東征
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古事記 西方の蛮族の討伐から帰るとすぐに、景行天皇は倭建命に比比羅木之八尋矛を授け、吉備臣の祖先である御鋤友耳建日子をお伴とし、重ねて東方の蛮族の討伐を命じる。倭建命は再び倭比売命を訪ね、父天皇は自分に死ねと思っておられるのか、と嘆く。倭比売命は倭建命に伊勢神宮にあった神剣、草那藝剣(くさなぎのつるぎ)と袋とを与え、「危急の時にはこれを開けなさい」と言う。 日本書紀 当初、東征の将軍に選ばれた大碓命は怖気づいて逃げてしまい、かわりに日本武尊が立候補する。天皇は斧鉞を授け、「お前の人となりを見ると、身丈は高く、顔は整い、大力である。猛きことは雷電の如く、向かうところ敵なく攻めれば必ず勝つ。形は我が子だが本当は神人(かみ)である。この天下はお前の天下だ。この位(=天皇)はお前の位だ。」と話し、最大の賛辞と皇位継承の約束を与え、お伴に吉備武彦と大伴武日連を、料理係りに七掬脛を選ぶ。出発した日本武尊は伊勢で倭姫命より草薙剣を賜る。 最も差異の大きい部分である。『日本書紀』では兄大碓命は存命で、意気地のない兄に代わって日本武尊が自発的に征討におもむく。天皇の期待を集めて出発する日本武尊像は栄光に満ち、『古事記』の涙にくれて旅立つ倭建命像とは、イメージが大きく異なる。 古事記 倭建命はまず尾張国造家に入り、美夜受比売(宮簀媛)と婚約をして東国へ赴く。 日本書紀 対応する話はない。 古事記 相模の国で、相武国造に荒ぶる神がいると欺かれた倭建命は、野中で火攻めに遭う。そこで叔母から貰った袋を開けると火打石が入っていたので、草那藝剣で草を刈り掃い、迎え火を点けて炎を退ける。生還した倭建命は国造らを全て斬り殺して死体に火をつけ焼いた。そこで、そこを焼遣(やきづ=焼津)という。 日本書紀 駿河が舞台で火攻めを行うのは賊だが大筋はほぼ同じで、焼津の地名の起源を示す。ただし、本文中では火打石で迎え火を付けるだけで、草薙剣で草を掃う記述はない。注記で天叢雲剣が独りでに草を薙ぎ掃い、草薙剣と名付けたと説明される。火打石を叔母に貰った記述はない。 古事記 相模から上総に渡る際、走水の海(横須賀市)の神が波を起こして倭建命の船は進退窮まった。そこで、后の弟橘比売が自ら命に替わって入水すると、波は自ずから凪いで、一行は無事に上総国に渡る事ができた。それから倭建命はこの地(現在の木更津市と言われている)にしばらく留まり弟橘姫のことを思って歌にした。 入水の際に媛は火攻めに遭った時の夫倭建命の優しさを回想する歌を詠む。 原文: 佐泥佐斯 佐賀牟能袁怒邇 毛由流肥能 本那迦邇多知弖 斗比斯岐美波母 読み下し: さねさし相模の小野に燃ゆる火の 火中に立ちて問ひし君はも 訳: 相模野の燃える火の中で、私を気遣って声をかけて下さったあなたよ…… 弟橘比売は、倭健命の思い出を胸に、幾重もの畳を波の上に引いて海に入るのである。七日後、比売の櫛が対岸に流れ着いたので、御陵を造って、櫛を収めた。 日本書紀 「こんな小さな海など一跳びだ」と豪語した日本武尊が神の怒りをかったと記され、同様に妾の弟橘媛の犠牲で難を免れたと記されるが、和歌はない。 古事記 その後倭建命は、荒ぶる蝦夷たちをことごとく服従させ、また山や河の荒ぶる神を平定する。足柄坂(神奈川・静岡県境)の神の白い鹿を蒜(ひる=野生の葱・韮)で打ち殺し、東国を平定して、四阿嶺に立ち、そこから東国を望んで弟橘比売を思い出し、「吾妻はや」(わが妻よ……)と三度嘆いた。そこから東国をアヅマ(東・吾妻)と呼ぶようになったと言う。また甲斐国の酒折宮で連歌の発祥とされる「新治筑波を過ぎて幾夜か寝つる」の歌を詠み、それに、「日々並べて(かがなべて) 夜には九夜 日には十日を」と下句を付けた火焚きの老人を東の国造に任じた。その後、科野(しなの=長野県)で坂の神を服従させ、倭建命は尾張に入る。 日本書紀 ルートが大きく異なる。上総からさらに海路で北上し、北上川流域(宮城県)に至る。陸奥国に入った日本武尊は船に大きな鏡を掲げていた。蝦夷の首魁の島津神・国津神らはその威勢を恐れ、拝礼した。日本武尊が「吾は是、現人神の子なり」と告げると蝦夷らは慄き、自ら縛につき服従した。そして日本武尊はその首魁を捕虜とし従身させた。蝦夷平定後、日高見国より帰り西南にある常陸を経て『古事記』同様に、甲斐酒折宮へ入り、「新治…」を詠んだあと、武蔵(東京都・埼玉県)、上野(群馬県)を巡って碓日坂(群馬・長野県境。現在の場所としては碓氷峠説と鳥居峠説とがある)で、「あづまはや……」と嘆く。ここで吉備武彦を越(北陸方面)に遣わし、日本武尊自身は信濃(長野県)に入る。信濃の山の神の白い鹿を蒜で殺した後、白い犬が日本武尊を導き美濃へ出る。ここで越を周った吉備武彦と合流して、尾張に到る。 常陸国風土記 倭武天皇もしくは倭建天皇と表記される。巡幸に関わる記述が17件記述されている。従順でない当麻の郷の佐伯の鳥日子や芸都の里の国栖の寸津毘古を討つ話はあるが、殺伐な事件はこの2件のみで、他は全て狩りや水を飲み御膳を食すなど、その土地の服属を確認を行っている。 陸奥国風土記逸文 八槻の郷の地名伝承。日本武尊が東夷を征伐し、この地で八目の鳴鏑の矢で賊を射殺した。その矢の落下した場所を矢着(やつき)と名付ける。別伝は、この地に八人の土蜘蛛がいて、それぞれに一族がおり皇民の略奪を行っていた。日本武尊が征討に来ると津軽の蝦夷と通謀し防衛した。日本武尊は槻弓、槻矢をとり七つの矢、八つの矢を放った。七つの矢は雷の如く鳴り響き蝦夷の徒党を追い散らし、八つの矢は土蜘蛛を射抜いた。土蜘蛛を射抜いた矢から芽が出て槻の木となった。その地を「八槻」と言うようになったとある。 古事記 尾張に入った倭建命は、かねてより婚約していた美夜受比売が生理中であることを知り、次のように歌う。 「ひさかたの 天(あめ)の香具山(かぐやま) とかまに さ渡る鵠(くび) ひはぼそ たわや腕(がひな)を まかむとは あれはすれど さ寝むとは あれは思へど ながけせる おすひの裾に 月たちにけり」“天の香具山の上を飛ぶ白鳥のような、白くか細いあなたの腕を、私は抱こうとするが、あなたと寝たいと思うのだが、あなたの着物の裾には月(=月経)が見えているよ” 美夜受比売は答えて次のように歌った。 「高光る 日の御子(みこ) やすみしし わが大君(おおきみ) あらたまの 年がきふれば あらたまの 月はきへゆく うべな うべな 君待ちがたに わがけせる おすひの裾に 月たたなむよ」“ 高く光り輝く太陽の皇子よ。国を八隅まで支配される私の大君様。新しい年が来て、新しい月がまた去って行く。そうです、そうですとも、こんなにも、あなたを待ちこがれていたのだから、わたしの着物の裾に月が出たのは当然です ” 二人はそのまま結婚する。そして倭建命は、伊勢の神剣である草那藝剣を美夜受比売に預けたまま、伊吹山(岐阜・滋賀県境)の神を素手で討ち取ろうとして出立する。 日本書紀 経血が詠まれた和歌はないが、宮簀媛との結婚や、草薙剣を置いて、伊吹山の神を討ちに行くのは同様。 尾張国風土記逸文 宮酢媛の屋敷の桑の木に、日本武命が剣を掛けたところ、剣が不思議に光輝いて手にする事ができずに残したとされる。 古事記 素手で伊吹の神と対決しに行った倭建命の前に、牛ほどの大きさの白い大猪が現れる。倭建命は「この白い猪は神の使者だろう。今は殺さず、帰るときに殺せばよかろう」と言挙げをし、これを無視するが、実際は猪は神そのもので正身であった。神は大氷雨を降らし、命は失神する。山を降りた倭建命は、居醒めの清水(山麓の関ケ原町また米原市とも)で正気をやや取り戻すが、病の身となっていた。 弱った体で大和を目指して、当芸・杖衝坂・尾津・三重村(岐阜南部から三重北部)と進んで行く。地名起源説話を織り交ぜて、死に際の倭建命の心情が描かれる。そして、能煩野(三重県亀山市)に到った倭建命は「倭は国のまほろば たたなづく 青垣 山隠れる 倭し麗し」から、「乙女の床のべに 我が置きし 剣の大刀 その大刀はや」に至る4首の国偲び歌を詠って亡くなるのである。 日本書紀 伊吹山の神の化身の大蛇は道を遮るが、日本武尊は「主神を殺すから、神の使いを相手にする必要はない」と、大蛇をまたいで進んでしまう。神は雲を興し、氷雨を降らせ、峯に霧をかけ谷を曇らせた。そのため日本武尊は意識が朦朧としたまま下山する。居醒泉でようやく醒めた日本武尊だが、病身となり、尾津から能褒野へ到る。ここから伊勢神宮に蝦夷の捕虜を献上し、天皇には吉備武彦を遣わして「自らの命は惜しくはありませんが、ただ御前に仕えられなくなる事のみが無念です」と奏上し、自らは能褒野の地で亡くなった。時に30歳であったという。国偲び歌はここでは登場せず、父の景行天皇が九州平定の途中に日向で詠んだ歌とされ、倭建命の辞世とする古事記とほぼ同じ内容だが印象が異なる。 古事記 倭建命の死の知らせを聞いて、大和から訪れたのは后たちや御子たちであった。彼らは陵墓を築いて周囲を這い回り、「なづきの田の 稲がらに 稲がらに 葡(は)ひ廻(もとほ)ろふ 野老蔓(ところづら)」“お墓のそばの田の稲のもみの上で、ところづら(蔓草)のように這い回って、悲しんでいます”との歌を詠んだ。 すると倭建命は八尋白智鳥となって飛んでゆくので、后や御子たちは竹の切り株で足が傷つき痛めても、その痛さも忘れて泣きながら、その後を追った。その時には、「浅小竹原(あさじのはら) 腰なづむ 空は行かず 足よ行くな」 “小さい竹の生えた中を進むのは、竹が腰にまとわりついて進みにくい。ああ、私たちは、あなたのように空を飛んで行くことができず、足で歩くしかないのですから”と詠んだ。 また、白鳥を追って海に入った時には 「海が行けば 腰なづむ 大河原の 植え草 海がは いさよふ」“海に入って進むのは、海の水が腰にまとわりついて進みにくい。まるで、大きな河に生い茂っている水草のように、海ではゆらゆら足を取られます”と詠んだ。 白鳥が磯伝いに飛び立った時は 「浜つ千鳥(ちどり) 浜よは行かず 磯づたふ」“浜千鳥のように、あなたの魂は私たちが追いかけやすい浜辺を飛んで行かず、磯づたいに飛んで行かれるのですね”と詠んだ。 これら4つの歌は「大御葬歌」(天皇の葬儀に歌われる歌)となった。 日本書紀 父天皇は寝食も進まず、百官に命じて日本武尊を能褒野陵に葬るが、日本武尊は白鳥となって、大和を指して飛んだ。棺には衣だけが空しく残され、屍骨(みかばね)はなかったという。 古事記 白鳥は伊勢を出て、河内の国志幾に留まり、そこにも陵を造るが、やがて天に翔り、行ってしまう。 日本書紀 白鳥の飛行ルートが能褒野→大和琴弾原(奈良県御所市)→河内古市(大阪府羽曳野市)とされ、その3箇所に陵墓を作ったとする。こうして白鳥は天に昇った。その後天皇は、武部(健部・建部)を日本武尊の御名代とした。 『古事記』と異なり、大和に飛来する点が注目される。
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