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ここ最近はEQが低い人への差別が跋扈している。
興味深いのは、この現状をリベラルなひとたちが肯定していることだ。
つまり政治的に正しい人たちが、EQ差別を容認しているのである。
なぜかというと、おそらく根っこにあるのは、IQとEQが反比例するという発想である。
つまり知能指数で人間を選別するのが政治的に正しくないから、EQ弱者を差別することで、リベラルたらんとしているのである。

これは差別の構造として典型的な事例なのである。
差別はそれが行われている間は差別とは言われない。
差別が当然だと思われているわけだ。
EQ差別に関しては、2016年時点で誰も差別とは思っていない。
これがしばらくすると、積み重なった差別への反省として、重度の発達障害だから東大に入れるとか愚にも付かない逆差別政策に反映されるわけだ。

IQとEQが反比例するのかどうかは何とも言えないが、社会的エリートがナードであるのも、コンピューター社会ではひとつの傾向である。
とはいえ、IQが低い発達障害者など掃いて捨てるほどいる。
アスペルガーだから天才プログラマーであるなんて単純な話ではない。

野性的なDQNと、ナード系のADHDでは真逆のようにも思えるし、路上で暴れるのとネットで暴れるのとでは前者の方が圧倒的に悪事であろうが、見苦しさでは似たようなものである。
東大合格歴(中退)のある有村悠さんでさえ、36歳になってようやくトラブルを起こすのをやめようとしているわけで、「絶対に治さない」という自我の強さがあるのもADHDの悪印象である。

EQが高いと、学力や知能がたいしたことなくても、言動はしっかりしている。
難しいことは出来なくても、そうでなければずいぶん手際が良くて器用にこなすので、むしろ優秀なのである。
EQが低いと、言動がしっかりしていない。
普通のことがちゃんと出来ない。
だから発達障害者へのバッシングは公然と行われるのだが、だからこそ差別なのである。
発達障害者は挙動がおかしいが、だからこそ、それを排除するのは差別である。
EQを礼賛するのがリベラルだと考えている連中は、発達障害者への差別について自覚した方がいいだろう。
われわれがなぜ時代を共有しているか、という問題だが、人間は組織に帰属して存在しているのがひとつの大きな理由である。

基本的に世の中の多くの人は雇われているわけである。
大企業の社長でさえ「雇われた存在」と言える。

JRの職員が客に殴られるというニュースはよく目にするが、昔の国鉄職員の勤務態度は悪評を極めていた。
民営化されて低姿勢になったら殴られるのだから興味深い。
国鉄職員が偉そうにしていたのは、国に命令されたわけではあるまいし、このあたりは組織の腐敗の問題でもあるが、ともかく、その時代の組織のメンタリティーに従っているのだ。

子どもだって学校に通うわけだし、その時代の学校組織の論理に従っている。
時代から遁れられないのは、そういうことなのである。

法的な問題はともかく、雇われているからには責任がないというのが人間社会の常識である。
責任は組織にあるのだ。
組織が腐敗する温床でもある。
役人がやらかしても、どうせ税金で賠償するから、腐敗を極めることは当然あるのだ。

すべては「組織的」なのである。
戦略的なものであるにせよ、腐敗が蔓延しておかしくなってるにせよ、その組織人ならではの言動をするわけである。
人間が時代に従って生きているというよりは、組織に従った結果として、それが時代を生きたということになるのである。

組織にも代表者はいるのだし、ヒトラーが全部悪かった、スターリンが全部悪かったと責任者を特定することは可能であるし、法人でも株主代表訴訟はあり得るのだが、とはいえ、組織もしくは法人の構成員の無責任さというのは回避されていない。
組織という無生物が決定したことにしているのだから、その組織の構成員に文句を言っても、「俺が決めたわけではない」と逆恨みされるわけだ。
総会屋に金を渡した社員が有罪になった判例などからすれば、仕事でやむを得ずやったことでも法的責任はあるのだが、問わないのが普通である。
電球が切れて代わりのものを買いに行くのは楽しくない。だが、新型の照明にしようというのなら楽しいわけである。人間にとって好奇心は重要であり、真新しいものが好きなのである。ドンキホーテが成功したのも、余計なものが売っているからである。必需品ではないが、あれば何となく楽しいというところを狙っているわけだ。安っぽいが楽しいというラインであるから、無駄遣いではあれど、ブランド品とは対極であり、さして財布も傷まない。この楽しさという余剰は、余計なお金であり、そこを潰してこそ生活を切り詰められるのだが、そういう過剰な倹約が望ましいかどうかはわからない。これはデータがあるわけではなく印象の問題でしかないが、かつての日本人は10円を節約することに心血を注いでいた。節約というのは現在を断念することでもあるから、あまりにも過度な節約は神経症の病因である。バタイユ的に言うなら、修道服を着た敬虔な少女は、手練れの娼婦より遙かに性的な記号として強いのであり、それがエロティシズムの根源である。天国への愛を捧げるべく修道院で生涯を終えるからこそ、即物的な娼婦の裸体とは比べものにならない性的な価値を帯びる。容易く触れられるものよりは、遠く隔たった理想世界に思いを馳せる方が頂点への道なのであるが、それへの報いはせいぜいヒステリーで気絶して白目を剥いて倒れるくらいであろうし、原理的に触れられないものに懸想する宗教的なアティテュードは人間を蝕んでいくのである。禁欲という文法に基づいた綴り字はむしろ悪魔的な記号であり、それによって書かれた聖なる物語がどれだけ血腥いか、歴史を辿るだけで答えはわかっている。このところわれわれは物事への厳しさを失い、温厚さを重視するようになったので、過度な禁欲に根ざした神経症から解放されつつある。節約にしても、かつてのように死んでも10円を節約するのではなく、自動車には関心を持たないとか、そういう欲望の草食化で対応しているわけである。連日連夜の遊蕩生活や法外な高額商品に取り憑かれなければ、そうそう根深い金銭問題にはならない。神経症とは、禁止することで欲望を募らせるヒステリーであるし、あまり厳しくしなければ、それなりの無難なところに落ち着くのである。ドンキホーテに陳列されている安っぽい商品を断じて買わないというよりは、気軽に買って好奇心を満たした方が、超越世界を夢想する煩悩から遁れられるであろうし、欲がない枯淡の境地というべきである。
思いこみが激しいという言い方があるが、あまりにもこの言いまわしに馴染んでいるため、ほとんど考えずに使っており、意外とこの狂疾の病因について考えることが少ない。思いこみが激しい人は、ひとつの選択肢だけに固執しており、他の選択肢をすべて拒絶している。これは自分の中の「決意」に酔ってしまった状態である。たぶん無意識の、つまりほとんど自覚がない英雄願望があり、自らの決意を決め込んで、すべての退路を断つのである。ルビコン河を渡ってみせることで、歴史の中で大文字の記号たらんとするのであり、選ばれた人間としての決定論的な「運命」が立ち現れてくるのである。ただ単に成功するだけでは飽きたらず物語を求めている。これはしばしば論理の転倒を伴うし、退路を断てば才能が覚醒すると信じ込んだりする。成功者が回想録を書き綴るとして、まるで運命に導かれたかのように語ることはよくあるし、それをただのまぐれと指摘すると嫉妬していると難じられそうであるし、必然的だったと語るのは成功者の特権であろうから、さえずるに任せているのである。人間は分身の術が使えないので、誰でもあれこれと断念しなければならないのだが、野球もサッカーも出来る人が、サッカーに専念するために、わざわざ自分の手を切り落とすとしたらおかしなことであろう。(腕がなければスローイングが出来ないが、これは喩え話なのでそこまで問わない)。サッカーをやりたければやればいいだけの話であり、腕を切り落として退路を断つ必要はないのである。思いこみが激しい人に「他人の言うことを聴かない」と批判しても無駄である。そのような客観的合理性の否定こそが、選ばれし彼のアイデンティティーなのである。選ばれた人間になるためには、他の選択肢を全消去しなければならないという無知蒙昧な迷信があるのも確かであり、彼は不確定で偶然に委ねられた未来を模索しているのではなく、呪術的な決意に身を捧げ、自己の神話としてすでに決まっている約束の地に向っているのであるから、他のもっとマシな道筋を示しても耳を貸すはずがない。それは決してラディカルではなく、むしろかなり古典的で保守的な発想なのだが、この流動性の高い世界には似つかわしくないのである。
有村悠さんとは比べものにならない「売れない同人作家」が登場し、それに気圧されたのか有村さんが何となく更生してしまった問題だが、このラスボスについての印象を述べておきたい。
彼は極めて馴れ馴れしい。
これは有村さんにも散見される特徴である。

常識的に、親しさとは信頼関係のことである。
信頼関係があると「あの人とは親しい」と言うのだ。
東大合格歴がある有村さんと、知能指数100未満と思われるラスボスの人も、この常識がないのである。
人から信頼される努力はせず、やみくもに親しくなろうとするのである。
さすがにこの二人を比べると、有村さんの方が軽症ではあるのだが、他者との信頼関係が築けないのに、やたらと馴れ馴れしくて人見知りをしないし、あちこちのオフ会に出かけていくわけだ。

なぜADHDが信頼関係を築きづらいのかと言うなら、おそらく「しっかりした人物」というのが信頼できるからであろうし、しっかりしてない時点でなかなか信頼するのが難しいのである。
この文脈でいう「しっかりした」というのは人倫の問題として模範的という意味ではなくて、暗黙の了解がちゃんと通用する人間のことである。
ヤクザでも信頼できるヤクザはいるわけだ。
有村悠さんは小学生の時にメダカを殺したのが生涯最大の悪事であるらしいし、中退とはいえ、東大にも合格しているが、誰も有村さんを信頼していない。
このところ有村さんがあまりトラブルを起こさなくなったのは、他人に信頼されるようになったわけではあるまいが、おそらく他人と仲良くなれないと気付いたのであろう。
http://ameblo.jp/harunafuka/entry-12120874214.html
あっそうそう
あのね、

Twitterをやめてから
blogもLINEもあまり
乗り切れず使いこなせず
しっくり来てなかったわたしに
ついにお気に入りの
SNSが見つかりましたたった!!!

今年できたばかりの
鹿のやつ!!!
名前は紹介出来ないんだけど
鹿のやつね☆笑

LINEと同じで、クローズドなので
閲覧と交流はリアル友達のみなんだけど、
デザインもかわいくて
使いやすくて、
家族と連絡取ったり
blogの下書きwするのに便利で、

鹿で、

うまく説明できないけど、

鹿で、

んでもって、
LINEとTwitterのあいだ?くらいのSNSで

鹿なんだよー!!

1月に出来たばかりだから
使ってる人誰もいないけど笑

ためしてみ?
ためしてみ?

鹿カワイイやつだから
探して!!!

これの何が良いって、
クローズド度合いが絶妙で
炎上や、LINEいじめが起こりにくいように
本当に上手く出来てるなーと思うの。

この鹿は、
わたしが探していた究極のSNSかもしれないんだ!!!

今年の1月にサービス開始したばかりで
だーーーれも使ってなくて
人いねえええええ笑
でも、スッゴく良いよ。
鹿、ためしてみ?


これはDearというSNSらしい。
鹿は英語だとdeerだが、似たようなものなのであろう。

Techcrunchだとこんな感じで紹介されている。

http://jp.techcrunch.com/2016/01/18/reventive-dear/
毎日一緒にいるような友人のことを「いつものメンバー」を略して「いつめん」なんて呼ぶ若者言葉もあるようだが、そんな「いつめん専用」をうたうコミュニケーションアプリがREVENTIVEの「Dear(ディアー)」だ。利用は無料。iOSおよびAndroid向けにアプリをリリースしている。

Dearではクラスやサークル、部活など、特定の属性の友人に限定した「グループ」をいくつでも作成できる(テーマカラーは6種類から選択可能)。作成したグループのタイムラインは、左右にスワイプすることで切り替え可能。グループはその名称とIDを設定して作成し、IDを元にユーザーを検索して、招待していく。すでにあるグループを検索して参加申請をすることも可能だ。


はるかぜと関わると、なぜかそこがトラブルを起こすことが多いわけである。
はるかぜの類友の特徴は自己欺瞞である。
自分で自分を騙しながら生きている。
狙いすました詐欺というよりは、なんか架空の設定を自分で信じ込んで生きているのである。
経歴詐称とはニュアンスが違っていて、自分を騙すのが最大の目的である。
嘘の自分を許容できる人のあつまりなのだ。
だんだん設定がズレてきておかしくなってくる。
この新しく立ち上がったらしいSNSも、はるかぜが関与している段階でいろいろと懸念される。

なんかこんな不思議な提灯記事もある。

http://mery.jp/201246
Perfumeの3人みたいに、いつめんがもっと仲良く、もっと楽しくなるアプリ!Dearが登場!

Perfumeのあーちゃん、かしゆか、のっちってTVでもプライベートでも、ずっと仲良しですよね。小さなころからずっと仲良しな彼女たち3人は、今でいう「いつめん」の理想形なのかも。そんな関係を自分も作れたら、それってすごい幸せですよね。そんなあなたにおすすめのアプリが出たみたい。


当然ながらPerfumeは関与していない。
Perfumeの三人みたいに仲良しになれる、とか勝手に名前を出されているだけである。
このサイトはNAVERまとめと同じようなものであり不特定多数が編集していると思われるが、この記事はDearの運営者が自分で書いているらしい。
たぶん頭の中ではPerfumeがお友達という設定なのであろう。
なんとなく口が寂しくてペットボトルに手を伸ばしてしまうことがある。
大きいサイズの方が割安であるから、2リットルのスポーツドリンクがいつも傍らに置いてあるようなことにもなる。
糖分の取りすぎが健康に悪いのは言うまでもない。

これを解消するために、わたしは日本茶を飲んでいる。
日本茶をたくさん飲めばいいという話ではないが、「なんとなく」という時は日本茶で充分であるし、ジュースを飲む量は確実に減らせる。

キッチンがあり魔法瓶が置いてあるなら、それをそのまま使えばいい。
自室に置くために買うとしたら、魔法瓶は買わない方がいい。
日本は地震が多い国であるから、やはり足元に置きたいのである。
もちろん、魔法瓶を置くべきちょうどいい場所が自室にあるなら魔法瓶でもいいが、やはり足元に置けるタイプの方が無難である。
パソコンの隣に魔法瓶を置いておくのは美観として良くないし、地震が無くても何かのはずみで倒して落下させてしまいそうだ。


51JG2vC5iAL.jpg

アマゾンだとこれが人気があるのだが(わたしは買ってないが)注ぎ口が表に出ていると、どうも床に置きづらい。
倒れた場合にこぼれない設計になっているらしいが、無造作に床に転がしておくわけにはいかないであろう。

31ONrfQkn7L.jpg
わたしが使っているのはこういう感じのボトルであるが、こういう水筒のような感じだと密閉されているから、床に無造作に置いておける。
床に置くのが素晴らしいと言っているのではなく、地震の時に落下したり不注意で倒してしまうことを危惧しているわけである。

容量は1リットルから2リットルくらいがいいと思うが、まあ人それぞれであろう。
1リットルだとちょっと少ない気がするので、1.5リットルくらいが妥当であるかもしれない。
価格はだいたい3000円くらいが目安らしい。

あと、こういうのは保冷専用のこともあるので、保温にも対応しているかどうか気をつけなくてはならない。

これにお湯だけ入れておいて、あとは急須で日本茶を入れたり、まあ日本茶でなくてもいいが、ともかく糖分がないお茶を飲むわけである。
どうしてもジュースが飲みたいという時はともかく、「なんとなく」という理由でジュースをたくさん飲むのは望ましくない。
こういう3000円くらいのボトルを買ってお湯を入れておけば、ジュース代も節約出来るから、結果としては安く付く。
CM10本とレギュラー番組10本を抱えているベッキーが大変なことになっている。CMはほぼ全滅であろうし、番組の方も怪しいと思われる。31歳だからここで一気に世代交代に向かうであろう。かなり大きな枠がぽっかりと空くので、司会能力が高い20代前半の美人が求められている。

武藤彩未さんがアミューズを解雇(円満退社)になるのかどうか知らないが、常識的に考えれば、痩せるかどうか見極めているところであろうと思う。慌てて解雇(円満退社)するのは愚策であるし、しばらく放置した上で、痩せないと確信したら解雇すると思われる。

さて、武藤さんは痩せたら美人である。ライブ終了後に痩せている映像があるから、これは想像ではなく紛れもない現実である。20代でも通用する美貌の持ち主であるから、痩せたらアミューズ残留になると思うが、それでもアミューズ内部では武藤アレルギーが根深いに違いない。自業自得とはいえ「武藤だけはめんどうなので担当したくない」という連中が大勢を占めている。そこで例外として浮かび上がってくるのが森先生である。そろそろ決起する瞬間が来たと思うのである。あくまで武藤さんが痩せた場合の話だが、アミューズであれば、痩せて美人になった武藤さんを司会者として推すのは容易いはず。そもそも武藤彩未さんくらいに言語流暢性が高い人間は滅多にいないので、トレーニングの必要すらない。トークのテンポやリズム感も天賦の才があり申し分ない。

果たして武藤さんにバラエティーが出来るのかという問題だが、放送作家として森先生を押し込めるならかなり期待できるし、森先生もやりたいはず。森先生は脚本家ということになっているが、そもそもは小島よしおと一緒にコントをやっていたわけである。脚本家としてさほど売れていないのが現状であるし、経歴からしても放送作家への意欲はかなりあるはず。普段の森先生の活動からしても、バラエティー向きであるのは間違いない。

ここでわたしが愚見を縷々と綴らずとも、森先生ならこの方面のノウハウはある。森先生が台本を書ける立場として参加できるなら、武藤さんも問題ないはず。今までは「音楽しかやらない」と言っていたので、森先生も常識人だから、門外漢である音楽には口出ししなかったと思われる。バラエティーともなれば、言うべきことはたくさんあるだろうし、緻密な戦略もあるはず。森先生がこれまであまり華々しい活動はなく草莽の身に甘んじてきたのは、武藤さんが馬鹿なので、どこかから都合のいい音楽プロデューサーが現れて大傑作ばかり書いてくれてスターにしてくれるとおめでたい状態になっていたからである。森先生は武藤さんを扱うことに特化された軍師であり、武藤彩未というジャンルにおいては諸葛孔明や太公望のような具眼者たる見識の持ち主であるが、このような天意を背負った人物が埋もれているのを発見できるかどうかが、これまでの甘えた自分を過去に置き去り、戦塵に塗れた乱世で天下を取れるかどうかの分かれ目なのである。本人のこだわっている歌に関してだが、タレントとして有名になった方が歌う機会が多いのが現状である。このままだと歌う機会さえない。あのベビメタというニューヨークで鞘師と同レベルのグループは調子に乗りすぎているし、水野由結ちゃんは拒食症が疑われている。群賊悪獣と言うべき中元すず香と小林啓をどうにかするには、武藤彩未さんが芸能界でのランクを上げるしかない。司会者としてなら武藤さんは芸能界で頂点に君臨できる逸材である。風紀が紊乱し、すべての価値が崩壊した例外的な時代である。この恐懼に堪えない閉塞を薙ぎ払うべく深紅の鞘から剣を抜き、決断主義者たらんことが求められる。
人間は被造物であるから、設計された規格に従って活動しているわけであり、自由意志というのは疑わしい。それでもわれわれはこれを強制とは感じないのである。自分の意志が踏みにじられて他の人間から強制されることは多々あるとしても、自ら発した意志は自由に基づくと考えている。われわれが誰かを愛するとしたら、たまたま自分の好みとその相手が重なっていたのであろう。その好みは調整出来ないわけだ。好き嫌いはかなりの部分が人間普遍の規格であり、個々人で多少の色合いの違いはあるとしても、美人は誰が見ても美人であり、人間の規格として僅かな嗜好の幅を持たせているだけである。被造物として定められた好き嫌いで他人を愛しているのであるから、果たしてどこまで自由なのか疑わしい。とはいえ、抗えないほど他人を愛する感情まで容易く調整できるとしたら、簡単に出したり引っ込めたり出来るのが愛であろうか、という問題に逢着する。人間は人類という牢獄の虜囚であり、そこから解放されたら存在が成り立たない。

もしくは苦痛という観点から考えてみよう。われわれが徴兵されて屍山血河たる戦地に赴くとする。そしてどこかの島のジャングルで敗走し餓え苦しむとする。もし苦痛をオフに出来るなら、その苦しみはないわけである。苦痛が肉体の警報装置だとしたら、火災報知器を止めてしまうようなものであるが、この喩えで言うと、火災報知器を鳴らしても火事は消えない。どうせ消防車が来ないのなら、肉体がどれだけ餓え乾き、損なわれ蝕まれても、せめて神経の隅から隅まで版図を広げる苦痛は消したいものである。だが、そういう調整が出来ないからこそ、人間や人生がある。苦境に陥っても、心の設定を変更して平穏に暮らせるとしたら、もはや人生という演出が成り立たない。苦界ではそれに似つかわしい地獄の苦しみを味わって貰う必要がある。

人間は根無し草だからこそ、被造物として与えられた設定を自分だと思うしかないのである。つまり端緒からして、支配されるべき「本当の自分」がない。もし「本当の自分」があるのなら、桎梏というべき感情を強いてくる神は支配者ということになるが、何しろこの感情の支配から脱したら無である。無から有が生成されているのだから、人間としての規格を否定したら何もないのである。だから神の恩寵に感謝せよというわけではあるまいし、この創造主が物質に心を与えたことへの業の深さを詛ってもいいが、ともかくそういうことなのである。
このインターネットはADHDで埋め尽くされている。
投稿量が半端ではないし、たぶん一日1000回くらいは投稿するであろう。
くだらないことをそんなに長時間出来るのか、というかもしれないが、パチンコ屋の開店から閉店までずっといる中毒者と同じである。
パチンコ屋の営業は15時間くらいだと思われるが、一時間あたり60回投稿すれば15時間で900回だから、だいたいそんなものだと思われる。

有村悠さんは以前のようにトラブルは起こしてないようである。
リストカットした自分の写真を上げるような異常行動はしてないらしい。
艦これブームでずいぶん同人誌が売れたらしいので、金銭的余裕が生まれたのもあるだろうが、森喜朗の息子(故人)や原辰徳の息子のように、金があればあったで問題が増幅することもあるだろうし、金があればおとなしくなるとは限らない。

有村さんより重症の売れない同人作家が有村さんのスレで暴れていることで、有村さんがかなりの軽症に思えてきた。
本来なら有村さんが歩むはずの破滅的なルートを実演している人が登場したのだから、有村さんが更生するルートに入ったのである。
おそらく有村さんも自分より酷い事例を見て考え直した気がするのである。
ADHDは馬鹿をやるのが好きであり、有村さんはまさにその類型として、好んでトラブルを繰り返していたわけだが、現在では馬鹿への嫌悪感が発生しているはず。
馬鹿をやる側から、馬鹿を蔑む側にシフトしたのである。

やはり知能指数100が分岐点なのであろうと思う。
知能指数100未満のADHDはかなり深刻である。
有村悠さんは東京大学に合格(中退)されているので、最低でも知能指数100はあるだろう。
知能指数100という基準を満たしていると、他のADHDを見て「こいつら馬鹿にもほどがある」という違和感が発生し、馬鹿を嫌うという快癒への道に到達しうる。

ADHDは治らないとされるが、本人が治したくないというのが最大の問題である。
馬鹿なことをやって愉しむという快楽を捨てたくないのだ。
快楽の放棄ではあるが、セックスをやめろと言っているのではなく、鼻くそをほじるのをやめろというレベルの話である。
本人が治したくないのだから、同情の余地はない。
有村さんが更生したのは、EQの低さをIQで補うことが出来た状態と思われるが、知能指数100未満のADHDの場合、知性的に自分を見て自分の馬鹿さ加減に呆れることが出来ない。
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