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BABYMETALがショービジネスの世界に取り込まれても、われわれ菊地最愛原理主義者が至って平静であるのは、たまたま偶然にも、もあちゃんの理想をすべて叶えている人物を見つけたからである。南條愛乃さんは「ラブライブ」であり「声優」であり「ソロアイドル」である。ステージ上での見映えがこれだけ美しい人は、これまでまったく存在しなかった。そのファッションセンスとポージングはひとつの哲学であるし、自らの身体の所作でエレガントで凛とした理想の立ち姿を描いていく。母親がアニメーターという家庭環境であり、本人が代々木アニメーション学院卒であるから、ナードの黒歴史ではあろうが、オタとしては超エリートである。オタ知識で自己アピールするのは岡田斗司夫の凋落と平仄を合わせて時代遅れの産物になったが、南條愛乃さんは、かなりナチュラルにアニメ文化に造詣が深い。4月でμ'sは事実上終わるが、これで南條愛乃さんが多少減速するとしても、すでに圧倒的多数の信者を掴んでいる。もしくは減速するどころか、μ's解散で発生する大量の難民を南條愛乃さんが収容する可能性も高い。南條愛乃というアイコンはオタサーが姫に求めるすべての記号性をあまねく兼ね備えているから、南條愛乃さんを中心に帝國が再編されるという予想も現実味を帯びてくる。われわれは南條愛乃さんという超越的な存在を純粋に崇拝しているので、ベビメタと対立させるつもりなどないが、とはいえ、ベビメタがあちこちでアイドルを破壊して砂漠化を招いた結果として、南條愛乃さんがオアシスとして浮かび上がってきたのも確かである。μ'sが解散しても、この難民はベビメタには絶対に流れない。ドルオタを露骨に切っているのが中元のプロデューサーの戦略だから、ドルオタなんぞいらんだろうけど、ともかくそういうことなのである。実物がババアだし、南條さんを恋人にしたいという人はまずいないはずだが、それがゆえに表現者として深いリスペクトを受けていると言えるし、そもそもこの手の文化は、われわれの欲求を反映する記号性が肝心である。その文脈性を完全に踏まえているのだから、ババアが厚化粧しているとか粗探しをすることに意味はあるまい。われわれは実物よりイデアを求めており、文脈性を完全に理解している南條愛乃さんは具眼者であり現代のプラトンなのである。美人でないのに美人としてステージに立つのはいわゆる声優補正だと思われるかもしれないが、見惚れるほどの美しさがあるのは間違いがないから、美の本質についての理解度の問題であり、超越的な世界をこのディストピアに具現化させる貴人である。一般層から評価を受けることはないであろうが、その本質を愛でることが出来るひとなら、南條愛乃という天才の価値がわかるはずなのである。
他人を障害者呼ばわりするのは差別的だとされる懸念がありデリケートな案件だが、とはいえ、人権問題を抜きにして言えば、やはりネットの炎上は障害者問題なのである。
炎上と障害者を結びつけるのは、公人であれば終わる可能性が高いので誰も言わないが、われわれネットユーザーはこの問題をいたずらにタブーにせず粛々と対応しなければならない。
障害者だと認定されることで福祉のサポートを受ける権利を得ることもあるのだから、差別だと決めつけるのもよくないだろう。

発達障害というのは極めて的確な人間観であり、馬鹿の特徴を多動性だとしたのは凄いと思う。
頭が馬鹿とかそういう次元ではなく、身体が勝手に動いているのが馬鹿なのである。
EQは「こころの知能指数」とされているが、実際は身体をコントロールする能力のような気がするのである。
ネットは身体性を欠いた空間だとされるが、やはり指が動いてこそネットに書き込むのであるから、そこに身体は想定されるべきなのである。

このところ有村悠さん(36歳)は暴れなくなり、しばらくツイートが途絶えていたのは自制心によるものらしい。
自己改善への道を歩み始め、落ち着きを見せ始めた有村さんを引き合いに出すのは適切ではないが、やはり東大合格(東京大学文学部西洋史学科中退)という経歴がはっきりしているので、どうしても参考事例として取り上げるしかない。
有村悠さんは30代半ばまでずいぶん暴れていたわけだが、これは身体が暴れていたと考えるのが妥当であり、自室で動き回りながら不穏な投稿をしていたのである。

頭で意志をしてから身体が動くというのが常識ではあるが、たぶんこの常識はさほど正しくはない。
今から暴れようと考えて暴れると言うよりは、身体が勝手に暴れているのである。
頭でチェックする時間など無いはずである。
これが多動性であり馬鹿の証拠なのである。

では、ツイッターを再開しようとしているはるかぜ親子はどうすればいいのか、というのは難問である。
おそらくナベプロから離れるのであろうと思うが、母親がツイートしたくて仕方がないわけである。
母親の年齢は不明であるが、40代であると思われるし、50歳であっても不思議ではない。
年齢を重ねれば賢明になるという伝統社会の考え方はファンタジーであろうし、中年や初老やもしくは老人がずいぶん馬鹿であることが明らかになってきたのが最近の世の中である。
有村悠さんであれば、東大合格レベルの知力と自己改善への意志があるので、自らに欠落していた賢明さを育むことは可能であろうし、後半生で賢者たらんとするベクトルに向かっている現状は期待が持てるが、はるかぜ親子はIQとEQが両方とも低いと思われるから、言動のおかしさを知性で問い直すのは不可能であろう。
この親子の場合、最大の被害者は娘本人であろうし、他者に危害を加えているわけではないから、あれこれ非常識な言動で顰蹙を買っても、悪意がないと正当化しているのであろう。
児童虐待という文脈で責任は問えるであろうが、文化人や大手媒体は持ち上げるだけ持ち上げたのに、実態が露呈し始めると黙過することを決め込んだのである。
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Google Play Musicは月額980円のサービスであり、わたしは初期ユーザーなので780円なのだが、おそらく780円の価値すらない。
US垢だと洋楽はほとんど全部あるような感じらしいのだが、日本だと欠損が多すぎる。
調べてはないが、2割か3割くらいは欠けている印象である。
日本在住でUS垢で登録するのは、以前は黙認されていたらしいのだが、最近はかなり厳格にチェックしているらしいので、ほとんど無理だと言っていい。

ジェフ・ベックのアルバムで言えば「Rough and Ready」がGPM(Google Play Music)で欠損しているが、これはYouTubeにある。
Alice in Chainsで言えば「Facelift」「Dirt」「Alice In Chains」がGPMでは欠損しているが、これもYouTubeにある。
この間GPMでピンク・フロイドのアルバムが大量に削除されたが、YouTubeにはあるわけだ。

つまり海外の権利者はこのあたり寛容であり、アルバムのアップロードを容認しているのである。
アーティスト名+full albumでYouTubeを検索すればだいたい出てくる。
GPMのUS垢でほとんど全部聴けるというのも、そういう風潮の反映なのだろう。
これを日本に持ってくるとなると、配信は認めないということになるわけだ。
お金を払おうとすると聴けなくなる問題である。

GPM(Google Play Music)では邦楽もたくさん配信されているが、YouTubeで削除しまくるようなレーベルはやはりGPMにも出さないから、肝心な楽曲ほど欠けている。
GPMにあるならほとんどYouTubeにもあるという状態になってしまう。

またYouTube Redという有料サービスがアメリカではすでに始まっており、GPMの利用者は無料で使えるのだが、これもまだ日本に対応していない。

冒頭の画像はわたしのアカウントのプレイリストを再生回数でソートしたものだが、おそらくほとんどがYouTubeにあるわけである。
ジミ・ヘンドリックスはわりとYouTubeで削除されているが、これもGPMではあんまり揃ってないので、同じ話である。
YouTubeから楽曲を減らして映像を無くしたのがGPMであるとも言える。
おそらくApple Musicも似たようなものであろうし、Spotifyが日本でなかなか始まらないのもそういうことであろう。
あちこちおかしなことだらけなのは、たぶん人類そのものがゲームだからであろうし、現在の境涯に甘んじることなど出来まいから、おかしなところを糺すべく正義を掲げることが求められている。ではおかしなところを修正して進歩したらしい人類の事蹟を見るに、いろいろな間違いが修正されたかというと、はなはだ疑問であるし、もしくは、どこかを修繕すると別のところが壊れる仕組みになっている。そもそも、たとえば大金持ちという存在は正義であるかとか、解決が出来ない話である。無産政党の思想集団であれば、新自由主義という誤謬を糺して、夏野剛のような差別主義者を糾弾するために運動するであろうが、金持ちには金持ちの言い分があるだろうし、経済的敗者には腫れ上がるまで鞭を与えよというのが夏野剛の正義である。地球人類が全員アッパークラスのお金持ちになればいいような気もするが、たぶんそれは無いであろうし、上級国民のために下層民は不可欠である。その時代相ならではの力の正統性に依拠し、梟雄というべき人物が頂点に君臨するのであり、長生きしても80年かそこらの人生であるが、たまたま瞬間的にこの大地に浮かんだ幻影とは考えないらしく、自らの存在を永遠に祀られる煌びやかな記念碑であるかのように語り、王朝が崩壊する瞬間に立ち会わずに済めば、勝ち逃げと称して満悦するのである。重力が天体を回転させるように、階級闘争の原理だけがあり、支配する側と支配される側に分かれるのであろうし、ヨーロッパ人がアフリカ大陸を切り分けるために直線の国境線を引いたような帝国主義の論理は廃れない。異端者を宗教裁判で火炙りにするような狂気を克服したと欧米のリベラリストが言うとしても、あくまでキリスト教が世俗化されただけであるし、マージナルな領域からの蹶起は相次ぐのであるから、宗教戦争に終わりはない。これからも人類は、おかしいおかしいと言い合いながら、人生にあぶれた窮民が不平不満で目を眇めながら世界を見やるのであり、上級国民と下層民の境界を乗り越えるべく狂奔し、やがて世界地図を塗り直すために第三次世界大戦へと向かうのだが、その勝敗の決着が付いて、新しい階級制度を正当化する思想が発明され喧伝されるとしても、どこかの辺境民の新たなる怒りが火焔を広げ、束の間の小康状態を打ち破るのであるから、ゲームそのものが打ち切りになるまで世界分割の繰り返しが悪夢のごとく続いていく。
この親子が芸能界から離れられるとは思えないが、このところ一般人になるとか宣言して、あれこれ憶測を呼んでいる。
具体的な中身は現状ではわからない。
ナベプロを解雇されるのかもしれないし、もしくはナベプロに在籍した状態で長期休業するのかもしれないし、どちらにせよ、中川翔子のマネージャーの苦衷は察するに余りある。
ナベプロの高校に入るのが既定路線だったはずだが、それがどうなるのかも不明である。
どちらにせよ決めたことを守れる親子ではないのであるし、これからも常識外れの言動は絶えない。
どれだけ四苦八苦して剪定しても飾り物にすらならないであろうし、芸能界では使いものにならないが、勉強することも拒絶していると思われるので、ネットで天才だと持て囃された少女が転落していく姿を反面教師として見せるくらいしかないであろう。
ババアの代筆など明らかであるし、われわれは昔から断定して言っているが、岡田有花という記者が、はるかぜちゃんの方がおまえらより大人だと言い続けたのでややこしいことになった。
このような挿話が苦々しい教訓として人類に残されるのはいいことであろう。
ネットではあらゆるプロパガンダがあり得るし、本人が自称する誇大妄想がたやすく受け入れられてきたが、われわれはリテラシーを高めていくしかないのである。
中川翔子は最後の最後でトラブルメーカーとくっついてしまった格好だから、特段の責任はないと思われるし、その罪科を糺そうという人もいないであろうが、とはいえ、問題児を拾ってしまったからには捨てづらいし、自ら開設した救貧院を閉鎖するようなものでもあるし、慈善活動の中止という気まずさはある。
はるかぜ(母親)が達成感を得るために活動しているのであるから、決して癒えることがない病であるし、ナベプロは縁を切るのが無難だと思われるが、果たしてどうなるのであろうか。
どれだけ停戦合意しても、懲りずに戦端を開くのであるから、約束という概念もないであろうし、あらゆる条約は破棄されるので、それを前提に考える必要がある。
イラッとさせる発言をするわりには、なぜか夏野剛にアンチがいない。
いわゆる馬鹿とか間抜けではないから、ニヤニヤしながら観察するのが難しい。
毒舌家のわりには不用意な発言はしないし、舌禍事件を起こさないタイプでもある。
夏野剛は発言が差別的なのだが、新自由主義の勝者が敗者を蔑むのは、おそらく差別の定義には当てはまらない。
差別問題とはおそらく歴史を背負ったものであろうし、古い価値観が過去に葬り去られた時に、当事者ではないひとたちが、反省したり反省させられたりするものである。
遠い昔に行われたことを掘り返して、被差別者のルーツを持つ人たちが遺産相続人として怒りの声を挙げるわけである。
現状では、夏野剛みたいに経済的敗者を舐めた発言をしても、これは新自由主義の時代に沿ったものであるから、差別的感情はあるとしても、差別ではないのである。
いずれ時代が変わり、勝者総取りのイデオロギーである新自由主義が悪という世の中になれば、夏野剛は敗者を蔑む差別主義者の典型事例として扱われると思うのだが、現時点でわれわれは当事者であるから、まだ歴史性を背負っていない。
マルクス主義が完全に破綻したので、搾取云々の論法が極めて使いづらく、その間隙を衝かれているのである。
経済的勝利者は上級国民であり大正義だと言うしかない。
だから現段階で夏野剛を差別主義者だと言うのは無理なので、この裁定は未来の人に託するしかないのである。
最近だと医者はずいぶん患者に対して丁寧である。
訴訟にならないようにかなり慎重になっているわけだ。

一昔前だと、患者は医者の機嫌を損ねるのを非常に畏れていた。
医者が手術をわざと失敗するのではないかとか、そういう恐怖があったのである。

今日ではそんなことは絶対あり得ないし、故意に医療ミスをする医者などいるはずがない。
そもそも昔だって、故意の医療ミスなど無かったと思うし、そんなのをガチで実行する医者がいたとは思えないのだが、実行されないとしても、手抜きくらいはするという恐れはあった。
医療ミスは医者の切り札であり、それこそ合法的に人を殺せる職業とも言えるから、患者は医者のご機嫌を取るのに必死であった。

割り箸が脳に刺さった子どもの事例とか、アホらしくて仕方がないわけだが、こんなことでも責任問題となるのはひとつの健全さなのである。
今日のわれわれは、故意の医療ミスや手抜きを懸念することはまずないし、医者の態度が悪ければ謝罪させるだけである。
これもやはり故意の医療ミスで医者が報復してくることは絶対にないという安心感の賜である。
ネットから新しい知性が生まれないのは当然の話であり、人類は昔から集合知なのである。
天才は天才と知り合いであり、とっくに繋がっているから、今さらネットでやり取りする必要がない。
天才の世界は狭い。
他の天才と交流はあるし、その業績を知っているわけだ。
そういう繋がりを作れなかったら、基本的に歴史には残らない。

どこかで誰かが偉大な発見をしてそれが誰にも伝わらなかったことだってあったはずだが、大学が普及してからは、ごく普通に大学がエリートの集合知なのである。
そもそもインターネットそのものが、大学の教員達で作っていった側面が大きいし、もしくは大学教員でなくても、それに準ずるような立派な研究機関に属していたりするわけだ。
ネット以前からエリート層が繋がっているからこそ、インターネットが生まれたのである。

だからネットで集合知が発達しないのは当然である。
専門家同士はネット以前から繋がっているので、ネットで初めて繋がるとすれば、無位無官の在野の人しかないが、ここが繋がってもたいしたことにはなっていない。

たとえば東浩紀の周辺はそういう人の集まりだろうが、その集合知で新しい知性が生まれるわけではない。
エリートが大学で扱わないサブカルチャー評論ということになるわけだ。

超一流の大学とか研究機関、もしくは民間企業で、科学は普通に進歩しているわけである。
この15年でずいぶんいろいろと便利な新製品が開発されたり、新発見がなされた。
それぞれの組織が集合知なのである。
研究が完成するまで表に出さないのは非効率ではあるが、競争原理の源であるのは言うまでもないし、完成して権利を確立したら、その恩恵は人類に行き渡るのである。
そのトップエリートの集合知に入れないレベルの人たちがネットで集まっても、まさに烏合の衆であり、サブカルチャー関連で文化を形成するくらいしか出来ないというのが現実であろう。
まずわれわれは藤原さくらがクズだという見解をはっきり証明しておきたい。
YUIくらいの楽曲を書いているなら何でもありだが、その次元にまで達してないので、福山雅治のドラマにヒロインとして押し込んだのは保険のためのごり押しなのである。
つまりYUIレベルの曲が書けるならこういうごり押しは必要ないので、そうならなかった場合の保険なのだ。

藤原さくらは実力がある、というより、ごく普通に小さい頃から音楽をやっているので、それだけの素養があるわけである。
だが、これくらいの素養の持ち主なら音大に腐るほどいるであろうし、彼らは芸能には脚を踏み入れないだけである。

どのレベルの人を天才と言うのか、その基準はいろいろあるだろうが、ひとまずYUIは天才と言っていいだろう。
藤原さくらについて語る文脈でなら、これよりハードルを高くする必要はあるまい。
もやもやするのは、YUIになれなかった場合の保険として、それなりの立ち位置を築いておこうというくだらない生き方である。
実力者だと偉そうにアピールしながら、才能が無かった場合の保険を掛けるのは人間のクズしかやらない。
YUIレベルの曲が書けるなら、こんなバーター出演をしなくてもいいわけである。
20歳時点で書く必要はないから、何年かの猶予はあるが、実は作曲能力はたいしたことがないと判明した場合に、ごく普通に埋もれると思うから、今のうちに目立ってリスクヘッジしておこうといういやらしさなのである。

藤原さくらに実力があるのは否定しないけれども、現時点では天才と呼ぶべき次元ではない。
何が言いたいかというと、実力アピールしながら大原櫻子と同じ売り方するのは何のつもりなのか、ということである。
藤原さくらは天才を目指しているのか、大原櫻子という素人を狩りに出向くのかどっちなんだよ。
大原櫻子が藤原さくらと比較されて、大原櫻子がオワコンになってもいいんだけど、中元すず香というプロの二軍選手と同じオーラを感じて虫酸が走る。
藤原さくらについては現時点では何とも言えない。
作曲というのは、天才と言われる人でも20歳を過ぎてから本領を発揮してくるので、現段階ではまだ確定的な評価をするべきではないであろう。
なぜか知らないが演奏がやたらと上手いのに作曲はたいしたことない人もたくさんいるのだ。
YUIみたいなキラーチューンを次々と生み出せるかどうかは未知数である。
音楽スキルはかなり高い、というより非常に本格的であるが、わりと地味な印象もあり、実力派アーティストとして埋没するリスクもあるから、ミエミエでもゴリ押しすることにしたと思われる。

バーター出演というのは批判されても甘んじるしかない立場であるから、藤原さくらも本当はこういう形でドラマに出たくはあるまいが、こういう話を断ってめんどうな人間だと思われても困る。
ベビメタは中元が中学卒業する時にゆいもあに意思確認があったそうで、その時点で脱退することは可能であった。
そこで活動継続を受諾したから、それをいいことに完全な奴隷にされてしまったが、アミューズはわりと、そういう意思確認はありそうである。

武藤彩未さんも、おそらくタレント活動はずいぶん薦められたはずだが、15歳時点でそれを断る自由を行使したと思われる。
その結果として、アイドル歌手としてデビューはしたけれども、あまりアミューズ社員の人が専属で関わっている印象はなく、有名な人を非常勤で寄せ集めたチームであった。
よそで多忙なひとが時たま武藤さんを見に来るだけだから、噛み合わないのは仕方がないとしても、マネージャーがNGを出せないのは、かなり下っ端の社員なのだろう。
アミューズ社員の人が武藤さんに嫌がらせをしているわけではなく、実際に意に沿わないことは拒絶するタイプであるから、関わりたくないのも当然である。

藤原さくらも、おそらく意思確認はあったと思うのだが、断ると武藤さんみたいになる可能性があるので引き受けたと思う。
だから藤原さくらが顰蹙を買っても気の毒に思う必要はない。
福山雅治のドラマのヒロインというのは「いい話」であるのは間違いない。
バーターだからカッコ悪いことこの上ないが、ゴリ押ししてくれるのを拒否して音楽だけやりますと答えたら、二度といい話は来なくなるので、あれこれ勘案して福山雅治のバーターという立場を受けたのである。
どれが正しいというわけではなく、武藤彩未さんのように、タレント関連のいい話を片っ端から断り、全身に刺青を入れてアウトローの住人として生きてくのがロックスターだとも言えるし、いずれお仲間の鞘師里保や押尾学と一緒に注目を浴びることもあるだろう。
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