なぜいじめられている側が転校するのか、という人がいるが、神様が見ているわけではないので、地球上で行われる人間同士のバトルロワイヤルである。地球上の76億人でバトルロワイヤルをしているのではなく、あちこちの「密室」でバトルロワイヤルが行われている。学校のクラスはその「密室」の典型である。たとえば40人とか、そういう限られたメンバーで閉じられた世界を生きるわけだ。76億人が40人の密室に内政干渉するのは容易いように思えるが、首を突っ込むのはあまりにも場違いと言うか、心理的抵抗が強いらしく、それぞれの「密室」の自治には手を出さないルールが有るようである。「密室」に介入するのはなぜタブーなのか、そこが問題の根底だが、おそらく、とても恥ずかしいという問題がある。あまりにもバツが悪い。怖いというよりは、恥ずかしさに耐えられないのが現実である。なぜ恥ずかしいのか、まあ知らない人にいきなり話しかけるのが恥ずかしいことに似ている。なぜ知らない人に話しかけるのは恥ずかしいのか、そこも難しいが、「密室」に慣れすぎているのかもしれないし、「密室」は人間の根本的なものなのだろう。であるから、学校という「密室」で人間関係に揉まれるのが通過儀礼として必要という考えもある。荒っぽいことを避けるために穏やかな学校に行く金持ちは、大事な社会訓練の機会を逸しても、損しているようには見えないから、本当に必要なのかという疑問はあるのだが、他者が口を出せない「密室」での自治こそが人間であるし、田舎の閉じた人間関係に都会人が介入すべきかとか、「あの会社でいじめがある」と知って注意に赴くのかとか、いろいろな問題はある。さて、サッカーを40人対1人でやることはないが、人間関係では40人対1人は普通、むしろ、そういう人数集めのゲームである。いじめている側を転校させるとなると、40人を転校させて1人が残ることにもなりうる。40人対1人というのは、サッカーの喩えで考えると卑怯だが、歴史の本とかで、10万人の軍勢が100人を倒した、というのは普通であるし、「同じ人数で戦争をしろ」と言われることはない。さて、40人がかりでいいなら、ボスを倒すのも可能という発想もありうるし、これも時たま発生するが、その場合でも、ボスの交代でしかないし、集団で1人を攻撃する構造自体に変わりはない。1人で40人に勝つことはできないので、そうなってしまうのが自然である。ともかく人生至る所に「密室」があるので、その全体も含めて考えなければならない。
道を歩いていたら、女子小学生の自転車が歩行者を轢き逃げした事故とか、そんな立て看板を見つけた。逃げた女子小学生について、目撃者は警察にご連絡を、というものだった。轢かれた歩行者がどんな属性なのか書かれてないのは不思議だが、たぶん老人だろう。警察が看板を出すからには大怪我だと思われる。損害賠償目当てで血眼な様子がうかがえるが、女子小学生の自転車にぶつけられて大怪我するのもかなり難易度が高い。国民皆保険という悪夢において、無定見な延命が蔓延しており、本来なら死んでいるはずの人間が、生きる屍として徘徊している。子どもが遊んでいて、死にかけの老人に怪我をさせて裁判というのは、わりとよく見かける。なぜ無理して延命するのか、たぶん日本特有の現象だが、国民皆保険に幕引きする「物語」を欠いているのだろう。「物語」であるからには感動が必要だが、老人の延命を打ち切るというサバサバした判断が感動を呼ぶことはなさそうだ。「物語」が無理なら「理屈」ということになるが、理屈だと人は動かないし、腰が重い。一昔前なら親の介護を自分でしていたから、「ようやく死んでくれた」という現実もあったが、今は他人任せであるから延命に歯止めが効かない。介護保険という制度も悪い。ツイッターで見かけた意見だが、保険とは、確率が低いリスクに備えるためのものであり、確率が高いリスクに備えるものではない。介護のような確率が高いリスクに備えるための保険は、実は保険ではないし、リスクの分散にならない。負担額をそのまま支払っているだけである。ともかくこれだけ老人が多いと、小学生が加害者になる危険性もあるので、これこそ保険加入が必要だと思われる。普通であれば、小学生がぶつかってきて大怪我するのは本当に難しいと思うので、加害者になる可能性は無視して良かったが、これからはそういうわけにはいかない。死にかけの怪しい老人が路上にあふれる現代だからこそ、リスクを分散する保険の役割である。
社会保険制度というのは、「お金を払ってサービスを受ける」という構造がないわけだ。社会保険料の徴収と、サービスの利用がまったくの別である。「みんなの財布」にお金を入れて、それをみんなで使う。定額の会費ではないし、財布にたくさんお金を入れさせられる人もいれば、入れない人もいるが、それを使うとなるとまったく別の次元で動く。だから財布と相談せずにいくらでも高い料理を頼むという現象が生じる。高齢者を最大限に延命させるのも、自分で介護していたらやりたくないであろうし、やはり「無料」だからである。(無料と言いたくないなら「格安」と言っても良いが)。支払う費用と受けるサービスが対応関係にないのは間違いない。本人の所得に応じて取られているだけで、受けるサービスに応じて取られているわけではない。払ってなくてもサービスを利用する人、あるいはたくさん払っていて、「元を取る」くらいのつもりでたくさん利用する人がいるかもしれないが、どちらにしても、節約する動機がない。これは政治家(自民党)だけの問題ではなく、われわれ日本国民がサービスの低下やむなし、と決断することが大事である。まずはインチキな親孝行をやめるべきである。自分で親のおむつを交換したりして介護するならいいが、他人に世話を任せて親孝行という次男坊的な関わりはやめなければならない。病院や老人ホームにお見舞いに行くのは、なにもやってないのと同じ、それどころか他人への押し付けという悪事である。国民皆保険は限界だからやめたほうがいい。医療を受けるのを節約した結果、寿命が縮んでも、当たり前だと思うのが大事である。
とりあえず三次元空間は疑わないものとする。そういう前提で考えても、自分と隣の家の人間が同じ世界を生きているのは何故であろうか?おそらく近似性が強いのであろうし、新宿が夏で渋谷が冬ということはない。地理的に同じ地域なら同じ環境である。あるいは、10秒前と10億年前では違う。過去であっても時間が近ければ、条件は近い。「この時代のこの国ではこれは普通である(もしくは絶対に有り得ない)」という説明が成り立つのである。時間と空間が近ければだいたい同じ、というのは事実である。「地理的に近い」とか「時間的に近い」で、何らかの類似性が生じるのは、たまたま地球上がそうなっている気もするが、遠隔で働きかけることができないという三次元空間の仕組みからすると、距離や時間が近いと類似性があるのは、それなりに理はある。眼の前のものを動かすことはできても、遠くのものを超能力で動かすことはできない。「遠い宇宙」という言い回しがあるが、これはつまり、われわれが物理的に関与できない圏外を指す。われわれは肉体を持っていて、頭部に目鼻口があり、周囲を認識し、足で歩き、手で何かを操作する。この肉体の認識範囲は道具によって拡張可能だし、光回線で光速通信することもできるが、あくまで光の速さが限界である。10億光年あったら10億年掛かってしまう。われわれの肉体は基本的に、自分の肉体周辺しか触れないから、その圏内と圏外では話が違う。隣の家は物理的に近いわけだし、他の星の家を放火するのに比べたら、かなり容易い。その火がこちらの家にも延焼するかもしれない。そういう同居関係にはある。係累を断ち切って、人間を完全遮断すれば、隣人は別世界と考えることも可能だが、いくら人間関係を遮断しても、やはり物理的な攻撃の圏内であるし、本当の別世界ではない。自分の家と隣の家は、いくら絶縁しても、つながりがある。
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紅白歌合戦は見てなかったが、あとから映像を見たら、B'zのパフォーマンスは圧倒的だった。実力的にこれくらいは当たり前だろうし、神憑りというよりは、いつも通りであるが、ともかく圧倒的である。そしてネットで盛り上がっているのだが、いいねが6万ついているB'zファンが、それに対するお礼として「B'zファンは他人の幸せを喜べる人間なんだな」という余計なことを書いている。これだけでわたしは共感性を失った。B'zの楽曲はとてもレベルが高いし、極めて素晴らしいとは思うが、なぜか今ひとつ好きになれないのはファン層がゆえである。「アンチは不幸」と言いたがる人種である。このファン層が嫌なので、わたしはB'zのファンではない。楽曲は素晴らしいので楽曲は聴くが、このファン層には関わりたくないのである。幸福で何が悪い、というかもしれないが、ボーカルの稲葉の人間性が「あいつは気の毒」「かわいそうに」と上から目線なので、類は友を呼ぶのである。B'zの音楽性は優れているが、その優越性が社会的なカーストに結びついているらしい。あまり類例が思い当たらないが、たとえば坂本龍一の立ち位置とやや似ているかもしれない。音楽そのものの魅力とはまた別のマウンティングを行う集団である。
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