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http://news.livedoor.com/article/detail/12854437/
「もう世の中の人から、僕の存在は忘れてもらいたい…」

3月23日発売の「週刊文春」の取材に消え入るような声で答えたのは、イケメンシェフとして大ブレイクした“川越シェフ”こと川越達也氏だ。

ここ最近はテレビから姿を消していたため、本業に力を入れていると思われたが、彼の身に一体何があったのだろうか。

「すでにニュースで報道されていますが、経営する居酒屋やレストランは続々閉店しており、代官山にある本店・タツヤカワゴエも休業中です。以前から、水を800円で提供したり、年収300万の客をバカにした発言などが取り上げられていましたが、それだけが原因ではないようです」


川越シェフ(44歳)はもしかすると金は貯め込んでいて、レストラン経営は早々と手仕舞いした可能性も無くはないが、いずれにせよ斜陽なのは間違いない。
川越シェフというキャラクターは賞味期限を過ぎており、没落したということであろう。

やはり主軸がレストラン経営だと流行り廃りが露骨に反映される。
川越シェフは自分が儲かる利権構造を作ったわけではないから、没落は時間の問題であった。

川越シェフは端からインチキ臭いので、詐欺というイメージではない。
そもそもシェフ自体は誰でもなれるから、東大医学部卒と詐称して文化人活動していた人とは違う。
このジャンルに属する多士済済たるお歴々を思い浮かべれば、川越シェフはかなりマシな事例ではある。
超一流の腕前で王室を唸らせたという類の詐称はせずに、ただ上から目線のキャラクターで偉い人だと誤解させるやり方だったから、水が800円の件がずいぶんダメージになった。
彼の権威はネタとして楽しまれていたのに、それがやたらと鼻につくようになったのである。
それに、ネットがあるから川越シェフをインチキなコンテンツとして楽しめたが、そうでなければ、超一流の料理人だと誤解していたかもしれないわけだ。
「テレビに出ている」という事実性で特別な人間と錯覚する怖さがかつてはあった。
その怖さは現在でも残存しているし、そこらの正体不明の人間を連れてきて特別な人間に仕立て上げる魔術は行われているが、おそらく辛うじて多少のリテラシーは育っている。
西暦2000年あたりまで、実名で顔出しして嘘を言う人間がいるはずないと、われわれは思い込んでいた。
実際はその盲点を利用してタレント化しようとする人間が少なくない、とわれわれは学習した。
サイコパスというネットスラングが彼らに使われるのは、目先の虚栄で自己愛が満たせるらしいことであり、後からバレることを恐れておらず、未来の破滅が平気という割り切り方の凄さに対してであるが、失墜するまで束の間の悦楽を手にすれば無惨な末路でもいいらしいので、その短絡さに想像が及ばないから戦慄するしかない。
おそらく川越シェフはたいして悪質ではないが、この手の人間には警戒するようになったのである。
動詞は同一の動作であることを前提としている。
自分が酒に酔うのと他人が酒に酔うのは同一である。
だからこそ「酔う」という動詞が使える。
悪酔いとか、もしくは船酔いと言う言葉も、誰もが同じ悪酔いや船酔いをイメージできることを前提としている。
つまり酔うという概念は伝えておらず、むしろ、酩酊して眩暈がするような体験がア・プリオリに同一であるから辛うじて伝わっているのである。

歩くとか走るという動詞は、誰しも同一の動作であり、誰しも同一の体験である。
膝が痛い状態で走るとして、これは誰でもイメージできるわけだ。
健康そのものという人間でさえも、膝が慢性的に痛い状態はイメージできるし、その膝痛は体験している、のである。

これは先入観の問題でもあり、やってみたら意外と簡単とか、意外としんどくて大変ということがある。
とはいえ、われわれはこの先入観に頼って生きているし、だいたい正しいのである。
このズレの問題については、たとえば、「本で読んだ知識は役に立たない」というような論に話を進めることも可能であるし、実体験するに越したことはないであろうが、だいたいはア・プリオリに知っているのである。

あるいは「セックス」という動詞について考えるとして、すべてのセックスは同一であると言うことも出来るし、すべては違うということも出来る。
一人の美人に飽きたから別の美人に移動ということで千人斬りしたとすれば、素朴な人生経験としては1000通りあるに決まっているし、その衣擦れの音や、襟足の匂い、褥に横たわる裸体を矯めつ眇めつ眺めやり、体位から閨房の語らいまでその微細な差異は多岐にわたるであろうが、おそらく女を替えると新鮮な体験として味わえる仕組みなのだろうし、飽きるのも仕組みであろう。
やはりセックスというひとつの言葉ですべてが括れる。
あらかじめ脳内にセットされた体験を体験しているだけである。
言葉は本質的に「あれ」とか「これ」の世界である。
本当に同一かどうかは知らないし、お互いの頭部を開いて脳の中身を照らし合わせているわけではないが、同一だと信じて、その対象を「あれ」とか「これ」とか言っている。

痛いという言葉でさえ、他人の痛みがどんなものかは本当のところわからない。
あくまで同一であるという想定で「痛み」という単語は成り立っている。
そして、これは体験の同一性でもある。

この感覚、もしくは体験の同一性を疑っても仕方があるまい。
自分の歯痛と他人の歯痛は体験として同じだと思うしかない。
「あの体験」としてぴったりと重なり合うのである。

そして、その同一性の理解に加えて、それをあからさまに言うかどうかという問題まである。
ブスが精一杯厚化粧して現れたとして、われわれが「お綺麗ですね」とお世辞を言うこともあれば、空々しいからあえて黙っていることもあるだろうし、もしくは、相手によっては本音で揶揄することもあるだろう。
お世辞を言うか言わないか、このあたりの二重性も、ブスと美人という美的感覚の共有が前提である。
頭部のパーツの並びを「顔」として認識して、ブスとか美人とか大問題にしているわけである。
この認識の共有あってこその言葉であり、それを言うか言わないかという選択である。

もしくは「気まずい」という微妙な感情も、この二重性のためにある。
われわれは表面上は和気藹々とやっているが、それが白けることが多々あり、その空気が凍る感じを気まずいと言うわけである。
なにかしら「本当のこと」が露見してしまったから気まずいのだ。
変なところを目撃する・目撃されるとか、それも気まずさである。
アスペが入っている人、もしくは鈍感な人には、こういうのをいちいち説明する。
その説明が通じるとすれば、やはり言われれば思い当たるからであろう。
わざわざ説明されても思い当たらない重症のアスペだとどうなのか、それは知らない。
あるいは、このあたりの感覚を最初から察していて何も言わない人も不思議ではあるが、ともかく鋭敏な人から鈍感な人までだいたいが「気まずさ」を理解するから、「本当のこと」はズケズケと言わないようにしようと、お互いに言い聞かせ合うのである。
われわれの会話の多くは、このあたりのルール確認にも割かれる。
楽屋裏で「あの話はタブーだ」とか言い合う。
それが人生という芝居を成り立たせているのである。
きゃりーぱみゅぱみゅの現場のオタ代表が、50名の女オタを食ったという。
相手が13歳ということで逮捕された。
あらゆる興行に関して、現場で仕切る人間は出て来るが、それに横槍を入れることは運営側もしない。
何らかの悪質な事例が起こるまでは、そう簡単に動けないものである。
プロ野球に人気があった頃の話だが、応援団の横暴は多くの人から顰蹙を買っていた。
これにようやくメスが入ったのは、今から15年位前に暴力団が絡んで、応援団が外野自由席で占有した座席を高値で売るという行為があって、警察に捕まったかどうか知らないが、ともかく警察の指導があってからである。
サッカーのJリーグのサポーターとか日本代表にも変な仕切り屋がいるようだが、ここはまだメスが入ってないようだ。
ボーカルマイノリティが支配するのが世界の本質であるし、少数派の団結力で歴史が動かされていくのは世の中遍く万事が万事そうである。
たとえば学生運動の時代であれば、ノンポリの学生などいなかったかのようである。
つまり、応援団的なものは異常性というよりは、人類の常識である。
徒党を組むのを否定するとしたら、それは人類の歴史の否定である。
今回のきゃりーぱみゅぱみゅの一件はあさま山荘事件のようなものというか、現場のオタ代表の横暴が、メスを入れなければならないレベルに達した事例である。
最近のプロ野球では外野自由席がほとんどなくて、公式戦ではほとんどが全席指定となっている。
プロ野球から外野自由席がなくなったのと同様に、アーティストのライブの現場でも、様々な見直しが行われる可能性がある。
応援団に指導されるか警察に指導されるか、どちらにせよ、われわれは指導される生き物である。
世の中は嘘やお世辞や社交辞令で出来ているから、気づいていても言わないことが求められる。
文句をいうと奇人変人扱いであるから、奇人変人しか文句を言わない。
何らかの団体に指導され唯々諾々と従うことに変わりはない。
かつては不器用というのが美化されて、器用というのが蔑まれた。
おそらく昔の社会は流動性が低いので、同じ方法でやり続けることが求められた。
やり方を変えると、今までの努力が台無しになるとされていた。
脇目も振らずに愚直にやり続けるほうが志操の堅固な人物とされ、結果が出るということだったのだ。
ここ最近は器用というのが褒め言葉になったが、愚直に同じやり方を続けるよりは、「別の方法」を考えることが望ましいということになった。

これは神経症が社会から消滅したことと軌を一にしている。
神経症患者は賽の河原で小石を積み上げるがごとく決めこんだ手続きどおりの儀式を反復するわけだが、頑迷固陋な不器用さに価値を見出しているのである。
これがなくなったので、もはや正攻法も邪道もなく、物事の手順の効率化を自由に考えられるようになった。
変化が激しい現代では、愚直に身に着けた癖が邪魔になってしまうから、やり方を変えない頑固さが淘汰されたのである。

最初に正攻法だと思い込んだやり方が正しいとは限らないし、むしろ正しくない。
たいていの手順は見直す余地がある。
これは思考実験としてやらなければならない。
将棋やチェスで指してみてから「待った」と叫んでやり直すことが出来ないように、現実でも、実行してから指し直すのは好ましくない、もしくは出来ない。
人生は一度しか無いので、失敗から学ぶ教訓よりも、失敗によって負った手傷が深過ぎることは多々ある。

これは他者との駆け引きであることもあれば、作業の効率性の問題であることもある。
自分がカードを出して、続いて相手がカードを出してから「待った」というわけにはいかないので、カードを切る前から、頭の中で図上演習しなければならない。
あるいは30分掛かっていた作業を、いろいろ工夫して20分に縮めるとする。
器用・不器用の問題であるから、技術革新ではなくちょっとした閃きで30分から20分に縮められるという想定だが、こういうのをあっさり思いつく人もいれば、そうでない人もいる。
ここは試行錯誤が容認されるが、とはいえ、ああでもないこうでもないと四苦八苦すること自体が不器用さであるし、歳月は人を待たないので、あっさりと最善手が閃く人のほうが評価されるのは言うまでもない。
これは能力差でもあろうが、性格的な問題も大きいような気がする。
われわれはなぜか新しい情報が好きである。速報が流れてくるのを待っている。速報がなければ飢餓感を覚えるのである。だからどうしたというわけではないが、新事実にしか食いつかないのは、野次馬的であり暇人とカテゴライズすることは出来る。新事実が流れてくるまで、飢え乾き悶絶し煩悶して馬鹿をやりながら暇つぶしするのだ。すでに知られていることを知るのを「学習」と呼ぶわけだが、自分が世の中ではじめて知ったわけではないので、その驚きでは刺激が弱いらしい。いわゆる知的好奇心、つまり、すでに知られていることについて先学から教えを受けるのも楽しいのだが、この楽しさに到達するのは簡単ではないらしく、ずいぶん個人差がある。さて、人間どっちみち死んでしまうのだから、暇人で何が悪いという意見もあるだろうが、とりあえず価値判断をするなら、やはり暇人は新事実にしか関心がない阿呆である。有名人が事故で死んだとか、もしくは事件を起こして捕まったとか、そういう速報に接するとスイッチが入り、しばらくはその話題で喚き散らして発散する。それに飽きたら、また別の騒ぎが起こるまで暇つぶしをする。インターネットは「学習」がしづらい仕組みになっており、ここが厄介である。誰かが死んだり捕まったりしないと、好奇心のスイッチが入らない。そして特定のクラスタに陥り、その嵌め込み式の窓から世界を見て、その変わり映えの無さに厭いて、何かが起こるまで憤懣をためて暴れたり暴れたり、何かが起これば狂喜して暴れたり暴れたりする。ネットのせいにしても仕方がないが、やはりネットは「学習」へのレコメンドをかなり欠いているし、すでに知られていることを学ぶ姿勢は身につかない。ネットで何かを学ぶとなると、他者からの反応が乏しいから孤独である。他人の反応が見たいのであれば、速報に食いつくに決まっている。速報に振り回されて、すべての好奇心を吸い取られ、つかのまの孤独を癒やし、何年経っても代わり映えがしない木偶の坊ということになる。
物事はその人の機根に合わせて説く。
子どもにわかりやすいように言うには、親が正しいと伝えるしか無い。
親は保護者として善管注意義務があるであろうし、そこに正しさを求めるしか無いのである。
人倫を説くのには家族制度、もしくは家族制度の中心たる親がちょうどいいのである。
自分の家族と他人の家族はまったく別人であるが、世間の耳目を集める事件について「もし自分の家族だったら」と発想することが定着している。
家族という概念を守るという発想で、赤の他人に寄り添い想像力を這わせるのである。
親というのはあくまでそういう方便なのだが、方便であることを理解せずに、本当に親が正しいとしてしまうと、どこかしら歪みになる。
有村悠さんは一日に六回射精するくらいに性欲が強いが、母親が非常に潔癖だということで、未だに悩み苦しんで、性嫌悪なるものを表明し続けている。
未成年までは親に責任を求め、成人したら本人に責任を問うのが決まりであるから、有村悠さん(37歳)は「親のせいにするな」と言われるのである。
あくまで赤の他人として、他人の親に管理責任を求めるだけのことであり、子どもが自分の親に責任を求める内輪揉めは筋違いということなのだ。
とはいえ、意外と切り分けてない人が多いし、成人してからも敬意を延長している人は多々いるであろう。
それこそ70歳や80歳の老人でさえも、親の教えを尊びながら生きていたりする。
社会的に立派な人でも「親に言われたから」という理由で自らの半生を語ったりするのである。
それが恥ずかしいと言われることはないのだ。
だから親という概念は真理と方便を兼ねていて厄介なのだが、やはり真理と考える人は方便を信じ込んでいる階梯にあるだけである。
親が責任者であるというのは、あくまで他人の親に責任を求めるための方便なので、自分で自分の親を糾弾することはあまり好ましくない。
愛子さまの拒食症が深刻である。日本国民はこの長男夫妻については不満しか持っておらず、まったく同情してないから、折り合いがつかない。長男夫妻にプレッシャーを掛けて、軛を掛けるがごとく理想を押し付け、矯めつ眇めつ眺められる不自由な人生を強要し、挙句の果てに、自由に育てられた次男夫妻の方が結果を出し、長男夫妻が用済みとなる構図の理不尽さが、そのままに放置され見捨てられている。この痕跡器官が面当てとして壊死しようとしているのである。そもそも男系であれば秋篠宮の息子でも差支えないので、本来なら同等にプレッシャーがあるべきだったが、長男夫妻だけにその重責を担わせていたのであるから、あまり公平ではない。このあたりは時代の過渡期なのかもしれないが、期待に答えられなかった人間への蔑みの眼差しがあるわけだ。そして、この件について、雅子さまは人生を受け入れないというスタンスを取っている。決して納得はしないという強い感情が、適応障害を作り出している。人生に納得してもしなくても死ねば無であると思うのだが、そう考えない人が大半である。納得すると認めたことになるので、絶対に認めないというスタンスを取るのである。存在を余儀なくされてこそわれわれの人生はあるのだが、しかし秋篠宮とくらべてみると、あちらはずいぶん自由意志で存立して幸福そうに生きているから、こちら側としては受け入れ難いという感情があるのだろう。愛子さまの摂食障害も、母親の適応障害に付き合わされた恰好なのであろうが、長男夫妻を鞭打ったことを決して許さないという抵抗運動である。このような拒絶反応こそ人間そのものなので不思議ではないのだが、どこかで致し方ないという感情に落ち着いて諦めるのも人間である。幸福であろうが不幸であろうが、人生は仮初めという境地に至って、ひとまず現世を仮認定する形で最終的な魂への保留をするのである。死が無であるからこそ、人間は自己の永遠性を信じるのだが、しかし、死によって現世の状態が永続するとか、この短い人生を何億年も反芻するということはあり得ない。どのような諍いや擾乱も死によってノーゲームになるに決っている。自らにどのような烙印が押されようとも、それは現世での仮のものであるし、まさかこれが死後も永続はするまい。秋篠宮の幸福に永続性はない。とはいえ、雅子さまは寿命が尽きるまで「男子を産めなかった」という目線でずっと見られるのであろうし、その怨念を遺していくというのなら、それはそれで致し方があるまい。愛子さまの生命は今や怨霊を具現化するためにある。われわれは長男に過度な期待することに罪責感を持ってないし、反省するどころか、むしろ理想を踏みにじられた憎しみや、期待はずれへの蔑みが消えないのであるから、秋篠宮夫妻を愛でつつ、その一方で廃疾として放置されている腫れ物に対して、惻隠の情を催すことすら無いし、この問題で和解できるとは思えない。これからも日本国民と雅子さまの間で憎しみが絶えることはないから、身勝手な理想主義の結末として、双方が怨み骨髄に徹し、夢の跡が腐乱して瘴気を放ち続ける状態はさらに悪化するであろう。
怠けるのは無の境地へ向かおうとすることではなく、むしろ自我が強いから怠けるのである。
たとえばゴロゴロしているというのは非生産的ではあるが、ひとつの行動である。
非生産的だから行動ではないと決めつけるべきではない。
つまらないと感じた時にゴロゴロするという行動は、それなりにあり得ることだ。
努力が苦痛でないという人は少なからずいるが、そういう人は、つまらなさへの耐性が強い。
つまらなくても平気なのである。
たとえば本を読むとして、集中してないとすんなりと頭には入ってこないが、まったく入ってこないということはない。
気が乗らなくても本は読める。
集中力が最大値に到達してようやく書を紐解くというのであれば、かなり限られた本しか読めない。
退屈に耐えられない人でもゴロゴロしてツイッターが出来るのは、最高のツイートをしようという強迫観念がないからである。
読書については完璧主義なのに、気まぐれにツイートを読んで気まぐれにツイートするのは構わないということなのだ。
読書だって寝転がりながら弛緩した状態で行って差支えないし、気まぐれに拾い読みしてもいいと思うのだが、やはり「きちんと読む」のが基本であるから、その集中力を苦手としている人は逃げてしまう。
つまらなさに耐えられる、というより、至って平然としていられる人は少なからず存在しているから、ここが人間の格の違いなのであろう。
怠けるのは無ではないし、むしろ無を拒絶する愚かしい行動である。
心躍らず凋萎れている感情で充分に生きていけるかどうかであるが、なぜか金持ちのほうが渋面を作ってつまらない時間を過ごすことが平気である。
貧乏人がやたらとはしゃぐのもよくわからないが、家庭環境の影響があるようだ。
ウィリアム・ジェイムズ(1842-1910)が「プラグマティズム」を著したのは1907年である。
彼はハーバード大学で医学の学位を取得している理数系の人である。
五感で認識できないものが科学で次から次へと解明されるようになった時代を生きていた。
そういう科学的知見の合理性をどのように受け入れるかという議論をした書物と位置づけていいであろう。

彼はこれをオプティミズムでもなくペシミズムでもない「改善論」と位置づけている。
プラグマティズム(実利主義)によって世界は改善され、人類は救済されていくのである。

「プラグマティズム (岩波文庫)」W.ジェイムズ(桝田啓三郎訳)
オプティミズムはつねにヨーロッパ哲学における支配的な教説であった。ペシミズムはごく最近になってショーペンハウエルによって唱えられたばかりのもので、いまだ体系的な擁護者を少数しかもっていない。改善論は救済を必然的とも不可能とも説かない。それは救済を一つの可能性として扱うが、この可能性は、救済の現実的な条件が数多くなるにつれて、次第に蓋然性の度を加えると考える。
プラグマティズムが改善論に傾かざるをえないのは明らかである。世界救済の若干の条件は現実に存在しているのであって、プラグマティズムはこの事実に眼をおおうわけにはゆかない。もし残りの条件があらわれてきたならば、救済は完成した実在となるであろう。もちろん、私はいまこれらの言葉を甚だおおまかな意味で用いているのである。諸君は「救済」という語をいかようにも思いのままに解釈されてよいし、またこの救済ということを分布的に局所局所に起こる現象とも、あるいは危機にのぞんで全面的に生ずる現象とも、好むままに解してよいのである。


五感では検出できないことも科学では検出可能である。
たとえばかつて医師は細菌の存在など知らず、手を洗わなかったから産褥熱で死亡する妊婦が少なくなかった。
手洗いで産褥熱が防げると提唱したセンメルヴェイス・イグナーツ(1818-1865)という医師は、同時代人からとても憎まれ、精神病院で撲殺されて死亡したが、どちらが正しいかは後にコッホやパスツールが細菌学を築いてはっきりしたのである。
「プラグマティズム」が書かれたのは前述したように1907年だが、20世紀の幕開けにおいて、近代科学の合理性を称揚したとも言える。
(「プラグマティズム」で産褥熱の事例は引き合いに出されていないが、ジェイムズは生物学を研究していて、コッホやパスツールと同時代人だから、そういう時代背景あっての書物だろうと、補助線を引いてみただけである)。

批判主義の哲学的段階は、消極的な面では科学的段階よりも遥かに徹底するにいたったが、それだけに実際的な力の面ではなんら新しい視野をわれわれに与えていない。ロック、ヒューム、バークリー、カント、ヘーゲル、彼らは皆、自然の局部局部に光を投ずるという点では、全く不毛であった。事実わたくしは、彼ら独得の思想から直接に生まれたと思われるような発見ないし発明を何一つ考えることができない。バークリーのタール水にしても、カントの星雲説にしても、彼ら自身の哲学説とはなんのかかわりもないではないか。


われわれは人間は人体として存在しているが、この人体なる物差しであらゆる判断を下している。
人体が本当に実在しているのか定かではないし、われわれは身体性という現象世界を生きているだけであるが、細菌で病気になるとか、そういうのが科学で判明してくるので、ひとまず快-不快、生-死、薬-毒という対立軸の中でQOLをプラグマティック(実利的)に上昇させようとする。

五感が全てであるがゆえに、そこに引っかからない物事、たとえば細菌などを科学で検出して、身体の快適さの向上を試みているのである。
最先端の科学で原始的な感覚を快適にしていく。
アインシュタインはヒュームを愛読していたとされるが、ヒュームの感覚一元論がアインシュタインの相対性理論に繋がるのも、そのあたりであろう。
GPSは相対性理論のお陰でとても正確な数値が出るのだが、スマホでGPSを使っているわれわれの大半はその理論を知らないし、むしろ相対性理論の前の、素朴な三次元空間を生きている。

われわれが原発事故で大騒ぎするのも、放射能の危険性を科学で知っているからだ。
キューリー夫人でさえ放射性物質が人体に害悪であると気づかずに寿命を縮めたのであるから、素朴にわかる話ではないのである。
新しい科学的発見で世界が塗り替えられていくのだが、われわれはいつまでも素朴に実在しており、ずいぶん奇妙なことである。

「プラグマティズム」はすべてが合理性で説明できる理論だと誤解されている気がするのだが、あくまで改善論である。

ただ合理ずくめの世界などというものがあるとしたら、それは魔法帽子の世界、テレパシーの世界であろう。そこでなら、あらゆる欲望がたちどころに満たされ、周囲の力とか媒介力とかを考慮したり宥めたりする必要もありはしない。これこそ絶対者そのものの世界である。


科学的知見で改善されていく世界の実態を、そのまま認めただけと言ってもいい。

行ってみたこともないのに、日本が存在していると、ここにいるわれわれは推定している、われわれの知っているかぎりのことがことごとくその信念に組してなんらの妨げもしないから、つまり、日本の存在がそう推定させるからである。
(中略)
まことに真理は大部分が一種の信用組織によって生きている。われわれの思想や信念は、それを拒否するものがないかぎり、「通用する」。それはちょうど銀行手形がそれを拒む人のないかぎり通用するのと同じである。しかしこのことはすべて、どこかへ行けば目の前にじかに験証が見られるという黙契の上に成り立っているのであって、もしこの験証がなければ、かかる真理の構築は、なんら現金保有の裏づけをもたない金融組織と同じように、たちまち倒壊してしまう。

われわれは黄教授と小保方晴子はインチキで、山中教授こそ真理だと知っているわけだが、これは「信用」としての問題である。
専門家を除いては、真札-偽札を自分自身で検証するプロセスは省いている。
ひとりの人間の認識能力には限界があるので、それを集合知で補っている。

人間の努力というものは一日一日と世界を統合して行ってだんだんはっきりと組織化することに向かっている。こうして植民組織、郵便組織、領事組織、通商組織などができ上がった。これらの組織に所属する部分部分はすべて一定の影響力に服従しており、その影響力は、組織の外にある事実にまでは及ばないが、組織の内部ではだんだんひろがっていく。広い広い宇宙のなかに、世界のいろいろな部分の大規模な繫がり合いができ、またその内部に小さな繫がり合いが、言論上の小世界ばかりでなく実際活動上の小世界が、無数にできてくる。おのおのの組織は、それに属する部分をそれぞれ特殊な関係で縛っているのであるから、統合の一つの型ないし度合いを表わしている。


われわれはいつまでたっても全知全能の神にはならないし、特定の三次元の座標から遁れられない盲人ではあるのだが、自分の肉体の所在地とはまったく懸け離れた場所もプラグマティック(実利的)に認識している。
専門家ではないわれわれは、放射能とか細菌も自分で検証してはいないが、「知っている」のである。
人間社会では偽札が蔓延って腐敗することもあるが、だいたいはプラグマティズム(実利主義)において真札が勝利して、そちらが合理性を持つのである。
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