東征とは? わかりやすく解説

とう‐せい【東征】

読み方:とうせい

[名](スル)軍隊などが東方に行くこと。東方の敵を征伐すること。


東征

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/18 02:35 UTC 版)

ヤマトタケル」の記事における「東征」の解説

古事記 西方蛮族討伐から帰るとすぐに、景行天皇倭建命比比羅木之八尋矛を授け吉備臣祖先である御鋤友耳建日子をお伴とし、重ねて東方蛮族討伐命じる。倭建命は再び倭比売命を訪ね、父天皇自分死ね思っておられるのか、と嘆く。倭比売命は倭建命伊勢神宮にあった神剣那藝剣(くさなぎのつるぎ)と袋とを与え、「危急時にはこれを開けなさい」と言う日本書紀 当初、東征の将軍選ばれ大碓命怖気づいて逃げてしまい、かわりに日本武尊立候補する天皇斧鉞授け、「お前の人となりを見ると、身丈高く、顔は整い大力である。猛きことは雷電如く、向かうところ敵なく攻めれば必ず勝つ。形は我が子だが本当神人(かみ)である。この天下はお前の天下だ。この位(=天皇)はお前の位だ。」と話し最大賛辞皇位継承約束与えお伴吉備武彦大伴武日連を、料理係りに七掬脛を選ぶ。出発した日本武尊伊勢倭姫命より草薙剣賜る。 最も差異大き部分である。『日本書紀』では兄大碓命存命で、意気地のない兄に代わって日本武尊自発的に征討おもむく天皇期待集めて出発する日本武尊像は栄光満ち『古事記』の涙にくれて旅立つ倭建命像とは、イメージ大きく異なる。 古事記 倭建命はまず尾張国造家に入り美夜受比売宮簀媛)と婚約をして東国赴く日本書紀 対応する話はない。 古事記 相模の国で、相武国造荒ぶる神がいると欺かれ倭建命は、野中火攻め遭う。そこで叔母から貰った袋を開けると火打石入っていたので、那藝剣で刈り掃い、迎え火を点けて炎を退ける。生還した倭建命国造らを全て斬り殺し死体に火をつけ焼いた。そこで、そこを焼遣(やきづ=焼津)という。 日本書紀 駿河舞台で火攻めを行うのは賊だが大筋はほぼ同じで、焼津地名の起源を示す。ただし、本文中では火打石迎え火付けるだけで、草薙剣を掃う記述はない。注記天叢雲剣独りでに薙ぎ掃い、草薙剣名付けた説明される火打石叔母貰った記述はない。 古事記 相模から上総に渡る際、走水の海(横須賀市)の神が波を起こして倭建命の船は進退窮まった。そこで、后の弟橘比売が自ら命に替わって入水すると、波は自ずから凪いで一行無事に上総国に渡る事ができた。それから倭建命はこの地(現在の木更津市と言われている)にしばらく留まり弟橘姫のことを思って歌にした。 入水の際に媛は火攻め遭った時の倭建命優しさ回想する歌を詠む原文: 佐泥佐斯 佐賀牟能袁怒邇 毛由流能 本那迦邇多知弖 斗比斯岐美波母 読み下し: さねさし相模小野燃ゆる火の 火中に立ちて問ひし君はも 訳: 相模野の燃える火の中で、私を気遣って声をかけて下さったあなたよ…… 弟橘比売は、倭健命の思い出を胸に、幾重もの畳を波の上引いて海に入るのである七日後、比売の対岸流れ着いたので、御陵造って収めた日本書紀 「こんな小さな海など一跳びだ」と豪語した日本武尊神の怒りをかったと記され同様に妾の弟橘媛犠牲で難を免れた記されるが、和歌はない。 古事記 その後倭建命は、荒ぶる蝦夷たちをことごとく服従させ、また山や河の荒ぶる神平定する足柄坂神奈川静岡県境)の神の白い鹿を(ひる=野生・韮)で打ち殺し東国平定して四阿嶺に立ち、そこから東国望んで弟橘比売思い出し、「吾妻はや」(わが妻よ……)と三度嘆いた。そこから東国アヅマ東・吾妻)と呼ぶようになったと言う。また甲斐国酒折宮連歌発祥とされる新治筑波過ぎて幾夜か寝つる」の歌を詠み、それに、「日々並べてかがなべて夜には九夜 日には十日を」と下句を付けた火焚き老人東の国造に任じたその後科野(しなの=長野県)で坂の神を服従させ、倭建命尾張に入る。 日本書紀 ルート大きく異なる。上総からさらに海路北上し北上川流域宮城県)に至る。陸奥国入った日本武尊は船に大きな鏡を掲げていた。蝦夷首魁島津神・国津神らはその威勢恐れ拝礼した。日本武尊が「吾は是、現人神の子なり」と告げると蝦夷らは慄き、自ら縛につき服従した。そして日本武尊はその首魁捕虜とし従身させた。蝦夷平定後、日高見国より帰り西南にある常陸経て『古事記』同様に甲斐酒折宮入り、「新治…」を詠んだあと、武蔵東京都埼玉県)、上野群馬県)を巡って日坂群馬長野県境。現在の場所としては碓氷峠説と鳥居峠説とがある)で、「あづまはや……」と嘆く。ここで吉備武彦を越(北陸方面)に遣わし日本武尊自身信濃長野県)に入る。信濃山の神の白い鹿を殺した後、白い犬日本武尊導き美濃へ出る。ここで越を周った吉備武彦合流して尾張到る常陸国風土記 倭武天皇もしくは倭建天皇表記される巡幸関わる記述17記述されている。従順でない当麻の郷の佐伯日子や芸都の里の国栖の寸津毘古を討つ話はあるが、殺伐事件はこの2件のみで、他は全て狩り飲み御膳食すなど、その土地服属確認行っている。 陸奥国風土記逸文 八槻の郷の地名伝承日本武尊東夷征伐し、この地で八目鳴鏑の矢で賊を射殺した。その矢の落下した所を矢着(やつき)と名付ける別伝は、この地に八人土蜘蛛がいて、それぞれに一族がおり皇民略奪行っていた。日本武尊征討に来ると津軽蝦夷通謀防衛した日本武尊槻弓矢をとり七つの矢、八つの矢を放った七つの矢は如く鳴り響き蝦夷徒党追い散らし八つの矢は土蜘蛛を射抜いた土蜘蛛を射抜いた矢から出て槻の木となった。その地を「八槻と言うようになったとある。 古事記 尾張入った倭建命は、かねてより婚約していた美夜受比売生理中であることを知り次のように歌う。 「ひさかたの 天(あめ)の香具山(かぐやま) とかまに さ渡る(くび) ひはぼそ たわや腕(がひな)を まかむとは あれはすれど さ寝むとは あれは思へど ながけせる おすひの裾に 月たちにけり」“天の香具山の上を飛ぶ白鳥のような、白くか細いあなたの腕を、私は抱こうとするが、あなたと寝たいと思うのだが、あなたの着物の裾には月(=月経)が見えているよ” 美夜受比売答えて次のように歌った。 「高光る 日の御子(みこ) やすみしし わが大君(おおきみ) あらたまの 年がきふれば あらたまの 月はきへゆく うべな うべな待ちがたに わがけせる おすひの裾に 月たたなむよ」“ 高く光り輝く太陽皇子よ。国を八隅まで支配される私の大君様。新しい年来て新しい月がまた去って行く。そうですそうですとも、こんなにも、あなたを待ちこがれていたのだから、わたしの着物の裾に月が出たのは当然です ” 二人そのまま結婚する。そして倭建命は、伊勢神剣である那藝剣を美夜受比売預けたまま、伊吹山岐阜滋賀県境)の神を素手討ち取ろうとして出立する日本書紀 経血詠まれ和歌はないが、宮簀媛との結婚や、草薙剣置いて伊吹山の神を討ちに行くのは同様。 尾張国風土記逸文 宮酢媛の屋敷桑の木に、日本武命が剣を掛けたところ、剣が不思議に光輝いて手にする事ができずに残したとされる古事記 素手伊吹の神と対決し行った倭建命前に、牛ほどの大きさの白い大猪現れる倭建命は「この白い神の使者だろう。今は殺さず帰るときに殺せばよかろう」と言挙げをし、これを無視するが、実際は神そのもの正身であった。神は大氷雨降らし、命は失神する。山を降りた倭建命は、居醒め清水山麓関ケ原町また米原市とも)で正気をやや取り戻すが、病の身となっていた。 弱った体で大和目指して、当芸・杖衝坂・尾津・三重村岐阜南部から三重北部)と進んで行く。地名起源説話織り交ぜて死に際倭建命心情描かれる。そして、能煩野(三重県亀山市)に到った倭建命は「倭は国のまほろば たたなづく 青垣 山隠れる 倭し麗し」から、「乙女の床のべに 我が置きし 剣の大刀 その大刀はや」に至る4首の国偲び歌を詠って亡くなるのである日本書紀 伊吹山の神の化身大蛇は道を遮るが、日本武尊は「主神を殺すから、神の使い相手にする要はない」と、大蛇またいで進んでしまう。神は興し氷雨降らせ、峯にをかけ谷を曇らせた。そのため日本武尊意識朦朧としたまま下山する。居醒泉でようやく醒めた日本武尊だが、病身となり、尾津から能褒野到るここから伊勢神宮蝦夷捕虜献上し天皇には吉備武彦遣わして「自らの命は惜しくはありませんが、ただ御前仕えられなくなる事のみが無念です」と奏上し、自らは能褒野の地で亡くなった時に30歳であったという。国偲び歌はここでは登場せず、父の景行天皇九州平定途中日向詠んだ歌とされ、倭建命辞世とする古事記とほぼ同じ内容だが印象異なる。 古事記 倭建命死の知らせ聞いて大和から訪れたのは后たちや御子たちであった。彼らは陵墓築いて周囲這い回り、「なづきの田の 稲がらに 稲がらに 葡(は)ひ廻(もとほ)ろふ 野老(ところづら)」“お墓のそばの田の稲のもみの上で、ところづら蔓草)のように這い回って悲しんでいます”との歌を詠んだ。 すると倭建命八尋白智となって飛んでゆくので、后や御子たちは竹の切り株で足が傷つき痛めても、その痛さ忘れて泣きながらその後追ったその時には、「浅小竹原(あさじのはら) 腰なづむ 空は行かずよ行くな」 “小さい竹の生えた中を進むのは、竹が腰にまとわりついて進みにくい。ああ、私たちは、あなたのように空を飛んで行くことができず、足で歩くしかないのですから”と詠んだまた、白鳥追って海に入った時には 「海が行けば 腰なづむ 大河原植え 海がは いさよふ」“海に入って進むのは、海のが腰にまとわりついて進みにくい。まるで、大きな河に生い茂っている水草のように、海ではゆらゆら足を取られます”と詠んだ白鳥磯伝い飛び立った時は 「浜つ千鳥(ちどり) 浜よは行かず 磯づたふ」“浜千鳥のように、あなたの魂は私たち追いかけやすい浜辺飛んで行かず、磯づたいに飛んで行かれるのですね”と詠んだ。 これら4つの歌は「大御葬歌」(天皇葬儀歌われる歌)となった日本書紀天皇寝食進まず百官命じて日本武尊能褒野陵に葬るが、日本武尊白鳥となって大和指して飛んだには衣だけが空しく残され、屍骨(みかばね)はなかったという。 古事記 白鳥伊勢出て河内の国志幾に留まり、そこにも陵を造るが、やがて天に翔り行ってしまう。 日本書紀 白鳥の飛行ルート能褒野大和琴弾原(奈良県御所市)→河内古市大阪府羽曳野市)とされ、その3箇所陵墓作ったとする。こうして白鳥は天に昇った。その後天皇は、武部(健部・建部)を日本武尊御名代とした。 『古事記』異なり大和飛来する点が注目される

※この「東征」の解説は、「ヤマトタケル」の解説の一部です。
「東征」を含む「ヤマトタケル」の記事については、「ヤマトタケル」の概要を参照ください。

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東征

出典:『Wiktionary』 (2021/08/13 12:12 UTC 版)

名詞

とうせい

  1. 軍隊東方へとくこと。東方にいる征伐すること。

発音(?)

と↗ーせー

類義語

対義語

動詞

活用

サ行変格活用
東征-する



品詞の分類


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