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嘘と言ってもいろいろあるが、病的な虚言と正常な社交辞令には明々白々たる違いがある。やはり本当のことを言うと差し障りがあるから、欺瞞やお世辞で戯れるのも人間に必要なことである。このやむを得ない嘘については、大半の人が不承不承認めているのである。正常人の正常さにより問題が看過され、大企業勤務の正常人が不正行為をする奇妙な現象も発生するが、やはり不行跡を糾すべく「急所」を突くのは赫奕たる紛れもないキチガイしかやらない。なぜ正常人はおかしいと思いながらも見て見ぬふりをするのかということだが、まずは社会性の本能だと言うしかない。本能に説明は不要、というより、説明されなくてもわかる機能が本能であり、われわれの日常的な行動について「なぜ知ってる人に挨拶をするのか」とか「なぜ知らない人に話しかけるのはおかしいのか」とか、説明するのも容易ではない。だから、社会制度の可笑しさに正常人が沈黙するのも、彼らなりに社会的本能に照らして腑に落ちてるのであろう。必ずしも権力への畏怖だけではなく、そもそも端から見てキチガイ枠であるから、面と向かっては言わないのである。間接民主制に辿り着くのも、どこかでワンクッション置いて文句を言うという関わり方が社会本能だからである。生々しい凶相で食って掛かるのではなく、制度的な対処をしようとする。それでも対処できなければ放置するのみであるが、あえて理屈で説明するとしたら、社会にあるからには必要悪という認識なのであろう。たとえば弱者が虐げられる場面を見れば制度がおかしいと思うわけだが、しかし、そうかと言って弱者を守るとなれば変な弱者利権が出来上がる。社会の本質は命令系統であり、その圏外から「急所」を突かれたら困る、もしくは弱者や敗者が立派な人というわけでもないので、正論を言い立てるのは場違いとも言える。腐敗があっても、人間そのものがだいたいそのレベルである。弱者だって腐敗する。正常な人はそのあたりが呑み込めている。不正や腐敗に塗れた連中を面罵したところで、人類がレベルアップするわけでもないし、やはり社会の制度には一長一短があり、マイナス面だけ見て怒り狂うのはキチガイなのだろう。キチガイの言い分は局所的には正しいはずなのだが、それが社会的にキチガイとされるのは、不正やルール違反も必要悪なのである。正常人が、必要悪の必要性について具眼者として深い洞察をしているわけではあるまいし、纏綿たる事情を紐解くことなく、迂闊に触るまいというかなり端折った本能的な結論で終わらせている。曲がっているなら曲がっているだけの理由があるのだろうし、何でもかんでも真っ直ぐにするのはよくないと正常人の本能に書き込まれているのだろうし、ここは天国ではないので、囚人が囚人を管理していると思えば、間違いを正したとしても地獄草紙の絵面が少し変わるだけのことだし、別の悪疫が蔓延するだけだから、とりあえず必要悪と考えて黙過するのは理屈にも合っているのである。
星野陽平「芸能人はなぜ干されるのか?」
1933年3月、契約俳優については50%、フリーランスについては20%という大幅な賃下げが強行された。これに反発した俳優6人がSAGを設立した。かつてAEAが映画俳優を組織化しようとして失敗し、ブラックリストが作られたことがあったため、SAGの会合は秘密厳守で、メンバーは乗ってきた自動車を集会場から遠く離れた場所に置かなければならなかった。
(中略)
ハリウッドには映画俳優だけでなく、映画に関わる職種ごとに労働組合があり、それぞれの職域でSAGと同様の力を持っている。ハリウッドでは、労働組合が最大の実力者なのである。

労働組合というのは、人間の交換可能性に対抗する組織とも言えるし、必ずしも絶賛されるべきものではなかろうが、とはいえ、「代わりはいる」という論法で賃金や待遇を下げていく経営手法に対抗する力として、一定の存在意義はあるだろうと思われる。

この本では日本の芸能界を批判してアメリカのシステムを賛美しているが、日本には芸能と差別という難しい事情がある。
日本の芸能人が労働組合を結成しないのは怠慢という一言では片づけられない。
というより、この本では日本の声優の労働組合について記述しているから、いろいろとわかった上でぼかしたのであろう。
差別問題については筆を省くのが当たり前であるし、この本だけがおかしいわけでもないのだが、アメリカの差別問題と日本の差別問題では話が違うし、そのあたりの説明を省いてアメリカを褒めるのは比較文化論としては物足りない。
とはいえ、終わりの方で、差別問題については軽く触れてある。
あくまで芸能への差別ということでまとめてあるから、あまり踏み込んだことは書かれていないが、それも妥当なのであろう。
この本を書いた星野陽平も、いろいろと悩んだと思われる。

そもそも今回のこのわたしのエントリーもかなり曖昧である。
なぜ差別問題が西日本に極端に偏っているのか不思議であるが、たぶん天皇制の問題というか、天皇が東日本を避けていたからであろう。
おそらく東日本に初めて足を踏み入れたのは明治天皇である。
やはり東日本には富士山があるので、天皇がそれを避けていたというのがわたしの勝手な考えである。
「富士の高嶺」という言葉は万葉集にも出て来るし、知られていたのは間違いないが、やはり天皇が絡むところでは富士山が出て来る頻度が少ないし、山岳信仰の対象として富士山を黙殺していたように思える。
天皇制という差別思想は富士山の神々しさの向こうまでは行けなかったのである。

今日では移動の自由があり、出身地による差別はかなり解消されている、あるいはさらに時間が経てば完全に無くなるだろうから、この手の問題については記述しないのも、ひとつの正しさである。

本書第7章でも指摘しているように芸能界と暴力団の結びつきは、本来、興行の分野に限られ、テレビを主な活動の場とする芸能事務所は、暴力団と関係する必要はない。実際、テレビの黎明期に芸能界を支配した渡辺プロダクションは、暴力団との関係はほとんどなかった。芸能事務所で暴力団との関係を深めたのは、1980年代から台頭したバーニングプロダクションの社長、周防郁雄が最初なのだ。

昔の芸能界では差別問題が背景にあったが、それに乗っかって芸能界を蚕食するただのヤクザが増えてきたという側面もあるようだ。
このところわれわれがそれを潰しに行っているのも、大立者として振る舞っている芸能ヤクザはただの不逞の輩にすぎないのだし、もはや差別問題に触れる懸念がなくなっているからであろう。
相続税は社会的格差を是正するものだとされているが、実態としては血縁関係の支配の解体である。たとえば大企業の創業者一族を退陣させるためである。創業者一族に相続税を掛けることで、そういう血縁関係の支配を除去するのである。相続税システムの帰結はサラリーマン社長による支配であると言える。

大地主を解体することも相続税の文脈のひとつであろうし、それ自体は社会的正義であるが、大企業の私有地に相続税が掛からないのはなぜかという疑問があり、やはりこれも解答としては、世襲の大地主は悪だが、サラリーマン社長の大企業は悪ではないということであろう。

創業者一族の腐敗については論を俟たないが、そのような醜い莫迦な企業は倒産させておけばいいという考えもあり得る。
だが、そういう考えは極めて少数であろうし、大企業が経営不振に陥ると政府が全力で守ることになる。倒産による混乱の回避ということだが、そのようなズルが許されるのは、世襲ではないサラリーマン社長が回している公器だからなのだろう。
あるいは大企業が相互に繋がり合って財閥めいたものになることもあるが、これにしても、血縁が背景になければ正義なのだろう。

つまり総合的に考えると、相続税とは少数者の血族支配の否定であり、交替制のサラリーマン社長が大企業を経営することを理想としているのである。
たくさん社員がいるなら、大地主が独り占めしているのとは違うわけだ。

法人税は法人を潰すためのものではないが、相続税はその対象を叩き潰すためのものである。相続税という二重課税が許されているのは刑罰だからというしかない。

相続税が掛かるのは少し前だと上位四パーセントの人間であり、現在でも僅か六パーセントである。
つまり、九十四パーセントには相続税は掛からないのである。

なぜ九十四パーセントの人間は相続税を払わなくていいのかというのは、役人の都合でもあり、普通の公務員は相続税を払わなくていいシステム、という側面もあろう。

年収一千万円くらいだと相続税は払わない、もしくは払っても微々たるものであろうから、特別な巨額報酬を貰っている超エリートは別として、ごく普通のエリート層にはなかなか都合のいい制度とも言える。
人生は推理である。
今回わたしが考えようとしているのは「察し」とは別の話だ。

察しというのは生まれつき備わっている社会性で、言われずとも常識でわかるということである。

たとえば人払いのために用事を言いつけるような状況。察しがよければ阿吽の呼吸でわかるであろうし、察しが悪い人は本気でその用事をやりに行くであろう。あるいは「その用事ならすでに片付けました」とか言って、その場から動かないかもしれない。こういう鈍感な人間は、察しのいい人間からつつかれるか、もしくは「二人だけで話したいので君はもういいよ」とはっきり言われるかもしれない。

さて、ここからが本題なのだが、今回はそういう察しの話ではない。察しのいい人は社会性があるだけであり、超能力者ではないからだ。遠回しに言われたことなら察することができても、本当に隠されていることは透視できない。

推理小説というのがこの世にあるのも、おそらく真相の判明にはタイムラグがあるからである。あとからいろいろと断片を繋ぎ合わせてようやく行間が見えてくる。ちょっとした新事実が何年も前の出来事と繋がり、真相に気づくこともある。

あるいは何らかの問題が発生するとわれわれは積極的に調査を行うわけである。これも一日や二日で判明するとは限らないし、何ヶ月も調べてようやく背景が見えてくることもある。新事実が途中からふいに出てきて、今までの出来事の裏側がわかることもある。

推理小説ではカタルシスを与えるため殺人という最高の犯罪の犯人探しをするのが定番だが、われわれの人生では殺人に限らず、日々発生する俗的なトラブルのたびに犯人探しは行われ、真相がわかったり、灰色決着で終わらせたり、モラルの問題として誰かが人身御供になることもある。

この世の中の原則として、ゲームが終了してお互いの手札を見せ合うことはない。時たま老人が「もう時効だろう」と前置きして半世紀前の話を率直に公開することもあるが、そうやって手札を見せるのが例外であるのも確かだ。たいてい手札は流してしまってるから、真相は永遠に不明になったりする。

人間が歴史的存在であるのも、このような推理構造が背景にある。理屈で解けるパズルではないので、天才が瞬間的に解くわけにはいかない。証拠としての事実が集まる、もしくはふとした偶然で新事実がわかるまで、時間の経過が必要である。たとえば自分の人生についても、なんらかの新事実が判明して、過去に回想を巡らせながら「あの時のあれはああいうことだったのか」と裏の意味に気づくのもよくある。もちろん何も知らずに嘘を信じて死んでいくことも多々ある。

われわれは事実そのものを生きているのだが、その事実を丸裸にして生きている人はいない。良くも悪くもプライバシーの権利はある。だから、われわれは他者の事実から隔離されている。事実を知るのは本人や関係者のみであり、それをわれわれ他人が知るかどうかはわからない。たとえば不仲が噂される夫婦が本当に離婚したら、ああやっぱりと事実として確定するが、そうでなければよくわからないのである。事実関係を調査しつつ、真相がわかったりわからなかったりするのが人間社会なのである。

人間は事実存在であるが、それを世間に知られたくない恥の感覚がある。この事実と恥の匙加減は、あらかじめ脳内に組み込まれているのであろうから、われわれはゲームの駒として、その感覚に従うしかないのだ。このところ個人のプライバシーへの意識は強まっているが、これはイエから核家族に変わったからであろうし、人間の本質が変わったわけではない。情報が開示されるかどうかはそれぞれの時代によるし、この社会力学も、代わり映えしない人間的なせめぎ合いなのである。
キチガイとはなんぞやというと、命令に従うという観念を喪失している人間のことであろう。たいていの人は人倫に反することを何かしらやっているが、それは命令されてのことであるし、情状酌量の余地があるとされる。ヤクザの親分に命令されたというのなら免責されないが、サラリーマンが会社(法人)に命令されたというのなら、キチガイと同等のことをやっても免責されてしまう。同じ悪事を働くとしても、組織の人間として命令された場合と、自発的にやるキチガイとは話が違うのだ。こう考えると、法人というのは、何らかの踏み絵を踏んだ正常人の集まりであろう。われわれは社会的な生き物であるから、命令に従うのであり、そのこと自体がとても重視されている。軍人として認識票をつけていれば他人を殺めても差支えない。命令に従ったということなら、それだけで正常の証となるのである。

悪事をやるとしても、命令されたなら「不本意」なのである。本当に不本意なのかどうかは怪しいし、愉しんでるのが実際のところであろう。自己批判するとしても、所詮は自己満足だし、悪事で下賜された勲章を襟飾りとしながらも、辛うじて「自分」という余白を残しておきたい欲である。ともかく、その「不本意」な悪事を自発的にやったらキチガイと括られる。この差が何なのかというと、やはり社会的動物であることが人間の要件なのであろうし、命令に従うからには、人間として最低限の形をしているということなのだろう。命令されてないのに悪事、もくしは善意の押し売りをやるのは、どこからともなく飛んでくる暗器のようなものだから、人間として最低の条件すら備えていないキチガイと呼ぶしかないのである。生きながらの無縁仏として徘徊しているわけだ。

営利企業というものについて言えば、やはり頼まれているから社会的健全性を持つ。「命令される」と「頼まれる」を峻別できるかは不明だが、だいたい類似したものと考えていいだろうし、雑駁と区別するなら政治と経済になるであろう。頼まれてないのに親切の押し売りをするとしたら、素朴には自己中心的であるし、重ければ自閉症と言える。善意でさえ、それが押し売りであれば、キチガイの徴なのである。営利企業がキチガイでないとすれば、たとえば欠陥商品を作ることさえも、株主のための利益追求とか、何かしら頼まれている側面があるからなのだろう。

法人に帰属しているサラリーマンがキチガイと同レベルの悪事をやるのは人類の業病である。命令されていることが免罪符なのだろうし、どれだけ文明が消長し、あるいは進歩しようとも、人類の歴史を通して貫徹しているのだから致し方あるまい。キチガイは悪事だけでなく善意の押し売りも凄まじいから、其の意味ではサラリーマンの方が立派だと言えるが、要はそれだけである。法人が悪意を持つとしても、それは社会的なものだから致し方あるまい。法人を精神医学の対象にしても言葉の遊びにしかならないし、刑務所にも入れられないから難儀だが、一時的な流行り病ではないし、この組織性こそが人間の本質である。
やはり学校というシステムが普及しているのは「選んでない相手」と仲間になるのが人間の本質だからであろう。そもそも家族を選んでいるわけではないのだから、クラスメートも同じ話というだけだ。おそらく自分で選ぶというのは変な話であり、血縁もないのに兄弟や姉妹を名乗る疑似家族はヤクザの世界で頻繁に見られるものである。たいていの人はヤクザではないから疑似兄弟や疑似姉妹は作らない。配偶者を選ぶのは自由選択だが、いずれ子供ができれば、選んだ覚えがない家族関係が出来上がる。

ともかく人間関係を選べない、もしくは選ばないのが人間社会の本質なのである。同じ集団に帰属していても、誰かを避けたりすることもあるが、そうやって避けるのもコミュニケーションのひとつであり、もしくは逃げようがないこともあり、あるいは逆に悪意をもってハブることもあるわけだ。

こうやってインターネットが普及しても「疑似家族」までいかないし、SNSもリアルの関係の延長なのは、それなりの理由があるのだろう。ごく普通に共通の趣味などの取っ掛かりで、ネットでリア友を作る人もいるが、わりと少数派であるし、そもそも現実の附録という程度の付き合いであろう。

なぜヤクザしか疑似家族を作らないのかというと、信頼があるからには、それを裏切ったときの処罰が必要であり、その血腥い結末まで考えると、やはりヤクザ的発想となるのだ。

家族とかクラスメートは、つまり、合法組織への帰属であり、法的な信頼性があるということもできる。個々人の信頼の積み重ねではなく、社会組織そのものへの信用である。そのような義務的な縛りのない人間関係をわれわれはさほど望んでないのである。現実の人間に対して「選んだつもりはない」と嘆いたりするが、ネットで募集して自由に選んだら理想世界になるわけでもないのだ。ヤクザのリンチと一般人のパワハラにさほど径庭があるとは思えないが、日本刀や拳銃を持ち出すよりは穏当なのであろう。だからわれわれは法の支配に基づいた組織に帰依することを望んでいる。

普通の人がとりあえず合法的な組織を立ち上げるとなると会社設立というものがあるし、たとえば西村博之さんと山本一郎さんという聖人は、ネットで出会って一緒に会社を作ったわけである。一時期は一緒に住んでいたし、これはやはり、お二人が徳操の高い貴人であり、釈迦とキリストが握手した格好だからである。西村博之さんや山本一郎さんのように高潔で立派な人格者だけとは限らないから、ネットでよく知らない人とは関わりたくないとわれわれは考えており、愚痴を言いながらも、現実のしがらみに縛られることを不承不承認めているのである。
わたしはこのところはるかぜ親子の観察をかなり懈怠しているから、あくまでわかりやすい事例として引き合いに出すのだが、自分が間違っていても言い返す人間がいるわけである。はるかぜババアはその典型だが、このババアだけの問題ではない。

素朴な喩え話をしてみるが、たとえばどこかに電車で行こうとしている人がいたとする。それを端から見て「タクシーの方がいい」という合理的な説明をしたとする。複数人で乗れば意外と高くないとか、電車だと遠回りでもタクシーなら近いということだってある。あるいは重い荷物の持ち運びを伴うなら、タクシーの方がいいことは時たまある。
この場合でも「電車の方がいい」と言い返す人間がいるわけである。「その重い荷物はどうするんだ」と言っても、「これくらい軽い」と言い張ったりするわけだ。
あくまで喩え話だから、電車とタクシーの比較論がしたいわけではない。たいていは電車の方が便利であるから、タクシーを頻繁に使うのは阿呆である。時たまタクシーの方が便利だというのがあり、そこが盲点になりがちだから喩えとして言ってるのだ。盲点を指摘されたときに「なるほど」と他人のアイデアを採用する柔軟性の問題である。

何でもかんでも言い返す病気に感染している人がおり、これはたいてい生涯通してまとわりつく痼疾である。
はるかぜババアは頭が悪すぎるので、言い返す内容に無理がありすぎるから欠点として顕著になるが、もう少し頭が回れば別の意味で厄介ということもある。

一言で言えば気性が激しい人間ということになるが、「言い返す」という行動が、マウント的に合理的であることもある。DQNであれば自分が阿呆なのを承知でクソみたいな言い返しをすることもあるだろうし、それでマウントが取れることもあるわけだ。猿知恵とはいえかなり強力である。人生で得をするための合理的行動とも言える。

こういう人が破滅するとしたら、やたらと反発する行動法則が、不合理な選択の累積となって跳ね返るからである。
無茶な言い返しをすること自体はマウント的に強いと言えるが、それを無茶な行動に繋げると、ツケが回ってくる。
だから無茶な言い返しはしても、現実に無茶はやらないというのが利口なのだろう。
そういう人物というと津田大介が思い浮かぶ。あの人間モドキは亀田一家のような言い返しをするのだが、その無茶な発言を行動に移すことはない。支離滅裂な言い返しで相手をマウントしつつも、その勢いで現実に無茶な暴走行為をして破滅するようなことはない。行動そのものは至って凡庸であり、危険人物と言われることもないわけだ。人間モドキが人間の女を何千人も抱いたり、われわれの通貨を溜め込んで遊蕩してみせるのだから、すごいといえばすごいのだろう。
海外ステマで大成功したドブ元が広島で凱旋公演を行うことになり、当日の朝から地元ではその話題で持ちきりであった。そのまったく同じ時刻、同じ広島で、その喧騒から離れたライブハウスでステージに上がろうとしている少女がいた。
鞘師里保である。
あらゆるものを失い、何も持たない彼女が、わざわざドブ元と同じ時刻にライブで対抗しようと考えたのである。
だが、ドブ元が所属するアミューズ社の妨害もあり、告知さえろくに出来ない有り様であった。
開演間際になっても観客席は無人であった。
遠くからメタラーの騒擾やパトカーのサイレンが聴こえてくるが、ここは至って無音であった。
ドブ元の会場には二万円の高額チケットを手にした観客が押し寄せているのに、鞘師里保のライブには誰も来ないのである。
人間は集団の中でこそ孤独を感じることがあるが、このライブハウスは空想でも悪夢でもなく、現実の空虚さそのものを体現する楼閣であった。決して山紫水明の森閑たる仙境ではなく、間違いなく俗世間に居合わせており、その重みを持った現実から疎外されているのである。遠くから聴こえる花火や爆竹のような音は幻聴ではあるまいし、実在する人間たちが耳障りな俗塵を撒き散らしており、そして鞘師里保にはまったく目を留めることなく通り過ぎていくのである。白骨として野ざらしにされ、蔑まれることすらなく、認識されない透明な骸として彷徨する、都市空間の孤独であった。
なんとか集めたバンドメンバーも、さすがにドブ元の権勢に打ちのめされていた。
鞘師里保に近づくのは躊躇われたが、バンドメンバーの一人が時計に目をやり、堪りかねて声を上げた。
「今日のライブは中止にしようよ」
しばらく静寂が訪れたが、鞘師里保は声を絞り出した。
「わたしは絶対にやりたい。やり遂げるためにわざわざこの日を選んだ」
「一人や二人しかいないようなライブならわたしだってやったこともあるよ。でも無観客はありえない。一人でもお客さんがいるならやるけど、誰もいないんじゃ中止しかないよ」
「でもまだ開演時間になってない。ひとりでも来てくれれば」
周りのメンバーは特に何も言わず、所在なさげに立ち尽くしていた。
リハを行う様子もなく、心ここにあらずという具合であり、開演時間になったらすぐに帰るという面持ちだった。
鞘師里保はドブ元と決着を付けるつもりで、わざわざこの日を選んだのだが、遠くの喧騒と、ここの無音の対比という現実を前にすると、さすがに心は折れていた。
「わたしはライブをやりたい。鞘師里保の存在証明としてこの時間にライブをやってみたいんだ」
「うんうん。一人でもお客さんがいるならやるけどね」
メンバーが投げやりに言いながら帰り支度を始めた頃、ライブハウスの支配人が現れた。
「どうやらお客さんが一人だけ来られたようです。みなさん中止にするみたいでしたが、どうします」
鞘師は決然として答えた。
「観客が一人でもいるならやる。おまえらもそう言っていたはずだ。あのインチキメタルと同じ時刻にこの鞘師里保が鞘師里保である所以を見せなければならない」
そして観客が会場に入ってきた。
「今日のライブは中止なのか。スケジュールをやりくりしてようやくたどり着いたのだが」
そうやって空っぽの空間を見回しているのは松岡茉優であった。
「まさか松岡茉優さんが来られるなんて……。無観客でライブをやるかどうか悩んでいたところでした。こうやって広島でメタルが盛り上がっている現実があり、それと隣り合わせの無人の空間で演じることに意義があるのか、そんなことを考えていました」
「正解はないが、楽譜は永遠でもライブはナマモノではないかな。誰も食べずに腐らせた料理が根源的に無価値というわけではないが」
「わたしも、ひとりでいいので聴いてほしいです。誰かに伝えたいです」
「ではこの松岡茉優が立ち会わせてもらおう。隣の馬鹿騒ぎのことは気にする必要もあるまい。ちはやふるで広瀬すずと共演したときのことがなぜか不思議と思い出される。鞘師里保の紅天女を見せてもらおうではないか」

その後、ドブ元のステマは限界に達し、一気にピークアウトした。
そして鞘師里保の時代が始まるのであった。
猟奇的な事件というものがある。
いじめはそれに当て嵌まらない。
加害者はだいたい社会的適応力が高いからである。
雑に言えばダーウィン的な自然淘汰である。
ダーウィンは突然変異からの進化という論を唱えているのだから、どんぐりの背比べの優劣を競い合う人間社会を論じたかったわけではないが、ここではその定義の厳密さに拘る必要はあるまい。

9人が殺されたとなると、異常心理として見做して、その加害者を糾弾するわけだが、9人の被害者の共通点として、「自殺したい」とネットで言っていたという続報を聴くと、「罪もない人を~」という普段の憤慨がトーンダウンしている可笑しさもある。
いつもの正義くんらしい激憤ではない。
ただの集団自殺のようなものか、臓器売買など闇社会のものか、そういう背景に好奇心を抱いているだけであり、殺害行為そのものへの怒りは薄い。
「津久井やまゆり園」の障がい者19名が殺害された事件とも通底する。
たいていは殺人事件が起きると、「もし俺の家族が殺されたら相手を必ず殺しに行く」と空想の仇討ちを誓う正義くんで溢れるが、なぜか「津久井やまゆり園」に対して正義くんは平然としており、こういう怒りの欠如こそが薄ら寒い。
つまり、正常人だと気取っている人間は自然淘汰原理の崇拝者なのだ。
もちろん、「敗者をわざわざ殺すのはよくない」という感想は持つだろうが、敗者は遺伝子を残さずに消えて然るべきと考えており、だからいじめてハブるくらいは平気であるし、自然淘汰原理自体は信奉しているのである。
命を絶ってトドメを刺すとなると異常者なのであろうし、いじめ抜いて排除しようというのが正常者ということにもなる。
だからいじめは軽犯罪ではなく凶悪犯罪だと主張するために、抗議の自殺をする被害者が出てきてしまう。

正常者と異常者の線引きは何ぞやというと、正常者はただの勝ち組思考なのだ。
だから、いじめという軽犯罪は日常的に行っているし、「津久井やまゆり園」の事件を聴いても、優生学的な観点から認めているわけである。
敗者の命を絶つことには賛成しないだろうが、そういう寸止めは優しさであるどころか、「殺人犯にまでなるつもりはない」といういじめ加害者の小利口な発想でもある。
つまり、殺人が最大の犯罪であるのは確かなのだが、「殺すまでもない」というカースト制度はまったく別の意味で凶悪である。
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