ同然で買い付けて、セール品として売るバッタ屋なんてものがいた。
これは、問屋から売れそうなものをどれくらい仕入れて、実際にどれくらいで売るか、在庫をどう抱えて値付けをどうするか、そこが商売のキモだからだ。
つまり、商いがまずければ店がつぶれる、というのが客商売では普通だ。
本屋は、地域社会の文化の担い手を任される代わりに、その商売の基本を免除されてきた。
本屋に長いこと置いてある文庫のシリーズものなんかは、たいてい出版社の社外在庫品として扱われている。
出版社の在庫を店においてあげてる形なわけだ。リスクは出版社が取っている。
最近も取次からの配本が遅いという話題がでていたが、まあそうだろうと思う。
新刊も既刊も、料率も冊数も、大手ショッピングモール内の大型書店が優先されて、街の本屋は冷遇されている。
言いたいことはわかる。今まで地域社会の文化の下支えをしてきたのは誰なのかと言う気持ちもあると思う。
自分が書店員だったころに比べて、改善されたことも、そのままのところも、多々あると思う。
でも、商売として考えた時に、もはや「本屋」という形態を相手にしてられない、というのも、そうだろうな、と思う。
大型書店や駅前書店という形で、半ば強制的にお客さんが回遊してくれてやっと維持可能な形態になった、という言い方もできる。
月商200万円いくかいかないか、という街の本屋だと、取次は月20万弱の売り上げしか見込めず、まあ話にならんだろうな、と。
だって、月商一千万いくかいかないか、という駅前書店なら、月100万弱の売り上げになるわけで。しかも大きい分取りまとめて対応できるし。
(その辺の肌感覚も、今は違うのかもしれないが、よりひどくなっているような気がする)
再販制度や委託販売が見直されても、もう本という商品の性質上どうしようもないと思う。
当時から、おおむねどこの本屋も客商売と言うことを忘れてしまい、「本屋」をやっているところが多かった。
自分がお世話になっていた本屋は珍しく客商売を意識していたが、ある時ラノベの新刊が配本されず、潮時だとして店を畳んでしまった。
「本屋」なら、取次や出版社に文句を言うんだろうが、客商売としてやっている以上、お客が求める商品を提供できないのは致命的だ。
それならば最初から駅前の本屋に行ってくれ、というのがその時のオーナーの決断だった。
英断だったと思う。
個人的には、雑誌に頼りだしたあたりから、もう限界だったのだと思う。
本屋は、究極的にはアニメイトになるべきだったんだろうな、と今はボンヤリと思う。
そこに行けば新刊は手に入る。そこになければネットにもないだろうという信頼を築けなかったのが、痛かったのだろうな、と。
いまは小さな本屋がある街に住んでいるが、そこの本屋は話題になる漫画本が必ず置いてある。
地域の大学に進学するために必要な参考書が偏っておかれているし、話題になる賞レースの本も手に入る。
駅前から少し歩けば紙の本を持って帰れるな、バスは次の停留所で乗れば良いし、という気持ちの地域住民がいる間は、たぶん潰れないだろう。
でもアニメ化される本はほぼ確実にあるという目利きがいつまで続くかわからないし、正直に言えばライフスタイルが変わって週末イオンに行く生活になれば、たぶん通うことは無くなる。
変わり続ける日本国内で、変わらずにいることはとても難しいのだろうと思う。
ワイは本買わずに図書館で借りるやで。