喩え話だが、道重さゆみちゃんのような天上界の天使とやってみたいという男がいるとする。これは単純な性欲である。さらに高じると、道重さゆみちゃんとやれないのは、存在として耐え難いという思いが生じてくる。これは自我の欲求なのである。この場合に問題なのは、諦めれば楽になるという問題ではなく、むしろ諦めることへの畏怖である。何とはなしにこれが断念され、超越的な美を希求することもなくなり、つまらない和解条件に署名し、俗塵にまみれた日常に回収されていくことが畏怖の本質なのである。絶対的な美に一度でいいから触れてみたいという自我の欲求をよくよく考えると、単なる強迫観念であり、叶わなくても何ら困らないはずである。死んだ後に残念思念として「道重さゆみちゃんとやってみたかった」と何億年も絶望し悶絶するとか、そういうことなら深刻であるが、おそらくは唯物論的に捉えるのが正しいであろうし、死んだらこの桎梏から解放され無に還されるのだから、なんら問題がないはずだ。とはいえ完全な無をイメージ出来ないのが人間の難しいところである。われわれは自らの性癖を変えたくないのである。性癖が変わらないのは、変えたくないというのが、極めて大きな理由である。下着泥棒の累犯者を矯正するとする。理屈としては矯正は可能であるはずで、あれは単なる布だと説明するのは可能であろう。だが、性癖とは自分自身なのである。性癖という病気は治したくないのである。たまたま女子高生のパンチラが見えても何も思わなくなるという状態にはしたくないのだ。性癖の矯正は、せっかく水路付けされた快楽の回路を放棄するということなのだ。下着がとても性的に美しく見える回路が脳内に深く根を張っているのだから、これを放棄することには耐えられまい。ケーキが死ぬほど好きな知人がいるとして、その人にケーキを食べるのをやめさせるのは、現実的に可能であろう。いくらケーキが好きと言っても、それは自我の根源とは結びついてないし、ケーキを断念したからといって、味覚のレセプターが鈍磨し死に絶え、ケーキの甘さがわからない人間に変貌するわけではない。性の快楽構造はケーキが甘いという単純さと違うから、自らの脳に配線された快楽の経路を無効化するのは、その快楽が叶った時の喜びを放棄することになる。美が人間を蝕むのは、これが原因なのである。キリストを求め続けた人のところにキリストが降臨するのと、信仰を失い俗塵にまみれた人間の前にキリストが降臨するのでは、その奇跡に遭遇する悦楽がまったく違う。欲しいと思うものを断念し、すっかり忘れた頃にそれが手に入ったとしても、祭りが終わった後に賞味期限切れの景品を得たようなものであり、キリストの前に拝謁をたまらい謦咳に接したとしても、すっかり興味を失ったアイドルに出会ったような白茶けた喜びしかないのである。だからこそ、われわれは、それを得た時の喜びを最大化するために信仰を続け、教会のステンドグラスに描かれたイコンに聖性を見出し、それが超越的な世界と照応していると信じるのだが、開かない仕組みになっている扉の先にこそ美があるのが問題である。







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