浜詰小学校
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/22 09:43 UTC 版)
網野町立浜詰小学校1960年の浜詰小学校 国公私立の別公立学校 設置者網野町 設立年月日1877年1月 閉校年月日1972年 共学・別学男女共学 所在地〒629 京都府竹野郡網野町浜詰 .mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度40分06.3秒 東経134度58分12.4秒 / 北緯35.668417度 東経134.970111度 / 35.668417; 134.970111座標: 北緯35度40分06.3秒 東経134度58分12.4秒 / 北緯35.668417度 東経134.970111度 / 35.668417; 134.970111 プロジェクト:学校/小学校テンプレート テンプレートを表示 浜詰小学校の歴史 1872年(明治5年)に学制が発布されると、1877年(明治10年)1月には第三大学区第九番中学区丹後竹野郡第一小学として浜詰学校が設立された。1878年(明治11年)には竹野郡第四組浜詰小学校に改称し、1882年(明治15年)には竹野郡第二十四番学区浜詰小学校に改称した。近世の浜詰村には寺子屋があったが、浜詰学校設立後の1881年(明治14年)に廃止されている。1888年(明治21年)7月には浜詰村簡易小学校に改称し、同年12月には浜詰尋常小学校に改称した。 1909年(明治42年)1月20日には児童数の急増によって同一地点に新校舎が建設された。浜詰村の進学希望者は木津尋常高等小学校に通っていたが、1923年(大正12年)3月には浜詰学校に高等科が設置され、浜詰尋常高等小学校に改称した。1927年(昭和2年)3月7日の北丹後地震では校舎が半壊し、2人の児童が死亡、7人の児童が負傷している。1941年(昭和16年)4月1日には国民学校令によって浜詰国民学校に改称した。太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)4月4日には、舞鶴市立新舞鶴小学校から100人の児童を学童疎開で受け入れた。受入先は坂本屋旅館と千松楼で79人、福寿院が21人である。 1947年(昭和22年)4月1日には学校教育法が施行され、浜詰村立浜詰小学校に改称した。1950年(昭和25年)4月1日には合併によって網野町が発足したことから、網野町立浜詰小学校に改称した。戦後には児童数の急増による狭隘化や建物の老朽化が進んだことから、1972年(昭和47年)4月1日には浜詰小学校と網野町立木津小学校が名目上合併して網野町立橘小学校が開校した。開校直後は浜詰小学校の校舎が橘小学校浜詰校舎として使用され、木津小学校が橘小学校木津校舎となり、両校舎を行き来する教職員は橘小学校を「長い廊下の小学校」と呼んでいた。校舎統合の遅れは新校舎建設予定地にあった木津の保安林の指定解除に時間を要したもので、1974年(昭和49年)4月19日に橘小学校の独立校舎が完成した。同年3月31日には橘小学校浜詰校舎の閉校式が行われ、1975年(昭和50年)8月には閉校記念誌『浜詰小学校記念誌』が発行された。浜詰小学校の校地は福寿院の南東にあり、現在はグラウンドが残っている。 浜詰小学校の児童数 浜詰小学校の児童数1877年(明治10年) 47人 1887年(明治20年) 49人 1897年(明治30年) 87人 1907年(明治40年) 147人 1916年(大正5年) 113人 1926年(大正15年) 220人 1935年(昭和10年) 216人 1945年(昭和20年) 320人 1955年(昭和30年) 273人 1965年(昭和40年) 191人 1973年(昭和48年) 233人
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