Archive
説明には二種類ある。根本的な説明と、訓戒めいた説教である。この世のたいていのことは根拠がないから根本的な説明がされることはなく、お説教しかない。たとえば体育会で先輩が偉い理由を根本的に説明されることはなかろうし、何かしら通俗的な、もしくは四書五経に親しんでなくても、その手の上下関係を礼賛する御高説をいただくのみである。「先輩への礼儀作法」を説教されることはあっても、そもそも先輩はなぜ偉いのかという根源的な説明はない。まずは世の中に馴染むのが正常人の特徴であるし、疑問を呈するのは障害者である。疑問を持たれては困るのである。正常人は現実をそのまま理解している。現実というのはあらかじめ決まっているわけではなく、たとえば一万円札のようなものである。なぜ一万円札に価値があるのか、という疑問は持っていない。つまり根源まで理解する必要はない。洗脳されて盲従しているのが正常人とも言えるが、実際は人間の裏側について察しがついているから、本当の頑迷な盲人ではないし、状況が変化すれば洗脳から脱する柔軟性も持ち合わせている。正常人は簡単に洗脳されるし簡単に脱することもできる。旗幟を鮮明にしたかと思えば、いともたやすく宗旨替えする。昨日まで学生運動をやっていて、今日からいきなりサラリーマンになるのが正常人である。骨の髄まで洗脳されているのではなく、プロパガンダを見切った上で仮装行列しているのである。冒頭に述べた体育会系の先輩後輩もさすがにPL学園みたいなのはもうない。体罰についても然りである。数十年前まで体罰を平気でやっていたのに、いきなり「もうそういう時代ではない」とやめることができるのが正常人である。先輩がどれだけ偉いか、教師がどれだけ偉いかという空々しい説教は立ち消えとなったわけだ。未だに体罰をやる教師の異常性については論を俟たないが、簡単に切り替えることが出来た正常人もなかなか謎である。数十年前の御高説は紙切れとなったのであろうし、年齢を重ねるごとに人間性が成長するという物語も消え去ったのだが、その適応力の素早さたるや、これはこれで恐懼の念に堪えない。当然ながら世代が入れ替わっているので、同一人物として存在しつつ、洗脳されて洗脳から脱する繰り返しという見方は正確ではないし、右顧左眄して転向を延々と繰り返したくても寿命が足りない。とはいえ、時代に合わせるというか、たとえばベテラン教師が体罰を控えるようになったくらいは普通にあるだろう。同一人物でも社会に合わせて頭の中を書き換えているのである。世の中が変わったから体罰をやめるという正常さを見ると、適応力こそが肝心であり、体罰そのものが異常とは言えまい。時代という無生物を擬人化して語るのも変であるが、われわれは時間的存在であり、コールドスリープでスキップできないのが大原則なので、その場その場で命を人質に取られ、差し迫った状況において雨露を凌ぐために、時代に命じられた囚徒となるのである。こうなるとまるで主体的な責任能力を無効にするために論を進めているかのようだが、なぜこの地球上で人間が繁殖しているのかさっぱりわからないので、どの次元で勘定を付けるか、つまり、一万円札のやり取りは人間と人間の間の価値概念でしかないが、そのたぐいの取り決めを真理として擬制するという話である。法律は遡及しないという大原則の問題もあり、凶悪犯罪者に時効はないと正義君が御高説を弁じ立てるとしても、そこらの有象無象の小市民が旧悪を「昔の話」と曖昧にしてお茶を濁すのは差し支えないらしい。
わざわざ文化資本と銘打つからには、貧富とはまた別の親自身の出来の良し悪しが問題なのであろう。
出来損ないの多くは貧乏であるから、貧困と切り離して出来損ないを語るのも難しいが、ここではあえて別の角度から検討することにする。

人間は理想と現実の二重性を生きている。
社会的に成功していると二重性は少ないが、失敗している人ほど「本当は~になるはずだった」というのが多くなる。
ロースペックでも平々凡々として生きている人がいるのも確かだが、足りない部分を空想で埋めて人格障害に堕ちる人間も少なくない。

出来損ないだと人格障害の度合いは強くなる。
たとえば虚言癖のある人が医者になったとして、「わたしは医者です」と言っても詐称にはならない。
だが、その人が医者になれてなかったら「わたしは医者です」というのが詐称になる。
成功している人が聖人君子というわけではないが、嘘をつく必要が少ない。
嘘つきの素質があっても、本当に医者なら医者だと詐称することはできない。
やはり出来損ないだと出鱈目に出鱈目を重ねて欺瞞だらけになる。

親の二重性というのは子どもが引き受けなくてはならない。
外ではたいしたことがなくても、家の中では偉大な人物である。
たとえば有村悠さんの子どもに生まれたとしたら、自称東大卒の父親を勝たせるために、あのご高説を賜りながら負けてあげないといけない。
われわれは遠くから有村悠さんの言動を見ているので、まったく真に受けてないが、子どもということであれば、真に受けた上で、暴力的にマウントされるわけである。

つまるところ、親というのは距離感が非常に近いので、災害を遠くから眺めるような接し方はできない。
文化資本の多寡ではなく、つまり多い少ないではなく、むしろ文化資本の少ない人間は膨大な虚栄心や出鱈目の固まりなのである。
知識不足ではなく、バイバインのように膨らむ出鱈目の製造機なのだ。
ソクラテスが言う無知の知のように自覚がある馬鹿なら賢者だが、人格障害系の出来損ないにそれはない。
教える能力がないというよりは、むしろ出来もしないのに教えようとするのが出来損ないの特色であり、やはり文化資本が少ないのではなく、空想的な虚栄心に満ちた出鱈目を大量に生産するのだし、これが偉大な親としてマウントしてくるとなると、子どもが人格障害になるのは避けられない。
われわれは動機を述べることが多々ある。 だが、その動機とは、要するに面接官の前での回答である。 たいていは理由は言わないのである。 そもそも「本当の理由」というのは、自分自身のことでさえ判然としない。状況に狭められながら隘路を歩んでいるだけだから、 内発的な理由があって行動しているとは限らない。雨が降って傘をさすとして、そこに内面的な動機を求めるのも変な話である。戦場で軍人が何らかの判断をするとして、そこに状況的な合理性はあれど、なぜ戦争をやって軍人として敵を殺害しているのかはミステリー、もしくは重力のように人間を縛めている現実そのものなのである。現実と無関係の自閉空間から内面的動機が出てきて行動することもあるが、たとえばサッカーが出来ないのにバロンドールを夢見てブラジルに渡るとか、ただの空想家として終わるのであるし、やはり現実に実を結ぶためには、状況の必然性が熟してきてこそ、動機が膨れ上がるべきなのである。

水樹奈々の作曲家が自身の最高傑作である「熱色スターマイン」を、 水樹奈々ではなくRoseliaに提供したのは、 そうする必要があったわけでもないし、水樹奈々に歌わせれば無難に紅白に復帰してそれなりの結果を収めていたのであろうが、BABYMETALがバンド路線に変更して滑っていた状況を見て、お手本を示してやろうという動機が膨れ上がったのである。

その後のBABYMETALの周章狼狽ぶりは著しく、12月2日と3日の中元すず香広島凱旋公演は水野由結ちゃんが欠席したし、神バンドのギタリストの転落死もあった。

ローリング・ストーンズは当初は自作曲を歌うことを想定してなかったので、ブライアン・ジョーンズがリーダーだったが、ビートルズの影響で自作曲をやるようになってからは作曲の才能があるキース・リチャーズが中心となった。ブライアン・ジョーンズはローリング・ストーンズを脱退してから一ヶ月後に酒やドラッグ漬けの状態で、自宅のプールで溺死したが、そういうこともある。

スマッシング・パンプキンズだってニルヴァーナの台頭で自殺を考えたと言うし、ジミ・ヘンドリックスが出てきたときはクラプトンやベックも廃業を考えた。HIDEやTAIJIの自殺は文脈が違うが、村役場で書類仕事をしているわけではないので、熱狂の渦に魅入られた人間ならではのメンタリティがある。

水野由結ちゃんにしても、いわばブライアン・ジョーンズのように居場所がなくなったから脱退の可能性が出ているわけで、現在の不遇が憂慮されるが、とはいえ、あくまでメタルバンドに不要というだけである。BABYMETALのステージで居場所がなくてもグッズを売るためのアイコンとして必要であり、やめるなら芸能界を引退しろと迫られているのであろうし、かと言って、中元すず香さんの裏側でひっそりとダンスするだけという条件だとアミューズの有望株はすべて拒否していると思われるので、代役探しもかなり難航しているはずであり、BABYMETALの動きがすべて止まっているのである。

南條愛乃さんはなぜか可憐Girl'sのパロディのユニットを作ってover the futureを歌うらしい。確定的なのだが、はっきりと言わないのは、つまり、中元すず香さんの黒歴史の掘り起こしであるし、コラボするわけでもないから曖昧にしてある。これが行われるのはNBCユニバーサルのフェスであり、パイオニアやジェネオンの流れを汲む会社であるから、可憐Girl'sはジェネオンなので、たまたま候補になりやすかった。たとえば華原朋美の代表曲の殆どはNBCなのだが、小室哲哉の件である意味タイムリーとは言えど、演者の顔ぶれと客層からして、まったく場に合わないし、やはり可憐Girl'sがよかったのだろう。この可憐Girl'sのパロディの発端はALTIMAの黒崎真音の思いつきで、南條愛乃さんに神戸牛を奢って承諾させたことになっているが、一年前ならこのような企画は絶対に引き受けていない。

やはりBABYMETALが可憐Girl'sをやめたので、代わりにそれをやる人が出てきたのである。絶対可憐な人と言えば南條愛乃さんがまさしく適役であるし、これより上は水野由結ちゃんしかいない。水野由結ちゃんは中元すず香というゴーレムに捕まっている状態なので、可憐Girl's的なものをやる機会を奪われている。BABYMETALが可憐Girl'sをやっているなら、いくら南條愛乃さんといえども水野由結ちゃんには太刀打ちできないので、間違っても引き受けてなかったはずだが、中元すず香さんが可憐Girl'sを黒歴史として根絶やしにしたからには、やはりこれをできそうなのは南條愛乃さんしか思い当たらないし、機が熟したのである。ともかくBABYMETALがメタルバンドに変更されて水野由結ちゃんが完全な脇役に回ったので、あれこれポジションが変動しているのである。ポジションが空いたり埋まったりすることで戦略的拠点が変わるのであるし、軍事境界線は塗り替えられる。
そろそろ水野由結ちゃんの動向について発表があるのではないかと固唾を呑んで見守っている状態なのだが、なんか能年玲奈がエレキギターを弾けるという設定になったらしい。
というより、この設定自体は昔からあるそうで、わたしは今まで知らなかった。
水野由結ちゃんは能年玲奈から強い影響を受けているので、これを真に受けると、今からメタルサウンドに馴染むという間違った方向に行きかねないが、短い映像を見た限り、能年玲奈の握りはアコースティックなので、エレキギターはたいして弾けないと思われる。

YouTubeでプロのギタリストの映像を見てもらえば明らかだが、ほとんどの人は、エレキギターでは左手の親指で6弦を触る癖が付いている。
そういう癖をつけないとチョーキングが出来ないからである。
6弦をミュートしたいなら右手の腹でブリッジ近辺を触ればいいだけだから、左手の親指でミュートする必要はあまりないのだが、それでも癖として親指で6弦に触ったほうがいいのである。
能年玲奈はネックの後ろあたりに親指がある感じであるから、これでエレキギターは弾けない、というかコードしか弾けないレベルである。
わたしは能年玲奈がエレキギターでカッティングしている映像を見ただけなのだが、これなら右手の腹でミュートすれば充分なので、それで済ませているのであろう。
だが、プロのギタリストなら、必要がないときこそ左手の親指で6弦ミュートしてるので、やはり能年玲奈はアコースティクな演奏しか出来ないはず。

だいたいエレキギターは上下で挟む感じで練習した方がいいのである。
もちろん実際は、親指で上から押さえ込む必要はないし、そもそもそうやって親指に力を入れると指の可動域が狭くなって5弦が引きづらいはずである。
それなりに上達すれば、親指で6弦に軽く触っているだけ、もしくは触らずともそういうグリップをしているはずだが、上手い人はこのあたり臨機応変にやっているから、なかなか気づかなかったりする。
だが、練習に関しては、親指で6弦をミュートし続けて上から押さえる具合にした方がいいし、親指の使い方が上達すれば、ごく自然に力を抜いて、理想的なロックグリップに移行することも簡単である。

冒頭に述べたように、水野由結ちゃんの動向が気になるところだが、能年玲奈はエレキギターは弾けないので、惑わされないで欲しいものである。
たとえばわたしの身体から1メートル離れた場所は「同じ場所」であろうかというと、なかなか難しい問題である。一ミリでも離れれば違う場所ということも可能であり、これは屁理屈ではないからである。1メートルの距離で他人と接して話すとなると同じ場所という気がするが、わたしがマンションの部屋の壁際にいて、たまたま隣室の住人も壁際にいたとして、その距離が数十センチだとしても、これを同じ場所とは言えない。カラオケBOXで隣の部屋を「同じ空間」とは言うまい。縁もゆかりもないからである。つまり、縁とゆかりがあるかどうかなのである。カラオケBOXで同じ部屋にいるのはまさしく縁とゆかりがあるのだろうし、逆に満員電車で乗り合わせた人とは縁もゆかりもない。これはテリトリーの問題でもあるし、五感の補足範囲の話でもある。五感の範囲の狭さについては贅言を要しないだろうから省くが、われわれは世界を「縁」という遠近法で見ていて、あくまで縁の近さ、あるいは縁遠さによって理解している。このようにして縁による遠近法がなければ、一ミリ先も一億光年も同じことである。三次元空間として距離が近いとか遠いとか、人間的な都合である。駅から近くて便利だとか、人間の物差しである。原発事故の現場から遠いから安全とか、これも人間的な遠近法である。物質にとって安全も危険もない。われわれは肉体という拷問器具に神経を蝕まれつつも、出来るだけ無病息災で快適な生活を願い、毒と薬を区別して、どうせ死ぬとはいえ、生き延びようとしている。さて、おそらく関心の共有についても述べなければ、「場」の話としては不十分であろうから、それについても語っておこう。人間は多細胞生物であり、われわれの自意識の単一性も疑わしいのだが、とはいえ、ひとまず固有の主体性があるのも確かである。カラオケBOXに五人いるなら、その五人が、それぞれ主体性を持ちつつも時間と空間を共有している。普段から仲好しかどうかは知らないし、お付き合いで嫌々ながら同席という人もいるだろうが、嫌々ながら授業を受けるのと同じで、それもひとつの共同体なのである。何らかの対象に関心のベクトルを向けて、それを確認し合うのである。意気投合していようが嫌々だろうが同じである。どんな家族でも家族は家族であり、家族の動向に無関心でいるわけにはいかない。あるいはゴフマンの儀礼的無関心についてはご存じの方が多いと思うが、近くにいても関心を共有する必然性がなければ無関心でいる、ということもある。嫌々ながら集まりに参加しなければならないルールもあれば、知らない人をじろじろ見てはいけないルールもある。空間的な距離として、親しい人とは近くにいることが多いが、まったく親しくない人と近くにいることもある。空間の距離と関係の距離の不一致ということだが、この場合には心理的な距離感を優先させて遠近法を調整するわけである。これは個人の好悪の判断だけではない。仲の悪い家族と同居するような強制的関係は社会的義務であり、社会的な遠近法として間近に差し向かっているのである。
二十世紀的な神経症の典型事例として対人恐怖症というものがあった。日本人に顕著だという指摘も多々あったが、文化的差異については筆を省く。総じて言うなら人類はオカルトを信じて生きてきたのであり、神経症はまさにそのメンタリティなのだが、ノストラダムスはいなくなったし、UFOやネッシーや雪男が見えてしまう霊感もわれわれは失った。対人恐怖症というのは、おそらく呪詛という迷信が根底にあり、他人の心の中で悪口を言われることへのイミフな怖れ、もしくは心の中で相手を罵ることで復讐したことになる、というオカルト的な発想である。他人に平身低頭しつつ心の中で罵倒したとして有効打になるはずがないのだが、昔の人はそういう精神世界を信じていたのであろう。今日のわれわれはこういう迷信から脱却したであろうし、丑三つ時に藁人形を五寸釘で刺すこともない。われわれは外面世界に実存しているのであるから、他人の内面世界での寓され方を気に病んでも意味がない。神経症の代表的な事例である洗浄強迫も宗教めいてるし、ガスの元栓を何度も確認するのも「不吉」な予感を鎮める祈りの儀式なのである。祈ったり呪ったりする力をかつての人類は信じていたのだが、最近のわれわれは信じなくなっているし、これは科学の進歩の結果だから、不可逆的だと思われる。蛇足を厭わずにオカルト以外の問題を考えてみるが、対人恐怖症は劣等感と大いに関係がある。このところわれわれはプライドの固まりという在り方を疎んじている。神経症的な厳格さを放棄しており、自分という存在が理想に達してない出来損ないであるのをあっさり認めるから、劣等性なるものを人間最後の秘密のごとく、まがまがしい腫れ物として篋底に秘することはない。何が何でも規則を厳格に守る頑固さも疎まれるようになったし、不動の義務感ではなく、状況を見て柔軟に対応することが求められる。人生が不幸であれども、神経症的な理想を果たせなかったことは意に介してない。とりあえず現状において、われわれはコミュ力で何でもかんでも説明することに馴染んでおり、対人関係に難があるとしても、これを対人恐怖症にはせずに、性能不足のコミュ障だから仕方ないと考えている。他人が怖いのではなく、ただ単に自分が故障しているだけである。コミュ力礼賛は時代相の偏りと思えるが、どちらにせよわれわれが迷信家に逆戻りすることはない。
http://twipla.jp/events/76947
ayanastorker.png



あの横山英彦というのはネットでは本名で活動していたそうだ。
2014年に竹達彩奈にフラワースタンドを送ろうと呼びかけて、その有志代表になっている。
「ファンクラブの元リーダー」という謎設定もこのあたりが原因だと思われる。


興味深いのは、12月まで竹達彩奈の5ちゃんねるのスレッドがチンコやウンコのアスキーアート、もしくは、以前流出した彼氏とのプリクラ画像で荒らされていたのに、この人物が逮捕されてからまったく荒らしがいなくなったことである。

https://itest.5ch.net/matsuri/test/read.cgi/voiceactor/1513322950
http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/voiceactor/1513322950

フラワースタンドを送る有志代表になったり、荒らし活動をしたり、報道によれば7000通のメールを送ったとされるが、竹達彩奈のブログによれば「この数年間、怖い日々を過ごしていました。メールだけなら何万、何十万という数だと思います。他にも報道はされてないですが怖かったこともいろいろありました」ということである。

竹達彩奈は取材も受けているが、小金井ストーカー、つまり、岩崎友宏が冨田真由さんを滅多刺しにした事件を引き合いに出している。

「小金井の事件もあって、いつ自分がそうなるかわからない、今は自分に危害は何もないけど、いつどこでそうなるかっていうのは、わからなかったし」

岩崎友宏は、冨田真由さんに数万円の腕時計を贈って、それを返せと要求していたわけである。冨田真由さんは元はホリプロ系列であるが、この当時は零細事務所にいたので、事務所に返却を依頼したものの、放置されていたようだ。腕時計の返却が遅れたのも犯行動機の一つだと岩崎友宏は言っているが、これは口から出まかせであろう。理由はいくらでも出てくる。「すべてを返せ!」という謎の要求もしていたし、どうやっても逆恨みは消えない。

人間は地球上のすべてを体験しているわけではなく、関心によってカスタマイズされた個々人の世界を生きている。何らかの対象に強い関心を持って世界構築するのは人間存在の基本であり、たとえばオートバイは誰でも知っているが、たぶん興味を持ってない人が大半であり、その一方で普段からオートバイのことばかり考えて生きている人もいるわけだ。こういうのも類型化されてしまうのだろうが、関心のリソースをオートバイに割くか割かないかは、個性と言えば個性である。

そして人間ということでも、われわれは72億人と共同存在しているというよりは、特定の人間に関心を持ちながら共同存在している。たいていは家族や友人や知人であるが、このような実態的な社会構成では縁もゆかりもない著名人のファンとなることもある。実生活で関わりのない雲の上の人間と、いわば関係妄想を作っているのである。そもそも家族や友人でも、コミュニケーションは非言語的なものがかなり多いし、仔細まですべてを説明してない。同居している家族でさえ、一日に顔を合わせて話すのはせいぜい一時間であろうし、ではそれ以外の23時間は家族ではないのかというと違うであろうし、つまり接したときだけ関係が発生するわけではない。会ってない23時間においても、想像的に家族を存在させながら関係は継続しているのである。この関係の持続を可能にしているのは、眼前に相手がいなくてもイメージとして存在しうるからだが、このイメージ性については、家族も著名人も同じである。誰が何を言うかは、家族だろうが著名人だろうが、だいたいいつもの口癖というか、想像の通りである。直に接している家族や友人の方が情報は多いし、真相を知る機会も多いだろうが、想像が的中している必要がないのであれば、友人でも著名人でも、なんとなく接し方は似ているのである。著名人のファンとなるとしても、だいたいの人は括弧つきの関係妄想なのだが、岩崎友宏は一線を越えてしまったのであるし、横山英彦はネットで荒らしているだけならギリギリでセーフだったのかもしれないが、事務所に向けて大量のメールも送っていたので逮捕に至ったのであろう。竹達彩奈を実生活に取り込むための活動とも言えるし、少なくとも数年間悩ませたのであれば、無法者が居座るという形であれど、相手の関心を大きく占めることが出来たとも言える。フラワースタンドや腕時計を送りつけた上で荒らすというのも困った話だが、どうやら好きな相手に嫌がらせをするのはずいぶん楽しいらしく、さすがに岩崎友宏のように現実の攻撃に至る人間は稀であるにせよ、この手の人間が荒らしている時の軽躁的で愉快な様子からして、荒らしを取りやめることはない。
目上の人というのが厄介なのは、たとえば先輩だから優れているわけではないということだ。つまり、上下関係とはスペックの序列ではない。性能が高いから偉いと言うわけではないが、出来損ないが空威張りするのは尚更不可解である。
毒親うんたらの話も、社会的な文脈としては過去というか、フロイト心理学の名残りであろうし、昨今は親の性能がシビアに見られるようにもなっている。毒親という言葉は死語ではないが、フロイト全盛期なら愛情の純粋性(親のエゴ)が問われていたはずで、今は親が出来損ないという問題を問う方向に変化している。

サンプルをたくさん取って均らせば遺伝は比例的であるはずだが、実際は同じ両親から生まれた兄弟姉妹でも性能にはバラツキがある。亀田一家のようにそっくりさんの集まりなら葛藤は少なそうだが、そうでないとすると、親の出来の悪さが耐え難いこともあるだろう。愛情の話ではなく、亀田史郎の出来の悪さ自体が耐え難いということもある。
とはいえ、社会性のある利発な子どもであれば、そういう親でもうまくおだててコントロールするかもしれないし、真正面から激突するばかりではあるまい。

結局のところ目上の人が出来損ないという難儀さを解決できないのは、相手の自己愛を守ってあげる余裕がないのである。
お世辞など要するに偽札なのでいくらでも輪転機を回せる。自らの財布が傷むわけではあるまいから、出し惜しみする必要はない、というのが実利的な処世訓であろう。
そのような利口さを持ってないのは、ひとつの有徳性でもあるのだが、ともかくお世辞を大量発行する手段があるわけだ。偽札で他人の心を買う悪趣味として愉しむのも可能ではあるだろう。
親が長男長女にロックオンしていると、放任されてる次男次女がお世辞を言う立ち位置になりがちだし、密着度が高いとお世辞を言いづらいという現実もあるのだが、ともかく偽札なのだから惜しむことはないのである。
経歴詐称とはまた別に、アリバイとして肩書を求める心理がある。
アリバイの訳語は現場不在証明だし、やってないことの証明なのかもしれないが、サッカー部に一週間いただけでサッカー少年だったかのように語るような人を揶揄して、アリバイと言ったりするわけだ。

たとえば有村悠さんなどは艦これ同人誌でようやく実態としての同人活動が出てきたといえる。
さすがに艦これもブームが去っているから収入は下がっているだろうが、オタクという自己設定のために落書きの同人誌を出していた時代とは違う。
以前に比べれば画力も向上し、絵柄は古いが、かなり細かく描きこんでいるので、1970年代くらいにプロが描いた作品と言われればそうかなと思うレベルである。半世紀前の水準といえばそれまでだが、ずいぶん本気で執筆している様子が伺える。
こうなるまでは、ちょっと囓ってアリバイを作り、それで生きてきたわけである。
フリーライターをやっていたのは事実だが、仕事量は少ない。
東大に入ったのは事実だが、ずっと不登校であった。
イラストが商業誌に採用されたことがあるのも事実だが、その一度だけで終わり。
つまり真っ赤な嘘とは言い難いが、自己設定のためのアリバイだけ作って、 いかにも本格的にやったかのように見せるわけである。

肩書を作るのが人生とも言えるから「肩書にこだわるのはよくない」という綺麗事は無益だ。
医者になる人は肩書が欲しいから医者になるのである。
あまり俗的な本音を言うのも差し障りがあるから、とりあえずタテマエ的に美しい志望動機を求めることも必要だが、結局のところ、動機は上っ面でいいが、たとえば国公立の医学部に合格するならそれだけの勉強が必要だし、努力は本物でなければならない。
これが真逆だったのがかつての有村悠さんであり、いわゆるワナビー問題と言える。
まずは肩書に憧れていて、その幼稚な憧れを、何かしら純粋で美しい動機と錯覚し、庵野秀明の後継者と自己陶酔していたわけだが、実際の努力が上っ面なのである。
先程も述べたように有村悠さんは艦これに出会ったことで、 エロ同人とはいえ、創作そのものを目的にできるようになったのであるし、 予後がよい部類と言えるであろう。
感覚一元論を挫折させるものは、やはり肉体の健康問題である。人間の五感だと赤外線は見えないし、磁力も検出できないし、それがどうしたとも言えるが、知らず知らずに放射能を被爆しているとなると、これは健康問題として深刻である。キューリー夫人でさえ放射能の健康被害に気づかずに命を縮めたのだし、このような問題を総括すると、やはり肉体を物質世界の人質に取られているので、全てが夢の中の出来事のように、目が覚めれば解決というわけではない。徴兵されて傷痍軍人として片輪になるとして、それが夢の出来事であるのと現実では全く違う。この現実という悪夢が醒めたら天国にいるという夢想は破棄しておくと、やはり現実に片輪になり取り返しがつかないとすれば、肉体が物質世界のものであるのは確かであり、感覚はその奴隷である。

物自体は脳のスイッチを押すための鍵というか、脳を活性化させるための触媒というか、なんにせよ、たまたまそういう鍵の形という程度のものであり、キーホルダーの束を見て、それぞれの形が違うとしても、「玄関の鍵はこの形でなければならない」という究極の理由はないが、われわれが鍵を変更出来ないことに留意する必要はある。所詮は記号であるとしても、鍵がなければどうにもならないのが実状である。

精神世界はあまりにも当たり前で自明性があるのだが、実のところ、なぜ心や意識があるのかさっぱりわからないわけだ。神様が作ったという宗教的な説明で腑に落ちてしまうのも人間だが、自意識の自明性こそ訝しむべきであろう。脳細胞から意識が生まれるなら、カラダのあちこちの細胞に自意識があってもいいだろうし、脳細胞の特権性への疑義も述べねばならない。われわれは意志によって肉体を動かせるのを主体性の条件と考えがちだが、動かす肉体がない自意識があってもいいだろう。肉体が健康でないと生活が不便であるとか、肉体を維持しないと死んでしまうというのは人間的な事情である。
最近の記事
月別アーカイブ
カテゴリー
リンク
スポンサードリンク
RSSフィード
プロフィール

ukdata

Author:ukdata
FC2ブログへようこそ!

katja1945uk-jpâ– yahoo.co.jp http://twitter.com/ukrss
あわせて読みたい
あわせて読みたいブログパーツ
アクセスランキング