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ハンセン病の家族への補償について、申請している人が1割くらいだそうだ。ハンセン病は現在では特効薬があるのでややこしいが、そうではない時代に家族がこの病気になったら、「隔離してほしい」のが本音のはずである。われわれは赤の他人と社会を構成しており、そもそも地球人類のほとんど全員と面識がない状態だが、ここで何かしら共感の土台を探すと家族くらいしかなく、人権問題はその家族愛、家族からの仇討ちという文脈で支えられている。誰かを差別すると、その家族が仇討ちに来るという畏怖なのである。ほとんどの人と会ったことがないのだから、そういうことになるのだろう。そして家族愛というフィクションでいろんなことが語られて、たとえば性犯罪のニュースがあると、「自分には娘がいる」と前置きした上で仇討ちの憤りを示す輩がたくさん出てくるのだが、娘ができる前は女を強姦していたのかもしれないし、ずいぶん嫌な話である。娘がいなければ性犯罪を許せるというのも釈然としないわけだ。個人の人権なのか、家族愛に基づく人権なのか、これはその時その時でご都合主義でもあるのだが、ハンセン病となると(ハンセン病が治らない時代であると)やはり家族としては関わりたくないのが当然であろうし、家族愛というフィクションがここではかなり崩壊してしまう。われわれは普段から家族とは仲が良いとは限らないが、外敵から攻められたら一致団結するので、これを家族愛と擦り替えている。ハンセン病だとこのロジックが働かない。純真無垢な家族愛の持ち主もいるのであろうし、家族を隔離して欲しくなかったという人もいるのだろうが、今は治る病気であるから、後出しの家族愛であることも多々あるだろう。ともかく他者というのはほとんど全員が空想上の生き物なので、われわれは風聞だけで世界を把握しており、ここも厄介である。そして被害者の家族が復讐の刃を向けてくることを恐れているのだが、たとえば日本人からすると、ユダヤ人問題や黒人問題はいつからわれわれが加害者になったのかよくわからないこともある。また、そもそも家族というよりは、その子孫ということも差別問題では多々ある。報復の正当性という観点からすると、ユダヤ人問題や黒人問題について、日本人はそもそも仇討ちをされる筋合いがないことになろうし、なにかしら、このあたり過去の因縁というのもややこしいものである。リアルタイムで地球上にいてもほとんどの人と面識がないのに、過去まで遡るとさらにざっくりとした世界観になるのかもしれない。
電話とは三十秒以内に相手に応答を迫るものであり、これこそ改善しなければならないはずだが、その改善策として思いつくのは、相手から折り返してもらうのを基本とすることである。だが、これについてよくよく考えると、相手に電話料金が発生するわけである。ここが気になるかどうか、である。固定の黒電話しかないような昭和時代であれば、定額制などなかったので、こちらから電話を掛けるルールになっていた。今だと、あまり電話料金は気にしていないように思うので、相手側に「電話してください」とお願いするのは問題ないはず。電話で呼び出すという、横柄とも思われる手段が社会に定着しているのは、電話代を節約したい(相手の電話代を節約するのが礼儀)という過去の吝嗇の名残りだと思うし、ここについては意識化して見直す必要がある。また、メールで代替え出来ない理由として、メールだと相手の反応を見ながら話すことが出来ないので、文面を考えるのがかなり億劫という問題がある。メールでの意思疎通は一方的なものになりやすい。ここについては、そういう欠陥を認めた上で、それでもメールを積極的に使うしかなく、あるいは、メールが駄目ならチャットを普及させるとか、工夫が必要である。電話料金を払うのが当然ならメール料金やチャット料金を払ってもよさそうである。電話代という固定費だけはなぜ高止まりしているのか、そもそも電話を廃止したらどうか、という問題でもあろう。
このところいろんな人々の自尊心が低下していると思われるが、やはりこの強いられた閑暇によって経済的な赤字が積み増しされており、あるいは通勤している人でも、実は仕事がないのに会社に行っているのかもしれないし、駅前が雑踏で埋め尽くされていても、あまり店舗に人は入っていなかったりする。マスクをして通勤通学するのが精一杯であり、本物の経済活動ではない。スーパーやドラッグストアだけは相変わらずの行列である。経済苦が差し迫っているのであれば、まずはスーパーのレジ打ちをやることを考えるべきだし、またそれとは別の精神的問題として、借金苦という状態から遠くても、赤字が増大し預金残高が減っていくのは不安、ということはあろう。つまり経済問題と、精神的な自信喪失のふたつの課題が世界を覆い尽くしているのである。これについては解決方法はあるまいし、せいぜいこれを自覚するしかないのである。木村花さんが誹謗中傷で自殺したというのは虚偽であるし、実際には活動自粛で自尊心が低下したからである。前日の小池都知事の会見のせいで永遠に活動が出来ないと思いこんだからである。たぶんこれを自覚しないと、同じような悲劇は訪れるであろう。この世界的な暗雲において、自尊心が低下しても、活動停止の間に腕前を上げておくことはできるであろうし、切実な借金苦であれば話は別となるが、目先のことだけを考えるのもよくないことである。現在においてメンタルがよくないのは当然であるが、ではそれによって腕前が下がるかと言うと、そこは人それぞれであろう。自尊心の低下については解決不能であるが、いつまでもコロナウィルスがあるわけではないので、自尊心回復のためのデモ活動や訴訟提起に頭がいってしまうのは、あまり得策ではないように思う。デモをやっている暇があるなら少しでも勉強したりなにかの腕前を上げたほうがいいと思うが、短絡的な人が多いのも確かである。傷を掻き毟っても治らないので愚行はやめたほうがいい。
怒ってみせるのが義務となっている。黒人犯罪者が白人警察官に殺されたら怒ってみせなければまずい。あの愚かしいデモを揶揄するのは社会的な死につながる。ドナルド・トランプも大統領選挙で落選するリスクが増してきた。また、遥かに些末な案件だが、お笑い芸人が不倫をしたというのも怒らないといけない感じがある。怒らなければ容認したことになるらしい。この「怒ってみせる」という芝居がめんどうであるから怠けたいのだが、怠けると容認したことになるらしい。無関心は容認と同じというのはひとつの側面であろうし、大衆的関心が惹起されてこそ世の中は変わるのだが、そのために怒りの拳を挙げるのが面倒というのも確かである。このところコロナウィルスでいろんな人が自信を喪失しており、それによって尊厳に飢餓感があるのか、ストレスの捌け口を求めたり、逆にストレス発散が嫌になったり、第一波が一段落しただけに、これからの長い道のりを憂い、不定愁訴が蔓延し、暗澹たる端境期の真っ只中にいるのである。日常に忙殺されていれば、世の中の課題については無関心にならざるを得ないが、何しろ暇を持て余しているので、自己存在だけが虚しく肥大するのである。どうせならこれを機会に怒りを爆発させて安倍晋三を退場させておけばいいのだが、われわれは安倍晋三に何ら劣等感を持っていないので、自信を失った大衆が怨嗟を向ける敵としては物足りない。電通もあと十年もすれば倒産するであろうし、怒るにはやや手遅れ感がある。小池百合子はまだ敵になりうるが、経歴詐称疑惑がカイロ大学によって否定されたので、なかなか難しい。本当の敵は高齢者なのかもしれないが、これについても、親孝行な大衆がずいぶんいるようだし、死に損ないは暇なので選挙には必ず行くから、トランプのような世界史的人物でなければ高齢者を見捨てたりはしない。あと一年くらいは死に体のような人生が続きそうであるし、自転車操業として生きている人間にとっては息が詰まる状態である。これからも存在不安に取り憑かれた群衆が目を爛々と光らせて戦端を開くであろう。さすがに日本では欧米のようなデモはなさそうだが、不安に駆られた個々人が自信回復のために何かをやらかすことは続く。
差別は過失のほうが悪い。なぜかそうなのである。差別が堂々と実行されているなら、それは差別ではなく社会のルールなのかもしれないし、差別が弱まってくると、逆に「差別するな」という圧力が強くなるのも確かである。だから差別を実行した方がいいという話ではないが、ともかく、差別が弱まってくると、むしろ過失のほうが咎められるのである。過失で差別発言をするくらいなら、故意にやったほうがまだいいのである。それと併せて、われわれは口が滑る人間をとても憎んでいる。口が滑ると、周囲も巻き込まれるのである。管理責任を怠ったとか、そんな話になる。故意ならそれは故意なので本人の単独犯行だが、なぜか不思議なことに過失となると周囲も罪に連座しなければならない。口が滑る人間は半人前であり、だから周囲が教育しなければならないのか、あまりよくわからないが、ともかく周囲が右往左往することになる。タレントの口が滑ったら番組が終了するような具合である。では麻生太郎は半人前なのかといえば、おそらく半人前なのであろう。口が滑る人間は半人前だというしかないのである。口が滑る人間は、だいたい自分を面白い人間だと勘違いしており、これは一人前の大人だとは言い難い。ではテレビに出演しているタレントは一人前の立派な人間なのかというと難しいが、差別についての教育をした上で出演させるのであろうし、たとえ莫迦であってもそこについては絶対に口を滑らせないように教えこんでいるわけだ。何にせよ、それだけ箝口令というか綺麗事は徹底しているのである。そういう息苦しい世界に現れたのがドナルド・トランプである。
そもそもトランプが大統領になった背景として、逆差別政策への反感がある。であるから、今回の騒動について、トランプがゼロ回答なのは当たり前なのである。ここでトランプが日和らないのは極めて徳操の高い態度である。日和って黒人に媚びたらそれこそ人倫に悖る行為である。総花的にあちこちにいい顔をするのは簡単だが、しないのは当然である。黒人犯罪者が白人警察官に圧殺されるのは痛ましい事件であるが、これを解決するのは黒人である、というのがトランプ主義である。この黒人犯罪者を無辜の民と捉えるのが昨今の熱狂であるが、トランプはただの犯罪者としてしか見ていない。今回の大規模なデモが原因でトランプが大統領選で敗北するとしても、それはそれで致し方ないのである。コロナ禍においてこのようなデモが発生するのも、やはり貧困層で死者が多いことと関係があるであろうし、デモによるコロナの感染も危惧されるが、コロナが蔓延しているからこそ、デモをするのである。雨露を凌ぐ場所がなければ沛然とした豪雨の渦中にも飛び出すのである。そもそも人種で差別されるということであれば、日本人が最も差別されていると言って差し支えあるまいし、それによって日本人が怒らないのは、本当は白人になりたかったとかまったく思ってないからであるし、別の人種になりたいと希望してないからである。では、黒人は白人になりたいのかというとデリケートな問題であるが、黒人と黒人の間でも、肌があまり黒くないほうが美しいという感覚はあるそうで、あのメーガン妃が黒人から好まれていないのは、本人の性格も大きいだろうが、黒人の血が混ざりながらも見た目が白いからである。誰が決めたわけでもない。われわれの脳に仕込まれている美的感覚においては、黒人女性の容姿が醜く、白人女性は魅力的に見える設定になっている。人種問題はすべて肌の色の問題なのか、という疑問もある。黒人と白人は体格的に遜色がないからこそ、肌の色が争点になるのだろう。日本人がこれにピンと来ないのも、日本人男性は貧相でも日本人の女の子は可愛いからというしかない。なんにせよ、黒人の貧困の問題は自ら解決するべきであり、下駄を履かせるべきではないというのがトランプ主義である。今回のデモの背景に中国共産党がいるのかどうかは不明だが、これによってトランプが敗北して、久闊を叙するかのようにバイデンが習近平と親しくするのもいいであろうし、旧習に晏如としている白人層を排除するのもいいであろう。わずかでも差別コードに抵触するとスポンサーに抗議が殺到するのは著名人の問題であるし、それに一般人がお付き合いする必要はないはずだが、それでも綺麗事で埋め尽くしたいのならそうなるのだろう。噎せ返るように吐き出されるのはどちらなのか杳として知れないが、われわれは生命として存在し、他の生命の死を会葬者として見送りながら、やがて自らも葬り去られていくのである。
努力家というのは、努力で優越感を感じている。
逆に言えば、努力することで劣等感が生まれる人もいるわけだ。
苦手なことを避けるのはそれなりに合理性がある。
合理的に考えて怠けている人もあまりいないだろうから、不合理とも言えるが、苦手ならいっそのこと何もやらないほうがいいのも確かである。
苦手なことを一生懸命やるのは時間の無駄であり、やらない方が正解ということもある。
おそらく問題なのは、このあたりの合理的な課題を合理的に判断してないことであり、優越感と劣等感で動いているだけだから、苦手なことがさらに苦手になり、それが生きていく上で不合理になり得ることである。
苦手であっても身につけたほうがいいことはあり、ここは愚痴愚痴言わずにやったほうがいいのである。
逆に身に付けなくてもいいことは努力しないほうがいいし、むやみに頑張ってしまうと時間の無駄である。
必要性に合わせられるかどうかなのである。
結局のところ、怠けるというのはひとつの抵抗運動であり、苦手だからサボるわけである。
年上が年下に努力を説くという構図があるが、実際は大人が努力しない問題があり、むしろいい年をした大人の問題なのである。
苦手だから怠けて偉そうにしてみせるという心理的防衛を大人がやるから、子どもがそれを真似するというのもある。
リストラ部屋に行かされるのも、おそらく謙虚さがないのであろうし、プライドだけが高くなった結果である。
出来損ないが偉そうな態度を取るのは、自然といえば自然である。
あるいは、尊大な性格の人間は、得意なことは威張り、苦手でも威張るのかもしれないが、これは狂気ではなく正常な俗人の病なので、手の施しようがない。
誹謗中傷がうんたらで特定しようとか、そんな機運が盛り上がっている。なぜか指摘している人を見かけないが、有名人の多くは住所が不明である。実名を名乗ってテレビに出ていても、住所は非公開である。当然ながら、発信者特定の世界では、ここが公開可能になる。相手を特定するというのはこちらも特定されるのである。お互いが特定されるのである。政治家などは住所が最初からわかるが、だからこそ、政治家は何の心配もしてないのだろう。ともかく有名人は名前と顔を晒しているが、決してすべてを晒しているとは限らないので、そこはよく考えたほうがいいであろう。また無名人同士でも些細なことでお互いの住所を特定することになるわけである。また、誹謗中傷だけがテーマになっているが、それ以外の理由でも特定は可能になると思われる。たとえば著作権侵害などは誰でもやっているから、とりあえずそれで難癖をつけて特定するのは可能である。相手を特定するからには、こちらも特定されるのだが、それこそが望みという人間もいるだろう。ストーカー行為も可能である。ストーカー行為にならないように制限を付けるという意見を言う人もいるだろうが、どうやって制限を付けるのかは不明である。それこそ精神病の人が被害妄想でこちらを特定してくることもある。お互いに特定し合うことで得られるのは利益だけではない。弁護士は利益があるだろうが、それ以外の人間はよくお考えになったほうがいいという案件である。もちろん熟慮した上で、お互いの実名と住所を特定できる社会が望ましいと思うのであれば、それはそれでいいだろう。名誉毀損は最近は賠償金も高額で儲かるから、金儲けにはなるが、それがないとしたら、お互いの特定などあまりいいことではない。また、住所を晒してもいい有名人と、そうでない人の差もあるだろうし、このポジションによって意見も変わるのである。自らの立場にとって有利な発言をしようというのが人間であり、それは妨げられないが、自らに有利なルールを作るゲームであることは理解したほうがいいであろう。自分の住所は絶対に晒したくないという有名人は、誹謗中傷の規制に反対する可能性が高いし、だいたいそういうことなのである。
愚痴は堕落である。どれだけ無聊をかこつ日々が続こうとも、その空白を愚痴で埋めるべきではなく、愚痴ではないもので埋めるか、その白紙に書き込むべきものを持たないなら空白のままにしておくべきである。とはいえ、このところの社会状況においては、恐懼の念に耐えないような空白が横たわっており、これを愚痴で埋め尽くし、その生温い生命にしがみつくしかないこともある。愚痴を言わないとすれば、空白の寒々しさと対峙するしかないし、本物の痛みを体験しようという高潔さは死に繋がる。とはいえ、生きていればそれでいいのか、という問題もあるし、事例として挙げるのは申し訳ないが、有村悠さんなどは、40年以上の人生を愚痴で埋め尽くしており、その生命の意味はなんぞや、という問題もある。有村悠さんのように愚痴愚痴した性格だと、やらない理由、出来ない理由だけはたくさん思いつくし、それでいて無には耐えられないから、その閑暇を愚行で塗りつぶすのである。これは決して素晴らしくはないし、蔑まれるべきであろうが、自殺予防としては正しいアプローチだったと言える。有村悠さんのように自らを無用の長物として持て余す業病を抱えた暇人は古来よりいつでもいるわけだが、このコロナ禍で、普段は普通の仕事に忙殺されている常識人が、やむなく暇を与えられ、それを持て余している。その強いられた暇を愚痴で埋め尽くしている彼らを断罪すると、自殺を勧めていることにもなりかねないので、愚痴愚痴した性格で、やらない理由だけはたくさん思いついて、暇潰しに明け暮れる防衛術を肯定しなければならないのだが、とはいえ、他人の愚痴に耳を傾けていると、その腐臭に蝕まれるから、そういう世情であると割り切りつつ、他人が愚痴を言うのは仕方ないが、自分は愚痴を言わないという規矩正しい姿勢も求められる。他人を死なせるわけにはいかないが、自分が死に向き合うのを厭うべきではない。愚痴というのは、あまり正当ではない理由で自分を正当化する行為であり、時にはそれでしか人生に耐えられないこともあるが、そういう誤魔化し方に馴れるくらいなら生きていないほうがいいだろう。
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