策動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/26 16:49 UTC 版)
ロクセラーナはスレイマン1世との間に儲けた5人の皇子たち(メフメト(英語版)、アブドゥラー(英語版)、セリム、バヤズィト(英語版)、ジハンギル(英語版))のうち、早世したアブドゥラーを除く4人の皇子たちのいずれかを次期スルタンとするべく策動したといわれている。 一時は長男のメフメトが有力となったが1543年に天然痘に罹って早世し、マヒデヴランの子ムスタファが再び有力となった。しかし、ムスタファは1553年にイラン遠征軍の陣中で突然処刑され、マヒデヴランはマニサからブルサへ移された。ムスタファは軍人として名声が高く、とりわけイェニチェリから強く支持されており、突然の処刑にイェニチェリは怒り、反乱を起こす寸前にまで至った。 スレイマン1世がムスタファを処刑した動機は不明だが、政権内を含む世論はロクセラーナが娘のミフリマー・スルタン(英語版)とその婿で大宰相のリュステム・パシャとともに「徳の高いスルタンの目をくもらせた」と考えた。 16世紀の女流詩人ニサーイーは次のような、スレイマン1世と「ロシアの魔女」、すなわちロクセラーナを非難する詩を作った。 ロシアの魔女の言葉を耳に入れ 企みと魔術にだまされて、あの悪女の言いなりとなり 生命の園の収穫を、あの気ままな糸杉のなすがままにした ああ、無慈悲なる世界の王よ かつてあなたが若かった時、あなたは何ごとも公平に正しく行っていたのに その振る舞いと気質で民を幸福にしていたのに 年老いた今、悪しき不正義を行うとは スレイマン1世はムスタファの子や側近も処刑する一方、政権内の不満を抑えるためにリュステム・パシャを罷免した。さらにリュステム・パシャが処刑されるという噂が立つと、ロクセラーナは助命のために奔走した。結局、リュステム・パシャは3年で大宰相の地位に返り咲いた。ロクセラーナの庇護の下、リュステム・パシャは蓄財に精を出し、財力をもって党派を形成して政治力を保持した。この手法は以降の時代の政治家によって踏襲された。 ロクセラーナはヴァリーデ・スルタン(スルタンの母后)(英語版、トルコ語版)や第一カドゥン(側室)、宦官らハレムの住人たちが権謀術数を巡らせ、オスマン帝国の政治を支配するカドゥンラール・スルタナトゥ(女人天下)(英語版、トルコ語版)と呼ばれる時代の幕を開けたと評価されている。 また、ロクセラーナは様々な問題に対するスレイマンのアドバイザー的な役割をしていたともいわれ、外交政策や国際関係の政治問題に影響が見られる。一例として彼女からポーランド国王ジグムント2世アウグストへ出した手紙が現存している。ロクセラーナの存命中、オスマン帝国とポーランドとの間には同盟関係が保たれた。
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